1 不思議と不思議
真白はガラガラと扉を開けて倉庫の外へ出た。
「…え?」
眼前に広がる光景にかなり驚いた真白はポカンと口を開けていた。
窓から差し込む夕方のオレンジ色が照らしていたのは、体育館でもグラウンドでもなく一つの教室だった。
体育倉庫の扉の向こうはなぜか教室だったのだ。それも高校でも中学校でも小学校でもない、保育園の教室なのだ。教室の左端に置かれたホワイトボードに赤いペンで『ふくはとほいくえん』と書かれている。
不思議で不思議でたまらない真白はまだ夢の中にいる様な感じから抜け出せなかった。
「……!」
真白が一歩踏み出すと、チャリっと細い金属を踏んだ様な音が聞こえたので足元を見てみる。大量の縫い針の様な物が落ちているではないか。
「あ…危ない……」
よく見ると針は床一面に散らばっていた。靴を履いていなかったら怪我をしていた筈だ。真白は出来る限り針を避けながら教室の外へ出た。
緑色の床の廊下、柵があって向こう側の教室と小さなグラウンドが見えた。どうやらここは二階の教室らしい。
「…お姉ちゃん…心配してるかな…」
あぁ、私はいつも迷惑をかけてばかりだ。
私の姉は、記憶のない不安定な私と嫌な顔一つせず一緒に暮らしてくれている。私は何もかもが怖くて外の世界になんて出られない。意気地なしの弱い私は本当に迷惑をかける事しか出来ない…。
どうせならこのまま姉の元を離れて…
「針は怖いよね、アリス」
「わあッ!?」
変な事を考えていたら、突如下の方から声が聞こえてかなり驚いた。ハッピーだ。ハッピーは私の膝あたりから私を見上げていた。
「ねえ、ここどこなの?私、帰りたいんだけど…」
「アカウサギに会えば全てが分かるよ、何もかもがね」
「そのアカウサギって何?君の友達?」
ハッピーは黙って柵の方へ歩き出した。
「待ってよ!またさっきみたいに消える気?…こんなところに一人にしないでよ!」
慌てた私は頭に浮かんだ言葉を勢いに任せて吐き出した。ハッピーは歩くのをやめてこちら向いた。そしてニッコリ笑って言う。
「大丈夫だよアリス。僕はずっとずっと君のそばにいるよ」
その言葉を聞いた瞬間、自分の中の何かがギュッと掴まれた気分になった。不思議で温かくて、どこか切ないこの感情はなんだろう。
「……あ…」
嘘つき。
ボケっとしている隙にハッピーは消えていた。
「はぁ……」
不思議に不思議が重なっておかしくなりそうだ。
真白は大きなため息を吐き、夕焼け空を見上げた。優しい風は真白のショートヘアをふわふわと揺らした。
「…あれ…」
左の奥に見える広い教室、いいや多分体育館に動くモノを見つけた。小さな子がいる。
あの子ならここの事を知っているかもしれない。とにかく情報が欲しい。真白はすぐさま体育館へ向かった。
体育館の扉を開けてあの子を探す。
「あっ…」
あの子はもう反対側の扉の所にいた。私は急ぎながらも、あの子に怖がられない様早足で近づく。私と女の子との感覚は約1メートル前後。いい感じの距離感だ。
「ね…ねぇ…」
ここの保育園の子だろうか?声をかけても返事はなく、ずっと私に背を向けて立っている。
「!」
女の子はゆっくりとこっちを向いた。でも私など見ていない。ずっと俯いてツギハギだらけの白いうさぎのぬいぐるみを強く抱いている。
ワインレッドの可愛らしいワンピースに、黒いネクタイがついている。真っ白な前掛けもつけている。横髪だけが妙に長い不思議なショートヘアだ。…そういえば前、姉に髪を切ってもらったらあの子と同じような髪型にされた事があった。
『ここは嫌い』
「え…」
女の子はポツリと呟きゆっくりと体育館から出て行った。
なんとも言えない寂しげな声の女の子だ。私も後を追って扉を開けた。
「…うわ……」
またまた不思議な現象。扉を抜ければ見知らぬ教室、今度は小学校の教室だろう。黒板に平仮名の『めあて』や『まとめ』の手作りマグネットが貼ってある。ずらっと並んだ机はザッと数えて40くらい。私はまず床に針が落ちていないか確認した。…大丈夫。
「どうなってんの…」
とにかく帰りたい私はすぐに教室を出た。すると長い廊下に出た。窓の外には反対側の校舎が見えた。
真白は目を細めてよく廊下を見た。目はそんなに悪いわけじゃない。なのに、トリックアートみたいに廊下の終わりが見えないのだ。
これはどうせどれだけ進んでも意味がない。不思議な体験に慣れてきた真白はそう思って出てきた教室の隣、『1-2』の教室の扉を開けて中へ入った。
「…」
普通の教室…あの一角を除けばの話だが。なんだろう、あの毛玉は…
真ん中あたりの席に、立ち上がればきっと人間と同じくらいの大きさになるであろう紫色の毛の固まりが机に突っ伏していた。だらんと細い手が重力に逆らわず垂れている。
『すんすん……んん?』
「!?」
ゆっくりと毛玉が起き上がってパッとこっちを向いた。
猫の様な耳に、かまぼこをひっくり返したみたいな気怠げな目、ピョコンと長いシマシマの尻尾が立ち上がった。
「…アリス?…アリスなのぉ!?」
ガタンと大きな音を立ててその毛玉は立ち上がった。気怠げな目を精一杯輝かせて、両手を広げてこちらへ足早に近づいてくる。びっくりして一歩身を引いたが遅かった。
「アリスの匂いだ…また会えて嬉しいなぁ…」
ムギュゥっと力強く抱きしめられて大事な事を質問出来ない。
彼はまた会えて嬉しいと言った。私たちはどこかで会った事が……あるわけないだろう。私は人間で彼は…謎の猫毛玉。
真白はないないと小さく首を振った。ようやく猫毛玉は離れ、潤む瞳で真白を見つめた。
「アリス!アリス!アカウサギを探してるんだよね!」
またアカウサギだ。アカウサギとはなんだ?…それに私は…
「ね…ねえ、私アリスじゃない。真白っていうの…ごめんね」
なぜ、みんなその『アリス』と私を間違うのだろうか。名前は一文字だって合わない。アリスって子と私はそんなに似ているのだろうか?
猫毛玉は口を小さな三角にして私をじっと見ていた。
「…アリス…だよ?ちゃんと同じ匂いだもん!僕が忘れると思った?」
全く何を言っているか分からない。そんな顔をしていた私に、訴えかける様な目をして猫毛玉は細い手をバタつかせた。
「僕が分からない?僕はチェシャー猫だよ!アリス…」
チェシャー猫、それがこの猫毛玉の名前らしい。まだ真白はポカンとそのチェシャー猫を見ていた。
チェシャー猫は諦めた様に小さく息を吐いた。
「ね…ねえ、その…アカウサギって…一体なんなの?赤いうさぎ?」
「えっ…アカウサギは『試練』だよ」
「試練…?試練って…?」
そう聞くとチェシャー猫は困った顔をした。
「僕もよくは分からない。よく知ってるのはハッピーじゃないかな?…それより…アリス変な服着てるね」
「はい?」
変な服…確かにそう言ったぞこの子。
白パーカーにジーンズ。よくある格好だと思うが…。
「そうそう!アリスの服は『グリフォン』が持ってる!行こうよ!」
そう言ってバシッと背中を結構な力で叩かれた。グリフォンってなんだろう。神話とかに出てきそうな名前だな。…それより私…アリスじゃない。
「グリフォンは下の階にいるんだ」
チェシャー猫の毛だらけの手からシャキンと鋭い爪が出ているのが見えた。チェシャー猫はその手で私の腕を掴もうとするから咄嗟に避けてしまった。
「…爪が…」
「へ?……あああ!ごめんね!無意識だよ!」
尋常ないくらい慌てふためくチェシャー猫。なんだか怪しいが、ついていっても大丈夫なのだろうか…。しかし、もう頼れる相手は多分彼ぐらい。
仕方なく真白はついていく事にした。