第六章 蝶の一生
◇
好きなもの。
黄色い、フリルがたくさん付いた服。
泣ける恋愛映画。
ホイップクリームいっぱいのパンケーキ。
だからその日、黄瀬勇花は大好きな服でめかし込んで、街に出た。
駅前の大きな映画館は、土曜日だからすごく混んでいたけど、運よく好みの席が取れた。
映画の内容の方も、ほどよく笑えて十分に感動的だった。好きな人と一緒に見られたら、もっと素敵だったのかもしれない。隣の席のカップル客が、ちょっと羨ましかった。
映画館を出た後は、パンケーキが美味しいことで有名な喫茶店に入った。実は前から入ってみたかったけど、大人っぽい雰囲気にしり込みしていたお店だ。
クリームが少ないところだけ残念だったけど、お小遣いで食べられる範囲内だと、まずまず悪くなかったかな。生地はふわふわだったし、及第点ってことにしておく。
その後は、駅前近くにある街のシンボルの『飛翔』も見たし、ナナちゃん人形も見た。虫を使えばいつだって見られたけど、やっぱり生で見るのとはだいぶ違うから。だいたい、虫の目だと複眼で変な感じがするし。
それからそれから、クリスマス前の街並みは、名古屋でも十分綺麗だ。東京にだって負けてないと思う。東京には、もうあんまり行ってないけど。前は大会とかでちょくちょく行ってたんだけどな。
やりたいことは全部やっちゃって、お小遣いも残りちょっとだから、後は街の空気を楽しむだけにする。イルミネーションの中を一人で歩いていると、勝手にロマンティックな気持ちになれた。さっきの映画の主題歌とか口ずさんでいると、もっといい気分だ。
クラスの子を見かけてそっと隠れる。
本郷蝶花は、黄瀬勇花以外の友達を見つけたらしい。それはいいことだ。これでもう付きまとわれないで済むんだから。
そう思ったはずなのに、ちょっと嫌だなと思ってしまった。人間の感情は面倒くさいようにできていて、でも今はそれも悪くないと思っていた。
ああ、土曜日が終わっていく。
雪が降りそうなくらい冷たい、十二月の土曜日。
今日は週に二回の家庭教師の日だった。
好きなものの最後。
白亜先生。
最高の休日を締め括る、最高のイベントだ。
だけど、今日はそれだけお預けにする。
先生には会わない。家庭教師をズル休みして、代わりに会おうと思う人がいる。白亜先生には悪いけど、その人に会っている間だけわたしの家にいてもらう。
残り少ないお小遣いで電車に乗った。
行き先は一人暮らし用の賃貸物件だ。
当たり障りのない階段を上り、どこにでもあるようなドアの前に立った。
土曜日の十八時。
白亜先生は今、ここにいないはずだ。
深呼吸して呼び鈴に指を伸ばす。
ピンポーンとありふれた音。
ドアが開き、部屋着の彼女が現れる。
「お久しぶり、照井紅音さん」
紅音は、突然現れた中学生を見ても動じなかった。
「中に入れ」
全部見透かしているみたいな目と、言葉の端的さは、少しあの男に似ていた。
◇
「キセユウカ、だろ?」
お茶を出すとき、紅音はそう言って指摘した。
ローテーブルについていた黄瀬は、意外な思いで頷き尋ね返した。
「覚えてんだ。結構意外」
「体操クラブのキセユウカだ。お前もそうなのか?」
「尾木羽馬の作った〈取り換え子〉って点では、まったく同じ。アンタは追われる側で、わたしは追う側だったけど。あっ、ちなみに過去形だから、勘違いしないでよね」
「黒外套の手先だったということか」
「話が早くて助かる。そっ、今日は忠告に来たの。ってか、警告かも」
そう言って、黄瀬は紅音の淹れた紅茶を飲んだ。何かフルーツのような風味がする。紅音も自分のカップを傾け、視線だけで話の続きを促した。
「あいつは今、日本にいる異能者の中では正真正銘の最強。だけど、あいつの活動範囲は東海エリア限定だから、この街を出たらそれ以上は追われない。今のままだと、白亜先生が巻き込まれちゃいそうで。それは嫌だし。だから、アンタは街を出なさい」
「白亜が心配か」
「そっ、わたしの家庭教師なの。アンタが死んだら、先生が悲しむ」
「そうか」
紅音は短くそう言って、それきりだった。もっといろいろ言ってやりたいけど、でも言わなくてもわかってるんだと、黄瀬は思った。
この警告が、黄瀬にとって命がけであることも。あのサイコ野郎が、本当にどうしようもないくらい強いことも。全部わかった上で、後は自分で判断するつもりなのだ。
黄瀬は出された紅茶を飲み終えて、席を立った。
「それじゃ、警告はした」
「お前は、どっちなんだ?」
紅音は自分の紅茶にミルクを落としながら言った。白いミルクと紅茶が交わり、渦巻くように色が溶け合っていく。黄瀬は「うん?」と一瞬首を捻ったが、すぐに思い至った。
蠅蛆の悪魔なのか、黄瀬勇花なのか。
火の鳥なのか、照井紅音なのか。
自分が今、どっちなのかわからない。彼女たちは同じ悩みを持っているのだ。
そしてそれは、お互いより他に相談できる相手がいない。そう思うと、黄瀬はなんだか少し、先輩になったような気がした。
あの照井紅音に先輩面ができる。
それはいい気分だと、黄瀬は悪戯っぽく笑った。
「わたしは自分のこと、黄瀬勇花のガワを被った悪魔だと思ってる。でも、黄瀬勇花の記憶は持っているし、そのせいで厄介な感情に振り回されたりもする。けど、今は結構、その『人間らしい感情』ってやつも嫌いじゃない。こんなところかな」
「そういうものか」
「あっ、ならわたしからも質問あるんだけど、聞いていい?」
「フン、好きにしろ」
紅音がそう言うと、黄瀬はまた座り直して距離を詰める。
近くで見ると、紅音の顔はやはり魅力的で、黄瀬は覗き込むように尋ねた。
「アンタみたいに完璧なやつが、どうして尾木なんかに依頼されたのよ?」
「それは、どういう意味だ?」
「ってか、わたしが尾木に出された理由、半分くらいアンタのせいだからね? そのアンタまで尾木に出されてんの、全然納得いかないんだけど」
それから二人の少女は、お互いが尾木羽馬のもとに出された経緯を話した。
有能を理由に変えられた人間と、無能を理由に変えられた人間の物語。
二人の理由は正反対だったのに、辿り着いた場所はぴったり同じだった。
まったく違う道筋で同じ結末を迎えた相手の存在は、二人にとってささやかな救いでもあった。結局のところ、どんな風に生きていても理不尽な目には遭うのだと、答え合わせができたから。
その理不尽に、二人は微苦笑を浮かべ合った。
「未成年なんて、やってらんないね」
「未成年なんぞ、やってられないな」
その瞬間、確かに二人は分かり合えていた。
全然違う道を歩きながら、たまたま今、この瞬間だけは、同じ悩みを抱えて生きるものとして二人は交わっていた。別々の二つの直線が一点でだけ交差して離れていくように、これから先は離れていくだけの関係だと分かっていたけれど。
それでも今、このワンルームの中でだけは、彼女たちは無二の親友になり得た。
無関係の二人だったものが、
一時だけ交わっただけの他人同士が、
人知れず敵同士だったはずの彼女たちが、
たまたま今だけは、人生の一瞬の中で親友であった。それは一緒に過ごした時間の過多などでは決して贖うことのできない、同じ相手を好きになり、同じ悩みを抱えた、どうしようもなく違った二人だから到達できた関係だ。
他のどんな出会い方をしていても、こうはならなかった。
今以上はない。
ここが彼女のたち二人の極北だった。
黄瀬は玄関で靴に履き替えると、見送りに立つ紅音を振り返って言った。
「黒凪はホントに最悪で、名古屋はあいつが支配する檻でしかない。こんなとこ、さっさと飛び出しちゃいなよ。アンタ、火の鳥なんでしょ?」
「だが、お前はどうする。明日が報告の期限だと」
「わたしは何とかする。ううん。やり残したことが、あるの。この虫かごの中で」
黄瀬は羽化できなかった蝶を思う。
蛹のまま中身を食いつくされた蝶。
とある少女の末路。
だけど、黄瀬勇花はここにいる。
ガワを被った悪魔だけれど、でも、この感情も記憶も黄瀬勇花だ。
黄色い、フリルがたくさん付いた服。
泣ける恋愛映画。
ホイップクリームいっぱいのパンケーキ。
やっぱり、全部好きだった。
そして、黄瀬勇花なら目指さなければいけない。目指して期待に応えたい。黄瀬小楢の期待でも、本郷蝶花の期待でもない。黄瀬勇花自身が、自らに思う期待に応えたい。
勇気の花と、名づけられた少女。
黄瀬は精いっぱいの不敵な笑みを作り、上り口の紅音に言った。
「飛び方、思い出さなきゃいけないみたいでさ」
蠅蛆の子ではなく、美しい蝶になりたいのだと。
◇
日曜日の黄昏時、約束の三日後。
黒凪はいつものトレンチコート姿で、暗い街路を歩いていた。口に煙草を咥えて、自分の車に近づく。
黒凪の愛車はそのとき、名古屋港の近くに止められていた。
今から愛車に乗り込み、黄瀬の家を訪ねようというところだ。
車の周囲には工場の無骨な建物が並び、すでに人気はなかった。明滅を繰り返す頼りない街灯が、彼の愛車を夕闇から浮かび上がらせている。
黒凪は運転席側の鍵穴にキーを差し込むと、解錠してドアを開けた。
大量の羽虫が、車内から殺到する。
濁流のような密度と数の虫。
黒凪の視界が遮られた。
黒凪は右腕を振り被る。扇ぐように右腕を振り抜くと、黒い旋風がブルーバードの車内で荒れ狂い、視界を妨げる羽虫たちを鏖殺した。
けれどその瞬間、黒凪の頬に何かが飛び掛かった。
黒凪はそれを左手で叩き落とす。
地面に落ちたのは、雀の死骸だった。動く死骸には蛆虫が巣くっていた。
黒凪は左手の甲を見る。
死骸のぶつかった箇所にも、蛆虫が付着していた。
路地裏で動物の死骸を一瞬で喰らい尽くした、尋常ならざる蛆虫たちが、今まさに黒凪の肉にも喰らいつこうと——、
「敵対を選んだか。少しでも勝てると思ったか」
黒凪は埃でも払うように左手を一振りした。
黒い風にまかれて蛆虫たちは死滅した。
「愚かなことだ。炎に飛び込む虫を選ぶとは」
虫を操る黄瀬の能力は、生命を強制終了させる黒凪の風と最悪の相性だった。
黄瀬の生み出す蛆も蠅も、黒凪には届かない。
黒凪は周囲を軽く見渡す。
黄瀬の姿はない。当然の選択だ。黒凪の射程内に入れば、即死かつ回数無制限の風のせいで勝負にならない。ゲームに出したら即日修正を入れられるような、著しくバランスを欠いた異能だ。だが、これはゲームではなかった。非現実的な現実は、けれど、その不平等性に関してだけは紛れもなく現実的だった。
黄瀬に取れる最善の戦法は、黒凪から身を隠しつつの奇襲だ。
幸いにも、紅音捜索という名目で今なら街中に虫が散布されている。この街すべてが黄瀬の目だ。
黄瀬はこう考えていた。『照井紅音も見つけられなかった男が、常に相手の位置を把握できる自分に辿り着けるわけがない』と。そこに勝機を見出した。
「見ているな」
だが、黒凪は地面に叩き落とした雀の死骸に向かって言った。
煙草を落とし、靴底で火を消して「すぐに行く」と。
黄瀬は深夜の中学校に潜り込んでいた。最初からそこにいたわけではなかった。
虫たちの目を介して、黄瀬には黒凪の動きが見えていた。だから、距離を維持するように動き回った。けれど、気づくと追い込まれるように、そこにいるしかなくなっていた。
黄瀬も応戦はした。効果的なものもあった。
移動中に大型トラックを使って、黒凪のブルーバードを廃車にするとか。対向車線のドライバーの視界を虫で覆い尽くし、カーブを利用して黒凪の車に突っ込ませた。運転席を押し潰す大事故だ。それでも、黒凪は無傷だった。衝突の直前で車外に飛び出していたから。それで無傷なのも意味不明ではあったが。
炎上する車を背に歩く黒い影は、本物の死神じみて見えた。
その死神は、不思議なほど正確に黄瀬の居所を掴み、刻一刻と距離を詰めた。死が避けがたいものであるように。死が、誰のもとにも必ず訪れるように。
まるで死の化身であるかのように。
そして今、誰もいない中学校の廊下に、淡々と機械的な声が反響する。
「俺には能力があった」
「自動的だ。異能を使用した対象の居場所がわかる」
「特に宣伝はしていなかったが……」
これはゲームではなかった。
後付けのように明かされた能力。だが、取り換え子を狩るために作られた取り換え子、その性質を思えば、備わっていて然るべき機能だった。
ただ、開示されていなかっただけ。思い至らなかっただけ。
それだけが致命的だった。「情報戦で勝つ」と黒凪の動向を探ろうとするほど、その秘された能力によって逆に追い詰められる。結局のところ、端から勝機などなかったのだ。
黒凪皆無に小細工は通じない。
その意味するところを、黄瀬は正しく理解した。
「照井紅音はあれ以降、力を使っていなかった。だから、探す必要があった」
黒凪の声は着実に近づいて来る。
黄瀬はそれを渡り廊下の先で聞いていた。
冷たく暗い、体育館の中だ。
黒凪は渡り廊下に移り、咥え煙草のまま歩き、体育館のドアに手を掛けた。
「だが、臆病な貴様は俺を見続けた」
黒凪が体育館の重たいドアが開く。月明かりが、死神の影をコートに映した。
黒凪は目の前の光景に言葉を止める。
体育館のコートの真ん中に、一つの繭玉があった。
人間一人を包めるほどの、白くて丸い大きな塊だった。よく見れば、それが大量の虫たちで覆われたものだとわかる。街中に放った大量の虫を集めて作られた、黄瀬の蔽い。
「似合いの姿だ。逃げ隠れるだけの虫けらには」
黒凪は無表情に繭玉を見ながら言った。
黒凪の咥える煙草から、灰が零れ落ちる。煙草の小さな火種が、暗い体育館の中を進み、繭玉に近づいた。繭玉の中から少女の声が返る。
「知ってる? イモムシは一度、蛹の中でドロドロに溶けてしまうって」
その声は二重にブレて聞こえた。
一つは確かに黄瀬勇花の声だと思われた。けれど、その声に被さるように、聞き慣れない雑音があった。日本語と外国語を同時に流したかのようだったが、もう一方はこの世界のどこにも存在しない言語だった。二重にブレた声は続く。
「生まれ変わるためには、一度、台無しにならないといけないの」
黒凪はちびた煙草を指先で摘み、火種ごと握り潰した。小さな火種すら消え失せて月明りだけが覗く体育館で、微かな勝算も一条の希望すらも握り潰した男は、路傍の石ころより無感動に応じた。
「理科の授業がお望みなら、今から解剖学を教えてやる。貴様の身体でな」
黒凪の予告に返ってきたのは、くすくす笑う声だ。
鈴の鳴るような少女の声と、羽音のような雑音だ。
黒凪は何の予備動作もなく右腕を振るった。生命を強制終了させる風が、繭玉を作る虫たちを吹き飛ばし、死骸が粉雪のように体育館を舞った。
黄瀬を蔽う壁が取り払われる。
けれど、繭の中に蹲っていた彼女は、黄瀬勇花の形から外れていた。
もっとおぞましい、言葉通りの「悪魔」的な何かだ。
暗さのためにハッキリとは見えない。
ぼんやりとわかるのは、人型の四肢を持ち、その表面は黒く光沢があること。双眸が赤黒く発光していること。そして何より、その影には左右に二枚ずつの翅があった。人間を辞めた少女は悲哀の顔で、なおも人間らしく強がりを言った。
「——解剖してみる?」
黄瀬勇花は頬まで裂けた口で笑い、頬を伝う涙を舐め上げた。
「いや、授業は後回しだ」
黒凪皆無は右腕を構えて応じた。「害虫駆除が先になった」と。
〇
日曜日の夜、ハクアは神妙な顔で電話に出ていた。ベッドに背筋を伸ばして腰かけて、電話口の相手と話をしている。会話の内容を横で聞く限り、相手はキセユウカの母親だ。
通話を終えたハクアはベッドから立ち上がり、外套を手に取って言った。
「ユウカちゃん、まだ帰ってないみたい」
昨日、私に会って以降、ユウカは自宅に戻らなかったらしい。丸一日、家を空けていることになる。母親は当然、心配していた。父親は入院中という話で詳細は不明だ。そして、家庭教師をすっぽかされたハクアも、ユウカの行方を案じている。
ハクアは外套の袖に腕を通すと、玄関に向かいながら言った。
「ちょっと出てくる」
「探す当てがあるのか?」
私はテーブルの位置から、ハクアを呼び止めた。
巻き込みたくないという、ユウカの意思を尊重するなら、ここでハクアを送り出すべきではない。日曜日——今日は、ユウカが黒外套と会う約束をしていた日なのだから。
「当てはない」
ハクアは靴を履く手を止めて振り返る。
その顔はどこか申し訳なさそうに笑っていた。
「だけど、探してみる」
「そうか」
私はマフラーを拾って玄関のハクアのもとにいく。靴を履き終えた彼女にマフラーを巻いてやりながら、「今夜は冷える」とだけ伝える。
ハクアは「ありがとう」と頷き、そのまますぐに飛び出そうとするので、私は巻いたばかりのマフラーをちょっぴり引っ張った。首が絞まったのか、ハクアは「ぐえっ」と立ち止まる。
私はマフラーを握ったまま、これまたちょっぴり不満げに言った。
「大袈裟だな。ちょっぴり引っ張っただけだ」
「ちょっぴり!? 今のがッ!?」
「やや、少し、それなりに?」
「第一にマフラーを引っ張るな。ってか、何よ?」
ハクアは呆れたように言い、優しげに微苦笑して尋ねた。
だが、私は言い淀んだ。自分でも不思議だった。どうしてマフラーを引っ張ったのか、上手く説明できない。考えてもわからない。そうやって散々に言い渋った結果、私の口を吐いたのは幼児のように単純な言葉だけだった。
「……行くな」
そう言った切り、私の口は役立たずになった。
ハクアは軽く目を見開き、私は気まずくて顔を伏せる。マフラーを握ったまま黙っている私に愛想を尽かしたのか、ハクアが「はぁ」とため息を吐いた。私が顔色を覗うように視線を上げると、ハクアは「大丈夫」と笑う。そして、やはりどこか申し訳なさそうに言った。
「やることやんないでグズつくの、辞めたいんだ」
私はマフラーを手放した。
ハクアの言っていることがわかった……わけじゃない。
でも、彼女にとって今探しに行くことが、大切なことらしいと思ったからだ。
ハクアは「ごめん」と謝って家を出た。
何について謝っていたのか、昔のアカネならわかったんだろうか。そんなことを思い、私はマフラーを放した両手を見下ろす。彼女を繋ぎとめておかなかった、役立たずの両手だ。その後悔は初めてじゃないと、身体が知っていた。大学に入り、疎遠になったハクアとの関係を思い出していた。
それは私自身の記憶ではない。この身体の記憶だ。
でも、それじゃあ、私は何なんだ。
テルイアカネの身体を持ち、
テルイアカネの記憶を持つ、
私は誰だ。
同じ悩みを抱えていた少女を思う。私に「飛び出しちゃいなよ」と言った彼女は、果たして飛べたんだろうか。
彼女を縛る虫かごから、飛び立てたんだろうか。
◇
蠅蛆の悪魔は、縦横無尽に駆けた。
限られた体育館というスペースを、壁と床の区別もなく高速で疾駆する。黒凪の振りかざす風の猛威を躱して、最強の男の目を掻い潜ろうと必死に隙を覗う。
黒凪は扇ぐように腕を振り、風を放った。
その動作の関係上、もし、背後や腕を振れないほどの至近まで潜り込めたなら、一撃食らわせることも不可能ではない。
そして今、蠅蛆の悪魔と化した腕力と脚力なら、「もし」は一度で十分だ。
黒凪の風が、黄瀬の進路を遮るように放たれる。
黄瀬は床を踏み抜いて急制動を掛けると同時に、進路を大きく切り替えた。踏み抜かれた壁板が衝撃で砕け散る。黄瀬の走り抜けた跡が、体育館のあちこちに穴ぼこを作っていた。
穴の一つ一つが、彼女が死線を乗り越えた証だ。
黒凪は間断なく必殺の風を連発する。
死に誘う黒い旋風が、格子状の網目のように体育館の中を吹き荒れた。黄瀬はその網目を高速で駆け、切り返し、人間では有り得ない軌道で躱し続ける。
人間を辞めたことで得られた力だ。
後戻りなどできない変態だった。
消化器官すら捨てた、完全に戦うための姿だ。
勝っても負けても、長くは生きられない身体。
勝機が一切ないとわかったから、黄瀬は決意できた。黒凪の無敵さが、彼女に自分の命の先を捨てさせた。そして、だから黄瀬はたった一つの目的のためにすべてを擲つ覚悟を決められたのだ。あの笑顔を——あの二人を決して台無しにはさせないと。この男を倒すと。
自分が主役の物語じゃない。
それはとても辛いことだった。
気に食わないとも思った。
だけど、惹かれてしまったから。
冬の花に誘われた、季節外れの蝶のように。
生き物は、生きているだけで何もかも台無しにしてしまう。でも、花々を行き交う蝶たちが花粉を運んでいくように、支え合うこともできるはずだ。
台無しにするだけじゃ、ないはずなんだ。
人生の最後に一つくらい、台無しにならないものがあってもいいじゃないか。自分も少しは誰かを守ったのだと、胸を張りたいじゃないか。そしたら少し、自分もなれる気がする。本郷蝶花が憧れてくれた、美しく舞う蝶ってやつに。
——風の檻を抜けた。
黒凪が振り抜く右腕の下を掻い潜り、その背後に着地する。床板が爆ぜる。黒凪は右肩越しに首を捻って振り返る。腕を振り切った直後の、隙だらけの背後を取った——勝機だ。
初めて掴んだ。
ようやく本当に掴んだ。
黄瀬に油断なんてなかった。そんなものが少しでもあれば、ここに辿り着く前に何度も死んでいる。彼女に取れる最善手を、すべて間違いなく取り切った結果だ。何通りもあった選択肢の先の、一番いい分岐の先だ。彼女にこれ以上はなかった。
だからきっと、初めから勝機は——、
悪魔の右腕から繰り出された一撃を、黒凪は受け止めた。
反抗期の娘の暴力を受け止める父親のように易々と。純粋な筋力と、衝撃を逸らす技術の合わせ技でそれは行われた。黄瀬は呆気に取られる。同時に気づいた。
掴んでいたはずのものが、手の中になかったこと。
初めから、勝機はなかった。
風の檻を抜けた先もまだ、黒凪の檻の中だった。
黒凪の丸太のような足が、黄瀬の膝を蹴り砕き、空いた右手が背中の翅を毟り取った。黄瀬がもがくように反撃すると、黒凪の左手が黄瀬の顔面を掴み、無造作に壁に投げつける。
純粋な肉体として、黒凪皆無はただ強かった。
黄瀬は標本にピン止めされた虫のように、壁に半ば埋もれてその男を見た。血で赤黒く濁った視界の中、黒凪は汗一つ掻いていない。かすり傷一つ負わせられてはいなかった。
その無表情に変化はない。淡々と口だけが動いた。
「覚悟、決意、強い情動。確かにそれらは、一時は眩しく輝いて見える」
その男は最初から強く、そして、初めから揺るぎなかった。
その男の前で、大番狂わせは起こらない。
ただ粛々と強いものが、弱いものに勝つ。
当たり前の世界が、当たり前にそこに広がっていた。それこそが黒凪皆無が維持しているものだった。番狂わせを許さない、規範に満ちた世界だ。
その男は絶対に変わらない無表情で、不動の確信を込めて言い切った。
「だが、それらが実力の差を埋めることは断じてない。実力とは、規範と共に繰り返される安定した日常の中でこそ積み上げられるものだ。日々積み上げたものが、強さになる。貴様のような蛆虫ごときの、一時の気の迷いが、それら日々を生きるものの強さを覆せるなどと、なぜ思い上がる」
黒凪は無表情だ。けれど、黄瀬はそこに初めて黒凪の感情を見た。
風で殺さず、黄瀬を嬲った理由を見た気がした。
「規範の檻から出た獣よ」
黒凪の両腕に風が集まる。命を枯らす黒い旋風だ。
黒凪の外套が風ではためく。
表情ではなく外套のはためきこそが、彼の感情表現だった。
「獣は悪だ。悪は滅びる定めだ」
黄瀬は血で濁る目を凝らし、明後日を向く片足を引きずって立ち上がった。
頭を打ったせいか、思考がぐちゃぐちゃと巡る。
昨日見た映画、楽しかったけれど、誰かと一緒に行けばよかった。パンケーキも本当はもう少しクリームが載ってたら良かった。蝶花ちゃんに、ちゃんと謝ればよかった。白亜先生にも最後くらい、好きだって言っとけばよかった。ああしていたら、こうだったなら……
どれも手の届かない願いばかりだった。
だから、彼女は最後まで黄瀬勇花らしい強がりを選んだ。
「いつかアンタにも、吠え面かかせてあげる」
「貴様にいつかは訪れない」
黄瀬はその瞬間、「アンタに言われなくても」と思った。
それが黄瀬の最後の思考になった。
黄瀬は残った片足で飛び出し、黒凪は軽く腕を振り抜いた。
その直後、偏執的な正義は執行された。
静かに怒れる木枯らしは、あらゆる命を刈り取って走り去った。
◇
白亜は家路についていた。闇雲に走り回っても手がかりは見つからず、日付が変わるころになって、流石に家に帰ることにしたのだ。
走っている間はよかったが、歩いて帰る段になって寒さが身に染みた。
息が白く煙るほどに寒い夜だ。
紅音の巻いてくれたマフラーがあって助かった。
彼女が歩いていると、街灯の下に白くて小さいものが積み重なっていた。白亜は咄嗟に空を見上げた。雲一つない、冬の澄んだ星空だった。つまり、雪は降っていない。
よく見ると、それらは小さな虫だった。
羽虫たちの死骸が、雪のように積もっている。
「そうだよな。もう、こんなに寒いんだし……」
白亜はそう呟いた。
不思議と気味が悪いとは思わなかった。