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第一章 落ちた火の鳥

        〇


「これは正当な防衛だった」


 自分の声を聴きながら、私は焼死体を見下ろした。

 炭化して黒く縮こまった男の遺体。

 寂れた公園の心許なく明滅する外灯が、その無様な最期を映していた。


「これは正当な防衛だった」


 私は今宵、公園のベンチで眠りに就いていた。その就寝中だった私に、この男が襲い掛かってきた。発情した様子で馬乗りになり、乱暴に抑え込んできた。

 私は抵抗したが、退けるだけの腕力はこの身体になかった。

 相手の男は、私の抵抗に腹を立てたのか、平手で顔を殴った。その瞬間、私は耐え難い怒りに駆られた。殴られたことに対して、ではない。この期に及んでまだ『殺してはいけない』などという順法精神が過ぎる、この下らない脳にこそ私は腹を立てていた。こんな軟弱な考えが私の頭から零れ落ちたのかと思うと、情けなくて殺意すら覚えた。 

 だから、私は男の頭に息を吹きかけた。

 結果、男はいともあっさり焼け死んだ。

 頭髪から炎が燃え広がり、火だるまになり、そして死んだ。


「これは正当な、防衛だった」


 結果、私は自己正当化の言葉を吐き続けている。

 まったくおかしな話だ。

 本来の私なら、何を殺したところで罪の意識など覚えなかった。そもそも、罪という概念そのものに馴染みがない。それがどうだ。今や繰り返し言い聞かせなければ、自分を襲った外敵にすらこのざまだ。嫌な気分を味合わされる。


 ああ、不愉快だ。


 私はこの身体を忌々しく思う。


 人間の雌という脆弱な身体と、人間の良識という曖昧な価値観を憎む。このような器に魂を縛られて、このような薄っぺらな規範に意識を乱される、現在の有り様を唾棄するものだ。

 この見慣れぬ世界のすべてが忌まわしい。

 私は顰め面というのをして、セーラー服という着慣れない衣服の乱れを直す。セーラー服どころか、本来であればすべての衣服が私にとっては受け入れ難い。


「とりあえず、寝床を移さねばなるまいな」


 私は適当な場所を検討しながら、男の死体をベンチの下に蹴り入れた。

 雑な隠し方だが、この暗さなら多少の意味はある。少なくとも、朝までは発見を遅らせられそうだ。そう期待してのことだったが、しかし、私の時間稼ぎは無駄に終わった。


「テルイアカネだな」


 公園の入り口。古めかしい電話ボックスの隣に、不吉な人影が立っていた。

 黒いトレンチコートを着た、厳めしい体躯の男だ。

 電話ボックスの明かりが、闇夜に溶ける輪郭を浮かび上がらせていた。


「ご両親がお待ちだ。貴女の〈身体〉のおかえりを」


 黒外套(くろがいとう)の男はそう言いながら、一見無造作に近づいてくる。

 だが、男の双眸には私のよく知る、生活の中の殺意があった。日常の一部として、当たり前に殺しがあった生物の目だ。黒外套は距離を詰めながら言った。


「故に、現在の〈中身〉にはご退場願おう」


 私は何気なく瞬きした。

 相手はまだ五メートルほども先にいたからだ。しかし、瞼を持ち上げた瞬間、筋張った大きな五指が眼前に迫っていた。咄嗟に仰け反ったが、不可避だった。

 グンッと伸ばされた右手が、私の顔面を鷲掴みにする。ゴリラじみた体格を裏切らない、頭の割れるような握力をしていた。


 つまり、クソ痛い。


 私は反射的に股間を蹴り上げた。

 急所だったらしく、男は無表情ながら拘束を解く。

 自由になった私は、顔にかかった自分の長髪を払い、相手の側頭部に蹴りを入れた。怒りに任せた衝動的な一撃だ。男の頭部が激しく揺れる。

 男の巨体が地面に転がった。私は眼下の後頭部に向かって言った。


「フン、阿呆に頭は不要だな」


 私は男の頭部を踏み砕こうと片足を上げて——膝からくずおれた。

 どうした。身体がおかしい。手足に力が入らず、辛うじて四つん這いになる。吐き気と眩暈を堪えて、すぐ目の前を睨み上げた。黒い影がそびえている。

 黒外套は「油断した」と呟き、何事もなかったかのように立っていた。


「俺に掴まれて二度も蹴りを放つか。中々にタフな中身だ」

「私に、何をした」

「馬鹿に説明は不要だろう」


 黒外套は、再び右手を構えた。

 鉤爪のごとく開かれた五指。

 よく観察すると、その手の周囲だけ不自然に風が渦を巻いている。

 それがなんなのか、私にもこの身体の知識にも答えはなかった。ただ、もたらされる結果だけは予想できた。

 あの風は蝋燭でも吹き消すように、私の命を奪うだろう。

 黒外套は右手を振り被り、昆虫に負けず劣らずの無表情で言った。


「悪は滅びる定めだ」


 誰が——、そう思ったところで黒い疾風を叩きつけられた。

 言葉が音になるより速く、その風は私の身体を冷たい死体に変えてしまった。


        ◇


 黒外套の男は、動かなくなった少女の身体を抱き上げると、寝落ちした娘をベッドまで運ぶように、公園前の乗用車に向かった。骨董品めいたブルーバードだ。後部座席に少女の死体を座らせてシートベルトで固定する。念を入れるように脈拍の停止も確認した。


 少女は間違いなく死んでいた。


 黒外套は自分の仕事に納得したように頷くと、ドアを閉めて一息吐いた。

 その吐息は、十二月の冷気に触れて白く煙った。クリスマスが間近に迫り、街のあちこちがイルミネーションで飾り立てられている。夜は酷く冷えた。

 男はポケットから携帯電話を取り出して、どこかにコールした。


『はい、尾白(おじろ)

黒凪(くろなぎ)だ」

『ああ、貴方。どうしたの、こんな時間に』

「仕事をした。今から一度、依頼人に納品する」

『了解。こっちにはどれくらいで来られそう』

「二十三時までには」

『深夜残業をご所望ね。残業代は出るのかしら』

「約束しよう」

『いいわ。それじゃ、魔法が解けちゃう前にいらっしゃい』

「なんのことだ」

『シンデレラよ。女の子は、二十四時になると魔法が解けちゃうの』


 電話の相手はそれだけ言って通話を終了した。

 よくわからない冗談だった。

 黒凪と名乗った男は、運転席側に回って車に乗り込んだ。鍵を差し、何度か捻ってエンジンを掛けると、車を走らせて名古屋環状線に入る。黒凪は依頼主である照井(てるい)夫婦の家に向かっていた。夫婦の一人娘である照井紅音(てるいあかね)の遺体を彼らに届けるためだ。


 妖精に〈中身〉を入れ替えられた哀れな肉体を取り返し、夫婦のもとに連れ戻すこと。


 それが黒凪に依頼された仕事だった。


 その仕事も半場片付いたようなものだった。


 黒凪はドリンクホルダーに嵌まっている煙草の缶に手を伸ばした。一本摘まみ出すと、手慣れた様子で叩いてから口まで運ぶ。黒凪は車載されているシガーライターを使った。

 しかし、シガーライターの調子が悪いのか、着火が上手くいかない。

 黒凪はシガーライターを戻すと、百円ライターを取り出した。片手で擦るのだが、これも火が着かない。黒凪がライターのオイル残量を確認にした瞬間、側頭部に蹴りが入った。


 不意打ちでハンドル操作が乱れて、車体が大きく蛇行する。


 黒凪は咄嗟にブレーキを踏んだが、それこそが相手の狙いだった。


 蹴りを放った人物。


 死体であったはずの照井紅音は、車の減速に乗じて後部座席を飛び出した。そのまま車道を突っ切ると、まるで高跳びの選手のように名古屋環状線の高架から飛び降りる。

 黒凪はどうにか車を路肩に停めてハザードランプを点滅させた。

 車を降りて高架下を覗き込む。

 けれど、少女の姿はすでになかった。普通に考えれば無事で済むはずはない。だが、黒凪は飛び降りる寸前の少女の両脚に、炎で出来た翼のようなものを見ていた。

 あれは普通ではなかった。

 黒凪は側頭部の出血を無視して、携帯電話を取り出した。


「黒凪だ」

『あら、まだ何か。それとも、私の声がそんなに好きだったかしら』

「今夜の予定はキャンセルだ。納入予定の品に逃げられた」

『……加工済じゃなかったの』

「ああ。だが、あれはそう、生き返った」

『蘇りの能力、貴方の攻撃を無効にするレベルの』

「ああ、間違いない。信じられないことだが」


 黒凪は、イルミネーションで燦めく街を見下ろして言った。


「対象に入っている悪魔は〈火の鳥(フェニックス)〉だ」


        〇


 車から飛び出したまではよかったが、火力が足りなかった。

 私の蘇生力(そせいりょく)を支えるのは火だ。

 十分な裸の火があれば、それこそ〈不死身〉に近い蘇生力を発揮できるし、身体能力の底上げも可能だ。しかし、この世界ではあまり裸火を見ない。道も建物も岩じみたもので覆われた、極めて不燃の世界だ。


 そのせいで、私が今どういう状態かといえば……


















 着地の衝撃で再び死にかけていた。


 足腰に限らない骨がバキバキに折れて皮膚を突き破り、肋骨が内臓に刺さっていた。血反吐をぶちまく五秒前といった状態で——今ちょうど、血反吐をぶちまけた。


「あの醜男……次は、必ず、消し炭にしてやる……」


 私は雑居ビルの谷間で忌々しく毒づく。

 黒外套の男から掠め取ったライターを握り、親指で擦って火を付けた。

 百円ぽっちの小さな火だ。

 こんなものでもないよりはマシだった。

 じわじわと内臓から修復させながら、飛び出している骨を指で押し込んでいく。当然のことながらクソ痛い。痛覚は人並みに残っていた。絶対にぶち殺すという、強い殺意を覚える。


「そういえば、あの男も……何か、別の〈中身〉を入れていたか……」


 私は黒外套が使った〈黒い風〉のことを思う。この身体の知識によると、あの命を吹き消す旋風もこちらの常識の外側だ。私の蘇生力と同じ、異能の類い。あの男もこの世界の外側に属する存在だった。であれば、何か知っているかもしれない。

もとの身体に戻る方法も。


「ぶち殺すより先に……聞き出すのが、よいか……」


 私はふらつきながら立ち上がった。立ち上がれる程度には回復した。

 しかし、問題は着衣の方だ。

 血染めのセーラー服。これをどうしたものか。

 もとが黒色なので夜の内は目立たないが、陽光の下では人目を引くだろう。加えてこの身体に入っている影響か、三日連続で同じ服を着ていることに不快感を覚えていた。早いところ着替えるなり、洗うなりしたい。


 とりあえず、夜明けまでに服を調達しよう。


 黒外套へのお礼参りは、体調を万全にしてからだ。


 夜中まで洗濯物を取り込んでいないずぼらな人間から、着替えを失敬してやろう。

 そう思い、フラフラと歩き出した。すぐに足が縺れた。壁に手を突き、どうにか堪える。火力が足りない。歩くのはまだ無理だったか。クソ、ライターもガス欠だ。貧乏ったらしい、間抜け醜男め。これはマズい。意識が朦朧としてきた。迂闊に動くべきではなかった。


「アカネッ!」


 突然の大声に私は顔を上げた。

 雑居ビルの谷間の先、街灯の下に女が立っていた。短い髪型の似合う、運動着の女だ。その女は駆け足でこちらに近づくと、ふらつく私を躊躇いなく抱き止めた。

 アカネという身体が、その女を知っていた。

 私はその知識を確かめるように、相手の名前を声に出した。


「ハクア、先輩」


 返事はなかったが、私を抱き締める力が少しだけ強くなった。

 オオツカハクア。

 アカネより一つ歳上の女子大生。アカネが心を許していた、数少ない話し相手だった。彼女ならば、この身体を悪いようにはしないだろう。

 私は耐え難いほどに疲れていた。

 だから今は、口を噤み、その場の成り行きに任せることにした。


        ◇


 大塚白亜(おおつかはくあ)が「照井紅音の失踪」を知ったのは、数日前だった。

 白亜と紅音が再開する二時間前のこと。

 進学と同時に借りた市内のワンルームマンション。その一室で、白亜はスマホの画面を注視していた。


 数日前に届いたメッセージを読み直す。


 送り主は高校時代の後輩だ。白亜が昨年まで通っていたのは県内有数の女子校で、彼女は全国でも強豪とされるバスケ部に在籍していた。そのバスケ部の後輩から「紅音が学校に来てない」、「何か存じですか」と質問が来ていた。

 在校生である後輩からの質問。

 普通なら卒業生である白亜の方が、聞きたいような立場だ。けれど、白亜と紅音には特別な繋がりがあった。在学中の話だ。


 白亜と紅音は一種の交際関係にあった。


 大塚白亜と照井紅音。

 二人は昨年まで同じ女子校に通っていた。

 名古屋市内にあるその女子校は、事細かく校則が敷かれて、風紀の取り締まりが厳重なことでも有名だった。文化祭や体育祭も自校の生徒のみで行っており、男女の出会いというものは皆無に等しかった。

 そんな閉鎖的な環境において、足りない役柄は自校内の誰かが演じる他ない。強豪のバスケ部でエースを務めていた白亜は、その役柄に適した人材だった。つまるところ、白亜はその女子校で王子様をやっていたのだ。

 紅音はそんな白亜に憧れる一人のファンに過ぎなかった。けれど、紅音が二年生、白亜が三年生になると、その状況に変化が生じた。


「付き合って――いただけませんか」


 それを言い出したのは、紅音の方からだった。

 白亜がその申し出を受けたのは、不特定多数に対して王子様を演じることに嫌気がさしていたからだった。

 加えて、紅音が立ち居振る舞いからして清楚な、絵に描いたような美少女だったというのも理由だった。彼女なら自分と付き合っても、「不釣り合い」だの、「生意気」だのといった周囲の批判を抑えられるという打算である。

 あくまで疑似的な恋愛関係だ。

 だから、二人の交際関係は、白亜の大学進学を契機に断絶した。

 卒業と一緒に終わったはずの関係だった。


『いや、知らない』


 白亜は後輩にそうとだけ返した。

 事実、失踪については何も知らなかった。

 紅音からは卒業後も何度か連絡が来ていた。けれど、白亜はそれに応じなかった。次第に連絡は疎らになり、このところは通知欄で紅音の名前を見ることもなくなっていた。

 白亜は、後輩からの連絡で不安になった。


 白亜は、紅音の境遇を知っていた。


 紅音の両親が、時代錯誤なほどに厳格だということも知っていた。彼女のお淑やかで、一歩引いた立ち居振る舞いが、その教育から身を守るための処世術だということも。


 何かあったのかも知れない。


 白亜は今になって紅音に連絡を取ろうとした。けれど、それは叶わなかった。メッセージには既読すら着かず、不安ばかりが募った。無視していたことの罪悪感が、手遅れになったかのような焦燥が、彼女の息を詰まらせた。


 そんな折り、白亜はSNSで拡散されている映像を目にした。


 懐かしい制服を着た少女が、高架から飛び降りる映像だ。


 それを見た瞬間、白亜は家の鍵を手に取った。その鍵には一つだけ、白亜の趣味から外れた野暮ったい鳥のキーホルダーが付いている。

 大学近くの動物園で買ったものだ。

 自分一人だったら決して選ばなかったもの。 

 白亜はそれを見つめてから、少しも迷わずに家を飛び出した。そして、名古屋環状線の高架からほど近い雑居ビルの隙間で、紅音を見つけたのだ。


        ◇


 白亜はワンルームに紅音を連れて戻った。

 顔面蒼白の紅音が、救急車を呼ぶことを拒否したからだ。また警察や両親への連絡も、一先ずはやめておいた。紅音の複雑な家庭事情を知っていればこそ、彼女が落ち着くまでは彼女の味方に徹しようと思ったのだ。


「ちょっと散らかってるけど、とりあえず上がんな」


 白亜が玄関の電気を点けると、紅音は粛々と従った。

 白亜は上り框に立つ紅音を見る。

 移動中もそうだったけれど、沈黙を続ける彼女には異様な凄みがあった。見目よく姿勢の綺麗な紅音は、以前から絵になったが、今の感じはそれとも違う。

 目の前に立つ彼女には、どこか野性的な美しさがあった。育ちの良さを思わせるあの淑女然とした美しさとは、あまりにもかけ離れている。

 白亜はその原因を「制服が汚れて、髪がボサボサだからだ」と思うことにした。


「まずはシャワーか。こっち」


 白亜はボーとしている紅音の手を引いて、浴室に連れて行く。掴んだ手首の儚さは、以前の彼女と同じものだった。白亜はそれに少し安堵した。


「脱いだ制服は洗濯機に入れといて。すぐに回す。タオルはここ。あたし、着替え取ってくるから。あっ、石鹸とかはご自由に」


 白亜がそう言うと、紅音は黙ったままこくりと頷いた。

 服を脱ぎ出した紅音を残して、白亜は部屋に向う。紅音の着替えを見繕いながら、本当にこれでよかったのだろうかと、今さらながら考えた。

 後輩のメッセージによると、紅音が高校に現れなくなって一週間だ。その間、家にも戻っていないとなると、親たちが警察に届けを出している可能性もある。このまま紅音を匿い続けることが、何か不都合な事態に発展しないとも限らない。


 何より気になるのは、あのドライブレコーダーの映像だ。


 あれは現実に起きたことなのか。


 だが、本当に高架から飛び降りたのなら無事なわけがない。

 映像が合成か何かだったとしても、それならなぜあんな場所にいたのか。

 考えるほどに疑問は増していき、言い知れない危機感が募る。衝動的に連れ帰ってしまったけれど、冷静になるにしたがい、打算や自己保身の考えが頭を過ぎった。


「おい」


 思いの外考え込んでしまったのか、シャワーに入っていたはずの紅音が背後に立っていて勿論一糸もまとまわない素っ裸で真っ裸なわけで白亜は「ぎゃあああ」と叫んでいた。


「ぎゃあああ、とはなんだ」

「ぜぜぜ、全裸だからだふ、服を着ろ、服を!」

「その服がないから来たのだろう」


 紅音はどこか眠たげな——当たり前のことを言わせるな、と書いてある顔で言った。白亜は紅音の包み隠されることのない全身を見て、不覚にも首筋まで紅潮した。


 シンプルに美しかったのだ。


 シャワーを浴びて仄かに桃色がかった柔肌の輝きや、すらっと伸びつつも決して貧相にならない絶妙な肉付きの肢体が、眠たげに細められた双眸と長い睫毛が、同性すら魅了するほどの色香を纏っていた。


 けれど、今の紅音はそういうことにまったくの無頓着だった。魔性の魅力を垂れ流しておきながら、本人はさも面倒臭そうに眠そうな目を眇めている。


「何を焦っている。同性同士だぞ。隠し立てするほどのものでもないだろ」

「だからって普通は見せびらかしたりもしない!」

「いや、私とて見せびらかしたいわけではない。そもそも、着替えを取ってくると言っておきながら——ああいや、もういい、その辺のを勝手に借りるぞ」


 興奮する白亜を他所に、紅音は手近な部屋着を拾い上げてすぐに着替え始めた。まるで部屋の主であるかのような堂々たる振る舞いだ。

 紅音が選んだのは、ゆるキャラが描かれた絶妙にダサいTシャツと、バスケ部で使っていたジャージのパンツだった。それらを身につけると、紅音の魔性もいくぶんか和らいだ。それでどうにか、白亜も顔の紅潮を治められる。

 白亜は改めて件の動画について尋ねようと思った。

 けれど、それより先に紅音がベッドに上がって布団を被っていて、それを見た白亜は再び「ぎゃあああ」と叫ぶ。

 すっかり眠るつもりになっていた紅音が、目をしょぼしょぼさせて尋ねた。


「今度は何ごとだ。私は眠い」

「髪ッ、お前のご自慢の黒髪ッ、全然乾かしてないッ!」

「こんなもの、自然に乾くだろう。私は眠い」

「自然乾燥なんて信じらんなああああっこら! 寝るな!」

「些細なことばかり気にするな。男子三日会わざれば刮目して見よ、と昔の偉い人だって言っていた。つまりそういうことだ。私は三日会わなかったために大きく変化した。男子は三日会わないと大きく変化する。つもり、私は男子なのだ。見事な三段論法。私は眠い」

「何だ、その雑な三段論ぽ……って寝るなったら!」


 白亜は妙に尊大で粗雑になった紅音を引っ張り起こす。その後、ドライヤーで髪を乾かしてやったり、化粧水やら乳液やらの世話をしてやったり、生来の姉御肌を発揮した。

 紅音は本当に眠いのか、白亜にされるがまま、こくんこくんと舟を漕いでいる。

 そして、一通りのお手入れを済ませた白亜は、ようやく満足した様子で頷くと、紅音を自分のベッドに押し戻して寝かしつけた。自分のベッドで寝息を立てる美しい横顔を眺めて、白亜はふと思い出した。


「動画の件とか、いろいろ丸っと聞きそびれた……」


 同時に「まぁ、いっか」とも思う。

 白亜は不思議と安堵していた。

 かなり変な感じになってはいるが、今の紅音は前よりむしろ元気そうだった。

 白亜は、面倒ごとは明日に回すことにした。そして、自分もシャワーを浴び、今日はもう眠ってしまおうとベッドに入ろうとして、先客がいることにドギマギするハメになった。


        ◇


 白亜と紅音が、同じベッドで眠りに就いたのと同時刻。

 雑居ビルの間の狭い路地に、黒外套の姿があった。


「この周辺からは、立ち去ったと見るべきだな」


 黒外套の男——黒凪は、高架近くの路地を歩き潰して結論づけた。

 黒凪は外套のポケットからiPhoneを取り出す。その画面にはニュースサイトの画像が映し出されていた。とある教育評論家の家が、焼失したというニュースだ。

 黒凪はその画面をライト代わりにして、倒れたポリバケツや、地面に残っている吐血の痕を照らした。照井紅音はここに落ちた。そして、立ち去った。


「尋常ならざる生命力だ。驚嘆に値する」


 言葉とは裏腹な昆虫じみた無表情で呟くと、黒凪は背後を振り返った。

 深夜の路地。冷気と闇が静かに満たし、常識は寝静まっている。雲間からの月明りが、異界と化した路地にもう一人分の影法師を浮かび上がらせた。


 それは少女だ。


 黄色いロリータファッションを鎧のように纏い、伸ばした髪を左右で高く結っている。幼さの残る顔立ちは中学生くらいだろうか。深夜の街が酷く不釣り合いだった。

 黒凪はその少女に向けて問うた。


「貴様と同じ〈妖精使い〉の作品だ。率直な感想が聞きたいものだな」


 黄色の少女はツンと仏頂面でそっぽを向いた。

 黒凪を意に介さないかのような態度。けれど、それは欺瞞だ。

 黒凪から目を逸らすための自己欺瞞だった。

 反抗的な態度は、この男から意識を逸らす方便に過ぎない。


「ふむ、感想はなしか」


 黒凪は初めから期待していなかった様子で呟いた。

 黄色の少女は、目を合わせずに問い返す。


「動画の女を見つけたら、わたしのことは見逃す、だったわよね」

「今のところ、貴様の保護者から依頼はない」

「それじゃあ——」

「貴様が規範を遵守している限り、その規範が貴様を守るだろう」


 黒凪は温度の籠らない声で答えた。


「約束、違えないでよ」


 そう念を押しながら、黄色の少女は手にしていた肉袋を放る。

 それは動物の死体だった。

 犬だったかも知れないし、猫だったかも知れない。

 けれど、この暗闇の中では同じことだ。

 放物線を描いた死体は、ぺちゃっと音を立てながら血痕の上に落ちた。すると、その肉袋の内側から、無数の小さな影が蠢き湧き出した。蛆のような小虫だ。それらは肉袋と血痕を舐め取るように貪り喰うと、尋常ならざる羽虫の群れとなった。


()()()


 少女の言葉と同時、何か異様な臭いが路地を満たした。その臭いが合図だったのか、正体不明の羽虫たちはちりぢりに夜の街へと溶けていった。路地には、大きな黒外套の男と、黄色の少女、喰われ尽くされた小動物の骨だけが残った。


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