第八章 フェニックス・イン・ザ・ワンルーム
◇
紅音は飛び出した。
その踏み込みは静かで、けれど、その一歩は人間を超越して速い。
炎が作る六枚の羽が、車のテールランプのように尾を引いた。
十メート以上の間合いを一瞬で潰し、黒凪が腕を振り被るより早く、その鳩尾めがけて閃光のような前蹴りを放つ。しかし、初めて戦った夜とは違い、黒凪に油断はなかった。
黒凪はわずかに片足を踏み出して、身体を半身にずらした。その最小限の動きで紅音の前蹴りを躱し、踏み込んだ足を軸にして後ろに残した足を円弧の動きで引き寄せる。体の転換。擦れ違うように、最小限の動きで紅音の背後を取った。
「まず一つだ」
黒凪が右腕を振り抜く。
黒い旋風が、紅音の背後から稲穂を刈る鎌のように殺到した。防御不能の必殺。紅音はそれを背面跳びの要領で躱すと、空中で身体を捻り、黒凪の側頭部を狙って右足を振り抜く。
撓る鞭のような一撃だ。
当たれば意識を刈り取れる、完成度の高い蹴り。
黒凪は左手の甲で受け止めた。
悪魔の怪腕すら受け止めた男は、その程度では微動だにしない。黒凪の右手はすでに黒い旋風を構えている。防御と同時に反撃。またしてもカウンター狙い。
「まず、一つッ」
今度それを口にしたのは紅音だった。
左右の足首に着いている六枚の羽。その一枚が膨れあがり、黒凪の顔の真横で爆発した。
紅音は体操選手のような軽やかな着地を決めて、近くの猛鳥の檻を見上げる。そこには爆発を回避した、黒凪が張り付いていた。一瞬の気配から危険を察知して、あの黒い旋風を退避と防御に回したのだ。
黒凪は片手で檻にしがみついたまま、紅音を見下ろして言った。
「恐るべき威力だが、残り五枚か。無尽蔵とはいかないようだ」
「問題ない。お前は一回死んだら、それまでだろ?」
「まさしく再来者ならではの回答だ。思わず身震いしてしまうな。しかし、攻撃にまで火を消費するとなると、あと何回甦られる?」
軽口を叩き、今度は黒凪が攻めに転じた。斜め上方から振り下ろすように黒い旋風を叩きつける。
紅音は飛び出して風を避けるが、黒凪が逃げ道を塞ぐように着地した。
風を囮に使った誘導だ。一撃必殺という特性上、回避しないわけにはいかない。その特性を知悉した男の戦闘技術——悪質にして適切だ。効率よく獲物を追い詰めていく。
紅音は飛び出した勢いを殺さず、果敢に肉薄した。
至近距離での格闘戦。
蹴りを主体に攻め込む紅音——体重差を補うため、威力の高い足技に集中。間合いを取られると一方的に風を使われるので距離を開けられない。制限の多い戦闘スタイル。
対して、最小限の動きで回避し、カウンターを狙う黒凪——圧倒的に優位なフィジカル。加えて強力無比な一撃必殺を持ち、危険を冒す必要性がない。安全な間合いとタイミングで、堅実に削り殺していけばいい。
そして、黒凪の恵まれた体格は、格闘戦においても無類の強さを発揮した。怪物と化した黄瀬を圧倒するほどの肉体強度だ。
わずかに踏み込みの浅かった紅音の蹴り。
黒凪はあえてその鋼のような腹筋で受け止めた。
同時に捕まえた。黒凪の左手が、紅音の右腕を。黒凪はすでに右腕を大きく振り被っている——黒い旋風を纏った右腕を。紅音は炎の羽に力を込めようとした。しかし、今回は黒凪の拳の方が速かった。
「遅い。致命的なほどだ」
内臓を破裂させるほどの剛腕が、紅音の鳩尾深くに抉り込んだ。
紅音の身体がくの字に曲がる。あまりの衝撃に声も出ない。
黒凪は紅音の身体ごと右腕を振り抜いた。
紅音はさながらピッチングマシーンから放たれる白球のように吹き飛ぶ。そのまま、高速で檻の前の手摺りにぶつかり、衝撃で背骨が大きく損壊した。
「げぇはッ——」
紅音の肺から一気に酸素が逃げ出した。視界が暗転する。
けれど、破壊された身体は瞬時に再生を開始した。火の鳥の蘇生力。代償に足首の羽が四枚に減った。紅音は大きく息を吸って酸素を取り込む。視界が回復し、紅音は鼻先に迫った左拳を見た。すでに回避不可能な距離だ。
「くっ——」
猛攻を畳みかける黒凪。
容赦のない追撃——顔面を陥没させるほどの強力な左正拳突き。直撃。けれど、紅音もただサンドバックにはならない。殴られた瞬間、左足を持ち上げて炎の羽を炸裂させた。
轟音と爆音。
黒凪は大きく跳躍して、その爆発を回避した。
黒い風で防御したのか、ご自慢の外套には焦げ一つ付いていない。対して、紅音も殴られた傷は修復し終えていたが、足首の羽は二枚にまで減っていた。残弾数であり、残りライフを可視化する炎の羽が、容易く削り取られていく。
「この程度が本気だと言うのなら、残りもすぐに毟り取るだけだ」
黒凪は依然変わららない無表情でそう言った。
紅音は片手を鼻にあてがって、フンと血の塊を拭う。同時に歯がみもしていた。
わずか数分の攻防だったが、それでも思い知らされる黒凪の強さ——反則級だ。
(今の私では手が着けられないか……)
紅音は、冷静に彼我の戦力差を分析した。その結論——ここでの戦闘続行は不利。動物園は意外に遮蔽物が少なく、黒い風から身を守る手段に乏しい。正面からの戦闘では、フィジカルにおいても、異能においても、黒凪に分があった。小細工なしで勝てる相手ではない。
加えて、ここには彼女もいる。
紅音は、スマホを片手に呆然としている白亜を一瞥した。
「閉園時間だ。河岸を変えるぞ」
「そのような提案に乗る義理が——」
「嫌なら一人で突っ立っていろ、独活の大木」
言うが早いか、紅音は退園ゲートに向かって走り出した。
人間離れした速度はオートバイさながらだ。
黒凪もすぐに後を追った。眉一つ動かさず、平然と紅音の速度に比肩する。人間サイズの獣たちが、風のように動物園から姿を消した。ただひとり残された白亜は、電話口の警察官に何をどう伝えればいいのかわからず、言葉をなくして立ち尽くしていた。
◇
街中での追跡劇。
逃げる紅音と追う黒凪という構図だ。
車道を猛スピードで駆け抜け、飛び交い、殺意をぶつけ合う、影法師が二つある。黒い外套の大男と、黒いセーラー服の少女。ドライバーたちは、自分の見間違いだと思った。
紅音は車を盾にしながら逃げ続けている。
防戦一方だ。
黒凪はそんな紅音を追い立てながら、不必要な接近はしなかった。自分の風が届く安全な間合いから、一方的に攻撃するだけだ。
優劣を測る天秤は、黒凪の優勢を示していた。
戦いとは畢竟、得意ジャンルの押し付け合いだ。いかに自分の得意を押し付けて、相手の得意を封じるか。勝敗はそこに掛かっている。より自分の強みを活かしたものが、流れを制して勝者となる。
黒凪はその真理をよく理解していた。
獅子搏兎——反則級の強さを持ちながら、驕らず堅実な戦法を維持する。
紅音は追い立てられながら待っていた。
構図を書き換える瞬間を。好機の到来を。
しかし、彼女がそれに出会うより先に、黒凪の堅実さが紅音を捕らえた。
(なっ、あのデカブツが消え——)
背後にいたはずの黒凪が、車道のどこにもいない。
だが、車の影に隠れられるような図体ではない。それならどこに。
「捕らえた」
背後に気を取られていた瞬間、脇道から大きな手が伸びた。ゴツゴツしたその手が、紅音の顔を鷲掴みにする——黒凪だ。
地図を把握して、紅音の前方に先回りしていた。
「俺には幸運の青い鳥がついていた。この街の道路は知り尽くしている」
黒い風を纏う手が、旋風と共に紅音をぶん投げた。
紅音の身体は走行中の車に激突する。
即死級の負傷。
瞬時に再生させたが、炎の羽は残り一枚。
膝を着いて睨み上げる紅音。
すでに満身創痍だった。
平然とそれを見下ろす黒凪。
汗一つ、傷一つ負わず。
黒凪と紅音を避けるように車たちは蛇行して走り抜けた。けたたましいクラクションが鳴り響く中、黒凪は海を割って歩いたモーセのごとく、車が避けて出来た道を進む。
黒凪は一直線に紅音のもとへ。
油断なく構えられた右腕に、黒い旋風を従わせている。
「貴様は、殺した後で海に沈めると宣言する。二度と甦ることが——」
「なぜ私が、わざわざ車道を選び続けたと思う」
紅音が不敵に笑った。
黒凪は思考するより早く右腕を振り抜いた。紅音が何を画策していようと、殺してしまえば問題ない。死者に次などない。しかし、紅音は最後の羽を使い、黒い旋風を相殺した。
風に煽られた炎が、両者の間を隔てる。
束の間の目眩し。黒凪は悪足掻きだと断じた。
炎が引く瞬間、黒凪は何かを投げつけられて咄嗟に受け止めた。投げつけられたのは、見たことのない男だった。一般人だ。車のドライバーらしかった。
「正義の味方なら、ちゃんと守れよ」
紅音の声だ。黒凪は声の方を向いて瞬時に状況を理解した。一般人を背後に庇い、すぐに黒い風で守りを固める。
その一般人は、タンクローリーのドライバーだった。
タンクローリーのたっぷり燃料の詰まったタンク。
紅音はそのタンクの上に立っていた。
そして、最後の残弾——自分の生命を薪にして炎を呼び出した。
炎に引き起こされる特大級の爆発。
凄まじい振動で近くの建物の窓ガラスが割れる。
膨張する爆炎は、しかし、完全に膨れあがる寸前で渦を描き、巻き取られるように爆心地の中心へと収束していく。そこに立つ少女のもとに炎が集まる。まるで彼女こそが、燃え盛る炎の主人——爆炎たちの女王であるかのように。
死が終わりにならない、炎の再来者。
黒凪は一般人を守り切り、彼を近くの街路樹に放り投げて引っ掛けた。そして、黒く塗り潰された瞳で彼女の姿を確かめた。
およそ百を超えるであろう炎の羽は、彼女の両足で〈翼〉と呼ぶべきものへと成長を遂げていた。烏の濡れ羽色だった頭髪は、ほんのりと赤みがかり、その眼差しからは疲労の色が消えている。満身創痍から一変——構図を書き換える強烈な一撃だった。
黒凪にとってもかつてない脅威の到来だ。
黒凪の両腕が自然と風を纏う。
男の外套がはためく。
翼を得た紅音が顔を上げた。猛禽のように鋭い眼差しで言う。
「毟り取ってみろ。できるものなら」
火の鳥の取り換え子は、百の炎を従えて攻勢へと転じた。
◇
白亜は退園ゲートに向かって走り出した。
警察への説明は諦めた。ここで目にしたことは、目にしない限り信じてもらえない。見たばかりの自分ですら、信じられないような光景だった。いろいろ考えたが、あの光景に現実的な説明をできる気がしない。あの二人は何もかも常識を越えていた。
わかったのは二つだけだ。
紅音の秘めていた問題が、あの異常な光景なのだということ。
あの異常を隠し続けるために、紅音は何も言わなかったのだ。そして、その秘密に触れてしまうことが、別れの合図だった。
紅音は二度と自分の前に現れないつもりだ。
白亜は自分の犯した罪を理解した。
熱い壁に阻まれて、近づくことさえできなかった。そのときの喪失感を思い、自分が紅音にしてきたことの重みを知った。一方的に別れを告げられる側の、足場が崩れて前にも後ろにも進めないような、置いてきぼりの痛みを知った。
白亜はすり抜けた手の温かさを思う。
細く柔らかい、紅音の指を思う。
繋がっていたはずの手を思い、泣き出しそうになる。
「はぁ、はぁ……」
白亜は息を荒くして動物園を飛び出した。紅音たちの姿はとっくにない。野次馬たちの騒ぎだけが、通り過ぎた存在を教えてくれていた。
追いつけっこない。
それを知って白亜は膝からくずおれた。本当にこんな形で終わりなのか。
そう思い、冷たい掌を口に当てた。
「あれ、大塚さん?」
そう呼ぶ声に、白亜はがばっと顔を跳ね起こした。
白亜の急な反応に、呼びかけた男子学生の方が「おう」と驚かされる。バスケット・サークルの二年生であり、白亜にクリスマスの予定を聞き、返事を保留されていた男子学生だ。彼もどうやら、サークルの友人たちと一緒に野次馬をやっていたらしい。
その先輩はバイク通学のようで、今もカワサキのNINJAを押して歩いていた。
白亜は先輩の方にずんずん近づき、NINJAの座席に手を置いて言った。
「先輩、今の奴ら追ってもらえませんかッ!?」
突然のことに、先輩たちはぎょっとなった。
ただ、クリスマス・イブに予定もなく、男たちで無為にたむろしていた彼らにとって、その申し出は面白そうな出来事の予感だった。返事を保留し続けられていた彼にとっても、気になる後輩と二人乗りをする絶好の機会だ。
「よし! 今度デート一回よろしく!」
「無理です! 好きなやついるんでごめんなさい!」
「そっか! はははっ、いいよ。それなら仕方ない」
その先輩は白亜の口から返事を聞けて満足したようだ。むしろ、そのサッパリと気持ちのいい物言いが気に入ったのか、清々した笑みを浮かべている。白亜は、答えを保留して申し訳なかったと今さら思った。ここ最近は反省してばかりだとも。
「それじゃ、ぶっ飛ばすから掴まって!」
先輩は白亜にヘルメットを渡すと、すぐにNINJAを発進させた。
◇
戦いの構図が変わっていた。
追う紅音と距離を取る黒凪。
百近い残機を有する反則級の女と、一撃必殺を乱発する反則級の男だ。
紅音は炎で急加速して、黒凪に接近戦を持ち込もうとする。
翼を得た紅音の格闘力は、黒凪のフィジカルを上回った。接近戦なら僅差で押し切れるまでになっていた。事実、黒凪の外套はところどころが焼け焦げている。
しかし、黒凪はそれ以上の接近を許さなかった。
接近戦での不利を悟り、完全に遠距離から削り取る戦法に切り替えていた。そして、ここに戦闘経験の差が出た。踏み込むタイミング、地形の利用法、フェイントの活かし方、それらの戦闘技術の差だ。黒凪の技量が、紅音の得意を封じ込めた。
今もまだ紅音は檻の中だ。
優劣を測る天秤は、依然として黒凪の優勢を示している。
紅音は純粋な敬意を抱き始めていた。
勿論、憎い相手ではある。自分を殺しに来ることに腹も立っている。だが、それとは別に黒凪のことを〈優秀なプレイヤー〉としても認識していた。そして、その優秀なプレイヤーと鎬を削っていることに、隠しきれない高揚も覚えていた。
(戦いの流れをデザインしてるのか、常に自分の得意を押し付けるように……)
自分の全力を尽くしても、倒せるかどうかわからない相手だ。
難易度の高い課題。
久しく忘れていた渇望だった。
こいつを攻略してやるという強い意志が、紅音の中に生まれていた。
(構図をもう一段、変える必要がある……)
またしても、遠距離から黒い旋風を浴びせられた。
「くっ——」
一瞬、ガクッと力が抜ける。羽の枚数が減る。残りは七十を切った。すでに三十以上も削られている。黒凪は五体満足のままだ。傷も浅いものばかり。このまま続けていても、残り全部毟り取られて終わるだけだ。接近戦に持ち込む。勝機はそこにしかない。
戦いをデザインしろ。
構図を書き換えろ。
紅音は黒凪から多くを学び、深く思考していた。
攻略のヒントは今までの言動にあった。
「おい、黒外套」
紅音は追いかけるのを止めた。
歩道橋の手すりに立ち、車道の黒凪を見下ろす。
黒凪は振り返り、紅音を見返して言った。
「抵抗することの無意味を悟ったか。棺桶に収まる決心がついたか」
「お前、照井紅音の身体を両親に届けるとか言っていたな」
「突然の記憶力テストか。正解すると景品でも出るのだろうか」
黒凪は軽口で答える——揺らがない実力差を見せつけるように。
紅音は粉雪より冷たい殺意を孕んだ目で宣言した。
「では、今から私の両親を殺しに行こう。正義の味方がどう出るか、見物だな」
紅音は追いかけるのを止めて、今までとは逆方向に走り出した。街の中心部にある、タワーマンション——彼女の両親が住む場所を目指して。
「うおおおおおおおおおおおおッッッ」
黒凪が吠えた。
漆黒の瞳に怒りの火を燃やし、雄叫びを上げて紅音に追随する。
紅音は高速で街を駆け抜けながら、黒凪が追ってきていることを確認した。
予想通り、全速力で接近してくる。
(やはり全力で追ってきたか……)
正義の味方を本気で標榜する男だ。
ブラフだったとしても、紅音の行動を見過ごすことはできない。それはタンクローリーの運転手を守った行動からも予想できた。
そして、今回は目的地がある。
タイムリミットがある。
紅音が自宅に行き着くまで。それまでに止めなければならない。一つ前の構図とも違う、全力で追いかけざるを得ない状況。
たった一言で黒凪の行動を縛った。
まるで魔性の女の囁きだ。
追われるのでも、追うのでもない。
相手に追わせる。
急接近する黒凪。
紅音は自分のタイミングで急反転して接近戦に持ち込んだ。
「殺す、黒外套ッ」
「来い、火の鳥ッ」
紅音の回し蹴り。
炎の爆発で威力と速度をブースト。
黒凪は完璧な防御を捨てた。
ダメージ覚悟で受け止める。
接触の瞬間にさらなる爆発——紅音も出し惜しみをしない。炎の羽を次々に攻勢に回す。
爆発を重ねてさらなる連撃。攻撃の手を緩めず、立て続けに蹴りを放つ。
しかし、黒凪も防御一辺倒ではない。
負傷を増やしながらも、得意のカウンターで確実に羽を削り取る。
紅音の蹴りが、黒凪の肋を軋ませて頬を炙った。
黒凪の旋風が、紅音の羽を毟り取り、その拳が骨・肉・内臓を破壊する。
熾烈な奪い合い。
一進一退の攻防。
優劣を測る天秤は、完全に釣り合っていた。
どちらもあと一歩、相手を崩し切れない。
距離が開くと紅音はまた走り、距離が詰まると奇襲を仕掛けた。
ぶつかっては離れて、離れてはぶつかってを繰り返す。そうやって街を駆け抜け、野次馬たちに畏怖と興奮を振りまいていった。クリスマスの熱狂を塗り替える狂騒だ。
高速で駆け、粉雪舞う冬空を飛び交う、異能力者たち。
そして、勝負は最終局面に。
二人は栄のタワーマンションの前に躍り出た。
照井家はここの最上階——戦いの終着点。
黒凪にとって紅音に両親を殺されるのは敗北に等しい。最上階に辿り着くまでに紅音を殺す必要がある。どんな負傷を受けようとも。それこそが、正義の味方を自称する彼が自らに課した規範だ。彼自身の存在意義だ。
紅音も最上階に着くまでにケリをつけたい。最上階に着いて両親という人質を失ってしまったら、黒凪は再び安全圏からの攻撃にシフトするだろう。戦いの構図が変わってしまう。そうなっては紅音に勝機はない。
奇しくも二人の望みが重なった。
紅音と黒凪は、黙って睨み合う。
焼き尽くすような敵意と、最大級の敬意を含んだ眼差し。
最高のダンスパートナーにして最悪の敵——どちらにとってもお互いが。
紅音は滾る感情を覚えていた。何もかも叶えられるほどの才覚を持ちながら、常にそれを封じられてきた。そんな彼女が今、自分の全身全霊をかけても届くかどうか、という巨大な敵を前にしている。
紅音の顔には、自覚のない笑みが浮かんでいる。
黒凪は相変わらずの無表情だ。
しかし、かつてない脅威に静かに高揚していた。
黒凪は少し話してみたくなっていた。
この照井紅音という、特別な取り替え子と。
『あの子、おそらくだけど、尾木羽々が呼び出した悪魔ではないわ』
尾白のもとに黄瀬勇花の死体を届けた日、尾白は紅音についてそう語った。
『尾木羽々の焼け落ちた祭壇を見てきたけれど、あの程度の環境で貴方に匹敵するレベルの悪魔を呼び出
すのは不可能だわ』
『では、あれは何なのだ。他の妖精使いの仕業だとでもいうのか』
『いいえ、おそらく彼女は原典通りの取り替え子なのよ。妖精使いが人工的に作る貴方たちのような取り替え子とは違うもの。本物の妖精の手による、世にも数奇な原典の取り替え子』
『原典の――』
『母親は以前から違和感を抱いていたんでしょう。たぶん、かなり幼いころに替えられたんじゃないかしらね。それが尾木に弄られて能力に目覚めた。事実、彼女は入れ替えられる前に尾木を殺しているはず。入れ替えられた後なら、妖精使いに反撃しようなんて思わないでしょうからね』
『それでその事実は、俺のやることに支障を来しうるものか』
『ないでしょうね。実際、取り替え子であることに間違いないわけだし、人も殺してる。親御さんからの依頼もある。それに——』
『それに——何だ』
『黒凪皆無は最凶無敵の取り替え子よ。貴方の前に障害なんてあるわけない』
黒凪は自らの召還者たる尾白の言葉を反芻し、決然と風を纏った。
「俺は黒凪皆無——最強の男だ」
黒凪は必殺の異能を従えて、一陣の風と化して襲い掛かる。紅音も残りの羽をすべて使い切るつもりで応じた。
真っ赤な炎と黒い風が、激しくぶつかり合いながらタワーマンションの外壁を駆け上がっていく。
炎の羽は残り三十、二十七、二十五、二十と次々に焼け落ちていく。黒凪の自慢の外套もすっかり焼き切れて、痣だらけの上半身が覗いていた。
優劣の天秤は、拮抗している。
紅音は全身全霊を懸けるのは今だと思った。
ここで押し勝たなければ次はない。
両足の翼を大きく広げる。
「だあああああああッッッ」
残り十七枚——すべて燃え上がらせて全身を炎で包んだ。
現れるのは巨大な火の鳥。
紅音の奥の手だ。
黒凪は——勝利を確信した。
この瞬間を待っていたのだ。
勝負を焦った紅音が、全身全霊を懸けてくる瞬間を。
「覚悟、決意、強い情動。それらが実力差を埋めることは断じてないッ」
黒凪は大きく右腕を振り被る。
遥か上空の雲が割れた。分厚い雲の中、静かに準備していたのだ。
特大の旋風——命を奪う黒い嵐だった。
黒凪の奥の手。
火の鳥を吹き消すための最凶最悪の隠し球だ。
「望み通り、すべてを毟り——」
そのとき、黒凪の眼球に小さな虫が飛び込んだ。
普通なら無視してもいいような、わずかな痛み。アドレナリンの出ている戦闘時ならなおのことだろう。しかし、このときの黒凪は、その小さな違和感に思考を一瞬奪われた。
(こんな高層に——虫だと?)
違和感の原因は、彼に刻まれた捨て台詞だった。
『いつかアンタにも、吠え面かかせてあげる』
黄瀬勇花の残した意味深な言葉。
冷静に考えれば、ただの負け犬の遠吠えだ。事実、眼球に入った虫は、黒凪の風に巻き込まれて運悪くそこにいた——それだけの存在だった。
けれど、それは致命的な隙を生んでいた。
直前に黄瀬と戦っていたこと。彼女が意味深な捨て台詞を残したこと。あのときの少女の覚悟を見ていたこと。その熱にわずかばかり当てられていたこと。そういった小さなことの積み重なりが、黒凪の思考に一瞬のバグを生んでいた。
覚悟、決意、強い情動。
それらは一時限りだが、だからこそ眩しく輝いた。
誰にも知られずに飛んだ一匹の蝶の羽ばたきが、黒凪の目を眩ませた——致命的な場面で。思考に生まれた一瞬のバグ。一瞬の重みが最大限に上がった今、それは天秤を傾けるに値する重みになった。
優劣の天秤が、傾いた。
虫一匹の重み。けれど、それが均衡を崩した。
黒凪は生まれて初めて屈辱を知った。
そして、なるほどと思った。
きっと今、自分の浮かべているこの表情こそが吠え面なのだろう。
回避も防御も不能な距離に、火の鳥が迫っていた。黒凪の奥の手は、一瞬の差で間に合わなかった。熱風と化した蹴りが、黒凪の鎖骨を捕らえた。
踏み砕かれる感触——勢いは止まらない。
火の鳥は黒凪を丸呑みにすると、タワーマンションの最上階に突き刺さった。
紅音と黒凪は火だるまの状態で窓ガラスを突き破り、室内に転がり込む。すぐに起き上がる紅音と、倒れていつまでも動かない黒凪。異常事態に言葉をなくす紅音の両親。
照井家に到着。そして、決着だった。
◇
白亜は紅音を追って再び走っていた。途中まで先輩のバイクで追いかけていたのだが、タンクローリーが爆発炎上したとか、玉突き事故があったとか、いろいろな場所・理由で道路が封鎖されていたのだ。
先輩に御礼を言って、白亜は駆け出した。
SNSを開いて「名古屋 事件」で検索をかけると次々に目撃情報が飛び込んでくる。その情報を頼りに走った。途中からは、紅音の家を目指しているんだと気づいていた。
そして、走る白亜は、雲が割れるのを見た。
粉雪を降らせていた雲が割れて、茜色の空が覗いた。直後、大きな炎のうねりがタワーマンションに突き刺さった。紅音の家から火の手が上がる。特大のクリスマスキャンドルだ。
白亜はようやくタワーマンションの前に着いた。
野次馬が集まってくるのを、警察や消防が押し留めている。白亜も野次馬や警察に阻まれてマンションに近づけない。
白亜は背伸びをして、首を伸ばして、必死に紅音を探した。
心臓がバクバクと鼓動を刻む。
悪い予感——もう立ち去った後?
「お探しのものは見つかりましたか?」
背後から声がする。
振り返ると、ダウンジャケットを着てニット帽を被った女の子がいた。
白亜は息を呑んで、安堵のあまりまた膝から落ちかけた。紅音だった。
紅音は白亜を抱き止めて言った。
「着替えただけで、みんな気づかないものですね」
「勝ったの、あの黒い人に」
「はい」
「ご両親は——」
「生きてますよ。相変わらず、話のできない人たちでしたけど」
紅音はそう言って苦笑い。
両親との決別を済ませてきた少女の顔だ。「もう私に関わるな。私も二度と貴方たちの前には現れない」と宣言してきた。反論は武力で封じた。
紅音はニット帽を脱いで白亜に被せた。「マフラーのお詫びです」と言う。
白亜は、紅音の顔をじっと見た。
そのまま、「サヨナラ」を言ってしまいそうな顔だ。
だから、紅音が何か言おうとした瞬間、その頬を両手で挟んで黙らせた。
紅音は頬を挟まれて、唇の突き出た状態で言った。
「しぇんぱい?」
「これ、アンタに渡しとこうと思って」
白亜は紅音のダウンジャケットに小さなものをねじ込んだ。
紅音はポケットをまさぐり、それを取り出す。
ねじ込まれたのは鍵だった。
鳥のキーホルダーが付いた、ワンルームの合鍵。
「アンタを縛ったり、閉じ込めたりはしない。でも、どんな鳥だって一生飛びっぱなしなわけじゃないでしょ?」
白亜は、驚く紅音の額にキスをした。
その後で盛大に顔を赤くしながら、それでも真っ直ぐに見つめて言った。
「いってらっしゃいのキスだぞコラ」
紅音は今にも泣き出しそうに顔を歪めてから、悪戯っぽく笑い返した。
彼女の右足首に一枚だけ炎の羽が灯った。
「——いってきます」
そう言って、彼女は飛び立った。野次馬たちが驚いて空を見上げる。
群集の中で、白亜も同じようにそれを見送った。
高いところを自由に駆ける、美しい、特別な少女の後ろ姿だ。
白亜は涙を堪えるように上を向き続けた。
目もとは初めての失恋を知った少女のようで、けれど、口許に笑みを浮かべて呟いた。
「なんで、いってきますは様になんのかな、アイツ」
そして、白亜はあのワンルームに戻った。
いつの日か、「おかえり」を言うために。
いつの日か、「ただいま」を聞くために。
〈了〉