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第五章 魔性の少女

        ◇


 黒凪のブルーバードが、川沿いの遊歩道近くに停車していた。

 木曜日の放課後。

 夕闇の色に沈む庄内川は、昨日の雨の影響で増水している。

 黒凪は愛車のドアにもたれて立ち、黒々と濁る川の流れを眺めた。男の双眸は夕闇を映す濁流よりなお黒く、河原に転がっている小石ほども考えが読み取れそうにない。


「また三日だ」


 黒凪は視線を固定したまま、前方の黄瀬に問う。


「報告を聞かせてもらおう」


 黄瀬は黒凪から少し離れて、遊歩道に並ぶ外灯の下に立っていた。

 黄瀬は中学校の制服姿で、外灯のライトには羽虫の一群が集まっている。黄瀬はごく小さく振り返り、背後の黒凪をチラリと見た。直後、彼女は顔を逸らして答える。


「そんな簡単に、見つからないわよ……」


 当然、嘘だった。機械的な声がその嘘に応答した。


「確実にこの街にいる、見つけろ」


 黒凪はそう応じて煙草を吸う。紫煙を燻らそうとも、黒凪は何一つ、楽しそうでも、美味しそうでもなかった。カーステレオの選曲と同じだ。その喫煙も、義務的で、自動的で、そうあるべきだからという意志の表明でしかなかった。


 だから、黄瀬にはまるで考えが読めない。


 黒凪の古く凝り固まった思考・行動様式は、彼女には馴染みがなかった。

 時代錯誤の理屈だ。

 偏執的な正義感を持ち、自分の規範意識のみに従う怪物だ。

 そんなサイコ野郎が、自分の獲物を隠し続けた白亜に対してどういう反応を取るか。探りを入れることも考えたが、下手なことを言えば、勘の良いこの男には見抜かれる。嘘を見抜かれるのが怖くて、顔すら合わせられなかった。

 取り替え子を狩る、最凶無敵の取り替え子。

 黒凪皆無に小細工は通用しない。

 そういう評判は、黄瀬も知っていた。


「次も三日後に連絡を取る」


 黒凪は無機質な声で、最小限の言葉で告げた。

 黄瀬はもう一度振り返り、車の後部座席を見る。

 そこには決して何も喋らない、そして、今後も口を開くことのないだろう、虚ろな肉の塊が座っていた。少年の遺体。黒凪の使う言葉では加工済の納入品だ。死んだ少年も、尾木が作成した取り換え子に違いなかった。

 黄瀬にはそのもの言わぬ肉塊こそが、黒凪からの最大の意志表示だと思われた。


「あまり待つ気はない」


 黒凪は余命宣告のように言い残すと、車に乗り込み走り去った。

 一人残された黄瀬は、白い息を吐き、目蓋を閉じる。彼女の視界には、虫の目を通じて今も二人の女性が映っていた。自分を破滅させた女と、寄り添ってくれた女だ。

 自分だけが助かる方法ならすぐに思い付いた。

 彼女たちを黒凪に売ればいい。クズの蛆虫には似合いの方法だ。


「…………」


 ヤドリバエ。輝かしい未来に対する汚染。

 黄瀬勇花はよく知っていた。

 生き物はすべからく、何かを台無しにして生きるものだと。

 だけど、黄瀬勇花は嘘を吐いた。

 まだ決めかねていた。この恋慕の行方を。

 誰が、報われるべきなのかを。


        〇


 金曜日の朝、ハクアは朝食も取らずにバタバタと家を出た。

 昨夜は随分遅くまで課題のレポートを書いていたようだ。

 提出期限が差し迫っているとかで、ハクアは青い顔をしていた。私は先に寝てしまい、今朝は何度か起こそうとしたのだが、ハクアは一向に起きなかった。

 あれはどうにも寝汚いところがある。

 つまり、寝坊は私の責任ではない。

 そんなこんなで、弁当だけ持たせてハクアを送り出したのが四時間ほど前だ。


 そして今、私の前には件の課題レポートがあった。


 ハクアの散らかった勉強机を片付けていたら出てきたのだ。

 レポート用紙は十枚。

 コピペ対策のためにと、すべて手書きだった。

 私は課題近くにあった講義のレジュメを手に取る。レジュメにはレポートの書き方や調べ方の注意点が書いてあった。そして、提出期限の記載もある。


「締め切り、今日じゃないか」


 私は左手にレジュメを持ち、右手にレポートを持って少し考える。

 レポートを届けたら、ハクアは喜ぶだろうか。

 私はクローゼットから動きやすそうなスタジャンを引っ張り出し、長い髪をまとめて帽子で隠した。予備の鍵は靴箱の中に置いてあったから施錠は問題ない。課題のレポートをファイルして脇に挟み、玄関のドアを開く。

 外の冷たい空気が部屋に吹き込む。私は肺いっぱいにそれを吸った。新鮮な外の空気は痛いくらいに冷たいが、存外に心地よかった。

 

 そういえば、黒外套に遭遇した場合、対処をどうするか。


 体調は悪くない。今なら勝てるだろうか。

 しかし、相手の力量は不明だ。弱くはない。いや、認めよう。あれは法外に強い。あの夜も実力の片鱗しか見られていない。万全を期すべき相手だ。うかつな外出は危険か。だが、やつに怯えて閉じ籠るというのは癪に障る。


 結局、私は部屋を出た。


 ハクアはバスケットのサークルに所属しているはずだ。所属サークルに顔を出せば、連絡を取る手段くらいはあるに違いない。そのためにもまず、私はハクアの大学を目指すことにした。


        ◇


「うわ、課題、家に忘れた……」


 白亜は大学食堂の片隅、二人がけのテーブル席で頭を抱える。対面に座っている茶髪の女子学生が、文庫本を片手に「あらあら、ご愁傷さまだ」と他人事のように返した。

 白亜はじっとり目で不満を口にする。


「今、他人事だと思って片手間にコメントしたな」

「他人事であることに疑問の余地ないでしょうよ」

「もっと哀れんだり、慰めたりあるじゃん。それが友達がいでしょ~」

「今日中が提出期限だし、取りに戻ったらセーフでしょ。めんどいけど」


 そう言って、茶髪で癖毛の女子学生はクケケと意地悪に笑った

 エスニック系の装飾を好む、丸メガネの女子学生。

 小杉明日子(こすぎあすこ)。中学時代からの白亜の悪友だ。

 明日子は運動嫌いの完全インドア派で、白亜とは性格も好みも掛け離れていたが、不思議と馬が合い、大学に入ってからも親交が続いている。

 白亜は溜息一つ吐きながら、「ああ~」と身体を仰け反らせた。


「取りに帰るの、果てしなくめんどいな……」

「自業自得だから諦めろ。それに別いいじゃん。サークルにも行ってない暇人が」

「暇人ではないが。いや、確かに最近は行ってないけど……」

「告ってきた先輩には、もう答えたの?」

「ああ~、そういや、それもあったか……」


 白亜は思い出して顔を覆う。サークルの二年生に、告白されていた。二週間ほど前、サークルではおとなしめの男子学生に「クリスマス一緒にどう?」と言い寄られていた。


「あれ、答えなきゃダメか……」

「サークル、嫌なら辞めちゃえば?」

「まぁ、それも考えた」

「考えたけど?」

「うん。考えたけど」


 ——バスケやれる場所、残しときたいから。

 白亜は口にしかけた言葉を呑み込む。

 身体を仰け反らして椅子にもたれ、「う~ん」と生返事で誤魔化した。


 バスケは好きだ。

 サークルの緩い空気が、嫌いなわけじゃない。


 でも、あの空気の中でプレイしていると、白亜は我慢ならなくなった。それならそれで部活なり、社会人のチームなりに入ればいいとわかっている。

 全部を承知の上で、サークルの空気を選んだはずだった。

 王子様をやめて、普通の女子大生になる。進学のとき、そう決めた。だから、気軽に楽しめるサークルを選んだはずだった。それなのに、ふとした瞬間に考えてしまうのだ。

 今のプレイ、あいつに見せられたかなって。

 白亜が天井を眺めて物思いしていると、「そういやさ」と明日子が言った。


「照井紅音が家出したって噂、聞いた?」


 物思いが一発で吹き飛んだ。

 白亜は仰け反った姿勢のまま、硬い声で問い返す。


「ああうん。知ってるけど。どうして?」

「別に、大した意図はないよ。ただの世間話」


 明日子はそう応じながら文庫本に栞を挟み、テーブルに伏せて置く。頬杖をつき、目を合わせない白亜をじっと見ながらさらに尋ねた。


「アンタたち、前に付き合ってたじゃん。連絡とか来てないわけ?」

「ああ。いや、特にはないけど」

「そっか。そんなら、ま、よかったじゃん」

「あ、えっと、どの辺が?」

「巻き込まれてないんでしょ? 言いたかないけど、あの子とは縁切って正解」


 明日子の言葉に、白亜は意外な思いで向き直る。


「明日子が他人の悪口言うの、中々に珍しい」

「気分悪くしたなら謝る。けど、あの子は小悪魔どころじゃない、本物の魔性じゃん。性格が悪いってんじゃなくて。あの子の場合は、周りが勝手におかしくなる。アンタにも『王子様のファン』みたいな子は結構いたけど、あの子の周りにいたのは明らか温度が違ったし。別れた理由、それじゃないの?」

「……え?」


 白亜は返答に詰まり、同時に詰まった自分に驚いた——別れた理由について、そこまで深く考えてこなかった自分に。

 進学と同時に連絡を絶ち、距離を置いたのは白亜の方だ。けれど、明日子に突き付けられるまで、その理由を明確にしてこなかった。卒業したから終わらせた。普通の女の子に戻るために距離を置いた。その程度の理由しかない自分に気づき、白亜は言葉を失くす。

 自分はそんな簡単に、あいつを突き放したのかと。


 自分にとって照井紅音は、()()()()()()()()()()()()()()()()


 白亜は信じられなかった。

 そんなはず、なかったのに——……




『先輩、見てください。トリです』

『コンドルと呼んで差し上げろ。そこにネームプレートあんだから』


 少し、昔のことを思う。

 あたしの卒業式を控えた、今年の、三月の初旬。

 あたしと紅音は、市内にある動物園にいた。受験した大学近くの動物園だ。


 よく晴れた、けれど、まだ少し肌寒い、春を待つ一日だった。


 快晴の天気とは裏腹に、あたしは受験の合格発表が近くてひやひやしていた。紅音はあまりわかっていないようだったけれど。だいたいあの女は「習ったことしか出ないなんて退屈だと思いませんか?」とか抜かすやつだ。あたしらの苦労はわかりっこない。


 あたしはとっくに気づいていた。


 目の前の——檻の中の鳥類を眺めている女の子が、本当に特別だってこと。望めば何だって叶えられる子だってこと。

 彼女だけが本当に特別だってこと。

 紅音は目の前に並んだ檻の一角を指さして言った。


『ここから向こうまで全部トリですね』

『そんなざっくり動物園を楽しむやつ、初めて見るわ』

『あちらに哺乳類がいるみたいです』

『哺乳類ならお前の隣にも立ってんだろ。何だその大雑把さ。動物園嫌いか?』

『檻の中の病んだ獣を見るより、すぐ隣の哺乳類を見ていたいです』

『動物園の飼育員さんに怒られろ』

『あら、先輩は怒らないんですね。じゃあ見ちゃおっと』

『こら、マジマジ見るな、おいこら覗き込むなっ!』


 あたしはそう言って誤魔化して、にんまり笑う紅音から顔を逸らした。

 同時にふと意識させられる。

 あたしが今、こいつの隣に立てている幸福を。

 でも、それは今だからだってことも。

 自分はごく普通の人間で、バスケ部も全国に導くことはできなかった。


 手を伸ばして、伸ばして。


 それでようやく目標に届くかどうかの人間だ。


 努力しても結果を出せるわけじゃない。

 普通のやつなんだ。

 こうして紅音の隣にいられるのは、王子様という与えられた役割があったからで、でも、それは卒業と一緒に終わってしまう。三月というのは、そういう季節だ。セーラー服を脱いでしまったら、女子高生ではいられない。だからもう、王子様ではいられない。


 そう思うと、自分がひどく色褪せて見えた。

 

 冬枯れの山のように、灰色だ。


 あたしの手を引く少女だけが、とても色鮮やかに動く。春を持つ動物園の中、一足先に訪れた春風のように、あいつの笑顔は特別だった。

 あいつの見るもの、触るもの。あいつの周りの世界は色づくように見えた。なのに、手を繋いでいる自分は、王子様というメッキが剥がれた自分は、こんなにも色褪せている。


『先輩、おみやげコーナーがあります。見ていきませんか?』

『お前、ホントに動物に興味ないのな……』

『飛ばないトリに興味がないだけです』

『何だそりゃ。まっ、いいんだけどさ』


 私は懸命に苦笑いを作って普通に応えた。あの頃、あたしは苦しかったんだ。特別なあの子の隣に立つには、自分が相応しくないように思えたから。紅音はそんなあたしの息苦しさなんて知らない顔で売店を歩き回っている。

 キーホルダーの並んだ一角で、紅音は「あっ」と声を上げた。


『先輩これ買いましょう。トリです、トリ』

『コンドルな。意地でも呼ばない気か。ってか、あんまり可愛くないな……』

『そうですか? ハゲ頭のおじさんみたいで可愛いです』

『ハゲ頭のおじさんをさも当然のごとく可愛いカテゴリーに入れるな』

『でもほら、思い出になります』


 白亜があんまり嬉しそうに笑うから、あたしもそうかと頷いてしまった。

 そして、二人で来た思い出にキーホルダーを買ったとき、気づいてしまった。

 矮小な自分でも、思い出の中でならずっと……

 王子様でいられることに。




 大学生になった白亜は、ポケットにある家の鍵を握って力なく笑った。


「思い出した。違ったんだ」

「白亜?」

「理由が、逆なんだ」


 普通になるために、紅音を遠ざけたのではなかった。大学生になって、王子様でも、部活のエースでもなくなった自分を、紅音に見られたくなかったのだ。


 あの紅音の目に、今の自分を映したくなかった。


 あの恋い焦がれるような、まるで愛憎の炎で焼き尽くすような鮮烈な彼女の瞳に、普通の自分を見られたくなかった。今の自分の生き方を見て、失望されるのが怖かった。保留ばかりで、前にも後ろにも進めてない自分が嫌になる。


「アンタ、もしかしてまだ」

「あたしが紅音を避けたのは、あの子の期待に応えられなくなったからだ」


 白亜は独り言のように口にした。

 口にしてしまえば、言い逃れできない本音だとわかった。

 紅音のことが好きなんだ。


 今でもずっと。


 明日子が呆れたように顔を覆っていると、二人の座る席に男子学生が近づいて来る。白亜の見知った相手だ。サークルの、白亜に告白してきた先輩だった。


「あ、大塚さん。ここにいた」


 白亜は咄嗟に身構えた。返事を保留していたことを思い出したばかりだ。傷つけない断り方を考えていなかった。けれど、彼が口にしたのは、予想の斜め上をいく言葉だった。


「知り合いって子がサークルに来てるよ」

「知り合い? 誰ですか」

「嘘みたいに綺麗な子。忘れ物を届けに来たって」

「白亜、それって——」


 明日子が怪訝な表情を向けるより早く、白亜は走り出している。

 周囲の学生の目も気にせず、白亜はキャンパスを駆け抜けた。

 サークル棟が見えてくる。

 サークル棟前の野外バスケットコートに紅音が立っている。

 サークルの人たちに囲まれながら、紅音は無表情にボールを触っていた。スタジャンとジーパンという簡素な装いであるにも拘らず、紅音はやはり集団から浮いて見える。姿勢が綺麗だからか、もしくは周囲があいつの美貌に気後れするからかもしれない。


 先輩たちに教えられて、紅音がボールを放つ。


 放物線を描いたボールは、バックボードには触れず、四五〇ミリのリングを潜ってネットを揺らした。魔法のように静かな、スリーポイント・シュート。

 先輩たちは口笛を吹いたり、囃し立てたりして紅音を褒めそやす。けれど、紅音はちっとも嬉しそうじゃない。ツンと澄ました横顔は、退屈そうで、息が詰まるって感じだ。

 思えば、あいつは学校でもそんな感じだった。窮屈そうな愛想笑いばかり、浮かべていたっけ。


『飛ばないトリに興味がないだけです』


 通り過ぎた彼女の言葉に、今さらひやりとさせられる。名前を呼ぶだけのことなのに、ひどく緊張していた。不安だった。


 自分に向けられる顔が、同じだったどうしようと。


 情けないくらい、声が震えそうだった。

 一度、深呼吸する。

 走って乱れた息を整えて、それから、


「——紅音」


 名前を呼ぶ。

 紅音が()()()()()


     ◇


 金曜日、黄瀬勇花は学校をズル休みした。そうやって、薄暗い自室にこもり、一日中、白亜と紅音のことを眺めていた。虫たちの目を使えば、大学に向かう紅音のことも、食堂で語らう白亜のことも、同時に見ていられた。だから、振り返った紅音の表情を見た。


「……最悪」


 黄瀬は着たままのパジャマ姿で机に突っ伏した。

 自分の腕を枕にして、そこに顔を埋める。

 ああ、見てしまったと思った。


「あんな笑顔見せられたら、憎めなくなっちゃうじゃない」


 黄瀬は腕枕からわずかに顔を覗かせて呟く。

 泣き出しそうなその笑みは、冬の花に誘われた、季節外れの蝶のように。



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