再生プログラム②
このような非現実的な空間で、今更ながらに聞く事としては、甚だ常軌を逸した内容だったかもしれない。しかも相手は得体の知れない『エルキュールもどき』だ。私を持ち上げる程の怪力も兼ね備えている。
私だって、さすがに落ち着いて考えてみるにつけて、ここが既に私の居たかつての現実の空間とは、かなり異なる世界なのではないか?という事くらいは薄々気がついていた。
でもどうやってここまで来たのか?なぜここに来なければならなかったのか?何のために、私はこんな不当な扱いを受けなければならない状況に、追い込まれたのか?…くらいは知る権利があると思ったのだ。
時間の事にしたってそうだ。お昼休みはもちろんの事、あれから相当な時間が経過しているくらいの察しはつく。何度か気を失っているのだし、道無き道をひたすらに歩いているからな。
ただ、今何日の何時かくらいは知っておかなければ、上司に対する説明責任さえもうまく果たせそうにない。まあそれも必要ないかも知れないけどね…或いは私は…。
ふと、私は考えが脱線しそうであることに気がついた。いやいや止そう、私が考えたかったのはこうだ!
いくら私が無類のお人好しで、他人よりも劣る存在だったとしても、まさか公園からここまで瞬間移動が出来るとは思っていない。唯一の可能性としては、私を殴った本人が、ここに運び込んだくらいだろうが、そうなって来ると、私を迎えに来たこの謎の人物も相当怪しくなって来る。
そう言えば先程、「どうしたらこんな事に…」とか言ってたっけ?こいつ大丈夫なんだろうな?と私は急に背筋が凍るのを感じた。
だが、次の瞬間すぐにその考えは捨てた。私に害を及ぼすくらいなら、命を助けたりすまい。少なくともこのおかしな人物は、私の命の恩人なのだ…そう考えると、自分の性格的な卑しさに嫌気がさして来た。
私は心の中で、彼に陳謝して、彼の返事を待った。まずは話を聞く事が大切なのだから。彼はというと、私の質問を受けた後、髭に手をやりながら、目は宙を凝視したままの姿勢で考え込んでいる。
やがて、左手の親指と小指で鼻の下の髭を、さも愛おしそうに擦りながら、「フム…」と一言呟くや、目線が宙を彷徨い始めた。
何やら相当思案しているらしいことが窺えたので、私はじっと待つことにした。
このような状況下で、こんな事を考えるのは不謹慎かも知れないが、『やはり灰色の脳細胞がフル稼働しているのかしらん?…』などと要らぬ心配をしてしまう私なのだ。
すると今度は、両腕を後ろ手に組みながら、先程と同様に、行ったり来たりし始めた。そして、やおら足を停めると、手を組んだまま、背後で指パッチンをし始めた。
かなりイライラしている様子が、手に取るように判る。やはり怒らせてしまったのかしらん?直前に彼を疑うような事を考えていた私としては、心穏やかではない。
ただ、あれはあくまでも「考えただけ」であって、口に出して非難した訳ではないので、私はそう自分に言い聞かせて、再び落ち着きを取り戻す。
彼は一瞬どうしようか迷っている、という具合だったが、深く息を吸い込んで、「ふぅ~」と溜め息を吐くと、意を決したように、私の方を振り返り、悲しそうに…そう、とても悲しげにこう応えたのだった。
「君の問い掛けには、只一言で応える事が出来る。どうか気持ちをしっかりと持って聞いて欲しい。」
そう言って私の目を見ながら、少しの間覚悟を促すように間を置いた上で、手短かにこう言った。
「君はもうとっくに死んでいるんだよ…」
『エルキュールもどき』の紳士が発したその言葉に私はしばらく時を忘れて固まってしまった。思考が完全に停止して、口をポカンと開けたまま、野放図にも程があるが、身動きひとつ出来ないまま、しばらくは沈黙が支配した。
やがて肩をしきりに揺すられ、彼が目の前で心配そうに「梵、梵…」言っているのに、ようやく気がついた。再びかなり時が経過したようだった。
「君、しっかりするんです。いいですか?よ~く聞いて下さい。それが、これからの君のためなんですから…。」
しっかりしろ!と鼓舞する肥えた小男は、ようやく我に返った私に、とびっきりの笑顔で優しく語りかけて来る。
「君には私がついていますから、何の心配もいりません。」
任せろ!と言わんばかりの堂々とした物腰で、私を落ち着かせようとの配慮のようだった。思考停止からは抜け出る事が出来た私であるが、実際問題、戸惑いは引き続き起きたままだった。
「君は死んでいる。」と宣告を受けたのはとてもショックだったのには違いない。私も自分の宙のどの辺でかは判らないが、「私はすでに死んでいる」と幽かに自覚している節はあったのだった。
しかしながら、片やで、「いやいや、じゃあ今見たり聞いたりしている自分は何なのだ。おかしいだろ?」という精神的反作用も働いていて、頭の中を整理するのに混乱をきたしていたのである。
そしてふと、こんな妄想に囚われ始めていた。
『私は夢を見ているに違いない!…』
夢であるなら、エルキュールもどきの豪腕の説明もつくし、周りが暗闇に包まれたこの世界にも納得がいく。頭が痛いのも、きっと寒い中で寝ているので、発熱しているのかもしれないし、トイレに行きたくなったのは、寝ている私に脳の中枢神経が促したものであろう…そうだ!そうに違いない!
だんだんと夢オチであって欲しいという願望にも似たこの気持ちは、私の心の内で、急激に膨らみつつあったのだった。
ところがである…こんな妄想に囚われていた私を横目に、エルキュールもどき事、敬愛なる肥えた小男は、ゴムまりのような丸みを帯びた身体を前屈みにしながら、デップリと出た中年腹をさも愛おしそうになでなで優しく擦り、溜め息を吐いてこう言った。
「きみ、きみ、いつまでも逃避の世界に浸っていると、話が先に進まないからやめたまえ。」
その声は、私の妄想の世界に直接的に響いて来た。私は半ば強制的に妄想の世界をリセットされて、意識を取り戻されたのだった。
そこで、私は思い切って、自分の妄想を打ち明けてみようと心に決めた。そしていざ一言目を発しようとした時、彼は真剣な眼差しで、「夢では無いよ!」と淡々とした落ち着いた言葉で、私に応えたのである。
またしても、機先を制された私は、戸惑いながらも、たどたどしい話し方で、「私は頭は回っているし、喋れるし、手足も動く…これで死んでいるとは思えないのです。」と思い切って本音をぶちまけた。
すると彼ははっきりとこう応えたのだ。
「君の精神がいまだ残っているからさ!しばらくはこの状態が続く。君は考え、言葉を喋り、自分の肉体をも感じるだろう。但し、それは君の精神が、君に見せているだけのものであり、今の君は…そうだな…簡単に言ってしまうと、器の無い魂だけの存在…そんなとこだろう。」
そう言って、やおら持っていた銀のステッキをさも楽しそうに、それは見事な指使いでクルクルと回し始めると、突然それを私の頭や心臓、腕や足に向けて突き刺し始めた。
その動きの素早い事と言ったら…よくプロボクサーのパンチが速すぎて見えないといわれるが、そんな感じに思えた。
私に驚く暇も与えること無く、サクサクと、それは見事に刺された為に、私は残念ながら防御する暇も与えられずに、呆然とされるがままになった程なのであった。
そして銀のステッキは、私の身体の全ての部位をそのまま通り抜けて、再び戻っていく。その繰り返しなのだった。
私は呆気に取られてしまって、ただされるがままなのだが、何度か銀のステッキが往復を繰り返す内に、「あれ?通る瞬間だけ身体が透けて見えないか?」と気がついた。
どうやら私の身体が非常に不安定な状態らしい…というのは本当の事のようだ。
「ねっ!判ったでしょう?」と彼はにっこりと笑みをたたえながら、銀のステッキを左脇に抱え直すと、右手でシルクハットを脱ぐや、丁寧なお辞儀をして見せた。
そして、佇まいを正すや、シルクハットを再び被り直して、右手で両の膝をポンポンと叩く仕草をしながら、「少し遠廻りはしましたが、君がまず、自分の死を受け入れ、自覚した上でないと、話が先に進まないのでね。これまでの道程も、君にとっては、とても大事な事で、無駄のように見える事もひとつひとつが大切な糧になっていると信じる事です。」と言って、彼は再び、彼に出来る最大限の優しい笑みを浮かべると、「ではこれからの君の行く末について、私が案内してあげよう。」と力の籠った言葉を添えた。
エルキュールもどき事…肥えた愛嬌溢れる小男は、再度…私の心の準備が整うのを待つかのように、しばらく間を置いているようだった。
私はというと、『私は死んだのだ。』という気持ちと向き合わねばならず、再び混乱しそうな精神と闘い、取り乱しそうな気持ちを抑えて、精一杯の勇気を振り絞って顔を上げ、彼を見つめた。
目には私の覚悟を宿し、今動員出来る限りの集中力を示して、彼の言葉を待つ。
「梵!」彼はそう発するや、「本題に入りましょう。」と言った。