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第二章 優しい鳥籠

        〇


 幼いころの私には、たくさんの可能性があった。


「娘さんは天才かもしれません」

「十年に一人の逸材です」

「ゆくゆくはプロを目指すことも」


 ピアノも、水泳も、バレエも、体操も、その他の習い事も周囲の誰より早く上達した。私の飲み込みの早さや、心身の柔軟さは、どの分野の指導者にも称賛された。けれど、何かを成し遂げることはいつだって許されなかった。


「女の子は一歩引いているくらいがちょうどいいの」


 母はそう言って、一つ、また一つと、私の可能性に蓋をした。

 蘇えることがないように、棺桶に釘を打つように。

 もっと続けたい。そう言っても、「親に口答えなんてどういうこと」、「やっぱりあんなところに入れたのが間違いだった」とヒステリックに叱られるだけだった。


 繰り返される母の教育に、私は頑張ることを禁じられていった。


 突出しないよう、何ごともほどほどに控える。目立ちすぎないよう、けれど、他人に劣ることがないよう、常に周囲を覗う。それでいて、淑女然とした立ち居振る舞いも心がける。母の望む子どもであらんとする。


 それが私にとっての当たり前だった。


 自分の可能性なんて長いこと見失っていたし、見失っていることすら忘れていた。女子校に入学したばかりの私は籠の鳥より酷かった。醜くて、愚かで、死んでいるみたいだった。

 あれではまるで棺の鳥だ。

 だからなんだ。

 彼女のことが、あんなに輝いて見えたのは。


『バスケ部の王子様』


 そんな呼ばれ方をする彼女は、でも、みんなが言うような爽やかな人ではなかった。誰より長くコートに立ち、がむしゃらに練習して誰よりたくさん汗を流していた。それはとても単純な事実——だから、彼女は上手だった。高いところを目指して羽ばたき続けたから、彼女は高いところで輝いていた。

 私はいつも学校の渡り廊下から、体育館の彼女を覗いていた。

 それは目も眩むほど綺麗で……

 私は先輩の輝きを見て、こう思ったんだ。



『その輝きを止めてくれ』



               〇


 目が覚めると、私の意識が揺らいでいた。

 私という火の鳥の記憶と、アカネという小娘の記憶が、一緒くたに掻き混ぜられたような感覚だった。どちらが私の記憶でどちらが小娘の記憶なのか、判別しにくくなっている。

 境界がぐにゃりと溶けて、あやふやな感じだ。

 冷静に考えると不愉快な状況のはずだが、気分はそれほど悪くなかった。

二つ分の記憶が、違和感なく私の中に収まっている。

 

 私は身体を起こした。

 その拍子に上掛けがずり落ちる。


 横で寝ているハクアがまだ眠そうに布団を引っ張った。ハクアはしょぼくれた目をぎゅっと閉じて、寝苦しそうな顔で寝ている。小さな声で「課題ぃ、出席ぃ、単位ぃ……」と寝言を繰り返していた。

 私はハクアの寝顔をしげしげ眺めて、それからぽつりと零した。


「これのどこが、そんなによかったんだ」

「んうぅ、なんか、言った?」

「朝飯」

「冷蔵庫、適当にどうぞ」

「お前は」

「まだ、寝る」


 明確な意志表示の後、ハクアは断固たる姿勢で二度寝に入った。

 私は睡眠の妨げにならないように布団から抜け出すと、キッチンに向かって冷蔵庫の中身を確認した。記憶が混ざりつつある影響なのか、やるべきことはすぐにわかった。私は、流れるように、そして静かに、朝食の準備に取りかかった。




「なんか、いい匂いする」


 朝食が出来上がるのを見計らったように、ハクアは布団から出てきた。

 私が味噌汁とだし巻き卵、白米をローテーブルに並べると、ハクアはテーブルの上の食事をしばらくぼうっと見ていた。私はカーペットの上に座る。白亜が立ったまま尋ねた。


「二膳ある。あたしの分?」

「他人様の家の食材で、自分だけ食べないだろ。食器が二組あって助かった」

「ああうん。何か、カワイイのあったら買っちゃうんだよ」

「いいから顔を洗って来い。冷めるぞ」

「ああうん。そうする、ちょっと待って」


 ハクアはもたもたと洗面台に向かい、キビキビと帰ってきた。私の向かい側に座ると、二人で一緒に手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます」


 ハクアはだし巻き卵を一口すると、「あっ、懐かしい味」と頬を緩ませた。バスケ部の試合のときなどに、アカネが弁当を差し入れていたからだろう。手順が同じなら、同じ味が再現されてしかるべきだ。

 私も黙って箸を進める。半分くらい食べ終えた時点で、ハクアが箸を休めて「ああ~」と何か言い淀んだ。私は箸を休めずに尋ねる。


「どうした」

「どうしたというか。それ聞きたいの、圧倒的にあたしの方?」

「だろうな」

「だろうなって」

「しばらく世話になる。説明はおいおいする」

「オイオイ」


 ハクアは、それはないだろう、みたいな顔。

 私は自分の食べ終わった食器を重ねて、流し台に運びながら言った。


「私に構わず、大学には行った方がいい。課題に、出席に、単位、貴女が気にすべきことは他にたくさんあるはずだ」

「な、なんで知ってんの?」

「寝言」

「い、言わないってそんなこと!」

「では今度録音しておこう」

「……ホントに言ったの?」

「言った」


 ハクアは痛そうに頭を押さえて「あたしは漫画か……」と呻いていた。


        ◇


 大学の講義室で、白亜(はくあ)は教養科目の講義を受けながら溜息を吐いた。


「完全にペース握られてるし……」


 教壇では白衣姿の女性講師が、ベンジャミン・リベットとかいう外国人の行った実験について滔々と語っている。けれど、あまり頭には入ってこなかった。他の学生たちも、声を聞き流しながら、壇上の講師の綺麗に整った顔を眺めている。


「まぁ、顔なら紅音(あかね)の方が……」


 白亜は「イッテラッシャイ」とぎこちなく自分を送り出した、紅音の仏頂面を思う。言葉を覚えたばかりのオウムって感じだった。カタコト具合が妙にツボって、今思い出しても口もとがにやける。


 白亜は緩む口を手で隠しつつ、鞄からスマホを取り出した。


 昼食時に送っていたメッセージに返事が来ている。

 紅音について、バスケ部の後輩にそれとなく探りを入れてみたのだ。返信の内容は、もっともらしい憶測から、明らかにデマとわかるような珍説まで、雑多な噂話集といった趣だ。有益な情報といえば、「警察に届けは出されてないらしい」というものくらいだった。


 白亜はスマホを戻して顔を上げた。


 講師はまだ自由意志について話を続けている。その日は五限まで講義があったけれど、出席数を稼いだだけで、どの内容も白亜の頭には残らなかった。

 

 五限目の講義を終えた白亜は、退室する学生の波に紛れて講義室を出る。


 校舎の外はすでに日も暮れて、クリスマスの電飾が規則的な光の模様を描いていた。キャンパスには年末特有のお祭りムードが漂っている。浮かれた様子の学生たちが、クリスマスに向けた予定を口にしていた。

 白亜はキャンパス・ライフを楽しむ彼らを眺める。彼女の所属するサークルでも、同じような光景が繰り広げられているに違いない。彼女は大学でもバスケのサークルに入っていた。


「ふぅ……」


 白亜は周囲の学生から視線を外した。目のやり場に困ったのか、彼女はふと夜空を見上げる。


「はぁ……」


 白亜の吐いた白い息が、夜空に浮かぶ月に被った。月の周りでは、小さな星々がいくつも瞬いている。それなのに、星空の月が、白亜には孤独に見えた。イルミネーションの中、彼女自身がどこか居心地悪いように。

 白亜はサークル棟には顔を出さず、真っすぐ家に戻った。




「オカエリナサイ」


 言葉は知っているけれど、口にするのはこれが初めて——みたいな感じの絶望的に様になっていない「おかえりなさい」に出迎えられて、白亜は思わず苦笑いを浮かべた。

 その「おかえりなさい」が様にならない紅音の、けれど、手狭な白亜の部屋でくつろいでいる姿の方はといえば、やたらしっくり馴染んでいた。それがまた笑えた。何より紅音が待ってくれている家は、白亜にとって心地よいものだった。


「うん。ただいま」


 白亜は自然とそう返していた。

 そう返すことに、違和感は少しもなかった。

 そして、結局のところその程度のことが、彼女にとっては決定的だった。白亜は紅音から何も聞き出すことなく、彼女との共同生活に突入していった。


        ◇


 名古屋市北区にある市立中学校。

 下校時間の迫りつつある夕焼けの廊下を、一人の少女が気怠げに歩いていた。

 愛知特有の大きな襟のセーラー服を着た、数多いる在校生のひとりだ。

 癖のある髪を左右で高く結い、顔立ちには幼さが残っている。


 その少女は三年生用の下駄箱に向かい、上履きを脱いだ。ローファーに履き替えて、校門に向かう。その途中で、少女の背中に「あの……」と声が掛かった。

 呼ばれた少女が振り返ると、そこにも同じ制服の少女がいた。呼んだ少女の方は、少しふっくらした体形をしている。寒い中、出てくるのを待っていたのか、鼻の頭が赤かった。

 呼ばれた少女も気づいていたが、無視して歩き続けた。


「ゆっ、勇花(ゆうか)ちゃん!」


 無視された少女は、勇気を振り絞って名前を呼んだ。だが、名前を呼ばれた彼女は、あからさまに迷惑がった様子だった。

 勇花と呼ばれた彼女は、射竦めるような眼差しで尋ねる。


「何か御用かしら、本郷蝶花(ほんごうちょうか)さん?」

「え、えっと……」


 わざとらしいほど他人行儀な態度に、声を掛けた女の子は言葉を濁した。

 彼女は、伝えたいことがあったに違いない。

 そのために、長い時間、寒い中で待っていたのだ。

 けれど、本郷と呼ばれた少女は言葉を呑んで俯いてしまった。

 赤く凍えた指先でスカートを握り締めていたが、どれだけ力を込めても、それ以上の勇気は沸いてこなかった。振り絞った勇気は、穴の開いた風船のように萎んでいた。

 勇花と呼ばれた少女は、フンと鼻を鳴らした。


『予想通りに下らないものを見た』


 そう言いたげな冷ややかな態度で、彼女は相手の勇気を一笑に付す。興味を失くして正面に向き直り、そのときふと校門前の車に気づいた。

 骨董品めいたブルーバード。

 黄瀬勇花(きせゆうか)はその乗り手を知っていた。だから、気分は最悪になった。

 骨董品の運転席から黒い外套の男が降車する。


「——乗れ」


 黒凪皆無(くろなぎかいむ)は端的にそう告げた。




 黒凪のブルーバードが自動車講習の手本のように国道沿いを走る。

 煙草の臭いが染みついた車内。カーステレオから流れるのは、昔からある定番のクリスマスソングだ。ワムの『Last Christmas』。黄瀬(きせ)はそれが黒凪の趣味だとは思わない。義務的に、自動的に、「そうあるべきだから」という規範意識によってのみ、なされた選曲だ。


 走る密室と化した車内、黄瀬は後部座席の左寄りに座った。


 彼女はドアにもたれかかり、頭を車窓に預ける。車の振動が窓越しに伝わる。黄瀬の視界の中で、街並みと瞬くイルミネーションが流れていった。

 黄瀬は視線だけ動かすと、ルームミラーを介して黒凪を観察する。


 けれど、無駄だった。


 黒凪の表情からは何も読み取れない。

 喜怒哀楽のすべてに欠け、二人を乗せる車の方がまだ情緒を感じられた。


「——三日だ」


 黒凪が経過した日数を言った。

 彼が「動画の女を探せ」と命じてからの日数だ。

 黄瀬は窓の外に視線を移して答えた。


「高架沿いの一帯なら、とっくに確かめさせたわよ」

「この街からは出ていない。どこかに潜んでいるはずだ」

「その根拠は?」

「捜索の範囲を広げろ。市内を隈なくだ」


 黒凪は黄瀬の方を見向きもせずに告げた。説明の必要性を感じていない、冷徹で一方的な物言いだ。相手の意思を汲む気がないと、その態度で表明していた。

 黄瀬は黒凪を一瞥し、風景を睨み直して答えた。


「範囲を広げるのは構わないけど、でもそれ、虫の数を増やすことになるわよ?」

「悪しき獣を捕らえるためだ」

「そう。別に、アンタが構わないなら、わたしは結構よ」


 黄瀬はそう言いつつ、内心で「この野郎」と毒づく。支配する虫の増加は、黄瀬の異能強化と同義だ。だが、黒凪はいとも容易くそれを許した。事実、容易だと思っているのだ。「どれだけ力を増したところで、お前ごときは問題にならない」とそう言っている。


 黄瀬は腹立たしく思いながら、口を噤んだ。

 

 腹立たしかろうが、反論の余地はなかった。

 黒凪皆無とはそういう存在だ。

 悪魔の魂と異能を備えた存在〈取り換え子(チェンジリング)〉を狩り続ける、最凶最悪の取り換え子。どんな異能者も黒凪の障害にはなり得ない。敵がいない——文字通りの、無敵の男だ。


 会話が途切れると、ワムの楽曲が白々しい明るさで車内を満たした。


 黒凪はいつの間にか煙草を咥えている。黄瀬は黙って顔を顰めた。喫煙なんて古臭い、遠回りな自傷行為くらいに思っていた。一ミリも理解できない。

 黒凪の車が脇道に入る。

 住宅地の一角を進み、二階建ての一軒家の前に停車した。

 表札には『黄瀬』と掲げてある。

 黄瀬は車のドアを開け、アスファルトの上に降りた。黄瀬がドアを閉める直前、黒凪はまたしても一方的に言った。


「次もこちらから連絡する」


 黄瀬は一瞥してから、車のドアを閉めた。

 黒凪の骨董品が走り出し、テールランプが尾を引いて遠ざかる。

 黄瀬はエンジン音に耳を澄ませて、聞こえなくなってから黒凪の走り去った方角を睨んだ。すでに車の影はなく、冷たい夜だけが残されている。

 緊張から解かれた吐息が、白く煙った。


「お喋りできないサイコ野郎が……」


 黄瀬はそう吐き捨てると、羽虫の群がる外灯を潜って玄関のドアを開いた。


        〇


 私はあれから、ハクアの家に居着いていた。

 黒外套のせいで二度ほど死んだ身体はあらかた回復している。今は家に籠り、情報収集に専念していた。とはいえ、まだ三日程度のことだ。退屈とは無縁である。


 家の中でもやれること、学ぶべきことは多い。


 パソコンとやらには胡乱な情報が満ちているし、ハクアの持ち帰る資料には密度の高い情報が詰まっていた。特に後者は、率直に面白い。

 私が紙の束を広げて読み耽っていると、ハクアがベッドに寝そべりながら尋ねた。


「アカネ、それ、読んでて面白い?」

「面白い」

「講義のレジュメなのに?」

「貴女だって勉強がしたくて大学に通っているのだろう。なぜ不思議がる」

「勉強したくて大学に通っている大学生、見たことない」

「付き合う人間、偏っているのではないか?」

「アカネも大学生になればわかる。そういや、受験どうすんの」

「進路か。ふむ」


 数秒だけ思案したが、すぐに無駄と割り切った。

 保護者の依頼で命を狙われている、それが私の置かれた状態だ。この状況で選べるまともな進路など、この世界の、この国に、有り得ようはずがない。


 この国で「未成年である」というのは、そういうことだ。


 保護者とはつまり管理者であり、未成年は管理される側の生き物である。畢竟、檻の中の動物と大差ない。仮初の自由は、管理者の匙加減で如何様にも奪われるものだった。今の私に出来るのは、精々がまともでない進路を選ぶことだ。

 そう思い、私はハクアを振り返って答えた。


「ニュースによると、日本では年間約八万人の行方不明者が出るそうだ」

「このタイミングでなぜその話題を……」

「その内の一万人を、十代の若者が占めている」

「進路の話、進路の話をしろ」

「ではこうしよう、貴女が私を家政婦として雇う」

「では、じゃない。その提案に至るまでの、どの辺に納得があった」

「だが、料理できる人材が必要だろう、貴女には」


 私が指摘すると、ハクアは「うぐっ」と呻いた。

 これは図星というやつだ。

 もはや勝敗は決したかに見えたが、ハクアは無駄な抵抗に出た。


「で、出来るってば、あたしにだって。ほら、思い出してご覧なさい。この間だって作ったわけじゃないですか。その、シェフの気まぐれサラダを……」

「ほう。あれを料理だとまだ言い張る」

「そ、素材の味が活きてたでしょうが……」

「私の知識では、産地直送を口まで延長する行為を料理とは呼ばない」

「ああー、ああー、何か面白い番組をー」


 私が言うと、ハクアは露骨に話題を逸らした。

 話題の逸らし方が、あまりに稚拙だと思う。

 だが、私もことさらに続けたい話題ではなかった。大学のレジュメに視線を戻す。しばらくすると、チェンネルを切り替えていたハクアが「あっ……」と声を上げた。


 声につられて、私もテレビ画面に目をやる。


 映っているのは、夕方のニュース番組だった。

 五日前に起きた火事の続報。

 教育評論家としてテレビでも活動していた男性が、焼死体で発見されたというものだ。


 名前は尾木羽馬(おぎはば)


 自分のことを『しつけコーディネーター』と称して、「子育てに悩む親から、子供のしつけを請け負う」という活動をしていた。その評判はよく、尾木に預けられた子供は、数日の内に見違えるような「いい子」になると言われていた。


『どんなお子さんも、必ず親御さんの望むように教育いたします』


 なんてことを謳い文句にしていた、胡散臭い男だ。

 その尾木が死んだ。


「この人の特別講義、あたしも夏休みに受けた。亡くなったんだ」


 ハクアはテレビに映る顔写真を見て言った。

 私は知っていた。この男が死んだことも、その断末魔すらも——




 鮮明な記憶ではない。

 そのときの私は、ひどく混乱していたから。混乱して不鮮明な、この異境で得た最初の記憶には、強烈な怒りだけがあった。


 薄暗い部屋だった。


 焼け落ちたという尾木の邸宅のどこかだろう。

 甘い香が焚かれて、ロウソクが並べられた一室だ。

 私は、全身で怒り、炎を振り撒いていた。

 羽ばたくように猛火を従えて、目につくものすべてを灰燼に帰した。床を、天井を、壁という壁を炎が走り、地獄そのものと化した一室で、底の抜けた怒りをぶちまけた。

 私自身が、地獄の業火と化していた。それは本来の在り方を歪められたせいかもしれない。

 何か、致命的に触れられてはならないものに、無遠慮に触られたという嫌悪があった。尾木という男がやろうとしていた行為は、奪われ続けた女から、最後に残された毛布一枚の尊厳すら毟り取ろうとする「何か」だった。それが許せなかった。


 だから、燃やした。


 原型がわからなくなるほどに燃やし尽くした。

 そうして思い出していく内に、ふと違和感を覚える。

 何か変だと感じる。

 深く、考える。

 気づく。疑念の正体に。

 あの怒りは本当に——()()()()()()()()




「アカネ」


 ハクアが声を掛けてきた。

 振り返ると、不安そうな顔がある。


「どうした」

「いや、どうしたってか……」


 ハクアは私の顔を見て戸惑っていた。

 私は手の甲で頬の辺りを拭う。少し濡れていた。

 泣いているのか、私は。

 第三者のような感覚で手に残る水滴を見ていると、理由のわからない、胸の辺りが詰まるような衝動が沸き上がった。気味の悪い、ひどく嫌な、苦しい感じがする。

 それらに戸惑っていると、温かい香りに包まれた。

 シャンプー、柔軟剤、それから、もっと別の匂い。

 ——ハクアの匂いだ。

 気づくと、ハクアの肩に抱き込まれていた。


「気が済むまで、ここに居ていいから」


 ハクアが言った。

 私の涙が、ハクアの部屋着にシミを作っている。


「出てけなんて言わないし、進路とかもう聞かない。だから泣くな」

「私はそのせいで泣いていたのか?」

「えっ、違うの。あ、うわっ、あたしの早合点ッ!?」

「いや、知らん」


 どうして泣いているのかもわからないのに、私の声は震えていた。

 怒りなのか、悲しみなのか。

 もしくは、それ以外の何かのせいなのか。

 何もわからないまま、その後もしばらく私の涙は止まらなかった。ハクアは「自意識過剰みたいで恥ずいんですけど……」と言いながら、私が泣き止むまで側にいてくれた。よくわからないが、それはたぶん嬉しいことだと思った。


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