僕の身体は生態系
小学生の高学年の頃のこと。
ある日、僕は教室で話しかけられた。それは頭の中に直接響いて来る感じで、何故だか僕に“食べてくれ”と要求するものだった。
「もっと雑穀米を食べてくれ、シップ。皆が欲しいと言っている。あと、ボクとしては海藻の類もたくさん食べて欲しい。ミネラルが不足している」
?
どうやら“シップ”というのは、僕のことを言っているらしかった。僕には深田信司という名前があるものだから、僕はそれにこう返した。
「君は誰? それにシップってなんの事?僕には深田信司って名前があるのだけど」
その時は、まさか本当にその声が頭の中に直接語りかけて来ているのだとは思っていなくて、辺りを探しながら、必死に僕はそう訴えていた。
多分、周りのクラスメート達は、そんな僕を気持ち悪く思っていたのじゃないかと思う。
その僕の疑問に、その話しかけて来た何者かはこう言った。
「乗り物のことを、人間は“シップ”と言ったりするのだろう? 宇宙船をスペースシップって言うと聞いたぞ。ただ、ここは宇宙じゃないからね。なら、スペースを取って、“シップ”と呼ぶのが妥当じゃないか」
何をその何者かが言っているのか、その時の僕にはさっぱり分からなかった。それでこう尋ねた。
「僕が乗り物? 君は何者なの?」
すると、その何者かはこう返して来るのだった。
「ボクは、君の体内に棲まう者だよ。そうだな。MBとでも呼んでくれ」
「MB?」
「そう。マイクロバイオータを略してMB。マイクロバイオータじゃ、ちょっとばかり長すぎるだろう?」
マイクロバイオータ?
僕はそれから直ぐにスマートフォンでそれを調べてみた。すると、それはある環境中の微生物を指し、人間の体内に棲む微生物もそれに含まれるらしかった。
つまり、もしMBの言う事を信じるのなら、MBは僕の身体に棲んでいる微生物である事になる。
子供心に信じられなかった。
ただ、何かが僕の頭の中に語りかけて来ている事だけは確かで、ならば何か異変が僕に起こっているという事になる。
僕は大いに不安になった。
けど、相談する相手は誰もいなかった。親はいつも仕事で帰りが遅かったし、先生は引っ込み思案な性質の僕を疎ましく思っているようだったし、そして僕に友達は一人もいなかったから。
気の小さな僕は、孤独と不安で押しつぶされそうになってしまっていた。
皮肉なことに、そんな僕を救ってくれたのは、僕をそんな状態に追い込んだMBだった。
「おいおい。そんなに怖がらないでくれ。君のストレスが溜まると、こっちにも悪影響が出るんだから」
そう言ってMBは色々とリラックスするのに効果がある食べ物を教えてくれた。僕の体内に棲んでいるからなのか、僕の身体の健康にとって何が効果的なのかをMBはよく知っているようなのだった。
それからMBが教えてくれた食べ物に効果があったのか、それともMBが親身になって僕を心配してくれたからなのかは分からないけど、僕の状態はとても良くなっていったのだった。
そして、MBは僕の唯一の友達になったのだった。
MBが食べて欲しいというから、僕は嫌いな食べ物でも食べるようになった。それはつまりは僕に必要な栄養素を補充するという事でもあったらしく、僕は随分と健康体になり、あまり病気にならなくなっていった。
もちろん、それは僕の体内でMBがより繁殖をするという事でもあった。力を持ったMBは、食べ物以外にも色々と僕にアドバイスをしてくれるようになった。時にはテストでカンニングさせてくれたりなんかして。
中学生に上がる頃になると、僕はMBをすっかり信頼するようになっていた。ところがそんなある日、学校の先生が皆の前でこんな発表をしたのだ。
「人間の体内にナノマシンが繁殖をし、語りかけて来るという事例が多数報告されている。
思い当たる節があるものは、先生に言いなさい。検査をして、もし検出されたなら駆除してもらえるよう頼んであげるから」
人間の友達のいない僕は知らなかったのだけど、それは少なからず皆の間で話題になっていた事のようだった。
そのナノマシンは、元は某国が人間を監視する為に制作したもので、それが自然界で繁殖をし、今ではまるで別種のものになってしまっているのだとか。そしてそれが人間の体内に棲みつき、自然繁殖をしているらしい。
その先生の言葉を聞き、クラスの何名かはさっそく先生に言いに行っていた。
でも、僕は言いに行かなかった。
MBは僕の唯一の友達だ。駆除されて堪るもんか。
それからしばらくが経った。
MBは相変わらず僕の体内にいて、僕と共に成長をしている。何も悪い事をしそうにはない。
だけど、それでも時折不安にはなる。
もしもMBが、世間で言われているような病原菌のロボットみたいなものだったとしたならどうしよう?
僕が騙されて、利用されているだけだとしたら……
そんなある日、MBが話しかけて来た。いつになく真剣な声だった。
「シップ。何かおかしいぞ。君の身体に“よろしくないもの”が侵入して来ている」
よろしくないもの?
「それは何?」
僕が訊くと、MBは「分からない」と応えた。
「だけど、恐らくは未知の病原菌か何かだ。免疫系を高める必要がある。ボクが言うものをたくさん食べてくれ……」
それからMBはヨーグルトや納豆や黒にんにくといった発酵食品を僕に食べるように言って来た。それら発酵食品は、僕の体内の善玉菌を助けてくれるかららしい。
僕はそれに戸惑っていた。
もしもMBが、世間で言われているような病原菌のロボットなのだとすれば、僕に何をするか分からない。僕は騙されているのかもしれない。
だけど、その時、MBはこう語りかけて来たのだった。
「シップ。どうかボクらを信頼して欲しい。ボクらは君の友人であるのと同時に、君という生態系の住人でもある。
自分の住んでいる生態系を護ろうとするのは当り前の話だよ。何しろ、君が壊れてしまったなら、ボクらだって壊れてしまうのだからね」
僕はそれを聞いて決意を固めた。
もし仮にMBが病原菌ロボットだと言うのならそれでも良い。騙されて利用されて死んでやる。
そして、MBの指示通りの食べ物を食べ、僕は生活習慣を整えていったのだった……
「新たに岸田と崎山が例のウィルスに感染している事が分かった。皆、充分に感染症には気を付けるように」
ある日、先生がそう教室で告げた。
――いつの間にか日本には新種のウィルスが蔓延していたのだ。そのウィルスは、某国の生物研究所から事故で流出してしまったものだとされていて、日本を貶める為にわざとばら撒いたという陰謀論までが飛び交っていた。
その頃にはクラスの半数以上がそのウィルスの所為で入院していて、中には重症になってしまっている人もいた。
……だけど、僕はまったく平気だった。
身体はそんなに強い方じゃないのに。
MBが話しかけて来る。
「君は大丈夫だよ。ボクらが護っているからね」
――その昔、大腸などの幾つかの器官は、人体に本質に不要なものだと考えられていたらしい。
ところが体内のマイクロバイオータの研究が進むと、それらはマイクロバイオータの住処として人体が用意したものであるらしいことが分かって来た。
そして、マイクロバイオータは人間には分解できない栄養素を分解して吸収できるようにしてくれたり、人間の脳神経と情報を交換し合い、免疫系を正常に保つといった働きをしてくれたりするのだとか。
……多分、MBはそれと同じなのだろう。だから恐れる必要なんてまったくなかったんだ。なにしろ、何百万年……、いや、それよりずっとずっと前から、彼らは僕らの友達だったのだから。