うつりぎの術①
お色気要素のあるSF時代劇「うつりぎ」
一人の老爺が橋の欄干に座っていた。
鎌倉郊外を流れる境川に掛かる遊楽寺橋の欄干に、乞食のような汚い身なりをした老爺が腰を掛け、川面に足を向けて、ぶらぶらと揺れ動かしていた。
今にも橋から落ちそうだ。
痩せた老爺だ。川に落ちると、あっという間に流されてしまうだろう。だが、橋を通り過ぎる旅人は係わり合いになるのを嫌ってか、誰も老爺に声を掛けようとしなかった。
ついに、「これ、そこのご老輩。そんなところに腰を掛けておると危ないぞ。川に落ちれば、命は無かろう」と声をかける若者があった。
名を斎藤平九郎と言う。
長旅で埃塗れになっていたが、身なりは悪くない。筋骨隆々、太い眉毛、その下の眼が爛々と輝いていた。名のある武者の郎党に見えた。
「小僧。このわしに説教を垂れるか」と老爺は言うと、足をぶんと振って、履いていた草鞋をひとつ、河原へ投げ落とした。
「小僧。拾ってこい」と老爺が言う。
育ちが良いのか、平九郎は「ご老輩。貴殿を案じて申したまでだ。お気に障られたのなら、許されよ」と言って、河原に降りて行った。
草鞋を拾って橋に戻ると、老爺が欄干を降りて待っていた。
「草鞋を履かせろ」と老爺が足を上げる。
平九郎は足元に蹲ると、草鞋を履かせた。
老爺は満足そうに頷くと、「今時、感心な若武者よ。おぬしに良いことを教えてやろう。今宵、亥ノ刻にここに来るが良い」と言った。
「ご老輩。礼には及ばぬ。良いことなど必要ないぞ」
「おぬしには心に秘めた願い事があるはずじゃ。それを叶えることができる――と言えば、どうじゃ?」
「我が願いを・・・」
平九郎が僅かに顔を歪めた。考えている。胸に大望を秘めているのだ。
「ふふ。その気になったか。今宵、亥ノ刻にここに来るが良い」そう言い残すと、老爺は踵を返した。老爺が背中を見せて歩いて行く。足取りは緩やかだったが、あっという間に姿が見えなくなった。
亥の刻、提灯に火を入れ、平九郎は橋にやって来た。
老爺が先に来て待っていた。「年配のものを待たせるとは何事かっ!」老爺は目を怒らせて一喝すると、「明日、また出直してこい!亥の刻じゃ」と言い残して暗闇に消えた。
(面倒な)と思わなかったといえば嘘になる。
だが、平九郎は何処かで似たような話を聞いた記憶があった。
漢の国で似たような話があったように記憶している。かつて親しかった剛力の法師から聞いた話だ。
秦の始皇帝亡き後、漢の劉邦と楚の項羽が中華の覇権を争った。楚漢戦争時代の話だ。劉邦の名参謀、名軍師であった張良は若い頃、橋のふもとで老人と出会った。老人は履いていた靴を橋の下に放り投げると、拾ってこいと言った。張良が靴を拾って来ると、「履かせろ」と言う。靴を履かせると、「五日後に来い」と言った。
五日後に橋に行くと、老人は先に来て待っていた。老人は「目上のものより遅れてくるとは何事か!」と怒り、「五日後に出直して来い」と言った。
五日後、夜中から来て待っていると老人がやって来た。そして、「これを読めば王者の師となれる」と言って、太公望の兵法書を張良に授けた。そして、「十三年後に、お前は山で黄色い石を見るだろう。それがわしだ」と言い残して姿を消した。
張良は劉邦を助け、天下を統一した。
果たして、十三年後、張良は山で黄色い石を見つけた。「あの時の老人だ」と確信した。張良は石を持ち帰って家宝とした――という話だった。
はっきりと覚えていた訳ではない。だが、そっくりだ。我が身に幸運が舞い降りようとしていることを平九郎は感じていた。
翌日、夕方から橋の上で老爺を待った。
夜はどんどん更けてゆく。辺りは闇で覆われてしまった。気の弱いものなら、夜盗を恐れて出歩かない時刻だ。だが、平九郎は武芸に自信があった。夜盗が現れれば、返り討ちにしてくれる――! と楽しみにしていたくらいだ。
やがて亥の刻前に老爺が姿を現した。暗闇から湧き出るように老爺は現れた。
「ほほう~感心、感心。夕刻よりここに来て待っていたものと見える」
「ご老輩よ。我が願いを叶えてくれるのじゃな?」
「そう焦るな。おぬし、名を何という?」
「斎藤平九郎と申す」
「ふふ。平九郎か。良い名じゃ。今から、妖術を授けてやる。この術は、おぬしの願いを叶えてくれるはずじゃ」
「妖術とな?」
妖術とは胡散臭い――と平九郎は思った。
老人がふうと息を吐く。その瞬間、漆黒の闇の中、平九郎の周りだけが薄ぼんやりと明るくなった。薄紅色の柔らかい光に包まれ、気がつくと、ふわふわとした雲の上に立っていた。橋も街道も木々も、周りの景色が消え、柔らかな雲が平原のように延々と続いていた。
目の前にいたはずの老爺の姿がなかった。
「平九郎殿」
背後から名を呼ばれ、振り返るとそこに美しい女が立っていた。まだ若い。二十歳そこそこだろう。抜けるように肌が白い。艶やかな黒髪を頭の上に綺麗に束ね、紅を引いたかのような赤い唇の端を上げて微笑んでいる。
まだ寝苦しい夜が続いているが、若い女は薄い肌着を身にまとっただけだった。たわわに実った胸、形の良い腰が肌着の上から透けて見えた。艶めかしい。
若い女は「こちらにおじゃれ」と平九郎の手を取った。
ふわふわとした雲の上を歩く。女に手を引かれ歩いて行くと、小さな祠があった。「さあさあ、中へ、中へ」と女が先に入って手を引いた。平九郎は岩のような体躯を折り曲げて祠の中に入った。中は思ったより広かった。
祠の中は壁も床も真っ赤に彩られ、灯された灯りが艶めかしく部屋を照らしていた。中央には寝具が敷かれていた。
女がするすると肌着を脱いだ。
目の前に、熟れ切った果実のような裸体があった。その圧倒的な存在感に平九郎は圧倒された。
「大の男が、何を怖気づいておる。おなごに恥をかかすつもりか! 意気地なしめ。さあさあ、わらわを抱くが良い。思う存分、抱いて良いのじゃ」
挑発的な言葉に、平九郎は弾かれたように女に武者ぶりついた。
「それで良い。ああ・・・」女が喘ぐ。
半時後、精を解き放った平九郎はやっと女の体から離れた。女の横に仰向けに横たわると、目を閉じた。気だるさが全身を覆っていた。このまま眠ってしまいそうだった。
隣で女は上体を起こすと、平九郎の顔をのぞき込みながら言った。「ふふ。これで“うつりぎの術”はおぬしのものとなった。良いか。次に情を交えた時から、おぬしはそのものと入れ替わることができる。情を交えた相手に乗り移るのじゃ。女と情を交えれば女となり、男と情を交えれば男となる。交わった相手と心が入れ替わってしまうのじゃ。そうやって、おぬしは相手に乗り移り、そやつが持つ家屋敷や田畑、郎党まで、全てを手に入れることができる。そやつの若さまでもじゃ。情さえ交わることができれば、誰にでもなることができる。そして、永遠に生き続けることができるのじゃ」
「なんと――!」平九郎が驚いて目を開ける。
「どうじゃ。この術さえあれば、おぬしの願いを叶えることなど訳もない。余人へと成り代わり、そのものの財と力を使って、おぬしの願いを果たすのじゃ」
「・・・」平九郎には女の言葉が信じられなかった。
女が笑った。「疲れた。わしはそうやって千年生きてきた。そして、生きて行くのに疲れてしまった。この力をおぬしに授け、わしは永遠の眠りにつく」そう言うと、女の姿が輝き始めた。そして、一瞬、目が眩むほどに発光すると、さらさらと砂になって、崩れて行った。
女が姿を消してしまうと、周りはもとの漆黒の闇に覆われた。
雲の上に乗っていたかのような感覚が失せ、背中に草の葉を感じた。
平九郎は雑草の上で、素っ裸になって寝ていた。