松之廊下③
菊と入れ替わった平九郎は、平九郎となった菊を残し、茶屋を出た。
探すまでもなく、田中貞次郎は直ぐに見つかった。「時折、長屋の近くをうろついている時がある」と菊が言っていたが、菊の長屋に戻ると、場に不似合いな侍姿の男がいたからだ。
田中貞次郎だ。
平九郎が手招きすると、貞次郎が飛んで来た。
「御用でござるか⁉ 拙者に出来ることなら、何なりと」
「体を貸してもらおうか」
「喜んで」
「言葉通りの意味だが、まあ良い。さあ、拙宅に参れ」
平九郎は貞次郎を長屋に連れ込んだ。
「ふう」と息を吐くと、長屋の部屋が薄紅色の柔らかい光に包まれる。貞次郎がきょろきょろと辺りを見回した。
するすると、貞次郎の前で着物を脱ぎ捨てる。貞次郎は憑かれたように菊の裸体に見惚れていた。
「何をしている。さあ、来い!」と平九郎が叫ぶと、貞次郎は弾かれたように覆いかぶさって来た。
こうして貞次郎と入れ替わった。
二、三日、体に慣れる為に、剣を振った。前の体に比べると、筋肉量が足りなかったが、思ったよりは使いやすい体だった。
ごく潰しに見えて、日頃の鍛錬は怠っていなかったようだ。
――これなら大丈夫。
と見定めると、菊をスリとして使っていた石黒藤兵衛以の居酒屋へ足を運んだ。かつて、貞次郎が袋叩きに遭った店だ。極度の肥満で、動くことがたいぎになった藤兵衛は、この店にいることが多いと菊が言っていた。
「石黒藤兵衛に会いたい」と用心棒らしい大男に伝えると、「何を寝言を言ってやがる。例え、お侍さんでも、ただではすまねえぜ」とすごまれた。
「まかり通る」と言うと肩を掴まれた。どうやら、奥にいるらしい。
平九郎は目にもとならぬ早さで刀を抜くと、大男の腕を斬り落とした。
「ぐげっ!」と男がのたうち回る。
平九郎は血刀を下げたまま奥へ進んだ。
途中、すれ違った女中に「藤兵衛はどこだ?」と聞くと、震えながら無言で奥の部屋に視線を送った。
「逃げるなら今だ」と平九郎は言い残すと、女中が視線を送った部屋に飛び込んだ。
部屋には三人の男がいた。一段、高くなった座敷の上に巨大なガマガエルのような男が胡坐をかいて座っており、その前に二人の男が額を寄せ合うようにして座っていた。何事か、よからぬことを相談していたに違いない。
「おめえ、何者だ!」と叫ぶ男を真っ向から斬り下げた。
「うげっ!」と男が血しぶきを上げながらひっくり返る。
返す刀で、「この野郎!」と立ち上がりかけた隣の男の首を刎ねた。
男の首がガマガエルのひざ元で転がった。
「ひえええ~!」とガマガエルが情けない悲鳴を上げた。
「ふむ。刃こぼれしたか。安物の刀と見える」と平九郎は呟きながら、切っ先をガマガエルの胸にずぶりと差し込んだ。
「石黒藤兵衛だな?」
今更ながら聞くと、ガマガエルが無言で頷きながら息絶えた。
さした理由もなく庶民を殺害したのだ。平時なら平九郎の行為は問題となっただろう。だが、平九郎、いや、田中貞次郎は一躍、時の人となった。
石黒藤兵衛の後ろ盾となっていた副家老が松の廊下の刃傷事件の後、大石が開いた評定会議に出席せず、赤穂城の前で腹を切るという起請文にも署名をしなかった。恭順か抗議か、態度を曖昧にしていた。広島の本家、浅野藩に通じ、召し抱えが決まっているという噂があった。
――武士の風上にもおけぬ卑怯者。
と藩士の反感を買っていた。副家老の手先として町を牛耳っていた藤兵衛だ。それを斬り捨てた平九郎に、藩士は勿論、庶民まで拍手喝采した。
家老の大石が「是非、貞次郎殿と会ってみたい」と言っているという話を聞いた。
そんな田中貞次郎を訪ねて来たものがいた。
「これは・・・菊殿とお主は・・・」
平九郎が成り変わった菊と貞次郎だった。菊は若侍に、貞次郎は菊となっている。
長屋に様子を見に行った菊が自分に成り代わった貞次郎と出会った。お互い、慣れぬ体に戸惑っていた。そこで、二人で支え合って生きている内に、意気投合してしまったようだ。
二人、「夫婦となって、江戸に行く」と言う。
「そうか。しっかりものの菊殿だ。今後は亭主として、貞次郎殿を養って行くのだな」と平九郎が言うと、「はい」と二人が嬉しそうに頷いた。
平九郎は二人の門出を見送った。




