0 黒い夢
眠ってる。そう、私は眠っている。だから真っ暗なの。
さっきまでビリビリしていた指先の感覚も消えはじめた。
静寂の暗闇の中、一人の少女はただただボーっと立っていた。
過去の記憶を失い、心が辛い日々。ずっとここに居られればどれだけ楽だろうか。
見知らぬこの真っ黒な空間は本当に静かだ。微かに聞こえるのは自分が呼吸をする音だけ。
そういえばここにくる前、私は何をしていたのだろう?どうやって…ここに?
「……ぁ…」
目の前に小さく光る何かが現れた。遠くにあるようで、手を伸ばせばすぐ手が届きそうな…あれはなんだろう。なんとなく、私はあの光に呼ばれているような気がして、光の方へゆっくり歩き始めた。
一歩、一歩と進むたび、真っ暗な空間が色づき始めた。それは美しい空の色でも、可愛らしい花の色でもない。『血』の色だ。
ドス黒く、不安を掻き立てる色。私は俯きながらも進むのをやめない。
ビシャリ、ビシャリと足元から液体を踏む音が聞こえる。例え踏んでいる液体が水やジュースであったとしても、ここではこの、『真っ赤な液体』を踏んでいる様にしか感じない。
「……」
光に近づくに連れ、不愉快な耳鳴りが大きく聞こえてくる。ズキズキと頭は痛みだし、意識が薄れてゆく。
あぁ…私は死ぬのだろうか……それとも、これは…ただの夢なの……?
「んんぅ……」
目をほんの少し開いてみると、ぼやけた視界に不思議な物が映し出された。
あれは…跳び箱?それと玉入れのカゴ?
鉛の様に重い体をなんとか起こし、ビリビリと痛む手で目を擦った。
私が寝ていたこれはなんだろう?…フカフカしている。
薄暗くてよく見えない…これは…触った感じは体育用マットだと思う。
跳び箱に玉入れのカゴ、そしてマットがある薄暗い場所。ここはどこかの学校の体育倉庫か?何故私はこんな場所で眠っていたのだ?
『おはよう…アリス』
「!?」
突如背後から見知らぬ声が聞こえて心臓が跳ね上がった。私は恐る恐る振り返る。
すると、そこにいたのは不思議な不思議なヤツだった。
この前テレビで見た様な、白黒のチワワとパピヨンを混ぜ合わせた犬が赤いマフラーを巻いて、なんと二足歩行で立っていた。まろまゆとキュルンと潤んだ黒い目がなんとも愛らしい。
「また会えて嬉しい…けど悲しい」
可愛らしい見た目に気を取られていて大事な事を忘れていた。
『なぜこの犬は人間の言葉を喋れるの!?』
妖精か何かだろうか?こんなの日曜の幼女向けアニメとか以外で見るのは当たり前だが初めてだ。
「アリス、頑張ってアカウサギを探すんだよ」
「え?え?あの…アリスって?うさぎ?え?」
何がなんだか…分からない。妖精犬は勝手に話を進めていたが、アリスとは?
私の名前は真白、東雲真白だ。
だが、私は記憶喪失なのだ。19歳以降の記憶が一切無いのだ。だから、この妖精犬は私の昔の友人だったり……私が忘れているだけで…私の本当の名前がアリスだったり…あり得ないか…
「どうし……そうか、ごめんね。今の君に昔の記憶は無いんだったね」
どうしてそれを…?
私の中では沢山の質問と謎がぐるぐると回っている。
「僕はハッピー。君は僕のトモダチのアリスなんだ」
ひえー!やっぱり!?ハッピーだって!可愛い名前!……ってあり得ないあり得ない…大丈夫落ち着け…私は真白だ真白真白…
人違いだ。私はアリスじゃないしこんな友達はいない…はず。
「ごめんね、私は真白っていうの。アリスじゃないの」
「ううん、君はアリスなんだよ」
そう言って妖精犬のハッピーは、モコモコの手で私の手を取りスンスンと匂いを嗅いだ。そしてうんうんと頷く。
「大丈夫、君はアリスだ。間違いない。アカウサギを探して」
「いや待ってぇ…私ホント違う…アカウサギって何…」
私の頭は爆発寸前だ。真白が真っ白になる前に聞けるだけ情報を…
「アカウサギはアカウサギ、君なら見つけられる…探すんだ」
「え……」
ハッピーは、まるで幽霊の様に突然消えていなくなった。一瞬時が止まったかの様に感じた。
「待ってよぉ…あぁ…どうしよう…」
急に静かな空間になった。
…うさぎを探せだって?無理だ。私は体力もないし運動神経だって悪い。小さくてすばしっこいうさぎなんて捕まえられるわけ……
なんて考えている場合ではない。そうだ、私は今すぐ姉の家へ帰らなくてはならない。
私はゆっくり立ち上がり、体育倉庫の扉へ向かった。