第3話 山上春久 Ⅰ
栄科製薬研究室で、山上春久は自分の作った新規化合物の構造が間違いないか確認していた。
白石影人の退職後、その研究成果を自分が継いだ。
神谷部長はこの成果は国との共同開発が必要だと常々言っていたが、すでに厚労省と理研との共同研究という形が整い始めていた矢先に、白石先輩は退職を決めた。
これはある実験が不可欠で、それを白石先輩は拒否したためだ。
辞めるにあたりこのプロジェクトのことは一切口外しないという契約書は渡してもらっているが、もう一つ重要な契約をした。
この契約がそのまま先輩の拒否していた実験でもあることは、先輩自身が一番わかっているとは思うのだが、迷うことなく書類にサインをしている。
ある事さえ起らなければ、問題がないと思っているのは明らかだった。
もっとも退職金がこの契約で1.5倍になるという条件も加味されたとは思う。
現在このチームには厚労省直下の脳神経研究所と理科研究所生物研究班のエリートたちにうちの会社からも数名が配属されている。
山上が属している脳神経変換物質の探索はほぼ終了している。
現在はその合成ルートの短縮と収率向上という経済的な問題が主だ。
もとになる薬がなければ話は始まらない。
だが、化合物をいじっている方がはるかに気が楽だ。
白石先輩の訃報を聞いてから、すぐにでも駆け付けたかったのに、会社、と言うか国から葬式への参列、またその後も許可なく白石家への接近しないよう強要されていた。
白石先輩が調剤薬局で薬剤師として働いていたのは知っていた。
奥さんは看護師で、子供たちが私立の学校で金がかかるということも聞いていた。
その先輩が死んだのだ。
家族に悲しみもさることながら、今後の不安が頭をもたげてきているはずだ。
昨日、急に責任者の神谷部長から、来週の日曜日に白石家への供養に行くように言われた。
何故、2か月以上も経ってなのかがわからない。
さらに白石先輩とは面識のない厚労省の役人を連れて行けと言われた。
あくまでも同僚として紹介しろとまで言われて。
山上はその神谷部長の思惑には想像はついている。
実験が成功したかどうかの見極めだろう。
だが、とうの白石先輩は死亡しているのだ。
家族の方に話を聞かねばならないということなのだろうが、そううまくいくとは思えないし、あれだけのことをした先輩のお子さん、白石光人君に何の話が聞けるというのだろう。
先輩の家にお悔やみを伝えにはいきたい。
しかし、このプロジェクトの成否を問いただすということが、いかに罪深いものか。
無宗教の山上だが、そう思わずにはいられなかった。
とはいえ、国に逆らうことなどもってのほかだ。
山上にも妻も可愛い娘もいるのだ。
出来うる限り穏便に、事を進めたい。
あの家族に何もないのが一番なのだ。
例え、それがこのプロジェクトの失敗ということになったとしても。
先輩が薬を飲み始めて10年近くになる。
人体への影響はないというのが、1年前の先輩からの報告だった。
その件はすでに各種動物データーや、新薬実験の過程に組み込み、国と合同で行っていることからもわかっている。
子どもの脳への影響から、中学に上がってから、先輩は頭の良くなるサプリとして飲ませていたと聞いているが、取り立てて不都合は見られないとのことだった。
だが、その先輩が死んだ。
このチームはその時を待っていたはずだ。
でないと結果がわからないのだ。
ただ今回は交通事故で、マスコミが多くこの事故を報道した。
そのため、国の機関が先輩の遺体を入手することができなかったようだ。
すでに白石先輩の遺体は荼毘にふされている。
さぞ、このチームを管轄する役人は悔しがったであろう。
そう思っていたら、一番シビアな役どころを山上は押し付けられたことになった。
山上は何事もないことを、考えられる限りの神に向かって祈った。
今更、こんなに時間がたってから白石家を訪れる。
まだ自分だけならどうとでもなる。
だが、役人を連れて行き、家族から聞かねばならない。
遺族から聞く話ではないのだ。
このプロジェクトの意味、社会的な意義が高いことは認める。
それでも自分には荷が重すぎる。
胃が痛い。
あの実験結果の意味を白石影人先輩がみつける前に戻れたらどんなにいいだろう。
ただ、薬理活性を持つ化合物の探索をしていた時には、つらいこともあったが、ただ、楽しかった。
このプロジェクトが立ち上がった時には、確かに誇らしいものがあった。
国直轄のプロジェクトなど、噂程度にしか聞いていなかった。
その一員になれることは、自分の実力を認めてもらえたように思ったものだ。
だが、そのメンバーが、この国の最高頭脳が集まっていた。
自分にしても白石先輩にしても地方国立大出身では見下されていることは解っていた。
だが、この化合物を見出したのも、この現象を発見したのも白石先輩なのだ。
そんな奴らにいい結果を叩きつけたい思いもあったが、既に疲れている自分も自覚している。
そろそろ潮時かもしれない。
山上はそう思い始めていた。