竜殺しの騎士。1
この異様な光景を前に、ヴィルジールは感嘆の息を吐いた。その呼気はマイナスの気温に触れ白く染まり、ふわりと周囲へ広がって消える。
絶景と云っても良いのやも知れぬと、己が短い金髪をかき上げた。さくりと軽い音がする。年齢を重ねても減る事のない豊かな頭髪は、母からの遺伝なのだろう。同輩からよく羨ましがられるものだ。
これまた母譲りの青い目で、周囲へ視線を走らせる。
――見渡す限り、氷の世界が広がっていた。
大地も岩も草も樹も、全てが凍り付いている。宝石の如き輝きを放つ氷があらゆる物を覆い尽くし、この地の時間を止めてしまっていた。
「……凄まじいな」
「はい」
独り言に近い呟きに、斜め後ろへ控えていた副官が律儀に同意をくれる。それに対してヴィルジールは、ふ、と小さく笑った。その僅かな息も、白く染まる。
ヴィルジールの生まれ育ったグロワール皇国は、西大陸の中原に位置する大国である。西大陸は他の大陸と異なり、四季がはっきりとしているのが特徴だ。季節を司る妖精たちが順序を守り巡ってくれるお蔭で、春や暖かく花が咲き誇り、夏は暑く木々が茂り、秋は涼しく作物が実り、冬は寒く雪が積もる。
他の大陸では、夏の妖精が居座り常夏であるとか、冬と雪の妖精が移動せず一年中吹雪に閉ざされている場所もあると聞く。そう考えると西大陸は恵まれていた。
そう。冬と云えど、一定期間で妖精たちは移動する。だから、雪が降り積もり泉や池が凍る事はあっても、大地そのものが氷漬けになると云う事はなかった。
そしてこれは、妖精たちの悪戯や悪意ではない。それを、ヴィルジールは知っていた。
「――閣下! ヴィルジール閣下!」
耳慣れた声に呼ばれ、振り返る。ブーツの分厚い靴底から、氷を踏み締める軋んだ音が聞こえた。ギュシッと鳴る音は、声とは違って耳慣れない。
滑り止めが施されている軍用ブーツとは云え、全く滑らない訳ではないのだが。ヴィルジールを呼んだ者達は足早にこちらへと近寄って来る。
赤い髪と青い髪の二人組は、直属の部下だった。まだ若いが腕も良く、ヴィルジールの言葉も素直に聞いてくれる。赤い髪の方は少々血気盛んだが、まだ二十歳と云う年齢を考えれば可愛いものだ。
二人はヴィルジールの前まで来ると、緩く握った拳を左胸に当て、頭を下げた。皇国式の騎士敬礼である。他に人のいない氷原でわざわざ行うとは、律儀な事だ。
「ギャフシァ隊長及び隊員十二名、未だ帰還していません。連絡も途絶えたままであると報告が上がりました」
「そうか……」
その言葉を聞き、空を見る。まだ青い。日暮れまで時間はある。しかし猶予は少なかろう。
ヴィルジールと彼らは現在、似たような恰好をしている。生地の厚い軍用コート、音を阻害しない程度の耳当て、首元には火兎の毛を織り込んだマフラー、手袋もまた軍務用の支給品。暖化の魔術を掛け末端の血管が凍り付かないようにしている。
コートの下はそれなりに違うが、防寒用の重装備である事に変わりはない。
ギャフシァ達もまた、ほぼ同じ装備でこの氷原へ入って行ったと云う。しかし、このまま日が沈んでしまえば寒さは厳しさを増す。この程度の防寒具では足らないだろう。無事に朝日が拝めるとは思えなかった。
「各隊へ通達。これより一時間後、我が近衛騎士団第一小隊は氷原へ突入する。準備を急ぐように」
「……宜しいのですか。ギュスターヴ殿下がなんと仰るか、閣下はお分かりでしょうに」
普段は異を唱えない副官が、気難しい表情を浮かべて懸念を述べる。赤い髪の方が副官を睨み付け、青い髪の方に無言で制されていた。
ヴィルジールの口元に、笑みが浮かぶ。
前から赤い子は、副官によく噛み付いていた。同じ年齢で、身長も同じくらい。どうにも気が合わないらしく、ヴィルジールの前では大人しくしていても、その目がなくなると取っ組み合いの喧嘩へ発展する事もしょっちゅうだったと云う。ここに至ってもその関係性が変わっていない事に、ヴィルジールはつい笑ってしまったのだ。
けれどそれは言葉にせず、真面目な声音で副官の懸念に答えた。
「その時は仕方ない。道連れになって頂こう」
「……はっ」
「……今日中に蹴りを付けねば、我が国は終わる。死なば諸共など不敬の極みではあるが、致し方なし。責任と汚名は全て私が負う。……すまんな」
ヴィルジールの小さな謝罪に、三人は頭を下げる事で答えた。またヴィルジールの口元に苦笑が浮かぶ。見栄えのために伸ばし、丁寧に整えられた髭のせいで彼らには見えなかっただろうが。
指示を受けた二人は踵を返し、騎士らしいキビキビとした動きで野営地へと戻って行く。その背中を見送り、大きく三度深呼吸を繰り返してから、ヴィルジールはまた氷原の奥へと目をやった。
(後世で私は、どう評価されるかな)
そんな事を気にする自分が、少しおかしい。
地位にも名誉にも興味が薄い変わり者の貴族と扱われていたが、実はそうでもなかったのかも知れない。一応はゲクラン侯爵家の名を頂いている以上、実家へ不名誉を残す事に怖気づいている可能性もあるか。
(どちらにせよ、動かねば全て終わってしまう)
目に力を入れる。ただ見ているだけでは見えないもの――魔力の流れを視るために。
空気中に含まれる魔力の素――魔素がじわりと世界を青く染めた。本来魔素に色はないが、こうして視る時には不思議と己が目と同じ色に見えると云う。そこらじゅうが濃い青色になり、ヴィルジールは苦い思いで奥歯を噛んだ。
(やはり濃すぎるな。通常の三十倍はある)
人を含め、この世界の生き物は、魔力が無くては生きて行けない。けれど、ありすぎてもいけない。食事を過剰に摂れば体調を崩すのと同じだ。何事にも適量と云うものがある。この濃度では、三日もあれば脳やら神経やらに損傷を負うだろう。
さらに奥へ視線をやれば、濁流の如き勢いで魔力そのものが溢れていた。
生き物は空気や土地、食料から魔素を得て、体内で魔力を生成する。魔力は命の源、生命力である。普通は魔術を行使する時以外、体外へ放出される事は無い。
けれど今ヴィルジールが見る魔力の濁流は、魔術の発現によるものではない。途方もなく強大な力を持った存在から、その身に収まり切らずに溢れ出た魔力だ。
「……これで暴走している訳ではないのが、恐ろしいな」
「……暴走されたら、どうなるのでしょう?」
「この程度では済まんな。皇国全体……いや、へたしたら中原一帯が凍り付く」
嘘偽りはない。誇張もなく、虚偽でもない。ヴィルジールの見立てが正しければ、この力が暴走した場合はそうなる。
皇国の一地方の平原が一つ氷に飲まれただけ、と云うのは奇跡だ。
副官が大きく息を飲んだ。普段冷静で物静かな彼が感情を音にするとは珍しい。だが、それも致し方ない事か。
本音を云えば、ヴィルジールとて恐ろしくて堪らない。何故自分が平然とここに立ち、斥候の真似事をしつつ膨大な魔力を見据えていられるのか不思議なほどだ。
(開き直ったのか、腹をくくったのか……)
どちらも大差ないかと溜め息をついて、「戻ろう」と副官へ声をかける。黙礼をする彼の顔色は、寒さのせいもあってかいつもより白かった。
彼をこの地まで連れてきてしまった事に、ヴィルジールは少し罪悪感を持つ。けれど、置いて行く訳にもいかなかった。
この非常事態の中、彼一人皇都へ置いて行く事は身贔屓に他ならず。自分の立場でそれを行う事は決して許されなかったのだ。
「フランツ」
「はい」
「すまんな。私はお前を振り回すばかりだった」
歩きつつ副官の名を呼び罪悪感から詫びれば、彼は器用に左の眉毛だけを吊り上げる。肩越しに見た表情は「何を云っているのか」と告げていた。
「……叔父上、謝罪などいりません。自分は好きで貴方について来たのですから」
真摯な声に自然と笑う。“甥っ子”のくせに実に生意気だ。
それなりの時間ヴィルジールと一緒に外へ居たため、普段は柔らかな彼の栗色の髪は毛先が凍っていた。ヴィルジールと同じ色合いの目は鋭く切れ長で、初対面の人には大抵萎縮されてしまう。顔立ちが大変整っている事もあり、彼の無表情は迫力があった。
だがヴィルジールからすれば、可愛い甥っ子に過ぎない。
兄夫婦の三男である彼は有り難い事に、ヴィルジールを慕い同じ道を選んでくれた。
「騎士になりたいです」と云ってくれた時、自分は大層喜んで座学、剣術、礼法など、騎士を目指すに必要なもの全てを教え込んだ。あの時のヴィルジールは相当はしゃいでいたと思う。
それを、今更悔やむ自分がいた。あの時、幼いフランツが夢を語った時、止めていれば良かったと。
だがそれを口にする事はない。彼は言葉の通り、自分の意志でここまで来たのだ。ヴィルジールの教えを基に、己が道を自身で決めた。それを根本から否定するのは、人として、叔父として、してはならない事だろう。
しかし、それでも。
(暴発寸前の【竜殺し】と相対させる破目になるくらいなら、あの時、窘めておけば……)
静かに持ち上げた右手で、少しの間目元を隠す。
手首に巻かれた細い鎖が手袋の下で、チャリ、と澄んだ音を立てた。
竜とか騎士とか妖精とかいいですよね……。