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第七章 正義の凶鳥

        〇


 毎夜、夢を見るたびに思う。この「私」という意識は何なのかと。


『どうして私の言うことが聞けないの』


 その日も、あの人はいつものように騒いでいた。

 理由は簡単だ。

 私が——テルイアカネが、あの人の薦める女子大への進学を拒否したから。このことに父は口を挟まなかった。「家のことはお前に任せる」が父の口癖だ。


 あの人にとって、私は薄気味悪い存在だった。


 あの人の中では、私は何をやっても嫌味なほどによくできる、自分の娘だとは思えない怪物だった。だから、私に無理難題を言い、できないことを見つけては、ほっとした表情を浮かべていた。そんな弱い人だった。娘を支配していないと安堵できない人。


 そんな人が、私の母親だった。


 そんなあの人にとって、「自分の娘が同性の先輩と付き合っていた」ということ、「娘の志望校がその先輩の大学と同じだった」ということは、青天の霹靂だったに違いない。

 あの人がどういう経緯で知ったのかはわからない。激高したあの人は、ヒステリックに叫び散らすだけだったから。まともに会話なんて成立しない。

 あの人は、私のことを病気だと言った。「あなたは病気だ」と言った。


 だから、私をあの男のもとに連れて行った。


 教育評論家。

 しつけコーディネーターを自称する男。

 尾木羽々のもとに。

 そして、私はその男の手によって、今の「私」になった。


 火の鳥の取り替え子。


 火の鳥の能力を持ち、テルイアカネの知識を持つ少女。テルイアカネの身体と、火の鳥の魂を併せ持つ存在。だけど、本当にそうなのだろうか。

 記憶が混ざり合うにつれて、私は小さな違和感を重ね続けていた。


「私は本当に、テルイアカネではないのか?」


 母親に対する嫌悪も、ハクアに対する愛情も、私のものではないのか。そもそも、テルイアカネの脳から生じるこの意識が、テルイアカネのものではない、なんてことがあるのか。それなら私のこの意識は。一体、私は——……




「紅音、大丈夫?」


 白亜の声で、私は目を覚ました。

 目覚まし時計の針は、まだ深夜を指している。どうやらうなされていたらしく、白亜が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。私はひどく喉が渇いていた。


「大丈夫です。でも、ちょっと水飲んできますね」


 私はそう答えて、ベッドから抜け出した。

 そして、決定的に気がついた。

 私がもう、私でしかなかったこと。

 そして、思い出した。

 私がもう、二人も殺しているということ。


        ◇


「派手にやったものね」


 白衣を着た整った顔立ちの女が、少女らしき死体を見下ろして言った。

 そこはアルコールの匂いに満ちた、真っ白な部屋だった。

 蛍光灯のライトに照らし出される壁や床は、漂白されたように白色である。

 窓の類いは一切なかったが、壁や床が蛍光灯の光を反射するためか、どこに立っていても眩しいくらいだった。断捨離が行き過ぎたような殺風景な部屋には、手術台らしきものがいくつか並んでいるばかりだ。

 そして、その手術台の一つに、黄瀬勇花の死体が横たわっていた。少女の面影を微かに残してはいるが、その全体は悪魔のごとき異形だ。


「これでは遺族への引き渡しにも支障が出るわ」


 白衣の女はその死体から目を離さず、背後に立つ大きな影に向かって言った。


「もう少し穏便に加工できなかったかしら、カイム」


 黒凪皆無はいつもの無表情で黙り込んでいる。

 白衣の女は振り返って「無論、出来るものならそうしていたって顔かしらね」と、黒凪の無いはずの表情を読んで言った。

 白衣の女——尾白は、聞き分けのない生徒を見るような目で黒凪を見ている。黒凪はひたすらに黙り込んで彫刻のように立っていた。尾白は「はぁ」とため息を吐く。演技じみた仕草でやれやれと首を振った。


「最強の器と中身を用意したのはいいけれど、貴方にはもっとユーモアのセンスを足してあげるべきだったわね」

「今後の課題にするといい」

「はいはい。とりあえず、この子の処理は承ったわ。でも、本命をどうするの」

「問題ない。必要な情報は集まった」


 黒凪は淀みなく答えた。言葉に誇張はなかった。とある大学の敷地内で目撃談があった。黄瀬勇花が裏切った。それだけで多くのことがわかる。会うべき相手は多くない。


「悪は滅びる定めだ。俺の前に例外はない」


 黒凪は昆虫じみた無表情で言った。尾白は「そういえば」と話を変えた。


「今日、アポイントもなく持ち込んでくれちゃったわけだけれど、貴方、私のあげた携帯はどうしたのよ。iPhoneがあったでしょう、私のiPhoneが」

「ああ、あれについてだが……」

「何よ。貴方にしては歯切れが悪いじゃない」


 尾白は肘で突きながら、怪訝そうな「?」という表情で黒凪を見上げている。

 黒凪は沈黙を続けた後、小さな声で応じた。


「iPhoneは、俺の青い鳥と共に焼失した」


 黒凪はいつもの無表情であったが、尾白にはやや落ち込んでいるように見えた。


        ◇


 月曜日の夕方。

 黄瀬勇花の訃報は、彼女の母親から白亜にも伝えられた。

 地下鉄のホームから転落、通過中の電車と接触して即死。遺留品から身元の確認が取れたものの、肉体の損傷が激しく納体袋での引き渡しになること。そして、事件性の確認のために今しばらくの検死が必要になること。

 それらが黄瀬家に伝えられた情報のすべてだ。


 無論、嘘だった。


 尾白が手を回し、書類を揃えた結果だ。


 だが、ほとんどのものは自殺を疑わないだろうと思われた。

 黄瀬家が不和を抱えていたこと。学校でも浮いていて一時は不登校であったこと。黄瀬勇花を取り巻く環境は、容易に自殺という物語を想起させる。

 尾白の用意した筋書きは、いっそ真実よりも真実味のある死だ。

 悪魔に取り換えられた黄瀬が、死の間際まで戦っていたと言ったところで誰が信じるものか。


「——はい、はい、ご連絡ありがとうございました。その、この度は……では」


 白亜は弔意の言葉も思いつかず、相手の言葉に応じて電話を切った。

 けれど、正しい受け答えはなかったに違いない。

 どんなに優しい言葉であったとしても、大切な存在を失った悲しみを、正しく慰めることはできなかった。失った形の空白は、空白のまま抱えて生きていくしかない。時間の経過でその空白から目を逸らす術を覚えたとしても、そこが埋まることは決してない。


 黄瀬勇花は死んだのだから。


 他人の痛みに敏い白亜は、それゆえに何も言えなかった。通話の切れたスマホを片手に、腰かけていたベッドから立ち上がる。夜風を浴びたかった。


「ちょっとコンビニ行ってくる。紅音は何かいる?」


 白亜はそう言い、紅音の返事を待った。「ごゆっくり」だそうだ。

 白亜は苦笑いして家を出た。


「……さむっ」


 十二月二十三日。昨夜にも増して、寒い夜だった。

 風は凍みるように冷たくて、白亜はポケットに両手を突っ込んだ。

 とりあえず、近くのコンビニに足を向ける。

 そして、すっかり虫のいなくなった冬空の下を歩きながら、真っ白な答案用紙の前で硬くなっていた少女のことを思い出した。「ごめんなさい」と泣いた、「仕方がない」と笑った、初めての教え子のことを思い、白亜は少しの間、泣くことにした。


        〇


 コンビニに行くと言って、白亜先輩は家を出た。

 相変わらず、嘘が下手な人だ。財布も持たずに出てくのだから。電話の会話を漏れ聞いた限りでもわかった。黄瀬勇花が死んだのだと。虫かごからは飛び立てなかったのだと。

 私は暖かな室内からベランダに出た。

 クリスマス直前の冷え冷えとした空には、厚い雲が広がっている。寝間着一枚では寒いはずだが、今の私には問題なかった。


 火の鳥の能力。私に備わった常軌を逸した力だ。


 結局のところ、私の記憶が歪んだのは、これのせいなのだろうか。


 受動意識仮説というものがある。ベンジャミン・リベットの実験に端を発するこの仮説において、人間の自由意志というのは仮初めに過ぎないものだという。

 人の行動は「意識してから」はじまるのではなく、「行動を起こしてから」それに付随して意識が起きるというのだ。つまり、この仮説において、意識というのは起こった出来事を後追いで承認しているだけの装置ということになる。


 二十世紀末ごろにあった、実際に行われた実験からの仮説だ。


 私も白亜先輩の講義レジュメなどから学んだばかりの話で、荒っぽいまとめ方だという自覚はある。けれど、そういう仮説があるらしいのだ。

 この「私」という意識は、現実を切り取り、物語として紡ぎ直すための装置。とすれば、火の鳥という私の意識は、あり得ない現実を解釈するために生まれた、仮初めの自我だったのかも知れない。素人考えだけれど、私はそういう風に受け入れていた。

 黄瀬勇花は違う考えを持っていたようだけれど。

 それとも、あの黒外套の男ならもっと詳しく知っているんだろうか。

 取り換え子という不可思議な現象について。


「あの黒外套なら……」


 私は公園で襲い掛かってきた男のことを思う。両親の依頼で動いているという、化物じみた強さの男だ。実際に半分くらい化物なのかも知れない。今の私と同じく、何か常軌を逸した力を持っていた。

 あの黒外套の男が、私に迫りつつある。私はそれを確信していた。


「…………」


 私が「照井紅音であること」を主張すれば、黒外套は襲うのをやめるだろうか。

 そう考えてもみたが、ダメだろう。私はもう二人殺している。


 しつけコーディネーター、尾木羽々。


 名前も知らない強姦未遂男。


 どちらも殺すしかない状況だった。尾木は私の心を殺そうとした。母に従順な奴隷として作り変えてしまおうとした。強姦未遂男には、私の腕力では抵抗し切れなかった。下手に抵抗すればそれを上回る暴力に襲われるだけだ。それでも抗うには、私は法という規範を犯すしかなかった。男の暴力をさらに上回る、死を伴う暴力で対抗するしかなかった。でなければ、私は私の身体を奪われていた。


 どちらの瞬間も、法律という規範は私を救ってはくれなかった。


 けれど、あの黒外套の男は許さないつもりだ。


 例えあの男が許したとしても、私はまた鎖に繋がれる。規範という鎖。母という鎖。私を殺そうとする棺桶の世界に連れ戻される。

 それはもう、我慢ができない。

 私はもう私を殺そうとする相手を許せない。

 棺の中で死んだように生きるのは、もう終わり。


『さっさと飛び出しちゃいなよ。アンタ、火の鳥なんでしょ?』


 黄瀬勇花の言葉が脳裏を過ぎり、私は微笑んだ。

 微笑みながら、暖房の効いた部屋を振り返る。

 そこで過ごした日々を思うと、こんな状況でも温かい気持ちになれた。


「居心地、よかったな……」


 巻き込むわけにはいかない。亡くなった少女もそう願っていたはずだ。

 私は自由になる。すべての縛りから解き放たれて。

 あの夜、怒っていたのは私なんだ。「これは正当な防衛だった」と繰り返しながら、怒り続けていたのは私だった。私が火の鳥だった。


 だから、あれは私の怒りだ。


 理不尽に縛られ続けた、私の怒りだ。

 私は、今こそ自由になる。

 すべての繋がりを断ち切って。

 私を押し殺そうとする母親から、私を追い殺そうとする黒外套から、私を縛り殺そうとする法律から、そして、大好きなあの先輩からも。


「居心地、よかったんだけどなぁ……」


 一緒にいると、いつまでも彼女の優しさに甘えたくなる。彼女の隣にいたくなる。彼女と一緒に生きていきたいと思ってしまう。でも、私にそれはできない。


 この優しい檻の中には留まれない。


 探さないといけない。自由に生きる方法——あの黒外套や、私を守らなかった法律や、私を追う様々なものに縛られない生き方を。殺されない戦い方を。

 だから、「サヨナラ」をしなくちゃいけない。ちゃんとわかっている。


 それでも、明日はクリスマス・イブだ。


 最後にせめて明日くらい。


 そう思うのは「いけないこと」だろうか。


        ◇


 翌朝、白亜が目を覚ますと、台所に制服姿の紅音が立っていた。

 自前の黒いセーラー服の上からエプロンをかけ、早朝にも関わらず、もうきちんと髪を梳かしている。背中の中程まで届く彼女の黒髪には枝毛一つなく、烏の濡れ羽色に輝いて上質な織物のようだ。

 整えられていたのは容姿だけではなかった。立ち居振る舞いにも隙がなく、一つ一つの所作が以前にも増して洗練されているように感じる。


「昔の紅音っぽい……」


 白亜がぼんやり見とれていると、紅音はテキパキと朝食を並べる。そして、「何をぼうっと見ているんですか」と呆れたように笑った。遠慮のない笑い方は、最近までの不遜な紅音を想起させるものだった。「まずは顔を洗って来たらどうですか」と紅音が勧めた。

 白亜はもたもたと洗面台に向かい、そろそろと帰ってくる。

 食卓に着き、二人揃って手を合わせた。


「いただきます」

「いただきます」


 しばらくいつも通りに食事を進めていると、先に食事を終えた紅音が切り出す。


「今日は外出します。クリスマス・デートです」

「はぁ、それは結構なご予定ですね……」

「そういうことなので食べたら準備してください」

「うん。了解ぃあっ、えっ、ああっ!?」


 白亜は摘まんでいた卵焼きをご飯の上に取り落とした。紅音は素知らぬ顔で自分の食器を下げると、鼻歌交じりに洗い始める。

 白亜は上機嫌な後輩の後ろ姿を呆然と眺めた。


 そして食後、白亜が準備を済ませるのを待って二人は家を出た。


 玄関のドアを開けると、雪が降り出しそうな厚い雲が広がっている。

 白亜は白色のダッフルコートにマフラーと手袋で防寒していた。それでもちょっと肌寒いと思うくらいだったのに、隣の紅音は制服一式だけで生足まで晒している。


「紅音、そのカッコは寒くない?」

「寒くないです」

「いやいや。でも、見てるこっちが寒いから」


 白亜はそう言って、自分のマフラーを紅音の首に巻いた。紅音は少しだけ途惑うような素振りを見せたが、結局はそのマフラーに顔を埋めて嬉しそうに微笑んだ。それを見て、白亜は急に気恥ずかしくなる。「何照れてんですか?」と突っ込まれて、白亜は「照れてねーし」と下手くそに誤魔化した。紅音は全部お見通しの澄まし顔だ。


「とりあえず、栄の方に出ましょうか」


 紅音がそう提案するのを聞きながら、白亜はコンドルのキーホルダーが付いた鍵で、家のドアを施錠する。そして、二人のクリスマス・デートがはじまった。


        ◇


 紅音と白亜は地下鉄の栄駅から表通りに出た。栄は名古屋市を代表する繁華街だ。三越などの百貨店や有名ブランドの店舗、パルコなどの大型のショッピング施設が並んでいて、クリスマス・イブともなると平日であっても大勢の人が行き交っている。


 紅音と白亜は、テレビ塔の立つ久屋大通公園を歩いた。繁華街の真ん中を貫くように長く伸びた公園には、イルミネーションに彩られた樹木が並び、紅音は上機嫌にイルミネーションの間を進む。足取りは軽やかで、人混みの中も自由にすり抜けていった。


 白亜もはぐれないように後を追う。

 その半歩先で紅音は花々を飛び移ろう蝶のように、ひらひらとマフラーを翻す。

 紅音との距離は中々縮まらず、それどころか、人混みに消えたかと思ったら、少し先の開けたところで悪戯っぽく手を叩いていたりする。「鬼さんこちら」とでも言わんばかりに、挑発的な笑みを浮かべて。

 白亜は人混みを掻き分けて追いつくと、ご満悦な表情の紅音に文句を言った。


「お前、何がしたいんだよ……」

「一度、追われる立場というのを経験してみたかったので」

「うわ、何言ってんだ、コイツ」

「その反応、普通に傷つきます。というか、高校時代からそうだったじゃないですか。私が追いかけてばかりで、白亜先輩はつれない態度。だけどまさか、大学生になった途端、返事一つくれなくなるとは……」


 紅音が「まったく薄情ですよねー」と湿った視線を送る。

 白亜はあたふたと視線を泳がせて誤魔化した。


「それはその、あっ、高校時代って言うけど、紅音はまだ高校生じゃん!」

「はぐらかした! 聞いてください。この人は今、人の話をはぐらかしましたよ。そういうのって、どう思います? よくないですよねー?」

「こら、知らない人に声をかけるな。あっ、どうもすみません……」


 二人は通行人に頭を下げて、それから並んで歩き出した。

 歩き出して少ししてから、白亜が「悪かった……」と小さく、けれど、紅音にぎりぎり届く声で呟いた。

 それでも、紅音は素知らぬ風を装い、白亜を一瞥する。「何か言いました?」と言わんばかりに空とぼけた目だ。

 白亜は観念して謝った。


「ごめん。こっちもいろいろ余裕なかったんだ。本当に薄情だった。反省してる」

「ふふ、まぁいいでしょう。少しですが、気は晴れました」


 少しどころか、紅音は何もかも許した顔で晴々と笑う。その幸せそうな笑顔に、道行く人たちすら振り返った。白亜も咄嗟に息を呑む。

 紅音が白亜の手を取った。「今日はフルコースです」と言うと、白亜の手を引き、街の散策を再開する。きらめくイルミネーションを見て回り、ハーブスでケーキ付のランチを食べて、コスメや洋服の直営店を冷かし、楽しかった思い出をなぞるように笑い合った。


 ただ、普通に楽しい時間が流れた。


 特別な少女が求めていたのは、その普通な時間だった。そして、紅音は「行きたいところができました」と駅の方向に歩き出す。白亜は「どこに行くんだよ」と尋ねたが、紅音は悪戯っぽく笑っただけで黙って先導した。




 向かった先は、動物園だった。

 大学近くにある、二人で訪れた思い出の場所だ。

 白亜が二人分の入場券を買い、閉園も間近な動物園に入った。来園ゲートを潜り、帰宅する他の来園者たちの横を通り過ぎて、紅音と白亜は園内を回り始める。二人は檻の中の動物たちを眺めながら、ポツポツと言葉を交わした。


「白亜先輩、大学がすぐ近くなら割と来てるんじゃないですか?」

「いや、全然。紅音と一緒に行ったのが最後だよ」

「大学に友達がいないんですか?」

「そんなことはない」

「目を見て言ってください、こちらの目を」

「どこ見て答えようと一緒だろ、そんなの……」

「誤魔化すの、下手すぎませんか?」

「うるへー」


 白亜は不満げに口を結び、紅音は微笑んだ。

 白亜はそんな紅音の横顔を盗み見る。だから、紅音の笑みが一瞬、寂しげなものに変わったことにも気が付いた。

 紅音の変化を肌で感じる。何か大事な話があるのだと。


「ずっと幸せでした。先輩といられたから」


 紅音が言った。白亜は、考えないようにしていたことが、どうしても脳裏に浮かんで離れなくなっていた。

 いつか来ると思いながら、考えることを避けていたことだ。

 白亜が意識するより先に、繋いでいる手に力がこもった。その後で、白亜は意識的にさらに強く手を握り締めた。

 紅音はそれを嬉しく思いながら、予定通りに切り出した。


「ずっと一緒にいられたら、よかったのに……」

「あたしは全然構わないけど。何なら紅音が大学に入った後、どっかにもっと広い部屋でも借りてさ。ルームシェアしたって」


 紅音の人差し指が、白亜の唇にそっと触れた。

 その指先は熱くて、暖かかった。今まで白亜と繋いでいたからだ。まるで魔法のように擦り抜けてしまった手を、白亜はじっと見た。紅音の目が慈しむように白亜を見返す。そして、鋭く射抜くような目で、白亜の奥に立つものを睨み付けた。

 白亜も視線を追って振り返る。


 男が立っていた。


 黒いトレンチコート姿の、厳めしい大男だ。不気味なほど静かで、昆虫よりも無表情な男が、猛鳥の檻の前に立っていた。その男の、墨汁で塗り潰されたような光沢のない瞳が、揺るぎなく紅音を見据えている。


「黒外套」


 紅音が呼んだ。大男がそれに応じた。


「動物園とはよい趣味だ。ここは正しい。すべての獣は、檻の中にあって初めて社会と共存し得る。その実例を端的に示す、これ以上ない場所と言えよう」


 その声は、降り出した粉雪よりも冷たく、事務的なものだった。

 紅音は、男の蓋の抜けたマンホールのような双眸を睨み返して問いかけた。


「檻の中の動物は、幸せだと思う?」

「檻の外に出て、殺されるよりは幸せだ」

「殺す、誰が?」

「規範だ。社会を安定へと導く力が、悪しき獣を滅ぼすのだ」

「それじゃあ、私を殺そうとする、貴方は何?」

「正義の味方」


 男は、羞恥も躊躇いもなく言い切った。


「黒凪皆無だ」


 街を支配する規範の化身は、黒い旋風を従えてそう答えた。

 紅音は前に進み出て、困惑する白亜を振り返ってみせる。「時間切れみたい」と無垢な少女のように白い歯を見せてから、名残惜しそうに眉を落として呟いた。


「先輩にとって、可愛いだけの女の子でいたかったな……」


 そして、猛禽のような鋭い眼差しで前を向いた。

 粉雪が降っていた。

 閉園時間が近いせいか、客足は疎らになっている。

 紅音は前に進みながら、「ほうっ」と繰り返し息を吐いた。寒さで白く煙る吐息には、茜色の揺らめきが混じっていた。粉雪を解かす、熱い炎の揺らめきだ。

 その揺らめきは、首のマフラーに触れると、たちまち炎上した。


「あっ、紅音ッ!?」


 白亜が駆け寄ろうとしても、ひりつくような熱がそれを拒んだ。

 目に見えない熱量という壁が、紅音と白亜を隔てていた。マフラーはさらに燃え上がり、炎の壁となり、渦となり、紅音の足もとで六枚の羽を象った。左右の足首に三枚ずつ、揺らめきながら輝く炎の羽だ。

 そして、その少女は決別と決意を胸に切り返す。


「私は火の鳥だ。檻も棺も必要ない」


 猛禽の眼をした少女は、六枚の燃える羽を従えて飛び出した。


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