温かさを感じられるようになるまで
10歳のとき、事故で両親を亡くしました。
すぐに叔父が私を引き取り、後見人になってくれましたが、それは伯爵であった私の父の遺産を奪い取るためでした。
爵位が劣るとはいえ叔父も子爵でありましたから、遺産など貰わなくとも別段生活に困るようなことはなかったはずです。
叔父はどういうわけか昔から父を憎んでいるようでした。
彼は「どんなに優秀だろうと先に死んだほうが負けだ。ざまあみろ」と父の葬儀の時も笑っておりました。
その汚らしい笑みは今でも忘れられません。
私は彼に引き取られたその日から、肩書だけはエレンスト子爵の養女、実際は彼の家族にお仕えする自由のない奴隷と変わらない存在となったのです。
叔父には妻と2人の子供がおりました。
叔父の妻であるエネ夫人の関心は自分の美だけで、厳しく偏見に満ちたメイド長に私のことを全て任せました。
ただし、メイド長に任せる前に私の長い髪を切る命令だけは忘れませんでした。
私に美しい金の髪は相応しくないという理由からです。
私には、せめて年の近い従姉弟とだけでも仲良くなれるのではないかという淡い期待がありました。
「ふん、お前はただの使用人なんだから、調子に乗るんじゃない」
長男のニクソンが冷たい目で言います。
「ただのメイドが気安く話しかけないでちょうだい。元伯爵令嬢様、残念だったわねぇ」
ニクソンより2つ年上のターナも笑いながら厭味交じりにそう言います。
2人の機嫌が悪ければ熱いお茶をかけられたり叩かれたりしました。
私は、早々にこの2人と仲良くなれる日は来ないのだと悟りました。
邸で叔父と居合わせたとき、「私の前で顔を上げるな。不愉快だ。純真無垢のような瞳で、どうせお前も兄貴と同じで私を蔑んでいるのだろう」と言われました。
そんなことは全くの逆恨みです。
そもそも父はとても優しい人で、弟である叔父のことを大切に思っていたはずです。
私は震えながら左右に首を振りました。
「そうやって善人面をするな。私は優秀すぎる兄と比べられ、いつも劣等感に苛まれるばかりだった。お前はだんだんと兄に似てくるな。見ているだけで腹が立つ」
言ったと同時に、いきなり頬を叩かれました。
痛みより何より憎悪の視線に耐えられず、私は俯くことしかできませんでした。
年月が経つにつれ、心はただ冷えてゆきました。
現在私は18です。
もう何を言われても、何をされても何も感じません。
人というものを信じることをやめたのです。人に期待することも。
人と目が合わぬよう前髪だけは伸ばしましたが、後ろ髪はとても短くされています。
背に届くほど髪が伸びれば、未だ強制的に切られてしまうのです。
対照的に女性らしく成長した16歳のターナは、華々しくデビュタントを果たしました。
ある日、使用人たちが朝から慌ただしく動いておりました。
私もメイド長に急かされながら、いつも通り仕事をこなします。
どうやら特別な来客があるようです。
午後になり、使用人も来客を迎えるため一斉にエントランスに並びました。
そして私も列の末席に移動しました。
来客はどこかの侯爵子息のようです。
子爵家に侯爵子息とは大分身分違いですが、ターナの婚約者候補でしょうか。
私には全く関係のない話です。
侯爵子息は一通り叔父家族に挨拶し終えると、真っ直ぐに私に近づいて参りました。
「失礼ですが、顔を見せていただけますか?」
「うちのメイドが何か失礼を?」
叔父は私の前に立ち、慌てて止めに入ります。
「いえ、ただ少し……」
侯爵子息は意味ありげに言葉を濁しました。
「顔が見えるよう前髪を上げなさい」
叔父は私に命令しました。
私は言われるまま左手で前髪を上げました。
「……金の髪に翡翠の瞳。ミレイ・エレンストですね?」
侯爵子息は凛としたお声で尋ねます。
「はい」
訳も分からず、私は彼を見ることなく返事をしました。
「僕はルーシュ・ロアンザイル。ロアンザイル家の次期当主です」
ロアンザイル……。
名家の御曹司です。
そんな彼がなぜ私の名を知っているのでしょう。
ターナが私のことを話題にするとも思えません。
「エレンスト子爵、こちらのメイドを僕にお譲りいただけませんか?」
彼は突然、叔父に向かって信じられない要求をしました。
「いや、そのメイドは……」
「何か不都合でも?」
「ルーシュ様!! 本日はわたくしに会いに来てくださったのではなかったのですか? どうしてこんなメイドに興味を持たれるのです?」
ターナは叫びました。
「こんなメイド?」
「髪は男のように短いし、背ばかり高くて、表情も何もない人形のようなメイドです」
「さて、彼女を人形にしたのは一体誰なのでしょうね?」
「何を……」
いつも強気なターナの声は怯えなのか驚きなのか震えています。
「ルーシュ殿、何かご存知なのかもしれませんが、そうだとしても当家の問題です。このメイドは侯爵家に仕えるには相応しくありません。当家の恥を連れてゆくことはどうかご容赦願いたいのですが」
叔父は動揺しながらも、丁寧な口調でそう返しました。
「そうですか。残念です。彼女を譲ってくださるのなら、ターナ嬢との婚約を考えてみてもよいかと思ったのですが……」
「お父様!!」
ターナは叔父に縋りつきました。
それから叔父は私の腕を強く引き、ルーシュ様の前に差し出しました。
「大して役に立たないメイドですが、このメイドはルーシュ殿にお譲りいたします。その代わり、どうかターナとの婚約を真剣に考えていただきたい」
「分かりました。僕の我儘を聞いてくださり感謝します」
ルーシュ様はそう答えました。
「しばらくしましたら、これは私が責任を持ってロアンザイル侯爵家に連れて参りますので」
叔父は業務連絡のように淡々と伝えました。
これというのは、もちろん私のことです。
「いえ、一緒に連れて帰ります。今すぐ荷物などを纏めてください」
「は?」
「聞こえませんでしたか?」
「……承知いたしました」
叔父は渋々そう返しました。
もはやルーシュ様のいいなりです。
私個人の荷物など制服と衣服が数枚あるだけで纏めるほどありはしませんが、その少ない衣服を取りに使用人室に戻る途中、叔父が私を追いかけてきました。
「ルーシュ殿も気まぐれなのか、随分と物好きなことだ。お前はターナが侯爵家に嫁ぐための人身御供なのだから、黙って彼に従っていればよい。決して余計なことを言うんじゃない。ロアンザイル家で私に恥をかかせるような振る舞いをしたら、絶対に許さんからな」
私は頷きました。
何も期待なんかしておりません。
どこへ行こうと同じです。
誰の所有物になろうと、何も考えずただ従っていればいいのです。そうすれば、辛いことなど何もありはしません。
「先程は、あのような失礼な物言いをしてしまい申し訳ありませんでした」
帰りの馬車の中でルーシュ様が言いました。
「どうか僕を見てください」
「それは命令ですか?」
「いえ。……願いです」
私は長い前髪を左に流し、向かいに座るルーシュ様を初めて見ました。
「ミレイ嬢、ようやくお会いできましたね。長い間、辛い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
そう言って、彼は頭を下げました。
ロアンザイル邸に着き、彼は再び深々と私に頭を下げました。
「ミレイ嬢、本当に申し訳ありませんでした。知らなかったのです。君は叔父であるエレンスト子爵に引き取られ、幸せに暮らしているとばかり」
彼は何かを差し出しました。
恐る恐る覗き込むと、それは幼少時代の私の写真です。
「僕の父、ハリス・ロアンザイルと君の父、エレンスト伯爵、そしてカリシナ伯爵の3人は親友でした。エレンスト伯爵もカリシナ伯爵も優しくて、邸に来たときはよく僕と遊んでくれました。エレンスト伯爵は君の話をして、よかったら歳の近い君と友達になってくれないかと言いました。その時にこの写真を見せてもらい、僕は幼いながら君のことが、その……気になって、無理を言って伯爵からこの写真を貰ったのです。それから少しして伯爵は亡くなられて……。ですから君は僕を知らなくて当然です。でもいつか大きくなったら、君に会いたいと。ずっと君に会いたいと願っていました」
「そうですか」
私は一言だけ返しました。
確かに生前の父には友人が大勢いました。
けれどロアンザイル侯爵が父の親友だったことは知りませんでした。
父とロアンザイル侯爵、そしてルーシュ様の関係性は理解できましたが、やはり彼が私に謝る意味が分かりません。
「近頃、君を引き取ったエレンスト子爵のよい噂を聞かない上、君の義妹のターナ嬢は社交会デビューをしたというのに君は社交界に一向に現れません。君の叔父である子爵に不信感が募りました。それからさらに詳しく調査を進め、僕はようやく今の君の現状を知ったのです」
「はい。では、私はこちらで何の仕事をしたらよろしいですか?」
そう尋ねると、ルーシュ様は驚いた顔で私を見つめました。
「どうして? 仕事なんてしなくてよいのです。これまで満足に学校にも通わせてもらえなかったのでしょう? よければここで好きなことをして、好きなことを学んでください。君の望みを叶えます。僕は今まで辛い思いをしてきたミレイ嬢に幸せになってもらいたいのです。僕の父もカリシナ伯爵もそれを願っています」
ルーシュ様はそう言って微笑みました。
こんなに優しい表情をした人間を見るのは久しぶりです。
けれど、彼に関心を持つことは悪いことです。
何かを期待するから、傷ついたり裏切られたりするのです。
それから、このお邸で働き手として望まれなかったから、私はどうしていいのか分からなくなってしまいました。
考えたくなくても、自由な時間が無限にあるのです。
そうして、こんな私に専属のメイドさんが数人付いて、快適な部屋があてがわれています。
まるで両親が生きていたころに戻ったかのようです。
ルーシュ様は頻繁に私の部屋を訪れ、無関心な私に色々教えてくださいます。
綺麗なお菓子を笑って差し出してくださいます。
彼の目的が何なのか未だに全く分かりません。
父の遺産は叔父に奪われ、もはや私には何の価値もないのです。
この先、彼に裏切られたら?
別に裏切られたっていいでしょう。
刹那の時間だとしても、こんなによくしてもらって。
ただただ貰うばかりで。
私に返せるものなんて一つもありはしません。
不意に熱いものが頬を伝ってゆきました。
ルーシュ様は慌てて私を見つめます。
「辛いことを思い出したのですか?」
彼はそう言って私の背を優しくさすりました。
彼の手は温かくて、とても温かくて、涙が余計に零れます。
ルーシュ様に最初に出会った時から、本当は分かっていました。
彼の優しさが偽りではないということを。
それに、これまでただ弱かっただけなのです。
あの場所でしか生きていけないのだと自分で勝手に決めつけて、ずっと戦わずに逃げてきました。
不遇な環境に流されるばかりで、助けを求めることもしませんでした。
その挙句、助けに来てくれた人さえ信じずに拒絶して。
「ごめんなさい」
自然と謝罪の言葉を口にしていました。
「何も謝ることなんてありません」
「ルーシュ様、この涙は何なのでしょう。今は辛い気持ちではありません」
私は胸を押さえました。
「ようやく温かい感情を思い出したのですね」
ルーシュ様は私の頭に手を置き、微笑んでいました。
彼の手は本当に温かく、私は心の底からもう一度人を信じたいと思ったのです。
◇◇◇◇◇
それから数ヶ月が経ちました。
私はお邸で専属の講師から様々なことを教わっています。
「ミレイ嬢、カリシナ伯爵が君を養女にしたいと仰っています。どうしますか?」
ある日、ルーシュ様は唐突に私にそう尋ねました。
驚いたけれど、とてもありがたいお話です。
ただ、カリシナ伯爵の養女になれば、もうルーシュ様と一緒にいることはできません。
「ロアンザイル侯爵の養女にはしていただけないのでしょうか?」
図々しくも私はそう返していました。
というのも、ロアンザイル侯爵にお会いしたときに、ずっとこの邸にいて欲しい。私のことを娘のように思っていると言ってくださったからです。
「それは困ります。そんなことをしたら、僕の願いが叶わなくなってしまいますから」
「願い?」
「あ、カリシナ伯爵の養女の件は形だけですよ。ミレイ嬢はずっとこの邸にいてください。でも、そうですね。カリシナ伯爵が淋しがるからたまにはカリシナ邸にも遊びに行きましょう。僕にとっても義父になるわけですし」
意味が分かりません。
思わず首を傾げてしまいました。
「ああ、いえ。何でも。順序というものがありますね」
ルーシュ様はそう言って緩く笑いました。
そうして再び口を開きます。
「ただ、一つ問題があります。エレンスト子爵の許可なしに君をカリシナ伯爵の養女にするわけにいきませんから、ミレイ嬢をエレンスト子爵の籍から外してくれたら、僕がターナ嬢と正式に婚約すると伝えることにいたします」
「私のためにターナと結婚するおつもりですか?」
「まさか。婚約など、全てのことが上手くいったのち破棄します。エレンスト子爵が裏で悪いことをしている証拠も掴みましたし、姪から金を奪い取った痴れ者として社交界から永久追放してやりますよ」
ルーシュ様は、いつもの優しい笑みと打って変わった氷の笑みを浮かべました。
◇◇◇◇◇
私がカリシナ伯爵の養女になり、半年ほどが経ちました。
ルーシュ様と2人でお邸の広い庭園を散策しております。
彼は私をミレイと呼び付けて呼ぶようになりました。
最近私は、ルーシュ様の顔をまともに見ることができません。
けれど、ルーシュ様の瞳に私が映るとこれ以上ないくらいの幸せを感じます。
だいぶ伸びた私の金の髪が風に揺れました。
「ミレイ、今日の君も綺麗ですね」
彼の一言で、鼓動は速まります。
この感情が一体何なのか、ルーシュ様に尋ねたら、彼は教えてくれるでしょうか。
お読みいただきありがとうございました。