ある悪役令嬢の怨霊に取り憑かれた男が呪いと謎を解く話
1.
風光明媚な湖水地方、フォーレ公爵領は恋人たちの聖地として知られる。
百年ほど昔、この地の領主アルマンド・フォーレ公は一人の平民の娘を見初め、周囲の反対を押し切って妻とした。病で長くは生きられない身だったが、生涯妻一人を心から愛し続け、妻もまた献身的に病床の夫を支えた。
最初は二人の結婚に否定的だった周囲の人々も、二人の愛の強さに心を打たれ、次第に理解を示すようになった。そしてフォーレ公が亡くなると、妻のイリアも後を追うように早逝したという。
二人の愛の物語は詩となり、歌となって多くの領民に親しまれた。やがて人気劇作家ウィリアムズ卿の手で戯曲化されると、「アルマンドとイリア 不滅の愛」は国民的なラブストーリーとして広く知れ渡り、二人が愛を育んだ館や湖畔の離宮は王国中から恋人たちが巡礼に訪れる聖地となった。毎年数百組のカップルがこの地の教会で結婚式を挙げている。
さて、リア充どもがどこで結婚式を挙げようと俺の知ったことじゃないが、この物語には一人の悪役が登場する。由緒正しいフォーレ家の血統を羨み、あの手この手の謀略を尽くしてまんまとアルマンドの許嫁の座を手に入れたダークレイ伯爵令嬢キャサリン。いわゆる悪役令嬢だ。
彼女はアルマンドを愛してはいなかったが、その高貴な血筋に執着し、まるで上等なアクセサリーを愛でるかのごとく決して許嫁を手離そうとしなかった。愛し合うアルマンドとイリアの仲をことごとく邪魔し、ついには婚約を破棄されても二人を恨んで嫌がらせを続けた。二人が病で早逝したのはキャサリンの呪いによるものだという説もある。
しかしキャサリンがいくら呪っても二人の愛が揺らぐことはなかった。嫉妬のあまり狂人となったキャサリンは古い石の塔に幽閉され、やがてその屋上から身を投げて死んだ。その魂は怨霊となり、アルマンドとイリアがこの世を去った後も消えることなく、愛し合う男と女すべてを今も呪い続けているという。なんとも救いの無い話だ。
で?実際のところどうなんだ?キャサリン。
「ぁ゙あああああああああああああ愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる……」
……まあ正気とは言えないな。
フォーレ公と縁もゆかりも無い俺だが、ワケあってこのストーカー霊に取り憑かれる羽目になった。とある幽霊屋敷で見つけた一枚の肖像画。そこに潜んでいた呪いが俺の身に降りかかった……と言うか、俺が自ら進んで呪いを受け入れた。話せば長くなるが、簡単に言うとこの怨霊を自分の目的のために利用し、もう用は済んだから成仏してもらいたい。そのためにここにやってきた。
現在、フォーレ公の館は記念館になっていて、併設された劇場では毎月、アルマンドとイリアの物語が上演されている。正直俺はこんな臭い芝居に何の興味も無いが、連れの女どもがどうしても見たいとうるさいから渋々付き合っている。さっきから欠伸が止まらねぇ。
「はぁぁ……お互いを深く想い合う二人……なんと素晴らしいんでしょう!わかりますかハイカキンさん!やはり一番尊く美しいのは愛なんです!愛こそが世界を救うんです!」
すっかり感化された天使が瞳をキラキラさせて、どこぞの消費者金融のCMみたいなことを言う。コイツは俺の守護天使マノン。頭の中はお花畑だが、天界のパワーで怨霊キャサリンの力を鎮めることができる。こう見えてなかなか便利な奴だ。
天使が膝に抱えてるサッカーボール大の毛玉生物は触手モフモフのコワモテ。頭から一本だけ生えている触角がチャームポイントで、鳴き声は「ニョロフ!」。キモ可愛いと言えなくもないが、コイツはただのペットじゃない。こう見えてなかなか頼りになる仲間だ。
「ぐすっ……本当に素敵でした………あ、あの、旦那様っ、私と一緒にあの列に並んでいただけませんかっ」
まだ劇の余韻で目を赤くしているコイツはオリエ。王国最強の騎士にして第一王女だ。敵軍の罠により従属の呪いがかけられた首輪をはめられ、奴隷にされていたところを俺が救出し、ちゃっかり自分の奴隷にした。剣を抜けば無敵だが、頭の中は初心で世間知らずな箱入り娘。よくまぁこんな茶番劇に感動してそこまでウルウルできるもんだ。
そしてなんなんだあの行列は?オリエが指差す方を見ると、アルマンドとイリアの衣装を着たカップルが劇中のポーズで肖像画を描いてもらうサービスらしい。俺にアレを着ろってのか?バカ言ってんじゃねぇ。そんなことのためにここに来たわけじゃねぇんだよ。
「良きではありませんか!純白のウエディングドレスを汚す同志ハイカキンの薄汚い快復ポーションZ……実に捗るシチュエーションッ!絵ならこの天才にお任せあれッ!」
誰のナニが薄汚いって?みんなの感動をお前の薄汚い妄想で汚すな、腐れエロ同人絵描きめ。この小っこいロリエルフはミョルヌ。かつては天才の名を欲しいままにした伝説的な魔術師だったが、何十年も引き籠もってすっかり腐ってたのを俺が引っ張り出した。コイツを仲間に加えてパーティーが一杯になったんで、キャサリンの呪いを解いて仲間から外そうってのが今回のそもそもの目的だ。
「んなヒマはねぇ。さっさと呪いを解いて次のイベントに備えなきゃならねぇんだ」
「そっ、そこをなんとか!一時間だけでも……」
「あの行列が片付く頃には明日の朝だっつーの。絵なんか自分の城に好きな絵描きを呼んで描かせりゃいいだろ。エロ同人絵描きは論外だけどな」
「全っ然わかってないですねぇハイカキンさんは。今ここで描いてもらうから意味があるんじゃないですか」
天使がオリエに加勢する。女同士で結託しやがって。まさかお前も描いてもらいたいとか言わんだろうな?
「ぇへへ………ダメですか?」
「お前ら二人で描いてもらえよ。俺は絶対着ねぇからな、あんな服」
「そこをなんとかっ!」
「いっつも暑苦しい黒ずくめばっかり。たまにはいいじゃないですかっ!」
「ニョロロフッ!」
てめぇコワモテ、お前もそっちの味方かよ。
孤立無援でゲンナリしていると、いいタイミングで話題をぶった切り、一人の男が輪に入ってきた。誰だか知らんがナイスだオッサン。
「これはこれはオリエ様!まさかお見えになっているとは夢にも思わず、ご挨拶が遅くなり大変失礼いたしました」
「フォーレ公!こちらこそお忍びでご挨拶もせず申し訳ありません。実は前からずっとこの劇場に来たかったのですが、ようやく念願叶って……本当に、想像していた以上に素晴らしい舞台でした!」
ああなるほど。このオッサンが今のフォーレ公か。あそこに飾ってある肖像画のフォーレ公とはあまり似てないみたいだが。独り言みたいに感想を漏らした俺に天使がツッコむ。
「ちょっとハイカキンさん、失礼ですよ!」
オッサンは気を悪くした様子もなく朗らかに笑う。悪い人じゃなさそうだ。
「いえ、よく言われるんですよ。アルマンドは一粒種で、イリアとの間に子供はいませんでしたから、後を継いだのは傍系の血筋です。遠縁だから似ていないのかもしれません。お目にかかれて光栄です、ハイカキン様。ご武名は聞き及んでおります」
「様付けなんてよしてくれ。ただの庶民の冒険者だ。見ての通り、礼儀も言葉遣いも知らん」
「こういう方なのです」
フォローするオリエにまた笑顔で頷き、フォーレ公は俺たちを貴賓室に誘った。
「オリエ様か敬愛される方に礼を欠くわけには参りません。よろしければこちらで少しおくつろぎ下さい。何もなくて申し訳ありませんが、お飲み物だけでも用意いたしますので」
人目につかない部屋で公爵一人で相手をしてくれるなら好都合だ。ありがたくもてなしに応じるとしよう。
すぐに運ばれてきたのはちょっとした焼き菓子の盛り合わせと白ワイン。隣のダークレイ伯爵領の名産らしい。伯爵令嬢キャサリンの故郷だ。怨霊は今、呪い封じの護符っていう便利アイテムの力で眠りについている。
「婚約が無くなっても伯爵家と仲が悪くなったりはしなかったんですね?……むぐむぐ。コレおいしい!」
天使が菓子をつまみながら、なかなか聞きづらいことをズケズケ聞く。お前も失礼だろ。苦笑するフォーレ公の代わりにオリエが答えた。
「両家は元々良好な関係だったのです。ダークレイ伯爵家はワイナリー経営の事業で成功し、大きな資産を築いていましたが、地方貴族ゆえに王都とのパイプが弱かった。そこで王家と姻戚関係もある名門のフォーレ公爵家が口利きして、ブドウ農園の拡大に過大な税がかからないようにした。代わりに伯爵家はこの劇場の建設に出資するなど経済的支援を惜しまず、互いに協力し合って栄えてきたというわけです」
「なるほど〜。仲がいいのは良いことですねっ」
お前絶対わかってないだろ。
「古のエチーゴ屋と悪代官みたいなモノですな。古き良き腐敗の香りッ!……どぅっふっふ……良いではないか良いではないか」
手掴みで菓子を口に詰め込みながら、腐敗したエロ同人絵描きが的外れな例えを持ち出した。この世界にもあるんだな、そういうの。
「まあ劇ですから多少、脚色されている部分もあります。伯爵令嬢のご不幸も、実際のところ婚約解消と関係があったのかはわかりません。そもそも親が決めた許嫁同士、さほどの面識は無かったでしょうし、アルマンドにそこまで執着する理由があったとも思えません。あくまで劇中の物語であって、現実は我々の預かり知らぬところです」
そう、そこなんだよな。
口を挟んだ俺に全員が注目する。
「あの劇を見ていて一番腑に落ちなかったのはそこなんだ。キャサリンはアルマンドを愛していなかった。なのにイリアとの仲を引き裂こうとした。そこが俺には腑に落ちない。だってキャサリンの愛がどれほど重たいか、俺が一番よく知っている」
「……と、仰りますと?」
俺の言葉に何か不穏なものを感じ取って、フォーレ公がゴクリと唾を飲み込んだ。悪いなオッサン。アンタは悪い人じゃなさそうだが、怨霊の返却先はアンタしか思いつかない。縁もゆかりも無い俺の元にいるより、キャサリンもその方が喜ぶだろ。
俺は首から提げていた呪い封じの護符を外した。
「ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙愛してる愛してる愛してる愛してるわた私の私のたた大切な大切な大切なヒヒヒヒヒヒ人人人人人ハァァァァァァナハナはナ離さない離さない離さない離さない離さない離さないスズズズズズズずっとずっとずっとずっとずっと一緒に一緒に一緒に一緒ショショショショショショショォォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙」
途端に俺の周りに溢れ返る狂気。背後に可視化した凶相の女が黒髪を振り乱し、ザワザワと俺を包み込む。
「ひっ……なっ……こっ、ここここれは一体っ!?一体何がっっ!??……こっ、この禍々しい怪物はっっっ!??」
座っていた椅子から転げ落ち、尻もちをついたまま後退りするフォーレ公。恐怖で限界まで見開かれた目に、確かにキャサリンを映しているが、それがキャサリンだとは認識していないようだ。だったら教えてやろう。
「怪物とは酷い言われようだな。よくご存知だろ?ダークレイ伯爵令嬢キャサリン。アンタの先祖を呪っている女だ」
公爵は口をパクパクさせたまま言葉を失っている。
「どうだ?キャサリン。お前が愛したアルマンドじゃないが、同じ一族のフォーレ公だ。末代まで祟ってやってもいいんだぜ?」
「アルマンド………さま?………あああるあるあるあるあるあるマルマンドさまるまるまるまるまるまるマンドさまぁぁぁぁああああああいしてる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる……」
アルマンドの名前には反応するが、怨霊は俺から離れようとしない。
「やっぱダメか。直系の子孫ならワンチャンそっちに乗り移ってくれるかと思ったが……百年も後の子孫で、しかも遠縁じゃイマイチだよな。全然似てねぇし」
「そんなゲスいこと考えてたんですか!酷すぎます!」
「さすが同志ハイカキン!そこにシビレるッ!憧れるゥッ!」
「も、申し訳ありませんフォーレ公……こんな方で……」
女どもが口々に俺の評価を下方修正する。約一名逆のことを言ってるが、コイツの評価はむしろ俺の価値を貶める。まあどうでもいいが。
「うるせぇな、キャサリンのためだ。ただ追い払うだけなら天使の悪霊退散で一発だけどな、コイツにはなんだかんだ世話になってきたし、最後に悪いようにはしたくねぇんだよ!何か想いがあるなら遂げさせてやりてぇだろうが」
「それはそうですけど……」
「そ、その方は本当に……ダークレイ伯爵令嬢なのですか?」
まだ真っ青な顔でガタガタ怯えながらも、フォーレ公が聞いてくる。無理もない。だいぶ慣れたとはいえ、キャサリンの顔はマジで怖くて俺もまともに見られない。いつも後ろにいるから助かっちゃいるが。
「いや、本当のところはわからん。まったく関係ない別人の霊って線も無くはない。それも含めてアンタに会えばわかるかと思ったんだが……やっぱ行かなきゃダメか?なぁキャサリン……お前の故郷、ダークレイ伯爵領に」
「だぁ……くれい?……ふふっ………うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ……」
笑った?俺に取り憑いてから初めて、この怨霊が笑うのを聞いた。やっぱり何かあるんだな、ソコに行けば。背筋の凍るような不気味な笑い声は、この先に待ち受けている触れてはいけない何かの存在を俺に予感させた。
2.
翌日、フォーレ公が仕立ててくれた馬車に約半日揺られて、俺たちはダークレイ伯爵領にやってきた。我ながら酷いことをしたと思うが、フォーレ公は変わらず礼儀正しく親切に送り出してくれた。実にできた人物だ。ルックスはともかく。
周囲には公爵領に輪をかけてのどかな風景が広がっている。どこまでも続くなだらかな丘陵地帯にどこまでも続くブドウ畑。丘の上に建つ古城にはびっしりとツタが這い、まるで童話の挿絵か何かのようだ。
ダークレイ伯爵の城で出迎えてくれたのは気難しそうな爺さんの執事と黒髪の美女。彼女の顔を見て俺たちは思わず息を飲んだ。肖像画に描かれたキャサリン、そして俺の背後に取り憑いたキャサリンが比較的大人しい時の顔にそっくりだったからだ。
生気を感じさせない肌の白さと、美しいのにどこか垢抜けない陰気な表情。すきま風の鳴くようなか細い声。いかにも生前のキャサリンはこんな感じだったんじゃないかと思わせる佇まいだ。
「このような田舎まではるばるお越しいただき……この上なき光栄にございます。亡き先代に代わりまして御礼申し上げます」
「初めまして、伯爵令嬢キャンベラ。ご不幸があったとは知らず、突然の訪問をお許しください。温かい出迎えに感謝します」
オリエの挨拶は王女というより騎士の礼に近い。そういやいつも鎧ばっか着てたしなコイツ。今は首輪がよく似合うメイド奴隷だが。
「よろしければ、お父上の墓前で祈りを捧げても?」
「あ……はい……ありがたいお申し出、父も喜びます」
案内されたのは城の背後にそびえる塔。キャサリンが身を投げたといういわく付きの場所だろう。ダークレイ一族の墓はこの塔の地下にあるらしい。いわゆる地下墳墓ってヤツだ。
俺たちは見ず知らずのダークレイ伯の墓に参った後、そこに我らが悪役令嬢キャサリンの墓を見つけた。一番奥に鉄の扉で閉ざされた小さな祠があり、その中に他の墓とは明らかに違う粗末で小さな石の墓碑が納められている。墓碑には名前さえ無く、ただ一言刻まれた文字は「罪とともに」。何も死んだ後まで身内がこんな仕打ちをすることはないんじゃねぇか?
前日のうちにフォーレ公が早馬の使いを出してくれてたから用件は伝わっているだろう。俺は単刀直入に頼んだ。
「キャサリンが幽閉されていた部屋が残ってるって聞いたんだ。見せてもらってもいいか?」
キャンベラ嬢の白い顔が怪訝そうにこちらを窺う。
「キャサリンの……何をお知りになりたいんですか?」
「わからん。でも本当のことが知りたいんだ。アイツがここでどんな人生を送って、どんな想いを残して死んだのか」
「アイツって……まるで知り合いのように仰るのですね」
ますます怪訝な表情になる令嬢に、俺はちょっとした皮肉を込めて答えた。
「ああ。他人のような気がしなくてな」
言葉の意味を少し考えてから、結局よくわからないって顔で令嬢は頷いた。
「……わかりました。ロメロに案内させます」
無口な執事の爺さんに連れられて、俺たちは塔の内壁に沿った螺旋階段を上った。部屋は塔の一番上にあり、そこから屋上に出られるようだ。
「こちらがキャサリン様のお部屋になります。中はほぼ当時のままに残してあります。くれぐれも中の物に一切お手を触れられませぬように。皆様に何かあっては私の首が百個あっても償えませんので」
おいおい、随分脅かしてくれるじゃねぇか。オリエの奴、なんとか取り繕っちゃいるが相当ビビってるな。どんな屈強なモンスターにも後れを取らない剣の達人だが、オバケは怖いってんだから笑えるぜ。
俺はニヤニヤしながらオリエの肩を叩き、ロメロ爺の後について部屋に入った。そしてニヤけ面が硬直した。うわ………なんだこりゃ………
それほど広くはない部屋の中に、あふれかえる恨みつらみ、妬み嫉み僻みの言葉。ほとばしる怒りと渦巻く怨念を形にしたような筆跡で、四方の壁一面に殴り書かれている。
「愛してる」「裏切り者」「許さない」「呪ってやる」――怨霊の口から何度も耳にしてきた言葉が、視界を埋め尽くすおどろおどろしいビジュアルとして圧倒的にネガティブな感情を伝えてくる。
「なんて悲しい……荒んだ心……」
天使が痛ましそうに目を潤ませる。
「コレは捗りませんなぁ……」
歩く不謹慎と異名をとる変態同人作家も、さすがにこの部屋に萌え要素を見出すことはできなかったようだ。
「これは……血文字?」
恐る恐る壁に近付いたオリエが黒ずんだ染みのような文字を睨んで眉をひそめる。
「真偽の程はわかりませんが……キャサリン様の父伯様の日記とみられる書簡には、最初はインクで書いていたのをやめさせようと取り上げたところ、歯で自分の爪を噛みちぎって指先の血で書き続けた……とあります」
いつも俺の首にしがみついてくる手はキレイな爪が生えそろってるんだが……霊になるとそんな傷は残らないもんなのかね。だが確かに一度スイッチが入ったキャサリンの狂気はマジでブッ飛んでる。そのぐらいのことは普通にやりかねない。
だんだん気分が悪くなってきた。護符の力で眠っていても、この部屋に戻って来たことで 怨霊のメンタルに何かよからぬ変化があるのかもしれない。単に俺のメンタルの問題かもしれないが。
「そこのドアは屋上に出る階段か?」
ロメロ爺さんは少し表情を硬くして言葉を選びながら答えた。
「左様でございますが、もう何十年も使われておらず、崩れる危険もあります。外に出るのはおやめになった方が……」
「冒険者ってのは危険のプロだ。中でも俺たちは、誰も近付くことさえできなかった王立大図書館を最下層まで探索したプロ中のプロだ。何が危険か判断するのは執事の仕事じゃない」
ここまで言われたらさすがに止められんだろう。悪いな爺さん。どうしても上で確かめたいことがあるんだ。
「だがプロから見てもアンタはやめといた方がいいな。大丈夫だ、すぐに戻る」
俺たちは少々強引に爺さんを残して、屋上への階段を上がった。こりゃなかなかの高さだな。ビルの四階か五階ぐらいか。そりゃ飛び降りたら無事では済みそうにない。
周りがなだらかな丘陵地帯だから、遥か遠くのフォーレ公爵領の方までよく見渡せる。教えてくれキャサリン。最後の瞬間、お前は一体どんな気持ちでこの景色を見てたんだ?
俺は胸壁に近付くと、首から提げていた護符を外した。
「ああああああ愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる………ああああなあなあなあなたはあなたはわわわわわわわた私の私のたた大切な大切な大切な大切なヒヒッ……人人人人人人人人ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ………ぁあ……い………して…………る………………」
もしコイツが俺をアルマンドだと思っているのなら。
もし今でもアルマンドに変わらぬ想いを抱き、その裏切りを深く恨んでいるのなら。
背後から思い切りひと押し。それだけで俺をそっち側に連れて行くことができる。
「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる………」
俺は耳元に囁かれる常軌を逸した怨霊の愛情に背筋を粟立たせながら、身を硬くしてその時を待った。でもそれ以上、怨霊に変化は無かった。むしろいつもより少し声色が柔らかく、正気っぽくなってる気もする。
「ここでも反応無しか……」
コイツの呪いの根本を解き明かす手掛かりはなかなか見つからない。探れば探るほど、俺はこの怨霊の本当の姿がわからなくなり、同情だけが深まってゆく。必ず見つけてやるからな、お前の心残りの正体を。
「み、皆様っ……どうかもうお戻り下さいませ!」
おっと、爺さんが上ってきた。俺は急いで護符を首に掛け直す。意外と根性あるな。ただ口うるさいだけの頑固ジジイかと思ったが、なかなか職務に忠実な男のようだ。しかし怪我されても困るし、そろそろ戻るか。どのみちここには何も得られるモノは無かった。
その夜はキャンベラ嬢と夕食を共にした。最初に会った時は表情も愛想も無い幽霊みたいな女だと思ったが、打ち解けてくると意外によく喋る普通の娘だった。父親と使用人しかいない古い城で、滅多に客を迎えることもなく、単に知らない人間に慣れていなかっただけなのかもしれない。
「父が体調を崩しがちになってから、急に知らない方からの求婚の手紙が次々に届くようになって……こんな田舎娘をわざわざ貰おうだなんて、よほどお金があるように見えるのでしょうね」
まだ若いのに随分冷めたことを言う。まあ貴族同士の縁談なんて実際そんなもんかもしれないが。
「でもキャンベラさんは美人ですし、お金とかじゃなくても結婚したいって人はたくさんいそうですけど……もしいい人がいたらとか、思わないんですか?」
クールで現実的な令嬢は、天使の言葉を聞いて静かに首を横に振った。
「父は私に花嫁修行よりもワイナリー経営の勉強をさせました。誰にも頼らずに生きていけるようにと………いずれは跡継ぎを残すことも考えないといけないのでしょうけど………」
「そういえばフォーレ公、エンドリック殿もまだ独身でしたね?」
オリエがふと思い出したように話題にする。あのオッサン独身なのか。いい奴だけどな。女ウケするルックスじゃないのは確かだ。アルマンドの肖像画より、どっちかっていうとジャガイモに似ている。
ところがキャンベラは意外な反応を見せた。
「あ、あの方とは齢が一回りも違います!ただ昔から家同士の付き合いがあるだけで………私なんかいまだに子供扱いですし………きっと想い合う方がいるに決まってます………とても素敵な方ですから………」
おいおい、めっちゃ脈アリじゃねぇか。思わずニンマリ顔を見合わせる恋バナ大好き女ども。あのオッサンが素敵?いや人の趣味をとやかく言うつもりは無いが……
「普通に言ったら逆だよな。アンタと並んだら釣り合わないのはオッサンの方だろ」
俺が素朴な感想を口に出すと、いきなりキャンベラの視線が険しくなった。
「オリエ様………大変失礼ながら、ハイカキン様はひどく女心に疎い御方のようですね。ご苦労をお察しいたします……」
「で、ですよね?ですよねっ!ホントにそうなんです!旦那様ときたら本当に……お前のことはなんでもわかってるみたいな顔して、全っ然何もわかってないんです!」
昼間は騎士ヅラしてカッコつけてたくせに、いきなり女子トークになりやがったな。
「そうですよ?ハイカキンさん。美人だとかイケメンだとか、他の人がいくら騒いだってそんなの関係無いんです。好きってそういうことじゃないんです。わかりますか?」
天使が偉そうに講釈を垂れる。全然わからん。何の話だ?
「我々を見くびってもらっては困るのですよ同志ハイカキン!姿形ではないのです……我々があなたに求めるモノはッ!」
ミョルヌまで入って来やがった。腐ってる分際で女子勢に加わってんじゃねぇ。っていうかなんで俺の話みたいになってんだよ。見た目がアレなのはオッサンの話だろ。
「ニョロロフッ!」
いや待てコワモテ。頼むからお前だけはこっち側にいてくれ。俺を一人にしないでくれ。
すっかり蚊帳の外に置かれた俺は、その後夜更けまで続いた女子会から早々に退散し、一人で城の中をうろついた。爺さんはキャンベラと一緒だし、他の使用人の姿も見当たらない。これ幸いと護符を外してキャサリンを解放する。
「うふっ……うふふふふふふふふふふふ……」
また笑ってやがる。やけに大人しいし機嫌がいいな。俺以外に誰もいないからか、それとも慣れ親しんだ実家に帰ってきたからなのか、笑い声も落ち着いていてあまり狂気を感じない。いつもは俺の背後にピッタリ張り付いて俺だけに視線を向けているから、背中に刺さるような悪寒があるんだが、今は俺を見ていない。普通に隣に並んで歩いている。
一緒に城内をグルッと一廻りして戻ってくると、一階の階段ホールでキャサリンが立ち止まり、そのままそこで動かなくなった。
「どうしたキャサリン?そこに何かあるのか?」
視線は階段の上、踊り場の壁に飾られた大きなタペストリーに注がれている。一年のワイン造りの作業を絵柄にした織物のようだ。かなり古びていて、もしかしたらキャサリンが生きていた時代からそこに飾られていたのかもしれない。別に何の変哲もないただの壁飾りだが、何か特別な思い入れでもあるんだろうか?
「ある……マンド…………さま…………」
夢の中にいるような目で陶然と壁を見上げるキャサリンの横顔をしばらくボーッと見つめていると、食堂の方から女どもの声が近付いてきた。ようやくあの結論もオチも無い目的のわからんおしゃべりタイムがお開きになったようだ。悪いな、キャサリン。ちょっと引っ込んでてくれ。護符を首に掛けて幽霊の姿が消えた後、すぐに騒々しいミョルヌの声が聞こえてきた。
「ろ〜しハイカキン!夜はまだまだこれかられすぞ!お好きな美女を連れ込んで、いざ淫猥なる酒池肉林の夜宴と参りましょうッ!」
呂律回ってねぇな。コイツにワイン飲ませたのかよ。
「すみません、味見程度に一口だけだったのですが……」
後ろから止めようとするキャンベラを振り切って、腐れロリがフニャフニャ絡みついてくる。
「フハハハハハハッ!我をご所望ならば致し方あるまいッ!その鬼畜なる願望、実に良きッ!今こそ共に禁断の一線を越える時ッ!」
「うるせぇ、ガキはとっとと寝ろ」
「やらやらろ〜しハイカキンと寝るのれす〜!」
また出たよ五歳児。オリエに引き剥がされたガキンチョが寝室に連行されていく。やれやれだ。うるさいのがいなくなり、俺はまたキャサリンが見ていた階段の踊り場を見上げる。
「一人で何してたんですか?何か気になるものでもありました?」
天使が隣に来て俺の視線の先を窺った。コイツもほんのり顔が赤い。
「一人じゃねぇよ」
「え?」
ダメだ、通じねぇ。まあシラフでも鈍い奴だしな。
「……いや、なんでもない」
俺はキャンベラを振り返って聞いてみる。
「あそこの壁って、昔からあの壁掛けが飾ってあったのか?」
踊り場の壁のタペストリーを指差す。青白い顔の令嬢は、まったく表情を変えずにそちらに目を向けた。
「そうですね……私が知る限り、先々代の時代からこの城の中はほとんど変わっていないと思いますが………あの壁飾りが何か?」
特に何の感情も無いような口調で問い返され、俺は続く言葉を飲み込んだ。
「……いや、なんとなく、な」
キャンベラと別れて客間に引き上げる途中、天使が耳打ちみたいな小声で聞いてきた。
「もしかして、あそこにキャサリンさんが何か反応したんですか?」
「ああ。おそらくあの壁にキャサリンかアルマンドに関する何かがあった。そしてキャンベラはそれが何か知っている」
「え?でも何も無かったって……キャンベラさんが嘘をついてるってことですか?」
「たぶんな」
夕食の席じゃ少しは打ち解けたと思ったが、さっき質問に答えた時のあの無表情は初対面の時と同じ。俺を警戒してるんだろう。つまり探られたくない何かがあるってことだ。
逆に確信が深まった。この一族はキャサリンやアルマンドについて何か外部に知られたくない秘密を持っている。そして当然その秘密はキャサリンの死と呪いに深く関わっているはずだ。必ずソイツを突き止めてやる。俺の呪いを解くためじゃない。キャサリン、お前のためだ。
3.
翌日、朝食を済ませた後でキャンベラとロメロ爺が城の中を一通り案内してくれた。昨日の夜キャサリンと一緒に大方見て回っていたから、特にこれといって目新しいことは無かった。っていうかホントに何も無い城だな。
キャンベラの私室も見せてもらったが、簡素なベッドと机、大量の書物と帳簿で埋まった棚があるだけで、なんとも殺風景な部屋だ。およそ妙齢の伯爵令嬢の部屋には見えない。自分で言っていた通り、花嫁修行よりワイナリー経営で忙しい毎日なんだろう。
さすがに色気も素っ気も無さすぎる自覚があるのか、令嬢は言い訳じみたことを言う。
「いつもほとんど農園か醸造所の方にいて、この城に戻るのは日が暮れた後だけなので………それからこ
こで帳簿をつけて、寝るのはいつも日付けか変わる頃です」
「ふぇぇ〜……お仕事大変なんですねぇ〜……」
まったくだ。お気楽天使も少しは見習えよ。
「なるほど……だからここはとても静かで使用人も少ないのですね」
オリエの言葉にキャンベラは頷く。
「はい、ロメロの他には警護の者が二人と、給仕が一人だけです。それも常にいるわけではありませんし」
「寂しくないんですか?」
お気楽天使に直球で聞かれて令嬢は静かな微笑を浮かべた。
「いえ……私にはワイナリーがありますし、日々やらなくてはいけない仕事がありますので……他のことを考えている時間はあまり無いんです」
せっかく良家の子女に生まれたんだし、もっと贅沢もできるだろうに。もったいねぇ。
「ここの伯爵家は昔からそんな感じなのか?キャサリンの時代から」
「昔はこの城にたくさんのお客様を招いて晩餐会を開いたりもしていたそうですが、キャサリンの件があってからはそうした付き合いも無くなり、かえって事業がうまくいくようになりました。今でも付き合いがあるのはフォーレ家だけです」
オリエが頷いた。
「フォーレ公は社交界に顔が利きますからね。心強い後ろ盾でしょう。おかげで伯爵家は事業に専念できる。伯爵家の事業がうまくいけばフォーレ家は経済的な支援が期待できる。お互いに理想的なパートナーと言えるんじゃないですか?」
「はい……フォーレ公には本当にお世話になっています」
「ダークレイ屋、お主も悪よのォ……いやいやフォ代官様こそ……ささ、この黄金色のお菓子を……どぅっふっふっふ」
なんか一人でブツブツ言ってるな。別に悪じゃねぇだろ。普通のビジネスパートナーだ。
だが両家の関係をさらに深めようとした縁談はうまくいかなかった。何があったのかわからんが、悪者はキャサリン一人。それで両家は何事も無かったかのように今も関係を維持している。この城の中を見ればわかる。まるでキャサリンの痕跡を一切消し去ったみたいだ。ただ一箇所を除いて。
「この城にはキャサリンに関する物が何も無い。なのにどうして裏の塔のあの部屋だけ残ってるんだ?あんな不気味なモン、真っ先に取り壊したいんじゃないのか?」
キャンベラの表情を窺う。また無表情だ。
「取り壊そうにも、祟りを恐れて誰も引き受けてくれません。時々、怖いもの見たさで見物に来る方もいますが、皆、無言になって帰っていきます」
だろうな。やっぱ見に来る奴いるのか。
実は昨夜、みんな寝静まってからもう一度キャサリンを連れてあの部屋に行ってみた。塔の鍵は城の中を散歩がてら爺さんの部屋からくすねておいたからな。
真夜中に怨霊と二人きりでデートするには最高の部屋だ。でも俺の怨霊は何の興味も示さなかった。地下墳墓もだ。あの酷い墓を見せても反応無し。どういうことだ?ここはお前の家じゃないのか?お前はやっぱりダークレイ伯爵令嬢じゃない別のキャサリンなのか?
「当家でお見せできるものはこれが全てになりますが……ハイカキン様がお知りになりたいことはわかりましたでしょうか?」
感情の色が無い探るような目。安心しろ、まだ何も突き止めちゃいない。俺は正直に答えた。
「いや、収穫無しだ。って言っても、何か確信があって来たわけじゃないからな。百年前に死んだ女が何を考えてたかなんて今更確かめようも無い。大して期待はしてなかったさ」
ホッとした様子は見せない。なかなかガードが硬い。まだ疑り深そうな目で聞いてくる。
「あの………ハイカキン様はなぜ特にゆかりも無いキャサリンのことにそれほど思い入れなさるのですか?あの劇のお話にもそれほどご興味が無い様子ですのに……」
「そうだな……別に教えてもいいが、今の伯爵家には関係の無い話のようだし、アンタも知らなくていいことだ」
「そうですか……」
ここまでだな。俺が話を切り上げたのを見て、オリエが話題を変えた。
「あの……旦那様?用事が済んだのでしたら、醸造所の方も少し見てみたいと思いませんか?」
「あぁ?」
唐突な提案にキャンベラが怪訝な顔をする。
「あちらの方にはキャサリンに関する物は何も……」
「あぁいえ、ただ王国一と名高い伯爵家のワイナリーを一度見てみたくて……」
「はいはい!私も見てみたいです〜!」
「我を酔わせたあの芳醇なる香り……今一度味わって酩酊に堕ちるのもまた良きッ!」
ちゃっかりまたタダ酒にありつこうとしてんじゃねぇよ。
「そういうことでしたら……」
キャンベラの表情が戻った。やっぱ俺だけ警戒してんだな。コイツらから言わせたのは正解だった。
「旦那様っ、お願いします!少しだけ時間を……」
「ニョロフ!」
「わかったわかった。ったく、最近お前ら何かっていうとすぐ団結しやがって。少しだけだからな!」
女どもが勝ち誇った顔をする。特に天使が無駄に立派な胸を張る。
「今日はやけにあっさり引き下がりましたね?」
「女心のわかる男だからな、俺は」
「それでこそ同志ハイカキン!我らが見込んだ男ッ!」
うるせぇよ。でもキャンベラも笑ってる。どうやらガードは解けたようだな。俺は渋々って顔で女どもの後に続いた。
ワイナリーは城から丘を一つ越えた先の村にある。というより、村自体が一つのワイナリーみたいなものらしい。村に向かう道の両脇は見渡す限りのブドウ畑だ。
「わぁスゴいっ!可愛い小さなブドウがいっぱい生ってますね!」
「よかったら食べてみてください」
はしゃぐ天使にキャンベラが一房もいだブドウを差し出した。
「いいんですかっ?いただきま〜す……んん〜〜〜
っ、すっごく甘いです!」
俺も食べてみる。たしかにめちゃくちゃ甘いな。ワイン用のブドウってもっと酸っぱくて渋いのかと思ってたよ。
「糖度が高い方が発酵が進みやすいんです。確かにこれは素晴らしいブドウですね」
さすがオリエは王族だけあってワインとかには詳しいようだ。どんなブドウがワイン造りにいいかなんて俺にはわからん。
「今年は雨が少ないですし、順調に成熟が進んでいます。秋には王宮にも良い初物をお届けできそうです」
「それは楽しみです!」
コワモテが貪るようにブドウの房にかじりついて、口の周りの毛を紫色に染めている。モフは基本草食だが、わりと何でも食う生物だ。負けじと中身が五歳児のエルフも口の周りを汚している。お前ら少しは遠慮しろ。
村人たちが物珍しそうに集まってきた。
「ほえ〜……王女様に勇者様、それに天使様までいらっしゃるとは……あの小さなお子様はお弟子さんかねぇ……」
「ありがたやありがたや……」
勇者じゃねぇっつの。なんか拝んでる奴もいるし。
「フハハハハハハッ!跪け愚民ども!勇者ハイカキンのお通りである!」
お前は口の周りを拭いて少し黙ってろ弟子。
キャンベラに案内されて醸造所の中を見て回る。
「ワインってこうやって造ってるんですねぇ〜……すごく甘い香りがします〜」
「ここではブドウの搾り汁を種や皮と混ぜて発酵させています。体力を使う作業なので、十人ほどの村の者が交替で続けてくれています」
「だからあんなに人がたくさんいたんですね〜」
「ワイン造りはこの村の協力がなくては成り立ちません。皆、代々この村で同じ仕事を受け継いで、ブドウの生育と共に季節を過ごしている人々です」
働く村人たちを見回すキャンベラの顔はどこか誇らしげだ。静かな口調は変わらないが、城にいた時よりずっと生き生きして自信に満ちているように見える。
他の村人たちに指示していたガタイのいいオッサンがやってきて、作業の大変さやこの村独自の製法の工夫なんかを語った。このオッサンがここの村長らしい。村人たちも皆、ワイン造りの仕事に誇りを持っているように見える。
「伯爵様がお体を悪くされてから、この村のワイン造りがどうなってしまうのか皆心配しておりましたが、お嬢様がこのように立派に跡を継いでくださって、なんと心強いことか……」
「そんな……まだまだ勉強不足で父のように目が行き届いてはいませんが、皆さんに教わってなんとか続けられています……」
オッサンだけじゃなく、村人たちが次々にやってきてはキャンベラのことを自慢気に話す。確かに、この大きな醸造所だけじゃなく、あれだけの広さの農園も全部一人で管理してるんだから、この若さで大したもんだ。村人たちに敬愛されているのも頷ける。
熟成用の大きな樽が並ぶ貯蔵庫では、年季の入ったオバチャンたちが手際よく瓶詰めの作業をしている。キャンベラはオバチャンたちに囲まれ、まるで仲のいい親子みたいに楽しそうに話している。城とは別人みたいにいい笑顔だ。
オバチャンの一人が中身を詰め終わったばかりのボトルをオリエに見せる。
「このボトルをご存知ですか?」
「これは……あまりの人気に王都でも入手困難になっている恋詩限定品!」
「さすが姫様。どうぞ皆様、お土産に一本ずつお持ち下さい」
「いいんですかっ!?」
オリエの大袈裟な喜びように、天使が不思議そうな顔をする。
「そんなに美味しいんですか?」
「もちろん最上級のヴィンテージなのですが……人気の秘密はコレです」
指差したのは何の変哲もないボトルのラベル。
「セレナーデレーベルには一本一本違った恋の詩が書かれているんです。それがとてもロマンチックで、世の女性たちの間で大人気となっています。コレクションアイテムとしてこのボトルを飾るのが一種のステータスとされているほどです」
「へぇ〜……ホントですね、詩が書いてあります……『幽かな風が静かな水面をさざめかせる。何もないこんな退屈な一日ほど、あなたを想うのに良い日はない』……わぁっ、素敵です!」
「実はその詩を書いているのはキャンベラお嬢様なんですよ」
オバチャンたちが自分のことのように得意気な顔で打ち明けた。
「えぇ~っ!凄いじゃないですかキャンベラさん!お仕事で忙しいのに、こんな才能まであるなんて……尊敬しちゃいますっ!」
「あ、あのっ……このボトルにサインをいただけないでしょうか?」
「い、いえそんな……そんな恐れ多いことは……」
女どもが大興奮する。そんな騒ぐほどのモンなのか俺にはわからんが、このクールな令嬢にそんな一面があるとは確かに意外だな。
「もう!それは誰にも言わないでくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
キャンベラは困ったようにオバチャンたちに抗議するが、逆に冷やかされて赤くなる。
「お嬢様はフォーレ公にお気持ちを知られるのが恥ずかしいんですよね?」
「違いますっ!」
やれやれ、女どもがこういう話になると長くなるんだよな。
天使はすっかりラベルの詩が気に入ったようで、並んだボトルに見入っている。
「男の人の言葉で書いた詩もあるんですね……『色付く葡萄の葉に貴女の髪を想い、瞬く星の光に貴女の瞳を想う。私がこの世界に恋するのは、貴女に恋しているからだ』。はぁぁ〜……こんなロマンチックな言葉、言われてみたいです〜!」
なんだかあのアルマンドの劇に出てきそうなキザったらしい台詞だな。何ががいいのか俺にはまったくわからん。
「旦那様も一つ、詩など嗜まれてみては……?」
「良きですな。ペンは剣より強し……つまり力ずくよりも言葉責めの方がエロスに勝るということ!」
そんな意味じゃねえわ。お前らは俺に何を期待してるんだ。付き合いきれなくなった俺は盛り上がる女どもから離れ、また一人でそのへんをブラついた。
「ああ、ちょっといいか?」
近くにいた村人を適当につかまえて二、三、確かめたかったことを尋ねる。それでここに来た目的は達した。やっぱりな。ここでのキャンベラの様子を見ていて、俺の中には確信に近いものがあった。あとはキャサリン本人とそれを確かめるだけだ。
ワイナリーから引き上げた後、夕食の席でも女どものおしゃべりは続いた。俺はずっと上の空だったけれども。そしてみんな寝静まった後、また怨霊と真夜中のデートに繰り出した。今度は城の中じゃなくて屋外デートだ。
煌々と明るい月明かりの下、ブドウ畑の丘をキャサリンが歩く。俺の後ろじゃなく前を。その姿はもういつものイカれたストーカー霊じゃなく、おそらく生前の姿とほとんど変わらない美しい娘だった。昼間に見たキャンベラの面影が重なる。
ダークレイの一族にとって、このワイナリーこそが生きるべき場所なんだろう。城はよそ者を迎える表向きの場所でしかない。
あの塔にあったキャサリンの部屋は作り物だ。あの劇場のセットを作った職人が後から同じ物をあそこに作った。そう考えないと不自然なぐらい、よくできていた。
もし劇場のセットの方が後から作られたのだとしたら、職人たちはあの呪われた部屋を隅々までしっかりスケッチして再現したのか?無理だろ。普通ビビって五分といられない。
アレはアルマンドの物語を現実にあったことのように演出しようと作られたセットだ。キャサリンの本当の部屋じゃない。
俺の予想では、本当の部屋は醸造所のどこかにある。働いていた村人たちに聞いた話だと、あのだだっ広い建物の中には長いこと使われてない場所が少なからずあるようだ。正直、隅々まで把握してる人間は今、キャンベラ以外にいない。だがもし俺の予想通りなら、お前が俺を導いてくれるはずだ、キャサリン。
青白く美しい顔をした亡霊は、時々俺を誘うように振り返って微笑みつつ、迷いの無い足取りで醸造所に入っていく。途切れ途切れの鼻唄が聴こえてくる。とうとう唄まで歌い出しやがったか。正気の欠片も感じられなかったあの最凶霊が、まるで別人のようにご機嫌だ。本当にデートしてるような気になってくる。
使われていない倉庫の奥に、ダークレイ家の家紋が入った立派な鉄の扉。ここの鍵はキャンベラの部屋からくすねておいた。
ガチャッ
思った通り、この鍵だ。当主だけが開けられる特別な部屋。百年前にダークレイ家が葬った秘密が、この中にある。キャサリンの手がドアノブに伸び、俺の手と重なった。思いのほか静かに開いた重い扉の向こうに、その墓標はあった。ちゃんと名前が刻まれている。よかった………やっと会えたな、キャサリン。
4.
翌朝早く、仲間たちがやってきた。キャンベラとロメロ爺も一緒だ。全員、部屋の中を見て絶句している。
「だ、旦那様………ここは一体………」
オリエの視線が忙しなく部屋のあちこちを彷徨う。何からツッコんでいいかわからないんだろう。
「俺じゃなくてキャンベラに聞けよ。この部屋が一体何なのか。なぜ部屋の中に墓があるのか。この墓には誰が眠ってるのか。まあ聞くまでもなく、墓には名前が書いてあるけどな」
俺に水を向けられたキャンベラは俺じゃなく、俺の隣を凝視して硬直している。
「ハイカキン様………その方はまさか………」
俺の隣の亡霊は、透き通るような微笑みを浮かべてじっと俺の手の中の羊皮紙を見つめている。
「ツグミの声………暖炉の火………あなたからの手紙に嬉しい言葉……………溢れそうな想いをホットワインに一匙……………」
綴られた詩の一節を呟く声は柔らかく、安らぎさえ感じさせる。とてもあの最凶ストーカー霊とは思えない落ち着きぶりだ。
「キャサリン……なのですか?」
「それを確かめるために来たんだ。俺に取り憑いた悪霊キャサリンが、このダークレイ伯爵家のキャサリンなのか。アンタにはどう見える?」
キャンベラは答えないが、表情を見れば答えは必要無かった。
「もしかしてコレ全部、あのワインボトルの詩なんですか?」
部屋中に広げられた紙の束を見回して天使が目を丸くしている。これでもまだほんの一部だが、朝までかかって七年分にざっと目を通した。
「手紙だよ。キャサリンとアルマンドの婚約が決まってから破談になるまでの七年間、毎週欠かさず交わされた文通の全書簡がここに残されている。セレナーデレーベルの詩はここから引用したものだな?」
俺は昨日聞いた詩が書かれた手紙を広げて見せた。キャンベラは少し躊躇ってから観念したように頷いた。
「キャサリンが綴った愛の言葉に多くの女性が胸を打たれ、セレナーデレーベルはあっという間に欠品になりました。それがキャサリンの言葉だと世間に公表することはできませんが………皆が知る悪女キャサリンは真実の姿ではないと密かに証明できたような気がして………何の償いにもならない、ただの自己満足ですけど……」
俺は別の手紙を次々手に取ってキャサリンに読ませる。
「……初めましてアルマンド様、キャサリンです。結婚式の日までお会いできないと聞いてとても落ち込んでいます。でもこれから毎週お手紙を書きますね。なるべく楽しいことを書きます。私の家ではもうすぐ収穫祭の準備が始まります。村の人たちもみんな楽しみにしている、とてもにぎやかなお祭りなんですよ!いつかアルマンド様もお招きできたらいいのに……」
「……アルマンド様のお姿が届きました!王都の有名な肖像画家の方が描いたものだそうですね。とても素敵です!でも不思議……だって、あまりにも私が想像していた通りなんです。柔らかそうに襟元にかかる髪も、優しそうな切れ長の目も……全部思い描いたままのアルマンド様。こんなことってあるんですね。見た瞬間に運命を感じました。お会いする日がとても楽しみです……」
「……どうして舞踏会に行ってはいけないのでしょうか?お会いしてお話できなくても、せめて遠くからひと目お姿を見たいと思うのは許されないわがままでしょうか?お父様はいつもお仕事のことばかりで、子供のわがままなど聞いている暇は無いみたいです。アルマンド様のように楽しいパーティーやお芝居のことなど一度も話してくれたことはありません……」
「……素敵な詩をありがとうございます!初めて殿方から贈っていただいた詩があまりにも美しくて、舞い上がってしまいました。この前の手紙では子供じみたことを書いてしまってごめんなさい。私、アルマンド様とお父様の深い思いやりを何もわかっていませんでした。一日も早くアルマンド様の妻にふさわしい品格と教養を身につけられるように、頑張って勉強します。早速ですけど一つ詩を書いてみました。拙くて恥ずかしいけれど、私の真心を込めて……」
幼い日の思い出を愛おしむように、時々フッと笑いを漏らして目線を上げるキャサリン。許嫁からの手紙を心待ちにする少女の姿が、俺たちの目にも浮かぶようだった。
「結局、キャサリンは一度もアルマンドに会うことなく婚約は解消された。残酷な仕打ちだよな。キャサリンは確かに手紙の向こうの相手に恋をしていた。でも相手はそうじゃなかった」
キャンベラは目を伏せて頷いた。やはり彼女は……ダークレイの一族はキャサリンの真実を知っている。フォーレ家が伝えているアレとは別の物語を。
「ハイカキン様の仰るように、百年前に何があったか……何が真実かを今更確かめる術はありません。ですから、私が何をお話ししたところで、それをハイカキン様が誰かに口外されたところで、さほど問題ではありませんが………それでもお知りになりたいのですね?」
無論だ。他の誰が何を信じようとどうでもいい。俺はキャンベラ・ダークレイが語る真実が聞きたい。
キャサリンとの血縁を色濃く感じさせる面立ちの令嬢は、何かを吹っ切るような溜息を一つ吐いて語り始めた。
「アルマンドはお芝居の中で描かれているような誠実な男性ではありませんでした。と言うより、かなり奔放な女性遍歴を持つ人物だったようです」
「イリアと出会うまでは数々の名門の令嬢たちと浮き名を流したプレイボーイだった……という説もありますね。ウィリアムズ版の舞台ではその辺りは深く触れられていませんでしたが……」
最大限に好意的なオリエの解釈を、キャンベラは淡々と否定した。
「それも少々脚色されたお話で………そもそもアルマンドは決してあの肖像画のような美男ではなく、キャサリンとの婚約が決まる前には数人の女性から縁談を断られていたそうです」
夢がどんどん壊れていくな。当代のフォーレ公が肖像画に似てないのも逆に納得がいく。
「彼が関係を持った相手は専ら酒場や娼館の女性たち。その中でも特別に熱を上げていたのがイリアでした」
おいおい、そりゃ平民の娘っていうか、ただのプロじゃねぇか。どんだけ美化されてんだよ。
「アルマンドの前のフォーレ公は、家名に傷が付く前になんとか息子の放蕩を止めようと縁談の相手を探し、最後に引き受けたのが当家の一人娘だったというわけです」
両家の関係からして、ダークレイ伯も断れなかったんだろう。とんだ貧乏くじだったな、キャサリン。お前の親父を恨め。
「ところが……父公が流行り病で急逝すると、アルマンドの勝手放題な振る舞いを誰も止められなくなり、婚約は一方的に破棄。さらに娼館の娘イリアを身請けして妻とするに至りました」
「惚れ惚れするクズっぷり。シビレますなぁ、憧れますなぁ」
クズバロメーターことミョルヌの評価だけが爆上がり中のアルマンド。オリエと天使の顔は冷え冷えとしている。
「噂は瞬く間に拡がり、フォーレ家の評判は地に落ちました。アルマンドは王家の晩餐会にも呼ばれなくなり、宮廷での政治力を失ってゆきました。自暴自棄になり、娼館を借り切って毎晩のように遊び呆けるうちに、やがて体を壊して床に伏せるようになったのです」
自業自得という言葉がこれほど相応しい男もいない。墓に刻んでやりたいぐらいだ。
「当時のダークレイ伯、キャサリンの父はもちろん娘に対するアルマンドの仕打ちに激怒し、一度はフォーレ家と絶縁しました。あの肖像画と手紙に恋をしていたキャサリンの悲しみようは想像を絶するほどで、すっかり心を病んで部屋に閉じ籠もってしまいました。本当なら絶対に許せはしなかったはずです。ですが……」
うつむき加減に淡々と話していたキャンベラが一度視線を上げ、キャサリンの方を窺ってからまた目を伏せた。
「その当時、窮地にあったのはフォーレ家だけではありませんでした。当家のワイナリー事業は表向きには順調のようでしたが、事業を始めた時の負債が大きすぎて返済が追い付かなくなっていたのです。農地を拡大してさらに収益を増やさなければ負債は膨らむ一方で、いずれはワイナリーを手放さなければならないところまで来ていました。しかし、農地の拡大には莫大な税金がかかるため、フォーレ公を通じて宮廷に税金の猶予を請願しなければなりませんでした……」
まあそんなことだろうとは思ったよ。娘との婚約を勝手に破棄した相手とその後も仲良くお付き合いを続けましょうなんて普通の神経じゃない。ダークレイ伯が馬鹿の付くようなお人好しだったって仮定で片付けるのはさすがに無理がある。要はフォーレ家とケンカ別れして両家とも沈むか、娘のことからひとまず目を背けてでも生き残りを懸けてもう一度手を組むか、苦渋の決断だったわけだ。
「アルマンドが若くして亡くなり、分家から次の当主を迎えたフォーレ家は、爵位の格下げもあり得るような状況でした。そこで当家とフォーレ家はある人物と相談して、起死回生の策を講じました。それがあの物語です。アルマンドの学友だった劇作家のウィリアムズ卿に筋書きを頼んで、婚約破棄からイリアとの結婚に至るまでの経緯をドラマチックな美談に仕立て上げ、世間に流布したのです」
「あの美しい物語が生まれた裏に、そんな現実的な事情があったとは……」
オリエの乙女チックロマンがガラガラと崩れ落ちる音が聞こえるようだ。キャンベラは口元に自嘲的な笑みを浮かべて頷いた。
「狙いは当たり、フォーレ家の名声は急速に回復しました。アルマンドは放蕩息子ではなく一途な愛に生きた情熱的な美男子に、イリアは貧しくても清く温かい心を持つ愛すべき女性に………そしてキャサリンは二人の愛を阻む計算高い悪役令嬢に、イメージが塗り変えられていきました。当時まだアルマンドの本当の行状を知っていて、首をひねる人は大勢いたと思いますが、何も知らない人たちは美しい物語の方を信じました。ウィリアムズ卿はそういう物語を創作したのです。皆が信じたがるような物語を」
「おかげでフォーレ家は復興し、ダークレイ家のワイナリーも無事軌道に乗ってめでたしめでたしってわけだ」
俺の皮肉を受け止め、キャンベラは唇をキュッと結んで顔を上げた。一族の負い目に向き合い、非難も甘んじて受ける、そういう覚悟を感じさせる顔だ。自分がやったことでもないのに、そう背負い込むこともないと思うが、彼女のそういう生真面目さは嫌いじゃない。
「あの物語ではダークレイ家というより、キャサリン一人が悪役として描かれています。娘だけに汚名を着せて家を守ったダークレイ伯がどんな心境だったのか、私には想像できませんが…………当家が今こうしてあるのはキャサリンのおかげです。踏みにじられた彼女の名誉の上に、このワイナリーの事業は成り立っているのです」
懺悔するように目を瞑り、両手を組んでキャサリンの方に祈りの言葉を唱える。亡霊はすっかり自分の世界に入り込んでて何やら楽しそうだから、祈りは届いたのかどうか。
「一つ、わからないことがある」
俺は部屋の壁と接するように建てられた墓標に近付き、その脇の壁に備え付けられた戸棚を開けた。そこにもまた大量の羊皮紙の書簡がギッシリと詰め込まれている。
「俺が徹夜で目を通した七年分の手紙がそっちの箱に入ってるやつだ。当然、手紙では婚約破棄のことには何も触れてない。普通のバカップルの戯言みたいなやり取りがずっと続いてて、ある日を境にプッツリと終わっている」
俺は一つ隣の戸棚を開ける。そこにもまた大量の手紙。戸棚はまだある。一つ、また一つと開けていく。
「ところがまだこんなに手紙がある。ずっと後の日付まで。どう考えても婚約が破棄された後まで。同じようなやりとりが延々と続いている。そんなことあり得るか?婚約は破棄したけどずっと文通友達でいましょうね……って、んなわけあるかよ。この手紙は一体何なんだ?」
キャンベラは少し言葉を探してから「贖罪…………でしょうか」と呟いた。
5.
贖罪?誰が誰に?何を贖う?
「キャサリンの父はワイナリーの中に娘の新たな部屋を作り、世間の目から隠しました。それがこの場所です。心を病んだキャサリンはずっとここに閉じ籠もり、悲嘆に暮れる日々を過ごしていました。しかしある日、彼女にまた手紙が届いたのです」
キャンベラは俺の隣に立って別の戸棚から一巻の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
「このようなことになって、貴女の心をどれほど傷付けてしまったか、思い巡らせると私の心も地獄の業火に焼かれるようです。本当ならば私の言葉は二度と貴女の目に触れる資格が無い。しかし、ダークレイ伯はお赦し下さいました。貴女に真実を告げることを……」
筆跡はアルマンドの手紙と同じ。何を言ってるんだコイツは?
「王の密命により、私はフォーレの名を捨てて国を出ることになりました。今、公領にいるアルマンドは世間には知られていない妾腹の弟、私の身代わりです。私は隣国にて秘密の任に当たり、もう戻ることは叶わないかもしれません。ですが、もし貴女が赦して下さるなら………いえ、たとえ読まれることなく全て火にくべられたとしても、手紙を書き続けます。いつか貴女にお会いできる日を想いながら……」
読み上げたオリエは戸惑ったようにキャンベラを見た。
「……本当なのですか?ここに書かれていることは……」
んなわけねぇだろ。キャンベラは首を横に振る。
「この部屋に籠もりきりだったキャサリンは何も知りませんでした。なぜ婚約が破棄されたのかも、世間から自分がどう見られているかも。彼女の父親とこの村の住人たちは皆、ここには一切余計な雑音を持ち込まないようにしました。そして、キャサリンの悲しみを癒すために、もう一つの物語が創作されたのです」
「ウィリアムズ卿、か」
なるほど、ようやくスッキリ全体像が見えてきた。キャンベラは頷いた。
「最初からずっと手紙を書いてたのはウィリアムズ卿だったんだな?そして婚約破棄の後も三文芝居みたいな理由をでっち上げて文通を続けた。本物のアルマンドが死んだ後もずっと、ジジイになるまで。それが贖罪ってことか?傷付けた償いに、嘘の手紙を書き続けたってわけか?」
「あるいは……」
キャンベラはテーブルの上の手紙に視線を落としてフッと微笑を浮かべた。
「この手紙こそが真実の愛だったのかもしれません。人気作家として不動の地位を築き、しかも容姿端麗で有名だったウィリアムズ卿ですが、数々の高貴な令嬢たちから熱烈な求婚を受けたにも関わらず、生涯独身でした。そして彼は遺言にこんな言葉を残したそうです………『作家とは嘘をつく仕事だが、私が生涯で真に愛した嘘は二千四百十一篇』」
戸棚を指差す。まさか全部数えたのか?
「ウィリアムズ卿の死後、キャサリンが送った手紙は全て極秘で当家に返却され、ここに納められました。返却された手紙は二千四百十二通。キャサリンが全て大切に保管していたアルマンドの……いえ、ウィリアムズ卿の手紙は二千四百十一通でした」
一体何年続いたんだ?このやり取りは?っていうかキャサリンお前、そんな長生きだったのか。
「ウィリアムズ卿は六十九歳で天寿を全うしました。キャサリンはその二年前、五十八歳の時にここで息を引き取りました。大勢の村の人たちに見守られながら。晩年のキャサリンは心の平安を取り戻し、とても穏やかに暮らしていたそうですよ」
昨日、村人たちに聞いた話と一致する。ここじゃ誰もキャサリンのことを悪役令嬢なんて信じちゃいなかった。石の塔から身を投げて死んだってのもやっぱり、後から付け足された作り話だったんだな。じゃあ、あの地下にあったのは誰の墓だったんだ?
「それは…………確かなことは分かりません。ご覧になった通り名前も刻まれていませんから。ですが当家の記録によれば、アルマンドの死後、遺産の分与が少なかったことに腹を立てたイリアは、またフォーレ家の名誉を失墜させるような醜聞を広めようとしたそうです。そしてその後すぐに亡くなった……」
「それって……」
天使が口元を手で覆って言葉を呑み込む。まあ、ありそうな話ではあるが。
「……すみません、ただの憶測です。今の話はお忘れ下さい」
だな。どのみち俺には関係の無い話だ。アルマンドもイリアもどうでもいい。俺が知りたかったのはキャサリンのことだけだ。隣で飽きずに手紙を眺め続ける美しい亡霊に目を向ける。
「結局、お前が恋してた相手はアルマンドじゃなかった。本物になんか一生会わなくて正解だったよ。何もかも嘘と作り話ばかりだった。でも………それでもお前はここで幸せだったんだな……」
それさえ分かればもう十分だ。
「あれ?……でもそれならなんでキャサリンさんはハイカキンさんに取り憑いたんでしょう?一体何を呪ってるんですか?」
天使がそもそもの疑問に立ち返る。キャサリンの呪いの原因は何か?どうすればそれが解けるのか?
「そのことなら多分、俺はもう分かったぞ」
「えぇっ??」
天使とオリエ、キャンベラまで驚いた声を上げる。ミョルヌだけは当然のような顔で頷いていた。コイツは馬鹿だけど天才だからな。最低限の情報さえあればこのぐらいの推論にはたどり着ける。
後日、俺たちは二枚の絵を手に入れ、ダークレイ家の城を再訪した。階段ホールの壁のタペストリーは取り払われ、そこにはくっきりと何かが飾られていた跡が残っていた。
「俺が初めてキャサリンを見たのはこの絵に描かれた姿だった。呪われたのは呪いガチャのせいだが、あの時俺が引いた呪いはたぶん、この絵に宿った怨念……というか無念だろう」
俺は二つ並んだ跡の片方にキャサリンの肖像画をピッタリ当てはめた。少し前までとある幽霊屋敷に飾られていた物だ。
「何が無念かって、そりゃここにあるべき物が失われたからだ。なあキャサリン、お前はこの場所でこの絵を見上げるのが好きだったんだろ?」
俺はフォーレ公から預かってきたアルマンドの肖像画を壁のもう一つの跡の上に飾ってから振り向いた。
そこにはもう怨念や狂気などどこにも感じさせない美しい黒髪の少女の霊がいて、向かい合う二つの姿を幸せそうに見つめていた。
「呪い封じの護符を外してないのに……」
「もう呪いじゃないからな。これで俺もようやくストーカー霊から解放された。背中が軽くなって気分爽快だ」
ホールの向かい側の窓から差し込む陽光の中で、キャサリンの姿が徐々に薄れてゆく。
「でもホントは少し寂しかったりして?」
天使がからかうような口調で顔を覗き込んでくる。うぜぇ。
「お荷物はお前らだけで間に合ってる。心残りが消えたんならさっさと天国に行って達者で暮らせよ。じゃあな、キャサリン」
姿が見えなくなる瞬間、黒髪の少女の霊と一瞬だけ視線が合った。たぶん気のせいだ。でもその唇が確かにこう動いた気がした。
「ありがとう」
よく似た面影の黒髪の令嬢も同じモノを見たのか、ポロポロと涙を零しながらキャサリンが消えた後の虚空に向かって祈りを捧げていた。
ep.
王都に戻った俺たちは、間もなく始まる次のイベントに備えて万全の準備を……整えなきゃならないんだが、その前に女どものしょうもないワガママに付き合わなきゃならないようだ。
「うわぁ……いつもと全然雰囲気が違って新鮮ですね!でも似合ってますよ?大丈夫!素敵です、ハイカキンさん」
「うるせぇ。ったく、絶対着ねぇって言ったのに散々ゴネやがって」
俺はゴチャゴチャ飾りの付いた悪趣味な貴族の衣装を着せられ、頭には金の巻き毛のヅラまでかぶせられている。例の芝居に登場したアルマンドの格好だ。くだらん作り話だったと分かっても、それはそれ。このお揃いのコスプレで肖像画を描いてもらいたいって気持ちは変わらないらしい。
「それで、あの………私の方はどうでしょうか?変じゃないですか?………何か一言ぐらい感想があってもバチは当たらないと思うんですけど……」
天使は大きく背中の開いた裾の長いウエディングドレス姿。普段も翼が出せるように大きく背中の開いた白いヒラヒラの服を着てるが、あまり天使らしい神聖さを感じたことは無い。たぶん能天気な言動のせいだと思うが。不思議と格好が少し変わっただけでソレっぽさが20%ぐらいアップするもんだな。絶対言わねぇけどな、そんなこと。
「いいじゃねぇかなんでも。支度ができたならさっさと済ませようぜ」
「あっ、ちょっと待ってくださいよ〜!このドレス歩きづらいんですから、ちゃんとエスコートしてください!」
ギュッと左腕にしがみついてくる。歩きづらいならなんで着るんだよ……ったく、面倒くせぇ。
天使を引き摺るように、絵描きがスタンバイしてる部屋に入っていくと、すでに準備を終えてソワソワしながら待っていたオリエがこっちに気付いてパッと顔を輝かせた。
「旦那様!見違えるようなお姿です!きっと似合うと思った私の見立てに間違いはありませんでした!」
空いてる右腕にしがみついてくる。両手に花……とか言うんだろうか?
「それであの……その……わ、私はどうでしょうか?おかしくないですか?王家の正式な婚礼のドレスとは違って、最近流行のフワッと広がったデザインなのですが……」
……もしかして一人ずついちいち感想を言わなきゃダメなのか?勘弁してくれ。
「だって……何か言ってくれないと不安じゃないですか!女子には勇気が要ることなのですよ?着飾った姿を殿方に見せることは」
別に頼んでねぇんだけどな。期待されたって何言ったらいいか分かんねぇし。
左右から詰め寄られて酸欠寸前の魚みたいにパクパクしてると、更衣室の方のカーテンからミョルヌがヒョコッと顔を出した。
「ふ、ふははははは………我がウエディングドレス姿を目にして初夜の期待に昂るがいい、このケダモノめっ……」
いや見えねぇし。さっさとカーテンの影から出てこい。
天使とオリエが迎えに行って、隠れたままなかなか出てこないミョルヌを引きずり出す。
「か、可愛いですっ!ミョルヌさん!」
「さすがエルフの美しさは全ての女性の憧れですね!」
「なッ、なんという羞恥プレイ………同志ハイカキンにこんな姿を晒すとはッ………はぅぅぅ………」
女三人寄ると何とやら。キャッキャとはしゃぐコイツらのテンションに付いて行けない。
ようやく観念して出てきたミョルヌは……まあ悪くない。いつも寝巻きみたいなクソダサいモコモコローブとボサボサ頭でせっかくのエルフの美形を台無しにしてるからな。ちゃんとしてればそれなりなのに。
「………悪くねぇよ。限定SSウエディングバージョンのミョルヌも、オリエも、マノンも。いつもの三倍は推せる」
まとめて褒めるのはダメなんだろうな。また「女心が分かってない」とか言われるんだろう。でもコレが精一杯だ。これ以上歯の浮くようなこと言えるか!
幸い、こんなんでも満足してくれたのか、三人とも満面の笑顔でくっついて来た。その状態を絵描きが一枚の肖像画に描いた。俺の前には小柄なミョルヌ。左腕にマノン、右腕にオリエが寄り添っている。そして不思議なことに、後ろにもう一人、描かれている女がいた。
キャンバスの上で優しげな微笑を浮かべた黒髪の美少女が、後ろから抱きつくように俺の首に両腕を回していた。
了