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第三章 蠅蛆の子

        ◇


 ヤドリバエ。

 ヤドリバエ科に属する昆虫の総称。宿る——つまりは、他の生き物に寄生するハエだ。蝶などの芋虫の体内に卵を植え付け、宿主から栄養を横取りする生態を持つ。宿主である芋虫が蛹になったとき、その殻を食い破って蛆が表出した。

 それは美しい成長を遂げるはずだったものが、台無しになる一瞬だ。


 可憐な蝶を未然に慮辱するかのような。

 輝かしい未来に対する汚染。


 それはおぞましく、背徳的で、生命の本質を思い出させる。

 そして、黄瀬勇花は誰かに思い出させてもらうまでもなく、それをよく知っていた。

 生き物はすべからく、何かを台無しにして生きるものだと。




 水曜日、朝の七時半。

 黄瀬勇花(きせゆうか)は、自宅の二階、子供部屋のベッドで目を覚ました。何か不愉快な夢を見ていた気がするが、よく覚えていなかった。身体を起こし、寝乱れた髪をかき上げる。カーテンを開けると鉛色の空があり、湿りを帯びた空気が重たく垂れこめていた。


「……最悪」


 一言で今朝の気分を吐き捨てて、黄瀬はのろのろとベッドから抜け出した。

 薄暗い部屋に立つと、姿見の鏡面に黄瀬のパジャマ姿が映る。

 黄瀬はどこか不満げに、自分の現し身を見つめた。

小さく薄い、未成熟な身体だ。外側だけは、以前の黄瀬勇花のままだった。けれど、その中身は、妖精使い〈尾木羽馬(おぎはば)〉の手によって入れ替えられている。蛆と蠅を操る、ひどく醜い取り換え子(チェンジリング)へと。


「ゆっ、勇花ちゃん……?」


 部屋のドアが薄く開き、中の様子を伺うような声が聞こえた。黄瀬の母親の声だ。黄瀬勇花の身体を産んだという点で、彼女は確かに母親だった。

 そして、中身の変えられた娘は、姿見を気怠そうに睨みながら答えた。


「何?」

「朝ご飯、出来たから。もうそろそろ、起きない?」

「返事、してるでしょ」

「あっ。そそ、そうよね。ええ、起きてるなら、いいの。ごめんなさい」

「先に下りてて。すぐにいくから」

「そ、そう。それじゃあ、ま、待ってるわね」


 母親は怯えたように言い残し、ドアを閉めた。

 階下に向かう足音がそれに続く。


「……最悪」


 黄瀬はうんざりした様子で息を吐くと、クローゼットの制服に手を伸ばした。


        〇


 水曜日、朝の八時半。

 大学に行く直前、ハクアが靴を履きながら言った。


「今日は帰り、遅くなるから」


 私は上がり口に立ち、ハクアのマフラーを両手で捧げ持っていた。靴を履き終えたハクアにマフラーを巻いてやりつつ、「そうか」とだけ答える。

 ハクアは私が巻きやすいように首を差し出し、どこかご満悦な顔で続けた。


「ご飯もバイト先で出るし。帰りは九時くらい」

「わかった」

「うん。それじゃ、行ってきます」


 ハクアがそのまま出ていこうとするので、私は「待て」と呼び止めた。

 ドアノブを掴んだまま、ハクアがおやと振り返る。


「何?」

「傘を持っていけ。今日は降ると言っていた」


 言いつつ、私は親指で自分の背後を指さす。テレビがある方向だ。私がよくニュースを見ていることは、ハクアも知っていた。「なるほど」と納得して傘立てに手を伸ばす。

 ハクアは傘を引き抜くと、「うん?」と疑問の表情を浮かべた。


「降るのって雪?」

「いや、雨らしい。確かに、最近は冷えるが」

「何か最近、小っちゃい虫が多くてさ。こんな寒いのに何でだろうね」

「会話もいいが、講義の時間は大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」


 ハクアは傘をぎゅっと握り、今度こそ玄関のドアを開いた。冬の冷たい風が暖房の利いた室内に入り込み、ハクアが「ひぃ……」と首を竦めてマフラーに顔を埋める。

 私は上り口の壁にもたれて、それを見送った。

 ドアを閉める直前、ハクアは思い出したように顔を覗かせる。


「それじゃ、今度こそ行ってきます」

「イッテラッシャイ」


 私がそう答えると、「やっぱり様にならない」とハクアは満足そうに不満を漏らした。


        ◇


 水曜日、朝の八時半。

 黄瀬は中学校の校門を通過した。

 午前の授業が始まるのは、八時四十分からだ。残りは十分。校門に立っている教師からは急ぐように言われたが、黄瀬が気怠そうな歩みを早めることはなかった。

 黄瀬は一定のペースで歩き、下駄箱に立ち寄り、教室に着いたのが授業開始の三分前。黄瀬が教室のドアを開くと、クラスメイトたちの雑談が止んだ。


「…………」


 一瞬の静寂。直後、何事もなかったかのように日常は再開された。

 けれど、妙な空白の余韻が、そわそわする立ち居振る舞いに現れていた。教室にいる誰も彼もが、嘘くさい日常を演じ続けている。

 黄瀬は開いたドアの前でわずかに両目を細めた。


 授業直前の教室に空席は六つ。


 一つは黄瀬の席であり、一つは病欠の生徒の分だ。


 残りの四席はここ一ヵ月空席の状態が続いている。


 その席に座っていた女子生徒たちは、かつての黄瀬に対し、暴行・器物破損などの犯罪行為を繰り返した。「未成年・学校内のこと」などを理由に事件化されなかったが、その行動の結果として、彼女たちは登校できなくなった。

 学校側からの罰則ではなかった。

 彼女たちの犯した過ちは単純であり、一つだ。

 中身の変わった黄瀬に対して、かつての黄瀬と同じように接したのだ。



『あら、久しぶりじゃない勇花』

『髪伸びてるじゃん。あ、また切ってあげようか』

『今度来たらバリカンって約束だっけ』

『ねぇ。黙ってないで何とか——』



 一ヵ月前だ。女子生徒が四人。黄瀬の席を囲い、そう言った。

 彼女たちは気づいていなかった。

 外見が同じだけで、その中身が文字通り悪魔に替えられているなんてこと。


『口が汚いのは、性根が腐ってるから?』


 黄瀬は気怠そうに頬杖をついて答えた。

 少女たちは「あん?」と黄瀬を脅そうとしたが、声を発しようとした瞬間、喉元の違和感に気がついた。少女たちの口の中で小さなものが蠢いていた。黄瀬は頬杖をついたまま、心の底から面倒くさそうに違和感の正体を指摘した。


『私は嫌いだけど、でも、()()()()()には好かれるんじゃない?』


 まず少女の一人が、口を押えた。

 続いて三人もそれに倣う。

 小さな違和感は咥内で爆発的に増殖し、少女たちの口を決壊した。


 げぼげぼげぼ。


 ぼとぼとぼと。


 少女の口から溢れたものは、蛆だった。少女たちは、壊れた蛇口のように、喉元いっぱいまで増殖した蛆を吐き出した。それでも、蛆の増殖は止まらない。

 舌の裏、唇と歯の隙間、奥歯のさらに奥。口の至るところを蛆が這い、呼吸が詰まり、その息苦しさから涙を流して嚥下した。同時に何もかも吐き出した。今日の朝食とか、口の中の蛆とか、ささやかな自尊心とか。くだらないものばかり。


 朝の教室での出来事だった。


 それ以来、少女たちはここに来ていない。


 そして、その一件以来、黄瀬の立場も決定的に変わってしまった。

 被害者から加害者に。

 虐げられるものから、触れられざるものに。

 それまで築かれていた、黄瀬勇花にまつわるあらゆる関係性がすべて吹き飛び、教室の空気ごと再構築も不可能なほど台無しになった。いじめの開始と共に離れていった友人も、見ない振りを決め込んだクラスメイトも、今では黄瀬を恐れている。


「…………」


 黄瀬は自分の席であの日と同じように頬杖をつく。

 修復不可能な、瓦礫の山のような人間関係の上で、何もなかったように振る舞う茶番に、彼女は辟易していた。だから、誰にも話しかけない。話しかけられても無視した。


 けれど、彼女もわかっていた。


 家にいても、学校にいても、彼女を待っているのは茶番だけだと。

 その程度の、上っ面の関係しか築けなかった。

 そんなことだから、黄瀬勇花は〈取り換え子〉になってしまったのだと。


「……最悪」


 一言で今の人生を吐き捨てると、黄瀬は始業のチャイムが鳴るのを待った。


        〇


 動画サイトが面白い。

 私は、ハクアのパソコンで様々な動画を見た。


 動物と戯れる動画とか。


 アニメやドラマの配信とか。


 料理やプログラミング、多岐に渡るジャンルの、多様な技術の解説とか。


 中でも興味深かったのは、格闘技に纏わるものだ。人体を使った効率のよい破壊力の探求であり、武器を伴わない創意工夫だ。この身体を扱うよい手本になる。


 蹴り技を繰り出す格闘家を見ながら、私は動きのイメージを頭に刻む。

 この程度なら問題なく再現できそうだ。

 そう判じたとき、ふと下らないことを思い出した。


「いや、問題なく再現できるのが、この女の場合は問題だったわけか……」


 私は、混ざりつつある身体の記憶を呼び起こす。

 幅広い分野の適性を有し、見たものを即座に再現する驚異的な対応力の持ち主だった。それが祟り、母親から要らぬ反感と抑圧を押し付けられた。

 子供の有能さを喜べない親。

 有能さを隠して埋没する娘。

 どちらも嫌味な話だと、今の私からすれば思う。


「フン、下らない」


 私は動画で見た通りに、胴廻し回転蹴りを放った。イメージと寸分違わない蹴りが、照明から伸びる紐を激しく揺らす。

 同時に照明のスイッチがオフになった。

 私は自分の蹴りに満足した。申し分ない動きだ。

 最初こそ不満のあった身体だが、このところは妙に馴染んだ感じがする。


「まるで初めからそうだったみたいに、な……」


 私は立ち上がり、照明の紐に手を伸ばして、その揺れを止めた。

 照明が落ちた室内は、薄暗い。

 私は時計を確認する。夕方の十六時。雨が降っているから夕焼けは見えなかった。私は照明の紐を引き、電気を点けながら思う。


「傘を持たせて正解だった」と。


 私は明かりの灯ったリビングから、ふと玄関の方を見る。

 今日何度目かの、動かないドアだ。

 何度見ても別に代わり映えはしない。ハクアが帰ってくるのは五時間後であり、何度見たところでそれが変わるわけでもない。あれが動くのは五時間先だ。


「…………」


 動かないドアノブ。回らない鍵。早く帰ってくるわけでもないのに、私はなぜか見続けた。

 傘を持たせたこと褒めてもらえるだろうかと、そんな風に思いながら。

 ドアはまだ動かない。


        ◇


 水曜日、夕方の十六時四十分。


「……最悪」


 黄瀬勇花は下駄箱の前で立ち尽くした。

 彼女の眼前には、冷たい雨。

 校門までの道にも、いくつか水溜まりが出来ていた。朝から雲は出ていたのに、雨まで降っていなかったからつい傘を持たずに来てしまったのだ。自分の不注意が恨めしい。

 黄瀬は冬用の上掛けからスマホを取り出した。

 今後の予報を調べると、雨は明け方まで降り続くらしい。黄瀬は口をムッと結んだ。母親を呼ぶしかないかと、嫌々ながらスマホの電話帳を開く。そのとき、声が掛かった。


「勇花ちゃん、傘、忘れたの?」


 下駄箱の先、出入り口の近くに本郷蝶花(ほんごうちょうか)が立っていた。

 黄瀬はスマホから目を上げる。

 本郷は傘を二本持っていた。黒っぽい地味な傘と、予備だと思われる折り畳みの傘だ。本郷は一歩前に進み出て、両手に持っている傘を差し出した。


「よかったら、好きな方……」


 黄瀬は口をきつく結び、傘を差し出す本郷の隣を通り過ぎた。

 そのまま、出入り口のひさしからも一歩外に出る。

 雨粒が黄瀬の身体を叩いた。

 濡れた髪が顔に張り付き、白い肌が雪のように冷えていく。

 十二月の雨は、やはり冷たかった。少し濡れただけでも、身体の芯まで寒さが凍み込んでくるようだった。それでも、黄瀬は雨の中に進み出た。ただ、拒絶するために。

 黄瀬は雨に濡れながら、冷めた目で振り返る。

 傷ついたような顔で唖然としている本郷を睨んだ。


「何度待っても無駄。ここにいるのは、貴女の知ってる黄瀬勇花じゃない」


 かつての黄瀬勇花の友人に、そう告げた。

 かつての黄瀬が、親友と信頼を置いていた彼女に。

 かつての黄瀬に、手を差し伸べなかった裏切者に。

 今さら取り返すことなど不可能だと、すでに台無しなのだと教えるために。


「とっくの昔に」


 本郷が憧れた少女の、その中身を食い荒らした悪魔は、羽化できなかった蝶を思った。

 蛹のまま中身を食いつくされた蝶だ。

 とある少女の末路。


「手遅れだから」


 冬の雨が、黄瀬の身体を打ち続ける。

 その冷たさは、身を切るように凍みた。けれど、黄瀬は微塵も顔には出さず、震えすら噛み殺して射貫くように本郷を見る。

 蛹の中身を食い殺した蛆は、食い殺された殻の中から冷たい事実を言い放った。


「貴女が許して欲しいと願ってる相手は、二度と現れない」


 そして、黄瀬は雨の中を歩いて帰る。

 けれど、身を切る寒さは気にならなかった。自分の周囲に広がる茶番と、自分に対する嫌悪の感情が、黄瀬のすべてだった。


        ◇


 降りしきる雨の中、黄瀬はこの茶番の原因に思いを馳せた。

 自分自身のふざけた現状についてだ。

 取り換え子(チェンジリング)

 その現象は、世界各地に類似した伝承として残っている。


 曰く、「妖精(フェアリー)による人間の子供の連れ去り」だ。


 その際、連れ去られた子供の代わりとして現実に残されるのが、取り換え子だった。連れ去られた子供にそっくりな外見を持つ、中身の異なる存在であり、魔に通じた人ならざる怪異なものだ。


 妖精使いは、人為的にその取り換えを引き起こす術を持っていた。


 人ならざるものにしか使えない業を求めて、人の子供を妖精に捧げる呪術だ。尾木羽馬がどこでそんな呪術を学んだのかについては、黄瀬の知るところではなかった。


 黄瀬が知っているのは、自分が呼び出されるに至った経緯だけだ。


 黄瀬勇花という、この身体が持つ記憶。


 本郷蝶花が目の前に現れる度、その記憶は何度でも黄瀬を苛んだ。




『イモムシ』


 色が白く少しふくよかな体形と、「蝶」という文字の入った名前に因み、本郷蝶花につけられた蔑称だった。黄瀬が小学三年生のころの話だ。

 そのころの迫害の対象は、黄瀬ではなかった。

 むしろ、当時の黄瀬は迫害とは無縁の位置にいた。

 幼い日、彼女の未来は輝いていた。

 輝かしい未来が待っているかに思われた。


 黄瀬小楢(きせこなら)


 ある時期における日本の体操競技、中でも床運動において一時代を築いた選手だ。

 そして、黄瀬勇花の父親であり、自慢のコーチでもあった。

 小楢の指導は厳しかったが、それは期待の裏返しであり、娘にもそれは伝わっていた。


 だから、勇花は頑張り続けられた。


 努力は苦ではなかった。


 純粋に「父親の期待に応えたい」と思っていた。


 黄瀬は小学生の競技者として破格の知名度を誇り、同時に父親が期待するだけの実績も上げていった。蝶のように舞う美しい少女であり、日本体操界の期待の新星だった。


 黄瀬も自分の演技に誇りを持っていた。


 体操選手特有の綺麗な姿勢と自信に満ちた態度は、自然と周囲の大人やクラスメイトを惹きつけた。そして、誰からも優しくされて育った彼女にとって、誰かに優しく接するなんて当たり前のことだった。


『蝶花って可愛い名前だね』


 たまたま、席替えで隣の席になった本郷に、黄瀬はそう微笑んだ。

 当たり前の優しさの、その発露でしかなかった。

 けれどそれ以来、本郷にとって黄瀬は特別な女の子になった。

 黄瀬は、本郷にとって憧れの美しい蝶だった。

 黄瀬は何度か本郷を体操クラブに誘ったが、本郷が入会することはなかった。けれど、黄瀬が練習するときはいつも、本郷がクラブの片隅で見学していた。あの日もそうだった。


『蝶花ちゃんも、やってみたらいいのに』


 休憩時間中、黄瀬はタオルで汗を拭い、壁際に立つ蝶花に言った。

 黄瀬の練習を熱い眼差しで追っていた本郷は、慌てて首を横に振る。同時に手も振りながら言った。


『わっ、わたしは無理だよ!』

『でも、見てるだけだと退屈でしょ? お父さん、私には厳しいけど、他の子には基本的に優しいし、怒られたりしないよ?』

『わたしは、黄瀬さんを見られたら、いいの……』

『ホントに?』

『ほ、ホントに! あっ、でも、あの、気持ち悪かったら、その、言ってくれたら……』

『気持ち悪いわけないじゃん。変な蝶花ちゃん』


 当時の黄瀬はそう言って、嫌味のない、屈託のない笑顔を浮かべられた。そして、本郷はそれを見ていられるだけで満足だった。

 その笑顔は、本郷にとっての特別だったから。

 少女二人が楽しげに話し合っていると、黄瀬小楢が声を掛けた。


『勇花、そろそろ再開しよう』

『は~い。それじゃあね、蝶花ちゃん』


 そして、練習で舞う黄瀬勇花は、誰の目にも特別だった。

 父親である小楢にとってもそれは同じはずだった。

 あの日。

 あの瞬間が訪れるまでは。

 あの少女に出会うまでは。

 黄瀬が小学四年生のとき、最初の軋みがあった。

 最初にしてその後の悲劇へと続く、

 決定的な軋みだった。


『ごめんください』


 その日、一人のご婦人に連れられて、中学一年生の女子が見学にきた。

 俯き加減で陰鬱な雰囲気の女子生徒だった。

 一目見たとき、黄瀬は彼女が体操に向いているとは到底思えなかった。何かを表現すること自体、苦手なように見えた。

 明るい黄瀬とは対照的な抑圧された感じの少女だ。


『ああ、お電話を頂いた、見学の方ですか』


 小楢がいつものように対応に向かうと、女子生徒が俯けていた顔を上げた。

 それを見て、黄瀬はうっかり練習の手を止めてしまった。

 長い黒髪から覗いた少女の横顔。その横顔があまりに——暴力的なほどに、美しかったから。


『何をしているの。ご挨拶なさい』


 母親らしきご婦人に促されて、その女子生徒はお手本のようなお辞儀をした。


 その女子生徒が、お辞儀から身体を起こす。


 綺麗に伸ばされた背筋、同時に、顔を隠していた黒髪をさりげない仕草で耳にかけた。黄瀬と同じように息を飲んでいた小楢に、彼女はごく控えめな愛想笑いを浮かべる。

 それらの所作だけで、すぐに異常だとわかった。

 彼女の纏う空気のようなもの。

 彼女の一挙手一投足のすべてが、何かが、()()()()()()()()()



照井紅音(てるいあかね)、と申します』



 人の目を惹きつけて離さない魔性の少女(ファムファタル)は、確かにそう名乗った。

 そして、すべてが狂っていった。


        ◇


 水曜日、日没後の十七時四十分。


「……最悪」


 黄瀬が家に着いたときには、下着までグシャグシャに濡れていた。

 雨の中、傘もささずに歩いた結果だ。

 自分で選んだ行動の帰結なのだから、完全無欠に自業自得だった。

 黄瀬は玄関に入ってすぐ、雨水でいっぱいの靴を八つ当たり気味に脱ぎ飛ばした。べちゃべちゃと気持ち悪い靴下も、脱いで丸めて投げ捨てる。とにかく寒かった。震えが止まらず、歯の根が合わない。黄瀬は冷え過ぎて青ざめた顔を歪めた。


「……最悪、最悪、マジで最悪」


 左右の髪留めを順番に外し、濡れそぼった髪を苛立たしげにかき上げる。


 朝からずっと最悪な一日だった。


 中でも今が一番サイアク。


 何もかもが忌々しくて、誰も彼もに当たり散らしたい気分だった。だから、玄関に向かってくるパタパタという足音に、黄瀬は濡れた前髪越しに睨みつけるような視線を送った。母親だと思っていたからだ。けれど、予想は裏切られた。


「わっ、勇花ちゃんずぶ濡れだ」


 相手を確かめて、黄瀬の目つきが和らいだ。

 同時に彼女は思い出す。


 今日が家庭教師の日だったこと。


 家庭教師の先生は、真っすぐに手を伸ばした。

 彼女の指先が濡れた髪を優しく払い、黄瀬の冷めた頬に温かい掌が触れる。黄瀬の頬がカッと熱くなり、心臓が高鳴った。


「ほら、すっごい冷たい。早くシャワー浴びておいで」


 家庭教師の先生は、冷め切った黄瀬の頬を両手で温めながら言った。

 黄瀬は気恥ずかしくなって俯いた。

 それと同時に、一日分の「最悪」がなくなったかのようにはにかんで、家庭教師の先生を上目遣いに見る。

 短い髪型が似合う、若くて背の高い、女性の家庭教師だった。


「はい、()()()()


 アルバイトで家庭教師をしている女子大生、大塚白亜(おおつかはくあ)にそう答えた。


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