第5話
ごぶ、と口から水が吐き出される感覚があって、私は意識を取り戻した。
轟轟と水の流れるような音が、切れ切れに耳を打つ。
遠くで誰かが、私の名を呼んでいるような気もする。
薄く瞼を開けば、傍らには救急隊員らしい男。私は横たえられた状態で、何かの処置を受けているところのようだった。
「フ゛シ゛ノ゛さ゛ん゛!! 生゛き゛て゛た゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
マリコが全身ずぶぬれで、顔を真っ赤にしてわんわんと泣いている。
「ごめんなさい!! 俺!!! フジノさんから目を離すなって所長に言われてたのに!!! でもフジノさんもフジノさんですよ!!! どうして俺を起こしてくれなかったんですか!!! フジノさんのバカバカーーー!!!」
豊満な巨躯を震わせて泣き叫ぶ、マリコの低い声が轟き渡る。
ずっと気になっていたが、おそらくマリコは「フジノ」が私の下の名前だということを知らないのだろう。無理もない。たまたま所長が同じ苗字だったせいで、事務所ではみんなが私を下の名前で呼んでいる。そういえば、私もマリコの下の名前を覚えてないな。一郎とか次郎とか、そんなありふれた名前だったと思うが。あとで本人に聞いてみようか―――
靄の晴れない頭のままで、そんなことを考えながら、私は処置を続けている救急隊員に、共に落ちたはずの夫の生死を問うた。
――見つかっていない。それが答えだった。
この濁流です、あなたが助かっただけでも奇跡なのですよ―――
続けられた気遣わしげな言葉は、だが何の慰めにもならなかった。
この濁流だ、確かに助かるまい。おそらく、遺体さえ見つかるまい。
しかし、ならばどうして自分もそうならなかったのか。
彼を一人ぼっちにしたのは、私の身勝手のせいだ。
だからせめて、これからはずっと一緒に居てあげたかったのに。
(ああ、違う……)
長く長く、肺の奥から息を吐きだして、私は小さく頭を振る。
(これも、私の身勝手だ………)
あなたの幸せを願っているなどと言って。
彼の意志も確かめず、共に地獄に引き摺りこもうとした。
耐えきれなかったのは、また、私の方だ。
どこまでも身勝手な私の願いなど、神にも誰にも聞き入れられようはずもない。
結局、あの人は一人どこかへ行ってしまった。
妻に渡すのだと言っていた、腹いっぱいのひかりと共に―――
『私は光を妻に持っていくんだ。
そして言ってあげるんだ。
これがおまえがほしがっていたひかりだと――』
彼の言葉が脳裏に蘇り、私はふと、気がついた。
あの人は、大量のひまわりを食べて水死した。
つまり今、あの人のお腹の中には、大量のひまわりの種がある。
たっぷりの水に浸かって、養分になりそうな苗床まである。
ならばいつか、この川沿いのどこかで。
あるいは、河口近くの海辺で。
ひょっとすると、海の果ての見知らぬ異国で。
彼の流れ着いた、その場所で―――
ある夏、突然、ひまわりの一群が花開くかもしれない。
あの人の体を食い破って、大輪の花々が姿を現すかもしれない。
想像した光景は、まさにB級ホラーそのもので。私は小さく噴き出した。
傍らで怪訝そうに眉をひそめたマリコの顔が、また妙におかしくて。私は弱い息のまま、ただ笑い続ける。
そうしたら、私はそこに家を建てよう。
そうして、死ぬまで彼のひまわりを食べて暮らそう。
身勝手に、身勝手を重ねて、たどり着いたその場所で。
あなたが渡したかったはずのひかりを、私は受け取り続けよう。
「…フジノさん? 大丈夫ですか?」
気づかわしげに顔を覗き込んでくるマリコに返事もせず、私はなおも笑い続ける。
真夏の空の青の下、揺れる黄金色の花々が視界を焼く。
彼から咲いたその花は、一体どんな味がすることだろうか。