表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

赤金の衣が君色隠す ~一族のために犠牲になれと言われた名家の姉は、金魚のあやかしに溺愛される〜

 日本を含めた世界中では、かつて人間とあやかしが敵対していた。

 しかし、時代の激しい変化に応じるため、そして多くの賛同が得られたことにより、人とあやかしは共存の道を歩み始めている。

 そうして『霊と調和する時代』と言う意味を込めて新たに定められた『霊和(れいわ)』の時代、彼らが交流を交わす姿は、世界各地で見られている。


 とは言え、未だ一部の人間……特に術師の間では、あやかしは未だ憎悪の対象のままだ。

 あやかしたちは術師たちよりも、霊力や才能に恵まれていることが多いからだ。


 表向きは平穏な時代の中で、ひとりの少女と金魚のあやかしが慎ましく暮らしていた。

 全国でも随一の霊力を誇る術師の家系・花園家の広大な敷地内の片隅に、真っ白な椿の生け垣に囲まれた小さなあばら家が建てられている。

 人目を隠すようにひっそりと存在する小さな家が、ひとりと一匹のささやかな住処だ。


 家の窓際で、金魚鉢の手入れを終えた少女が朱色の優しい眼差しを湛えて頷いた。


(つかさ)、水槽のお掃除終わったよ」


 色素の薄い白髪を首のあたりで一本に束ねている彼女の儚い容姿は、霊和の時代の人間としてはひどく珍しい。

 人前に姿を現すと、あやかし呼ばわりされることもあるが、自称あやかしの金魚と共に暮らしている彼女からすれば気にならない。むしろ、彼女にとって好ましいと思える呼び方であった。


『ありがとう、夢璃(ゆうり)!』


 水槽と言うにしては小さな金魚鉢の中で、金魚が楽しそうに赤みを多分に帯びた赤金の鱗をなびかせていた。

 窓から差し込む光が金魚の赤い鱗を照らすと、時折金色に輝いて見える。

 夢璃はその様子を見るのが好きで、焦がれるように眺めていた。

 司と名付けられた金魚は、少女の唯一無二の親友でもあり、家族とも言うべき存在でもある。


『わー、水草も新しいのにしてくれたんだね!』


 まるで金魚から聞こえるように発せられた青年の優しい声は、紛れもなく司が発したものだ。

 水中で水草の合間をスイスイと無邪気に泳ぐ司の様子を眺め、夢璃と呼ばれた少女は気の毒そうに呟く。


「……でも、お家は相変わらず小さくてごめんね」

『ううん。小さくても夢璃と一緒にいられるから、ぼくはそれでいいんだよ』

「私も、司が一緒にいてくれるから、生きていられるの」

『夢璃……』


 寂しそうに答える夢璃に寄り添おうと、司の頭が金魚鉢に触れると、夢璃も右手の人差し指で金魚鉢に優しく触れる。

 ひとりと一匹は、ガラス越しに穏やかな触れ合いの時間を過ごしていた。


 そんな時、普段は誰も訪れようとしないあばら家に、彼らの平穏を乱す存在が現れる。


「お姉様!!」

「!?」


 あばら家の引き戸が壊れんばかりの勢いで音を立てて開かれると、どこか夢璃に似た面影の少女が玄関から座敷に乗り込んできた。


日葵(ひまり)……」


 濡羽色の髪を靡かせた堂々として優雅な佇まいの彼女の名前は、日葵と言う。

 夢璃の四つ歳の離れた妹だが、姉とは正反対の気の強い性格が、漆黒の眼差しにハッキリと表れている。


 日葵はどこかに出かけるのか、花園家を象徴する白と紅色の椿の模様が描かれた鮮やかな訪問用の着物を身に纏っている。

 対して夢璃は、着こなして色が褪せた普段着用の着物だ。……と言うよりも、彼女は妹のような外出着など持っていない。

 その上、健康的で十四歳にしては大人びた容姿の日葵と違い、夢璃はひどく痩せ細っている。


「日葵、じゃないでしょ? 次期当主様と呼びなさいよ」

「は、はい。次期当主様……」


 夢璃をお姉様と呼ぶ日葵だが、それはあくまでも日葵自身が姉よりも優位に立っていることを自覚する手段に過ぎない。

 夢璃は目の前に佇む妹との差に無意識にみじめさを感じ、縮こまる。


「お姉様ったら、また金魚に話しかけてオトモダチごっこでもしていたの?」


 日葵は窓辺にあった金魚鉢を一瞥すると、あざ笑うように吐き捨てた。


「独り言なんて相変わらず辛気臭いわ。でも誰からも相手にされないお姉様には、ちょうど良い相手よね」

「……」


 自分だけでなく、司のことまで蔑まれた夢璃は、俯いてしまう。


 夢璃が幼い頃は、「私の大事な司を馬鹿にしないで!」と反発していたこともあった。

 しかし、そのたびに妹であるはずの日葵に「花園家のごく潰しが生意気だ!」と頬を叩かれ、土を投げられ続けるだけ。

 もはや成長した今では、抵抗する気力も萎えてしまっていた。


(悔しいけど……。でも、私は……無力だから……)


 ただただ、悔しい・悲しいと思う気持ちだけが、彼女の無力さを苛む。

 彼女たちが正反対なものは、容姿や性格に留まらない。


 花園家はあやかしに対して反発している一族だ。あやかしのような儚い容姿の夢璃は、生まれたときから蔑みの対象である。

 その上、術師の名家である花園家に生まれた者は、遅くても十二歳となる頃には能力を開花させるはずであるが、夢璃は術師としての能力を目覚めさせることが出来なかった。

 このふたつの要因が決定打になり、夢璃は敷地の奥のあばら家に追いやられ、乳母によってひっそりと育てられた。

 中学までは学校に通わせてもらってはいたものの、「お前は花園家を名乗るのにふさわしくない」と言われ、殆ど縁を欠片も感じられない遠い親戚の名字を名乗らせてもらうしかなかった。

 義務教育を終えると高校に入学させてもらえるはずもなく、かといって世間様に出させてもらえることもないまま、間もなく十八を迎える夢璃は使用人として以上の過酷な扱いを受けていた。


 一方、妹の日葵は、平均的な年齢よりも早く術師としての能力を開花させている。

 天才として名を馳せ、次期当主候補として持ち上げられるようになると、姉である夢璃を馬鹿にしては使用人のようにこき使うだけでなく、虐げるようになった。


 自らの境遇の惨めさに夢璃の目じりに涙が溜まりそうになりかけていたとき、司の声が聞こえてきた。


『こいつ、また夢璃をイジメに来たのか!?』


 司の唸るように発せられた威嚇の声は、馬鹿にした口調の日葵には聞こえていない。司の声は今のところ夢璃にしか聞こえていないのだ。


(ううん。司のためにも、泣いちゃダメ)


 唯一の友人でもあり、守るべき存在でもある司のために気を引き締めた夢璃は、意を決して妹に問いかけた。


「きょ、今日は何を……なさりに……?」

(日葵は普段、当主様(お父様)達と一緒にお屋敷にいて、この家まで来ないのに……)


 夢璃が自身の父を父と呼んだ記憶は、数度しかない。

 両親を父・母と呼ぶと、お前のような不出来な存在を生んだ覚えはないと怒鳴られ、夢璃の身体を痛めつけては二度とそう呼ばないように覚えさせたからだ。

 妹だけではなく、両親からも疎まれながら生きている夢璃に、使用人達も必要以上に接近しようとは思わない。


(小さい頃は、愛される日葵のことが羨ましかったけれども。今はもう望んでも叶わないって分かってる……)


 だからこそ、彼女が心から家族だと思える存在は、常にそばで寄り添って話を聞いてくれる金魚の司だけ。


(私には司がいるから、それでいいの。司さえいてくれれば、他には何もいらない。だから、放っておいてほしいのに……)

「お姉様も、そろそろ十八歳。成人でしょう?」

「え?」


 妹から自分の年齢についての話題が出て来るなど思わなかった夢璃は、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。


(もしかして、私のことを気にかけてくれて……)


 成人のお祝いをしてくれるのだろうか。そう思いかけた夢璃だが、日葵の次の言葉に落胆することになる。


「その日、私が次期当主として秘術をお披露目することになったのよ」

「……おめでとう、ございます」


 夢璃の少しの感情の浮き沈みを感じ取ったのか、日葵があざ笑うようにわざとらしく問いかけた。


「成人のお祝いをしてあげるとでも思ったの?」

「……い、いいえ」

(……気にかけてくれるなんて、なんで一瞬でも思っちゃったんだろう)

「ただでさえ役立たずのごく潰しに、お祝いなんてしないわよ!」

(成人することで私はお払い箱になるから、日葵が次期当主として正式に名乗りをあげるのね)


 夢璃の心に浸透させるように、夢璃がいかに花園家にとって無能なのかを語っていく日葵。


『こいつ、なんでそんな酷いことを夢璃に言うんだよ! 本当に夢璃の妹なの!?』


 そんな妹の悪辣な態度に、水中での泳ぎを激しくさせることで司が憤りを主張する。


『夢璃は役立たずじゃない! 優しくて、気が利いて、良い子なんだから! 術は使えなくても、霊力だって強いんだから!』

(司も優しくて、一緒にいると心強いよ。それに、私の代わりに怒ってくれるだけで、すごく嬉しいの)


 夢璃の代わりに、司がそばで怒ってくれる。当然日葵に司の声は聞こえないが、ささやかなことでも彼女は勇気づけられていく。


(でも、お払い箱になる私は、どうなるんだろう。追い出されるなら司も一緒が良いな……)


 今後の行方について夢璃が不安に感じていると、日葵が意地の悪そうな微笑みを見せた。


「それでね。無能なお姉様でも、一族の役に立つ方法があるのよ?」

「えっ?」

「秘術の儀式に、お姉様の力が必要なのよ」

「わ、私? でも私……術なんて……」

「儀式の場に立っているだけで良いのよ。他にはなーんにも、しなくて良いの」


 思いもよらない日葵の発言に、夢璃は目を白黒させている。妹は、姉の反応を愉しむように問いかけた。


「役立たずでも出来る、簡単なお仕事でしょ?」

「それは……」

(確かに簡単なことだけど……)

『怪しいよ! あの顔は何か企んでる顔だ!』


 一族から除け者にされていたために術に疎い夢璃だが、彼女も司の言う通りの怪しさを感じていた。


「お姉様、花園家の役に立ってくれるわよね?」

「……は、はい」

『夢璃!』


 実妹からお姉様の誕生日と言われて、気持ちが浮きだたないわけがない。

 有無を言わさぬ迫力もあって思わず返事をしてしまった夢璃を、司が咎めるがすでに遅かった。


「衣装も用意しておくわね。そんなみすぼらしい着物なんかじゃなくて、お姉様の新たな門出に相応しい清潔な衣装よ」

「あ、ありがとうございます」

「楽しみにしてね」


 日葵が言いたいことを言い終えると、玄関の引き戸を開いて、あばら家を囲む白い椿の生垣を越えた先にある伝統的な日本家屋の家に帰って行く。

 妹の帰る場所は、姉の住む家とは雲泥の差だ。


 妹の様子を頭を下げて見送る夢璃の目尻に、涙が溜まっていく。

 見送りを終えた夢璃は、家に戻って司の泳ぐ金魚鉢の前に佇み、呟いた。


「私、まだここにいても良いんだね……」


 ほろりと一粒の涙がこぼれ、金魚鉢の中に沈む。


『……しょっぱいね。夢璃、泣いてる?』

「せっかくお掃除したばかりなのに、ごめんね……」

『ううん。たくさん泣いていいよ。だけど、ぼくが夢璃のことを慰めてあげられれば良かったのに……』


 心配した様子の司に、夢璃は「ありがとう」と言うと、自らの思いを語り始めた。


「私ね、成人したらこの家を追い出されると思っていたの」

『……ぼくもね、追い出されると思っていたよ。……夢璃はこの家に居たいの?』

「それは……」


 このあばら家で今まで通りに疎まれる生活を送っていたいかと問われると、夢璃は答えに(きゅう)した。


『この家にいると、辛くない?』

「……つらいけど、外の世界も怖いから……」

『きっと外の方が、こんな家よりも明るくて楽しい生活が出来ると思うよ』

「それに、お金もないし……」


 一家から虐げられている夢璃だが、必要最低限レベルのまかないや日用品は、使用人としての仕事をこなす際に得られているため、なんとか生活出来ている。


『夢璃は料理や裁縫も掃除もできるから、働き口はいっぱいあると思うよ』

「そうかな……」

『心配なら、ぼくと一緒にあやかしが暮らす国に行こう?』

「あやかしの国……。どんなところだろう」


 司の言うあやかしの世界に、夢璃は未知の物に対する不安を抱きつつも、興味を感じている。


『良い提案でしょ?』

「……次期当主お披露目の日が終わったら、考えるね」

『約束だよ?』


 司からの提案を先延ばしにした夢璃には、頷くことしか出来ない。


「そ、そうだ。司に霊力をあげないとね」

『……平気だよ。妹のせいで疲れているでしょう?』

「でも……司は霊力をあげないと死んじゃうから……」

『一日くらいもらわなくたって、なんてことはないのに』

「でも、司がいなくなるのが怖くて……」

『安心して。ぼくは夢璃が小さい頃からずっと霊力をもらっているから、やわな事じゃ死なないよ。普通の金魚と違うんだから』

「それでも怖いの。司がいなくなったら、私は生きる意味なんてなくなってしまうから……」

『……夢璃』

「勝手に司を理由にして、ごめんね……」

『……ううん。夢璃が一緒に生きてくれるなら、ぼくはそれでいいよ』


 頷いた夢璃が金魚鉢に両手を翳し、瞼を閉じる。すると、金魚鉢の水中で泳ぐ司が、淡く光り始めた。夢璃の霊力が司に注ぎ込まれた証拠だ。


「司の鱗、いつ見ても綺麗だね」


 赤金色の鱗に光が反射するたびに、夢璃が焦がれるように呟く。


『夢璃がいつも霊力をくれるお陰だよ。ぼくも夢璃に、いつか同じ色の服を着させてあげたいな』

「私には似合わないよ」

『ぼくが見てみたいの! ぼくとお揃いの夢璃の姿』

「……いつか、出来たらね」


 なおも霊力付与を続けようとする夢璃を気遣い、司が不安そうに声をかける。


『……もう充分だよ、夢璃。無理しないで』


 こんな量で良いのかと不安そうにしながらも、司を不安にさせてはいけないと思い、夢璃は霊力を注ぐのを終えた。


「司、ずっと一緒にいてね。私の家族は、司だけだから」

『うん。ぼくの家族も夢璃だけだよ』


 ひとりと一匹は、再び金魚鉢のガラス越しに触れあう。


『ぼくに力があれば……人型だったら、夢璃を連れ出してあげられるのに……』


――


 一方、屋敷に戻った日葵は、苛立った様子で呟いた。


「ほんと、お姉様ったら、金魚に話し掛けるなんて気持ち悪い」


 優秀な術師として育った日葵にとって、不出来な存在が姉である事が許せない。

 自分が先に生まれれば良かったのに。そうすればあんな無能者が成人を迎える前から次期当主として振る舞うことが出来たのに。……と、彼女は普段から不満を漏らすばかりだ。


「それにしても、あの金魚。小さな頃から飼っているけど、どこで拾って来たのかしら。分不相応にも大事にしちゃって」


 そこまで言いかけた日葵は、ふと閃いた。


「良いこと思い付いたわ! 儀式の前に、お姉様にとびっきりの贈り物をしてあげないと!」


 ほくそ笑む日葵の表情は、とてつもない悪意に満ちていた。


■◇■◇■◇■◇■


 夢璃と司が出会ったのは、彼女がまだ六歳の頃だ。

 術師の能力覚醒の平均年齢である十二歳よりも前の出来事で、その頃は成人を前にした今よりも生活は幾分かマシだった。


 真夏の学校帰りに縁日のポスターを目撃した夢璃は、家族だけでなく乳母にも内緒で夜に家を抜け出した。

 どうせ両親は夢璃のことを気にかけてなどいない。だから少しばかりいなくなっても気付かないだろう。そう思いながら、彼女は近所の神社で行われている縁日に潜り込む。


「わあ! ひともあやかしも、いっぱいいる!」


 暗くなった神社には沢山の提灯が灯っており、屋台の店員や客も、国内外の人間に留まらず、様々なあやかしたちで賑わっていた。

 あやかしを嫌悪する花園家に暮らしながらも、その容姿ゆえに一族の思考に染まらずにいる夢璃は、ワクワクとした心持ちで縁日を楽しもうとする。

 小学生低学年の少女がひとりで夜にうろついることもあり、時折迷子を見るような目で見られていたが、きょろきょろとあたりを見回す彼女は気にする様子もない。


「お嬢ちゃん! 金魚すくいやってかない?」


 金魚すくいの前を通りがかった夢璃に店員が声をかけた。店員をよく見ると、二つに分かれた尻尾を揺らして、頭は猫耳がついている。


「猫さん、金魚食べちゃうの?」


 猫又のあやかしが店員の金魚すくいの屋台だったため、夢璃は思わず問いかけてしまった。


「そうだなー。売れ残った金魚はお兄さんがバリバリ食べちゃうかもしれないな」

「えええ」

「お嬢ちゃんがもらってくれたら、こいつらは食べられずに済むんだけどな」


 水中で泳いでいる金魚達が猫又の台詞に抗議するように、一斉にバシャバシャと音を立てて騒ぎ始めた。

 気のせいか、『食べるな!』と一斉に文句を言っているようでもある。


「うわっ! 冗談だって!!」

「やりたいけど、お金がないの……」

「大丈夫、タダだから。満足するまでいくらでも掬ってみな! こいつらも遊んでほしそうにしてるしさ」

「私も、遊びたい……!」

「早速やってみようか!」


 夢璃は猫又に渡されたポイを、恐る恐る水面に接触させる。


『遊んでー!』

『わたしも、わたしも!』


 すると、わらわらと四匹の金魚が集まってきた。

 やはり金魚達が喋っているようにも聞こえるが、金魚すくいに夢中の夢璃は気にしていない。

 彼女が目を輝かせて掬い取ろうとすると、水と金魚の重さでポイの紙がすぐに壊れてしまった。


「あー……」

「もう一回行こうか!」

『がんばれー』


 落胆する夢璃に、猫又の店員が二つ目のポイを手渡す。

 夢璃は早速金魚すくいを再開しようとするが、今度は金魚が寄ってこない。


「むむ……」

『こっちだよ!』


 金魚がいる場所までポイを動かして掬おうとするものの、金魚はスルスルと抜け出してしまう。


『鬼さんこちら!』

『こんなの、余裕で避けれるぜ!』

「あっ、待って!」


 金魚は破れたポイの紙の隙間を、輪くぐりのようにスイスイと楽しそうに通り抜けて見せる。

 何度も繰り返しているうちに、最後には紙がボロボロになってしまった。


「ボロボロになっちゃった……」

「まだ諦めるには早いな!」

『もっと遊ぼうよ!』


 紙が破れるたびに猫又の店員が次々と交換してくれるが、いくらやっても一匹も掬うことが出来ない。


『あはは! たのしー!』

「お前ら! 久々のちびっこ客だからって、からかいすぎんな!」


 提灯の光が、水飛沫と金魚の鱗をキラキラと照らし出す。気付けば夢璃はビショビショになりながらも、夢中で金魚達と遊んでいだ。

 しかし彼女は最終的に、金魚を一匹も掬うことができなかった。

 金魚達は自分に掬われたくないのかと思い、夢璃が涙目になると、猫又が慌て始めた。心なしか、金魚達も水面でバシャバシャと騒いでいるようにも見える。


「私、金魚()()嫌われてるみたい……」

「そんなことないって!」

『泣かないで!』

『嫌いじゃないよ!』


 そんな時、一匹の金魚がピョン! と勢いよく水面から飛び出したかと思うと、夢璃が手にしていたお椀にポチャン! と音を立てて見事に着水した。


「お、おお?」

「わあ!?」


 突然の金魚の行動に、夢璃も猫又の店員も驚く。


『ごめんね。ぼくたち、君を泣かそうと思っていたんじゃないんだよ。遊んでくれて楽しかったから、ついはしゃいじゃったんだ』


 しかも、お椀の中で泳ぐ金魚は夢璃にハッキリと、少年のように幼い声で話し掛けたのだ。

 金魚すくいの最中に聞こえた声は、幻聴ではなかったことに夢璃は更に驚いた。


「喋った!?」

「お、やっぱお嬢ちゃんこいつらの声が聞けるクチか」

『やっと、ぼくたちの声に応えてくれたね!』

「こいつはお嬢ちゃんにプレゼントするよ。友達になってやってくれよな」


 彼女は、花園家では鼻摘まみ者扱いだ。

 外に出てもこれまで蔑ろにされてきた経験故か、自分に自身が持てずにいることや引っ込み思案な性格も相まって、友達はひとりもいない。

 だからこそ、友達と言う単語に、ひとりぼっちの夢璃は思わず目を輝かせた。


「お友達……!」

『君のお名前は?』

「あのね、私の名前は夢璃って言うの。花園(はなぞの) 夢璃(ゆうり)

「花園? 術師の名家の、あの?」

「……もしかして花園家の人間だと、ダメだった?」

「そんなことないさ。ただ花園家の子があやかしがいる場所に来るのが珍しいと思ってね」


 彼の言う通り、あやかし嫌いの花園家は妖怪がいる場所を酷く嫌う。

 そんな人型ふたりのやり取りなど気にせずに、金魚は無邪気な様子で夢璃に語りかけた。


『夢璃? 可愛い名前だね! ぼくの名前はないから、夢璃がつけてくれると嬉しいな』

「えっとね、じゃあね……司!」

「おお。これはまた、ペットみたいな名前じゃないんだな」

「ペットじゃなくて、お友達の名前だからね」

『ぼくの名前は司! 夢璃、よろしくね!』

「うん!」


 猫又の店員が金魚すくいの持ち帰り用の袋に水と一緒に司を入れてやると、夢璃の手首にそれを引っ掛けて持たせた。

 おまけに小さな金魚鉢までつけてくれて、至れり尽くせりである。

 水中で泳ぐ司に提灯の灯りが照らされると、赤金色の鱗がキラキラときらめく。


「司、きれいだね」

『えへへ……ありがとう』


 夢璃が思わず司の鱗に見とれていると、猫又の店員が夢璃の頭を撫でた。


「こいつのこと、気にいったか? 長生きさせてやりたくなったら、お嬢ちゃんの霊力をこいつに喰わせてやってくれ」

「霊力あげちゃって大丈夫?」

「こいつらは普通の金魚とは違うんだよ。霊力の豊富な池で育った影響もあって、霊的な存在なんでね」

『ぼくたちもあやかしの一員だよ』

「まだまだヒヨッコだけど、今後大きく成長する可能性を秘めた奴だよ」


 猫又の妖術で服を乾かしてもらい、彼に見送られた夢璃は、家族に見つからないように司を連れてあばら家に戻った。

 金魚鉢に水を入れて、司を移動させてやると、司は興味深そうにあばら家の観察を始める。


『ここが夢璃のおうち?』

「うん、そうだよ。……他には誰もいないの」

『じゃあ、ぼくと夢璃は、これから一緒に暮らす家族だね!』

「……! うん!」


 家族と言う言葉に、夢璃は満面の笑みを浮かべる。


「霊力をあげるね」


 金魚鉢を前に、夢璃が手をかざす。霊力を送り込むと、金魚鉢で泳いでいた司が淡く光り始めた。


『わあ! すごく澄んだ霊力! 夢璃はすごい力を秘めてるね!』

「そうかな? 家族はみんな、たいしたことないって言うけど……」


 褒め称えようとする司に、夢璃は自信のない様子で呟く。


『ううん、夢璃はすごいよ! 身体がすごく軽くなったし、長生きできそう!』

「そういえば、縁日で見たときよりも光ってるかも?」

『でしょう? 夢璃の霊力が強い証拠だよ』


 夢璃はしばらく、霊力の余韻の光で美しく輝く司の赤金色の鱗に見入っていた。

 気付けば朝になり、家族して迎え入れたばかりの司に体調を心配されたことは、成人を前にした夢璃には懐かしくも大切な記憶のままだ。


■◇■◇■◇■◇■


 儀式当日の早朝。

 次期当主の日葵自ら、夢璃の衣装を持ってあばら家までやって来た。


「これがお姉様の衣装よ」

「え……これ、は……」


 しかし夢璃は、日葵が手渡そうとした衣装を見て、言葉を詰まらせ、伸ばしかけた手を止めてしまう。


「清廉で素敵でしょう?」


 遠目から見れば、無垢な色の簡素な着物だ。

 それがもし白無垢ならば、嫁に出されるのだと思えるだけ、まだ幾分か救いがあっただろう。

 しかし、妹の手から蔑みの眼差しと共に強引に押し付けられた衣装は……。


『死装束じゃないか!? 冗談にしても酷すぎるよ!!』

「見て。裾には花園家の花が描かれているの。ようやく花園家の一員として認められたのよ、お姉様は」


 日葵が裾をめくって見せた通り、白装束には大輪の椿がほぼ白に近い糸によって刺繍されている。

 果たして、目を凝らさない限り認識できない花は、一族に認められたと言って良いのだろうか。

 お前は一族に名を遺すことなく死ぬべきだと、しかしせめて一族のために役に立ってから散れと、白装束に描かれた刺繍が物語っているようにも感じられる。


(これまでなんのために生かされていたんだろう……)


 悪意がたっぷりと込められた日葵の微笑みに、夢璃は何かの間違いによって死装束が用意されたのであってほしいと願い、問いかけた。


「死装束のように、見えるのですが……」

「そうよ。お姉様は花園家の悲願のために霊力を捧げるのよ。幸い、お姉様は霊力量だけは豊富だもの」

「た、ただ立っているだけで良いと仰っていたのは……?」

「そうよ。ただ立っていれば良いの。お姉様が死ぬその瞬間に、術は完成するんだもの」

「……!!」

『本当に夢璃を殺す気!?』

(両親だけでなく、日葵にすら、家族だとも思われていなかったんだ……)


 先日、日葵が訪れた当初から……いや、恐らくもう随分と前から、一家は夢璃を犠牲にするつもりだったのだと、彼女は悟ってしまう。


「わ、私……は……」

「早くしなさいよ。次期当主の私に歯向かう気?」

『そんなもの、着る必要なんかないよ!!』

(でも、断ったらどんな目に合うか……)

「なんのために、花園家がごく潰しのお姉様を育ててきたと思っているの?」


 白装束を手にしたまま呆然としている夢璃の白髪を掴むと、日葵は憎しみを込めるように勢いよく引っ張った。


「っう……」

「術師として何の価値もないどころか、花園家に生まれた者とは思えないこの忌々しい容姿! 一族の恥だわ!!」

『夢璃!? やめろ! 夢璃をいじめるな!!』


 すぐに日葵の手から開放されたかと思うと、畳の上に放り出されてしまう。


「役立たずのお姉様を花園家が育てていたのは、すべてこの日のためなのよ! 少しでも役に立ちなさいよ!」


 支えるものを失ったように、夢璃はゆらりと起き上がる。


「……」

『逃げよう! 夢璃!』

(逃げたい……)

『血が繋がっているくせに、夢璃を家族と思わない奴らの家にいる意味も、こいつらのために犠牲になる必要も、夢璃にはないんだよ!』

(分かってる。でも……)


 司の言う通りにしたい。夢璃はそう思いながらも、俯きながら日葵に答えた。


「着替えます……」

『……!? ど、どうして!?』

「そう、安心したわ」

『嫌だ、夢璃!!』

「司……」

(ごめんね。こんな残酷な世界で生きていくのが、辛くなってしまったの……。どうせ逃げようとしたって、逃げられないって分かってるから……)

『ずっと一緒にいてくれるって……ぼくを生きる理由にしてくれるって、言ってくれたじゃないか! なのに死ぬつもりなの!?』


 夢璃の心の声は司には届かない。それでもなんとか夢璃の心を動かそうと、司は叫び続ける。


「儀式の前に、司……金魚とお話する時間を頂けますか?」

「……良いわよ」

『行かないで、夢璃!!』


 夢璃は後ろ髪を引かれるような思いで金魚鉢を振り返りながらも、部屋を後にした。


 彼女がいなくなると室内に残されたのは、司と日葵のひとりと一匹だけ。


「さあて……と。お姉様が戻ってくる前に、もうひとつの贈り物の準備をしないと、ね」


 日葵が金魚鉢に向かって手を伸ばす。


『……!? 何するつもりだよ!? ま、まさか!?』


 頭上を覆う影が大きくなるにつれ、自らの身に危険が迫っていることを、司は自覚した。

 しかし、霊力を持つだけのあやかしのひよことも言える司は、金魚鉢から逃げ出すすべを持たない。


『夢璃を守れるなら、ぼくはどうなったって構わない。だけど守ることもできずに、こんなやつにやられるなんて……!』

「お姉様、どんな顔をしてくれるかしら」

『ぼくに力があれば、夢璃を助けてあげられたのに……!』


 日葵が手を振り上げた直後、バシャッと言う勢いよく水が飛び散る音と、丸みを帯びた重い物体が畳をゴロゴロと転がる音が辺りに響く。

 金魚鉢から水と共に流されてしまった赤金色の鱗を持つ金魚が、畳の上に飛び散った水の上で苦しそうに跳ね続け……そして……。


『逃げ……て、夢璃……』


 司は動かなくなるその直前まで、夢璃の身を案じ続けた。


■◇■◇■◇■◇■


 金魚鉢がある場所とは別の部屋に向かった夢璃は、着替えの最中も司の叫び声を聞くことで罪悪感を募らせる。


『逃……げ…………!!』

(司はこんなにも、私のことを思ってくれているのに……)


 しかし、夢璃を気遣う言葉を叫んでいた司の声は、次第に弱々しくなり、着替えが終わる頃には聞こえなくなっていた。


(疲れたのかな? 戻ったら、沢山霊力をあげないと。司に会えるのはこれで最後になるかもしれないけど、少しでも司が長生き出来たら……)


 いつも勇気づけられてきた司の声が聞こえないことに胸騒ぎを覚えながら、夢璃は金魚鉢のある部屋に戻ってきた。

 しかし、部屋に足を踏み入れた途端に、彼女はまたもや絶句することになった。


「えっ? つか……さ?」


 見慣れた赤金色の鱗が、床の上で窓辺からの日差しを浴びて儚く輝いていたからだ。

 近くには金魚鉢が倒れており、そこから溢れた水が畳を濡らしている。

 ギクリとした夢璃は、水に濡れることも気にせずに慌てて駆け寄り司に声をかけた。


「ど、どうしたの? どうしてこんな場所に……」


 しかし、司はいつものように言葉を返す様子はない。

 小指の先で恐る恐る鱗に触れてみても、ピクリとも動こうとしなかった。

 その様子は、普通の金魚が息を引き取ってしまった様子そのもので……。


「う、そ……」

(死ん、でる……!? もしかして……私を助けようと思って、ここから出ようとしたの!?)


 夢璃を心配した司が金魚鉢から飛び出してしまい、水のない場所で息を引き取ってしまったのだろう……と彼女は思った。


 夢璃は近くにあった布の上に司を優しく寝かせてあげると、小さな声で親愛なる友人でもあり家族でもある金魚に懺悔する。


「苦しかったよね、司……。ごめんね……」

(どうして気付かなかったんだろう……! あんなに、必死に声をあげてくれていたのに……!)


 一族のために死ねと日葵から言われても零れなかった涙が、司の死を悲しむ夢璃の頬を伝う。


(でも、霊力をあげたら司は長生きするって、言っていたのに……!)

「う……っく……」


 夢璃の脳裏に司との思い出が蘇り、彼女は嗚咽を漏らした。


(ううん、違う。私のせいだ! 一緒にいてくれるって約束してくれたのに、私が……生きることを諦めて、約束を破ってしまったから……!)

「うっ……うぅっ……。司……つかさぁ……!!」


 夢璃が後悔に苛まれる中で、日葵の冷たい声が室内に響く。


「お姉様の大事な金魚、先に死んじゃったのね」


 夢璃は両手で司を包んだ布を優しく持ち上げると、日葵に問いかけた。


「司を、弔う時間を頂けますか?」

「そんな時間、ないわよ。仲良し同士、一緒に死ねば?」

「……」

(そ……っか。いま私が死ねば、司と一緒に天国に行けるかもしれないね……)

「じゃあ行きましょ」


 夢璃は司を抱えたまま、日葵のあとを着いていく。


「薄汚い金魚とお揃いの死装束がとってもお似合いよ」


 白い布に包まれた赤金色の司と、白装束を纏う朱の瞳の夢璃を眺め、日葵があざ笑う。

 普段の夢璃ならば、司が薄汚いと言われたことに、口に出さずとも内心では反論しようとしただろう。

 しかし、司を失ったことで絶望し、無気力となった夢璃の耳には、日葵の皮肉は届かない。


(お揃いの衣装を着てみたいって、司が言ってくれたね……。だけどこんな風に叶ってしまうなんて……)


 あばら家を囲う白い椿は、すべて切り落とされてしまったらしい。

 切り落としたあとに使用人達が拾い損ねたと思われる椿の花が一輪だけ、道端に落ちている。

 その様子は、白い椿の刺繍の白装束を纏う夢璃を見送るようでもあった。


 死装束姿の夢璃が連れてこられたのは、花園家の中央にある池だ。

 水面には数えきれないほどの白い椿が浮かべられている。

 生垣として咲き誇っていた椿達は、儀式のために切り取られたのだろう。


「ひっ……」


 しかし浮かぶ白椿の様子は、夢璃には純白の鱗を持つ金魚が力なく浮かんでいるようにも見えてしまう。

 夢璃の手のひらに収まり続ける司の儚い姿を思い出し、彼女は悲鳴をあげそうになった。


「なあに。今更怖気づいたの?」

「い、いえ……」

(冷たい……)


 夢璃は日葵の指示に従い草履を脱いで池に入る。深さはちょうど夢璃の胸の高さまであった。


(こんな風に広い池で、司が自由に泳ぐ姿を見てみたかったな)


 不意に、司を思った夢璃が、再び涙を零しながらも夢想する。


(きっと、綺麗だったと思うな……)


 池の周囲の喧騒に気付いた夢璃が俯かせていた顔を上げると、そこには多くの人間が集まっていた。皆、花園家に名を連ねる者達だ。

 中には、姉妹の両親の姿もあるが、死に逝く夢璃のことを気遣う素振りは一切見られない。彼らは日葵の次期当主の祝いと、秘術のお披露目を見に来ただけ。

 両親だけでなく日葵や親類……皆が、夢璃のことを儀式に必要な霊力を供給する贄としか思っていないことが、彼らの態度で容易に理解できる。


(私を心配してくれたのは、司だけだった……)


 池の中央に立たされて白い椿に囲まれる夢璃を前に、日葵が大声で観衆に宣言する。


「この度、次期当主に任命されました花園 日葵です! 私達の代で、一族の悲願が叶います!」


 拍手と共に、歓喜の声が響く。


(生まれ変わるなら、司と同じ金魚になりたいな。ここではない世界で、仲間達と一緒に楽しく泳いで暮らしたい)


 間もなく自分の死が近づいていることを察した夢璃が俯こうとしたとき、日葵が予想もしなかった言葉を口にした。


「今回披露する術は花園家の秘術、あやかしを一掃する術です!」

「!?」

「今回はまだ低範囲にしか展開出来ませんが、将来的にも皆様に良き結果をお見せできることをお約束致します!」


 夢璃は周囲の目を気にせずに日葵に問いかけた。


「ひ、日葵!? あやかしを一掃するなんて、どう……」

「無能者が、次期当主への口の利き方がなってないわね!」

「っ!」


 その瞬間、池の水がバシャッと音を立てて夢璃に襲い掛かる。日葵が術を使い、夢璃を攻撃したのだ。


「あやかしの討伐は、術師の……我が花園家の悲願なのよ!」

「でも、世の中は霊と調和する時代に向かっていて……」

「術師の同意を得ずに決めたものなんて、知ったことじゃないわ!」


 池の周囲にいる観客達が「そうだ!」と日葵に同調する。


「そんな……」


 あやかし殲滅の秘術の原動力となるものが自分自身の霊力になるということに、夢璃は恐怖を感じた。

 それだけではない。あやかし達が死んでしまったら、司と出会うきっかけをくれた猫又や、司の仲間の金魚達は、どうなってしまうのだろう。


「私のせいで、みんな……死んじゃうの……?」

「お姉様のお陰で、あやかしだけ死ぬのよ」


 日葵に水を掛けられたこともあってすでに全身びしょ濡れの夢璃が、恐怖に震える。

 浴びせられた水飛沫か、それとも悲しみの涙か。全身に滴る水滴が水面に落ちる中で、夢璃は呆然と手元を見つめる。

 悪意ある者達から隠すように、彼女は司をそっと手のひらに包んで胸元に引き寄せた。


「お姉様も死ねば、あやかしのような不気味な姿を見なくて済むのよ」


 日葵を筆頭とした一族達は、夢璃が絶望の中で苦しんで逝く姿をあやかしに重ねることを望んでいるようだ。


(私のせいで、司の仲間達までも死んでしまうなんて……)


 日葵が呪文を唱え始めると、水中が光り始めた。秘術の始まりの合図だ。


(こんなひどいこと、許されて良いはずがない……!)


 水面に浮かんでいた数多の白い椿がゆらりと揺れたかと思うと、茎の切り口から根が飛び出した。

 一斉に伸びた根が夢璃の全身に絡みついた瞬間、彼女は司を手放してしまった。


「ぅっ! 司!!」


 これまで無気力でいた夢璃は慌てて司に手を伸ばそうとするが、根に囚われて簡単には身動き出来ない。それでも彼女は諦めずに、水に揺られていく司に手を伸ばし続ける。

 絡みついた根が夢璃から霊力を吸い上げると、純白の椿は鮮血が滲むように朱に染まっていく。


(このままじゃダメ……!)


 霊力を奪われまいと、ついに夢璃が抵抗を始めた。

 この先明るい未来など訪れることがないだろうと思っていた夢璃は、死んでも構わなかった。

 司が死んでしまったと知ったときも、尚更に生きている意味などこの世に存在しないと思った。

 けれども、あやかしから譲り受けた司と共に過ごした日々が否定されることは、彼女には耐えられなかったのだ。


「司との出会いがなかったことにされるのは、嫌……!」


 夢璃が沈んでいくだけだった気持ちを定め、霊力を引き出されぬよう強く意識すると、椿の赤く染まる速度が遅くなり始める。


「今更抵抗する気!?」


 日葵が金切り声と同時に術を放つ。茨の枝が夢璃の頬に切り傷を作ると、彼女の頬を伝っていた水滴が血をさらい、白装束の刺繍によって描かれた白い椿を朱色に染めていく。


「司……!」


 絡みつく根から必死に抵抗し、夢璃は何とか指先で司に触れることが叶った。


「私の霊力、ぜんぶ司にあげる」

(椿に私の霊力が行き渡らなければ、術は失敗するはず……!)


 死んでしまった司に霊力をあげたところで、どうにもならないだろう。


「もし生まれ変われたら、私は司と同じ金魚になりたいな」


 何も起きないことが分かっていながらも、夢璃は願いを込めて司に霊力を送り込む。


「司も……一緒に生まれ変わってくれる?」


「会いたい」と言う願いを込めて、夢璃が指先で触れる司へ強く強く霊力を注ぎ込むと、司はいつもよりも強く光り始めた。

 夢璃の強い霊力に抵抗され、白と赤のまばら模様を描いた椿が流されるように水面をくるくると踊り始める。

 その様子は、まるで数多の金魚達が踊る中で、赤金色に輝く金魚に夢璃が祈りを捧げるようにも見えた。


「司と一緒にいたいから……!」


 頬を伝う涙が、水面に波紋を作る。術の余波か、それとも夢璃の涙が触れたのか。司の胸びれがピクリと動いたと思うと、辺りが眩い光に包まれた。


「司!」


 光に包まれる瞬間、指先に触れていただけの司が、霊力の余波に流されて遠くへ行ってしまいそうになるのが目に映った。

 霊力の大半を司に注いだことで身体の力が抜けていく感覚を覚える中で、夢璃は目を瞑りながらも何とか身体を動かそうとする。すると……。


「ぼくも、夢璃と一緒に生きたい!」


 二度と聞くことが出来ないと思っていた聞き慣れた声が、夢璃のすぐそばから聞こえてきた。


「ぎゃあああ!!」


 幻聴かと思った直後、夢璃を捕らえていた椿の根が切り裂かれる。同時に、日葵の叫び声も響いた。

 恋焦がれていた声が聞こえてきたことと、何が起きているのか分からない不安感に動揺する中で、支えを失った夢璃は倒れそうになる。

 その寸前に光が収まり、夢璃は何者かに優しく身体を抱きしめられた。


「だから、夢璃が憂う悲しみを、ぼくの衣で覆い隠してあげるんだ……!」


 慣れない温もりに夢璃が硬直していると、今度はハッキリと司の声が聞こえてきた。

 夢璃が恐る恐る目を開けると、透き通るような紅の髪の青年が、皮膚の一部に赤金色の鱗を纏い同色の衣を鮮やかに靡かせ、心配そうに彼女を見つめている。

 人間であれば耳となる部分にはひれがついており、手には水かきがあることから、彼が人化したあやかしであることは明らかだ。

 何より、金魚の面影を残す彼は間違いなく……。


「つ、司なの……?」

「そうだよ」

「死んだんじゃ、なかったの?」

「仮死状態になっていたんだ。心配させてごめんね……泣かせるつもりはなかったんだよ」


 初めて遊び終えた後のように……けれどもその時とは違い、切なく恋焦がれるように。司は金色の瞳を潤ませ、泣かせてしまったことを謝る。


「司が生きてくれていて、良かった……!」

「夢璃がぼくと一緒にいることを強く願って霊力をくれたから、前に進もうと思ってくれたから、だからぼくは人化できたんだ」


 夢璃が司を抱きしめ返す。夢璃の瞳からポロポロと零れていく嬉し涙に、司が優しく唇で触れた。


「ずっと、こうしたかった……。ガラス越しじゃなくて、直接夢璃に触れたかったんだよ」

「……やっと、触れ合えたね」


 人型の司から向けられる親愛の込められた慣れない行為に恥ずかしさを覚えるものの、夢璃は不思議と嫌とは感じずにいる。

 むしろ、嬉しさで心が浮き立つ予感を覚え、微笑んだ。


「ああああ!! 夢璃ぃッ!! あんた何をおッ!!」

「日葵……」


 怒りに包まれた日葵の声があたりに響き、夢璃は肩を震わせて振り返った。

 それまで夢璃を拘束していた椿の根に捕らえられた日葵は、顔を真っ青にし、息も絶え絶えに夢璃を睨みつけている。

 そして、池の周囲で夢璃が犠牲になるさまを観賞していた両親を含む親族たちも、地面に伏していた。


「まさか……」

「夢璃やぼくたちにやろうとしたことを、お返ししてやったんだよ。……威力は低いから死んでないけど」

「良かった……」

「これまで夢璃にやってきたことと……ぼくにしたことも思い出すと、仕返しし足りないけど……。あやかしと人間が表立って争うことは、避けた方が良いでしょう?」


 血が繋がりながらも冷血な態度を取られていた相手へと気を配る夢璃に、司は不満そうに呟いた。


「妹は相当霊力を奪われたみたいだから、回復は絶望的だと思うよ。術師としての未来もね」


「自業自得だね」と言って、司は夢璃の瞳に日葵を映さぬように、赤金色の衣で彼女の目を塞ぐ。


「夢璃、あやかしの暮らす国に一緒に行こう。今まで出来なかったことを、めいっぱいやろうよ」

「……うん!」


 夢璃の未来への期待感に満ちた答えに、司が微笑み優しく手を引く。脱力気味の夢璃は意図せず司の胸に飛び込んでしまい、顔を赤くした。

 そんな夢璃に対して、司は少し不安そうに問いかける。


「大好きだよ、夢璃。……夢璃は?」

「私も、司が好き。司が死んだと思ったとき、思い出がなくなるかもしれないって思ったとき……。司のことが好きだって……ずっと一緒にいたいって気付いたの」


 真っ直ぐに愛を伝えようとする司に、夢璃は照れくささを感じながらも真剣に答えた。


「だから、一緒に生きよう」


 池に浮かぶ椿は、夢璃と日葵の霊力によって満たされ、紅一色へと染まっている。

 初めて姉妹の霊力が合わさったと同時に、決別の証となって咲き誇るそれは、金魚のあやかしと虐げられた少女の新たな門出を祝っているようでもあった。


 微笑んだ司が赤金色の衣で優しく守るように夢璃を包み、水中へと誘う。

 底があるはずの池はいつの間にか別の空間と繋がり、彼らは奥深くへと泳いでいく。

 水中で呼吸を堪えようとする夢璃の唇に、司が優しく触れた。


『夢璃、ぼくたちはずっと一緒だよ』


 司の赤金色の衣が、地上から差し込む光に照らされて美しく輝きながら水に靡く様子は、彼が魚の姿をしていた頃と何一つ変わらない。

 ただひとつ、違うのは……ガラスを隔てた先にいた夢璃が、彼の腕の中で抱きしめられていることだけ。

お読みいただきまして有難うございます。

いいね、ブクマ、評価など頂けますと、今後の執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
年号も霊和と国家を挙げてあやかしの実在に迎合している時代に見た目がそれっぽいなどと、あまりにもな理由で長女の夢璃を虐げる花園一族の所業に戦慄しました。 そんな日葵の言動の酷さがプライドと性格に直結して…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ