観応の擾乱②
旅支度もせずに、家を出たのが失敗だった。
街道に出ると、妙に旅人が少なかった。北条氏に代わって、足利尊氏が天下を取ったかに見えたのだが、世上は未だに混沌としていた。
後醍醐天皇が吉野に開いた南朝は、尊氏との対決姿勢を崩していない。尊氏陣営も一枚岩ではなく、足並みに乱れが生じ始めていた。
天下の争乱は、まだまだ終わりそうも無かった。
政権が安定を損なうと、盗賊が幅を利かせる。女となった平九郎は街道を歩いている最中に「おうっ!良い女子が歩いておる」と男たちに取り囲まれた。
足軽のようだ。悪党と呼ばれる恩賞目当ての武士の増加に伴い、悪党の手先として、最近はこの手の輩が増えた。
(慰みものになるな)と平九郎は覚悟を決めた。まあ、良い。最初の男と入れ替わって、残りのやつらを皆殺しにしてやると思った。
ところが男たちは女を肩に担ぐと、すたこらさっさと駆け出した。
(どこに連れて行くつもりだ?)
やがて平九郎は何処かの寺に連れて行かれた。武士がうようよといる。かなり大規模な軍勢だ。何処かに攻め入ろうとしているのか。
「女。旅の垢を落として参れ」と足軽たちの親分らしき武士に言われると、風呂に入れられ、見栄えの良い服に着替えさせられた。
そして、恐らく戦では一軍の将を務めるであろうと思われる、位の高そうな武士に腕を掴まれると、寺の奥へと連れて行かれた。
(何が始まるのだ?)
「左兵衛佐殿。入りますぞ」
「仁科か。入れ」
部屋には、若い武士が一人、座っていた。
「旅の無聊をお慰めする為に、見目好い女を連れて参りました。今宵より臥所を共になされ」と仁科と呼ばれた武将に床板の上に転がされた。
「女か」
「そう暗い顔をなさるな。長門探題ですぞ。西国は左兵衛佐殿の思いのままではございませぬか」
長門探題は備後、備中、安芸、周防、長門、出雲、因幡などの西国を管領する役職だ。
「何故に父上は私を遠ざけようとするのだ?」
「そのようなことはございますまい。では、私はこれにて」と仁科はどすどすと床板を踏み鳴らしながら、部屋を出て行った。
若者と二人、部屋に残された。
「おぬし、名は何という?」と若者に聞かれた。
女に名前を聞くのを忘れていた。取り敢えず、「桔梗」と名乗った。
「桔梗か。心配するな。無理に、そなたを抱こうなどしない。その辺に隠れておれ。折を見て、逃がしてやろう」
意外だ。優しい若者なのだ。
「あの・・・」
「何だ?」
「名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」と聞くと、「わしの名か。わしは左馬頭が一子、直冬よ」と若者が名乗った。
平九郎は聞き知っていた。左馬頭というと時の将軍、足利尊氏の弟、直義のことだ。直義の子供となると、確か、尊氏のご落胤だったはずだ。尊氏は素性の分からない女性との間に子供をもうけたが、決して自分の子供だと認めようとしなかった。
正妻であった赤橋登子に気を使ったのだろう。
赤橋登子は北条氏の出身で、家格は足利氏よりも高かった。その後、新田義貞により執権だった兄を始め、北条氏は一族郎党、全て滅ぼされている。
北条氏の生き残りとなった登子は、北条の血を後世に残そうとした。自分が産んだ子だけが尊氏の子であり、直冬を尊氏の子として認めることに反対したと言われている。結局、弟の直義が引き取る形で猶子として直冬を迎え入れた。
そういった悲しい経歴を持つ若武者だ。
南朝勢力を駆逐する為に、大将軍に任じられ、華々しい戦功を立てて京都に凱旋したが、尊氏はそれを喜ばず、長門探題に命じ、西国へと追い払った。
――あの兄弟を見ていると、頼朝と義経様を思い出す。
と平九郎は思っている。但し、兄である尊氏が義経で、弟、直義が頼朝だ。戦では無類の強さを誇る尊氏だったが、政治はまるで駄目だ。反対に弟、直義は、戦は駄目だが政治的な駆け引きに秀でている。義経と頼朝が入れ替わった感じなのだ。
(頼朝ではなく、義経様が天下を取っていたら)という平九郎の望みを、体現してくれている兄弟なのだ。




