うつりぎの術③
義経の郎党となった平九郎は、天にも昇る気持ちだった。そして武芸に励んだ。平九郎はめきめき腕を上げた。
以来、平九郎は義経の側近く仕え続けた。義経自身、常に先陣を切って戦うような男だった。当然、平九郎も最前線で戦い続けた。京の都の覇権を巡る木曽義仲との戦い、平家との一の谷の合戦、壇之浦の合戦、平九郎はその勇壮たる体躯で戦場を駆け回り、弓を射て、槍を振るった。
平九郎が弓を得れば百発百中、槍を一閃すれば、数人の武者がなぎ倒され、吹き飛ばされた。義経は平九郎の武勇をこよなく愛した。
頼もしい仲間たちにも恵まれた。
平九郎に古の漢の宰相の故事を教えてくれたのは、武蔵坊弁慶という僧兵だった。学識は勿論、武勇の点でも、平九郎は一目置いていた。
山賊上がりの伊勢三郎義盛という気の良い男もいた。
この頃が平九郎にとって、人生の絶頂期であったと言っても過言ではない。
だが、義経はあまりに鮮やかに勝ち過ぎた。武勇に劣る兄、頼朝にその才を疎まれた。やがて兄と対立、追討を受け、都落ちし、奥州の藤原氏を頼って落ち延びた。そして奥州で滅んだ。
衣川館で藤原泰衡の襲撃に遭い、義経は自らその生涯を閉じたが、自害する直前、平九郎を側に呼び寄せた。
「そちならば、この囲いを脱することができよう。兄者に一言、恨み言を言いたかった。館より落ち延び、我が恨みを晴らせ。良いか。そちは生き延びるのじゃ」と申しつけた。
「殿、義経の殿、ご無体な。あんまりでございます。どうか平九郎も死出のお供に加えてくだされ」平九郎は泣いて頼んだが、義経は「せんなきこと」と供をすることを許さなかった。
平九郎が生粋の武士でなかったからかもしれない。
平九郎は泣く泣く衣川館を抜け出した。そして、炎に包まれた衣川館を目に焼き付け、頼朝への復讐を誓った。
あれから十年、頼朝の命をつけねらったが、平九郎の身分では側に近づくことさえできなかった。空しく時を過ごす内に、頼朝が急死してしまった。「九郎の殿、殿の恨みを晴らすことができなんだ」と言って、奥州の空を見上げながら激しく泣いた。
その直後、平九郎は老爺より“うつりぎの術”を伝授された。
平九郎は義経の復讐を諦めた訳ではなかった。将軍の座は頼家に譲られた。頼家を亡き者にして、義経の無念を晴らすことを考えた。平九郎は“うつりぎの術”を駆使し、鎌倉殿の側近に成り代わることで頼家に近づこうとした。
そして、ついに頼家と最も近い人物、母、政子へと成り代わることに成功した。
(さて、ここからだ)政子に成り代わった平九郎は気を引きしめた。
頼朝の代わりに、息子の頼家に死んでもらわなければならない。
頼家は奇矯な若者だった。
将軍と御家人たちは御恩と奉公の関係で成り立っている。御恩、つまりは所領を与えることができなければ奉公はないのだ。頼家にはそれが分かっていなかった。偉大な父親のやり方を模倣しようとしただけだった。
政子となった平九郎が手を下さずとも、頼家は幕府内で重臣たちとの対立を深め、孤立していった。そんな頼家が危篤に陥った。政子は父、時政のもとに駆け付けると、「父上、何をしておいでだ! 今こそ、比企を除く絶好の機会ぞ」と焚きつけた。
頼家の妻、若狭局は比企能員の娘で、比企氏は頼家の外戚として権力を掌握し、北条氏の最大のライバルとなりつつあった。
「御所の容態はいかがじゃ? この先、御所が快癒して比企を滅ぼしたことを知ったら、どうなる? 滅亡するのは我ら、北条かもしれん」
「何を悠長な」政子は時政をけしかける。(北条など何ほどのことがあろう。滅ぶなら滅んでしまえ!)と政子となった平九郎は思っていた。
「御所など、いくらでも代わりはおる。我らには千幡がおるではないか!」政子は野心家の弟、義時を味方に加え、渋る時政を説き伏せた。
時政は思い腰を上げた。比企能員を「将軍の病平癒の祈祷を行う」と偽って北条館に呼び寄せると、埋伏させておいた兵で押し包んで切り刻んだ。そして、その足で比企館を急襲すると、一族を皆殺しにした。
「これで北条の天下よ!」
だが、時政の恐れていたことが起こった。
一時は生死が危ぶまれた頼家だったが、意識を取り戻したのだ。枕頭に若狭局を呼んだが、北条一族に殺され、既に亡い。そのことを知った頼家は当然の如く激怒した。病を押して太刀を片手に立ち上がったが、それを政子は楽々と組み伏せた。武芸に秀でた平九郎だ。政子の身を借りているとは言え、病み上がりの頼家を組み伏せることなど造作も無かった。
頼家は伊豆の修善寺に幽閉された。
「将軍宣下は既に千幡にくだされた。頼家は用無しじゃ! 生かしておいては、この先、千幡の障りとなろう。後顧の憂いを絶つのじゃ。手練れの者を送り、亡き者とせよ!」
政子は義時を招き寄せると、頼家の暗殺を命じた。
「姉上・・・」時政と比べ、義時は肝が据わっている。だが、その義時でさえ、北条家の為に、我が子を始末しろと命じる政子に言葉を失った。
「義時~!」と名を呼ばれ、慌てて、「はっ! 必ずや御所のお命、頂戴して参ります」と答えて平伏した。
義時は刺客を送った。
刺客たちは入浴中の頼家を襲った。入浴中であれば、寸鉄を帯びていないはずだ。不意を襲われた頼家だったが、痩せても枯れても武家の子、拳を振るい、刺客を蹴り上げ、猛烈に抵抗した。刺客たちは抵抗する頼家の首に紐を巻き付けると、急所を握りしめて動きを封じ、一気に刺し殺した。
こうして頼家は暗殺された。
(殿よ。義経の殿よ。恨みは晴らしましたぞ)平九郎は誇らしげに思った。
跡を継いだ千幡こと実朝は気の良い若者だった。平九郎としては、頼家の暗殺を以て義経の復讐劇に幕を引いても良かった。成り代わったとは言え、政子も亡き者にしている。
だが、時の流れが平九郎の復讐劇を終わらせなかった。
不思議なもので源家に対する復讐の念は消えなかったが、北条政子として生きて行く内に、北条家に対する愛着が湧いてしまった。
根絶やしにしたはずの比企一族に生き残りがいた。頼家の三男、善哉が三浦氏の保護のもと生き延びていた。
早速、政子は「やれ嬉しや。孫が生きておった」と善哉を見舞い、「これ以上、武家の争いに巻き込まれてはならぬ。そなたを失いたくはない」と言って鶴岡八幡宮へ送り僧とした。やがて善哉は落飾し、名を公暁と改めた。
ある日、義時が訪ねて来て言った。「姉上、少々、相談いたしたき議がございます。どうやら公暁殿は御所と拙者を親の仇として恨み、付け狙っているようです」
義時は鎌倉中に情報網を張り巡らせている。抜け目のない男だ。
「ふうむ・・・」と政子は相槌を打つと、「近頃、御所は帝に近すぎるようじゃな」と関係のないことを答えた。
風流貴公子となった実朝は後鳥羽上皇の寵愛する坊門信清の娘を妻として迎え、後鳥羽上皇が熱中していた和歌と蹴鞠に明け暮れていた。しかも、子が無く、後継者問題が浮上していた。
「上皇は意のままに御所を操り、朝廷の権威を高め、鎌倉の、武家の舵取りをしたいのでしょう」義時が答える。
「そろそろ潮時じゃな。実朝は鎌倉殿として相応しくないようじゃ。わらわに任せるが良い」政子の言葉に、義時は「はは~!」と平伏した。
政子は密かに鶴岡八幡宮を尋ねると、公暁と面談した。
その席で、政子は公暁を面罵した。「そちも武家の子じゃ。実朝殿を親の仇を思うなら、見事、討ち果たしてみせよ! 実朝殿では、この鎌倉を、頼朝殿が築いた武家の都を守り通すことはできぬ。実朝殿を討ち果たすことができれば、そちが将軍じゃ!」
平九郎の性だ。敵討ちとなると、我を忘れ、つい熱くなってしまう。
公暁は目を血走らせながら、「うぬぬ。婆様のおっしゃる通りじゃわ。わしは将軍の子じゃ! わしこそ、この鎌倉の主に相応しい!」と叫んだ。
政子より、公暁に実朝が右大臣就任拝賀の式典を鶴岡八幡宮で行うという密書が届けられた。千載一遇の機会が巡って来た。
石段の上の灯篭の陰に潜み、実朝が現れるのを待った。やがて拝賀の式典を終えた実朝が現れると、公暁は実朝に襲い掛かった。
公暁は実朝の首を上げた。
侍読として実朝と共にいるはずだった義時が源仲章と変わっており、討ち漏らしたことが残念だったが、目的は遂げた。
――実朝を討ち果たした後は三浦を頼め。
と政子から告げられていた。
(親の仇、実朝を討ち果たしたわ! これで次の将軍はわしじゃ!)公暁は勇躍、三浦邸に向かった。
そして、待ち構えていた兵に圧し囲まれ、殺された。予め、三浦のもとには義時から公暁が現れたら即刻、討ち取るようにと指示が来ていたのだ。
(九朗の殿よ。これで全てが終わりもうした。頼朝の一族を悉く討ち果たしました。子供も孫も、全てこの世から消え、やつの血筋は絶えもうした)
公暁が実朝を討ち果たし、三浦氏に討たれたことを聞いた政子は、粉雪の舞う、どんよりとした空を見上げながら思った。
そして、(さて、魑魅魍魎が跋扈する御所には飽き飽きじゃな)と思った。その時、目の前に公暁を討ち果たしたことを伝えに来た凛々しい若武者の姿が目に入った。