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第四章 やさしくない先生

        ◇


 熱いシャワーが、黄瀬の冷え切った身体を温める。


「ふぅ……」


 温かな浴室の空気が、黄瀬(きせ)の凍えていた肺を満たした。

 青ざめていた肌に血の気が戻る。

 シャワーの水滴が首筋を伝い、鎖骨の辺りを滑り落ちた。

 黄瀬は石鹸を泡立てると、自分の身体を検めるように磨いていく。高く飛び、舞い上がるために設えられた四肢。未成熟な膨らみと、肉付きは弱いがよく引き締まった身体。

 悪い見栄えだとは、自分でも思っていなかった。

 けれど、今でもまだあれには足りない。あの魔性に及ばない。


「…………」


 身体についた泡を綺麗に洗い流すと、次は雨水に濡れた髪に移った。肩よりわずかに長い髪を磨き終えるのと同時、浴槽にたっぷりのお湯が張り終わる。

 黄瀬は「先生を待たせて申し訳ない……」と思いつつ、湯船に浸かる誘惑に勝てなかった。


「——ほぅ」


 黄瀬は肩までお湯に浸かり、思わず声を漏らした。

 極めて人間的な条件反射。

 それは即ち、取り換えられた〈蠅蛆(ようそ)の悪魔〉の性質ではない、黄瀬勇花(きせゆうか)としての反応が残っている証明だ。

 蠅と蛆の悪魔が、湯浴みを好んでいたはずがないのだから。


 取り換え子(チェンジリング)の知識は、基本的に元になった身体に依存する。


 湯浴みを愛しているのも、数学が苦手なのも、この身体がそうだったからだ。そして、大塚白亜(おおつかはくあ)を好ましく感じているのも、たぶんそうなのだ。

 黄瀬は玄関で出迎えた女子大生のことを思い、朱が差す頬を湯船に浸けた。

 まだ取り換えられる前、虐げられる黄瀬に寄り添ってくれた唯一の相手だ。父の期待に応えられなくなった黄瀬の苦悩を、誰より正しく共感してくれた人だった。


 困った顔で笑う、優しい人だ。


 彼女の優しさが、大好きだった。


 けれど、この恋慕は取り換えられる前の少女が抱いた感情だ。

 少女と一緒に消えたはずの泡沫だ。

 それがなぜか、今でも頬を熱くして感情を揺さぶり続けた。


「この『わたし』ってなに……」

「あ、ごめん。何か言った?」

「ふぇッ!?」

「あ、ごめん。聞いちゃいけないやつだった?」


 擦りガラス一枚を挟んだ脱衣室から、予想外の返事があった。

 白亜の声だ。

 黄瀬は驚いた拍子に、湯船の中にずり落ちた。

 頭までお湯に浸かり、ぶくぶくぶく。


「え、うわ、勇花ちゃん大丈夫!?」


 異変に気付き、白亜はガラス戸を開けてびっくりする。黄瀬はせき込んで気道に入った水を吐きながら、何度も頷いて「大丈夫です」とアピールした。





「勇花ちゃんママが忙しそうだったから、洗濯機だけでも回そうと思ってさ」


 白亜は脱衣室にいた理由を説明しながら、ドライヤーの電源を入れた。

 白亜は黄瀬のベッドに腰かけ、クッションの上で拗ねている黄瀬の髪を乾かす。黄瀬は白亜の指先が首筋に当たる度、くすぐったくて笑いそうになるのを堪える。

 堪えながら、ちょっと怒ってみせた。


「そこは別にいいけど、でも、普通開ける? お風呂のドア」

「何か最近、その辺の感覚狂ってるかも。女の子同士だったし?」

「いや、女子同士でも全然ナシだから」

「ああでも、恥ずかしがることないって。勇花ちゃん全然綺麗だった」

「今の発言はセクハラ」

「ええ~?」

「ええ~、じゃないから。ほら、謝罪謝罪」


 黄瀬がさらに抗議すると、白亜は首を傾げつつ「アイツに毒されてんのか?」と呟いた。

 聞き捨てならない台詞に、黄瀬は耳聡く反応する。


「アイツって誰? もしかして悪い虫じゃ……」

「古風な言い回しだ。いや、彼氏とかじゃないけど」

「先生も酔わされちゃったんだ。クリスマスの空気に……」

「いや、だから違って。ああ~、何だ。適切な表現で言うと、ペット?」

「ペット?」

「無駄に尊大な猫?」

「猫ちゃん飼い出したんですか、大学に友達が出来なさ過ぎて?」

「おっ、ノールックで先生のディスをやる気か~?」


 そんなことを言い合っている内に、白亜が黄瀬の髪を乾かし終えた。

 白亜はドライヤーの電源を切り、「宴もたけなわではございますが……」とベッドから腰を浮かせる。

 白亜は鞄から問題集を取り出し、黄瀬の頭を優しく撫でて言った。


「そろそろ、先生のお仕事、始めさせていただけますか?」

「仕方ないから、付き合ってあげる」


 黄瀬は満更でもない顔で笑い、そう答えた。


        ◇


 白亜に家庭教師として入ってもらっているのは週二回だ。

 十八時から二十時までの二時間。

 黄瀬の苦手科目・数学を主に見てもらっている。

 家庭教師を始めた契機は、黄瀬の不登校にあった。ゴールデンウィーク明けから学校に通えなくなった娘のために、母親が依頼したのだ。

 そのころには、黄瀬勇花と黄瀬小楢(きせこなら)の関係は破綻していた。娘の才能に満足できなくなった小楢と、父の期待に応えられなくなった勇花の関係は、小楢が一方的に勇花を罵倒するものへと変貌してしまった。


『どうして一度で完璧にできない』

『これがもし、あの子なら』


 無理難題を押し付ける小楢は、中学生の少女にとって怪物でしかなかった。

 照井紅音(てるいあかね)の魔的な輝きが、小楢の目を不可逆に眩ませてしまった。


 出会ってしまったら、出会う前には戻れなかった。


 一時だけクラブに在籍して、すぐにいなくなった少女の幻影。小楢はその影を追うように娘を追いやり、度重なる努力の否定は、少女の心身を委縮させた。身体を使う表現者にとって最悪の足枷だった。年を経るごとに、小楢の枷は未熟な少女の精神を蝕んだ。

 縮こまった演技は、以前に比べて精彩を欠いた。成績は落ち込んでいき、黄瀬の自信が失われていく。するとさらに、成績のことでも小楢から罵倒させた。ひどい悪循環だ。

 遂には黄瀬勇花の名前が、表彰台から消え失せた。

 飛べなくなった蝶は、地を這う毒虫たちの格好の餌だった。



『引退するなら断髪式やったげる』



 毒虫たちはそう言い、黄瀬を校舎裏に引きずった。そして、彼女たちは準備していた椅子に黄瀬を押さえつけると、二つに結った彼女の髪を切り落とした。


 ジャキリ、ジャキリ。


 色素の薄い、柔らかな癖の付いた黄瀬の髪が、校舎裏の泥の上に落ちた。毒虫たちは切り落とした髪すらも踏みにじって嘲笑した。


 ゲラゲラと下品に笑い合った。


 毒虫たちにとっては、普段の悪ふざけの延長だ。

 だが、黄瀬にとっては、髪を切られたことも、ハサミを向けられたことも恐怖だった。殺される、という命の危険を覚えるほどに。

 髪を切られた翌日、黄瀬は学校に通うのを辞めた。




 白亜が初めて黄瀬家を訪れたのは、夏休みも迫った七月の初頭だ。家庭教師を初めたばかりのころ、黄瀬の前にはずっと真っ白な答案用紙があった。

 解き方がわかる問題はあった。

 答えが出せそうな問題もあった。


 けれど、プリントの空欄を埋められなかった。


 家庭教師になったばかりの白亜は、黄瀬と並んで勉強机の前に座っていた。白亜は黄瀬を責めなかったし、どうして解かないのかも聞かなかった。

 

 聞かない代わりに、彼女はたくさんの話を聞かせた。


 お酒を吐くまで飲んで、吐いても飲むようなトンデモナイ飲み会の話とか。初めての一人暮らしで、しわくちゃになった洗濯物の話とか。ひじきを水で戻したら、すごい量になった話とか。オチのない話とか、ヤマのない話とか。


 他愛無い話ばかりだ。


 毒にも薬にもならない話を、彼女はたくさんした。

 一ヵ月ほど経ったある日、黄瀬は空白のプリントを前にして言った。


『——ごめんなさい』


 膝の上に握り拳を作り、自分の握り拳をじっと見下ろしながら言った。握り拳には涙が落ちていた。白亜はジーンズのポケットからハンカチを取り出して、黄瀬の涙を拭った。


『確かにね、うん。立場的には、あたしは問題を解いて欲しい』


 白亜は勉強机のプリントを見て言った。

 家庭教師の登録先から提供される教材だ。

 白亜はその教材を折り畳んでポケットにしまった。

 彼女は困ったように眉を下げ、綺麗に白い歯を見せて笑った。


『でも、解かなくたっていい。あたしの期待なんか、応えてやる義理ないんだ』


 白亜は、声を堪えて泣く黄瀬を肩に抱き寄せた。

 香水とは違う、けれど、甘やかな匂いが黄瀬の鼻先をくすぐった。

 白亜は、赤ん坊のように縋り付く黄瀬の背中を撫でて続けた。


『仕方ない、付き合ってやろうか。そう思ったらでいい。ずっと思わなくてもいいから』


 その人の声は優しくて、泣いてしまいたくなる声だった。

 その人の手は優しくて、泣いてしまいたくなる手だった。

 他愛無いことを隣で話し続けてくれる、決して傷つけない優しい人だった。

 聞かれたくないことには踏み込まない、決して傷つけない優しい人だった。

 それなのに気づいて欲しいことに気づいてくれる、優しい目を持っていた。

 その人の優しさは目に染みて、わたしは泣いてしまいたくなった。

 でも、優しい人は最後に一つだけ、やさしくない、とても難しいことを要求した。黄瀬勇花にとって唯一の、台無しになってない思い出だ。


『だから泣くな』


 優しくて、やさしくない、

 家庭教師の先生はそう言った。


        ◇


 水曜日、夜の二十時半。勉強の後。

 黄瀬家の玄関に、帰り支度を済ませた白亜が立っていた。


「勇花ちゃんママ、晩御飯ごちそうさまでした」


 白亜はスニーカーに履き替えて、見送りに立つ母子を振り返る。

 家庭教師の時間が終わると、白亜は黄瀬家で一緒に食事を取った。一人暮らしの白亜の食生活を慮り、黄瀬の母親がいつも用意してくれているのだ。 


「今日も美味しかったです。紅鮭のホイル焼き、最高でした」


 白亜がそう言うと、娘のやや後ろに控えて立つ彼女は「そう言ってもらえると、作り甲斐があるわ」と微笑んだ。ご機嫌取りの笑顔ではない珍しく本物の笑みが、橙色の照明の中に浮かんだ。

 白亜は爽やかな笑みで応じて、ドアノブに手をかける。


「あ、先生ちょっと」

「うん?」


 白亜が帰る直前、黄瀬が白亜の肩に手を伸ばした。

 黄瀬は白亜のモッズコートの上を払い、ニッコリと微笑む。


「糸クズついてた」

「おお、ありがと。それじゃ、また今度の土曜日に」


 そう言って、白亜は黄瀬家から立ち去った。

 黄瀬はその後姿を見送り終えると、直前までの笑顔が嘘だったように表情を消した。母親の横を無言で通り過ぎ、階段を上って自分の部屋に戻る。


「……まさかね」


 勉強机の椅子に座り、そう呟きながら黄瀬は両目を閉じた。

 数千に及ぶ市内の光景が、目蓋の内側で瞬く。

 それらの光景は、彼女の異能が見せたものだ。

 黄瀬の持つ異能は、数種の虫を産み出して操作するものだった。

 攻撃に使うのは専ら蛆虫のような幼虫の方で、成長した羽虫は偵察・追尾用の駒だ。黄瀬はそれらの羽虫たちと視覚・嗅覚の情報を共有することができた。


 黄瀬は羽虫の大群を使い、少女を追っている。


 黒凪に見せられた動画の少女だ。


 カメラの解像度が悪かったために、少女の顔まではわからなかった。けれど、ビル近くの血だまりで虫たちに匂いを覚えさせた。虫の一匹でも少女に接触すれば、黄瀬にはそれとわかるはずだった。

 白亜が帰る間際、黄瀬は糸クズを取る振りをして、白亜の肩にも虫を一匹つけていた。偵察用の羽虫だ。嫌な予感を拭い去りたかった。


 白亜が「無駄に尊大な猫」と呼ぶものの正体を確かめようとしていた。


 出来過ぎた偶然なんてないと証明するために。


 そんなことあるはずないと、

 自分に言い聞かせながら。


 白亜は帰路の途中、本屋とスーパーに立ち寄り、メモを見ながら買い物をしている。黄瀬は家にいながら、その様子を虫と共有して眺めていた。

 二十分ほどで白亜はアパートに着いた。一人暮らし用の賃貸物件だ。

 当たり障りのない階段を上り、どこにでもあるようなドアが開いて、黄瀬は眩暈を覚えた。


「オカエリナサイ」


 そう言って白亜を出迎えた一人の少女。

 無駄に尊大な猫の正体。

 黄瀬は椅子の上で仰向けに天井を見て、呟いた。


「……()()()


 他にはない、特別な少女だった。

 黄瀬は忘れられない顔に出会い、そして、確かにそれとわかった。目の前の少女が、黒凪の追っている取り換え子だと。当然、彼女の名前もわかっていた。


『——照井紅音、と申します』


 その名前だけは、絶対に忘れない。


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