⑥
べつの騎士が剃刀を手渡すと、ベルダムは苦しむ男をからかうように眼前にちらつかせた。「あんまり動くなよ、危ないじゃないか」
トゥーニスの位置からも、ベルダムの行動はよく見えた。いまにも突撃しそうなグニエフを、トゥーニスは必死におさえていた。すでにトゥーニスの周囲や窓際にいるロンファーニアの騎士たちの反撃の意志は消え去っているようだった。相手がベルダムただひとりなら、この状況を覆せたかもしれない。だがベルダムの周囲にいる黒い外套の騎士たち――柱にもたれかかって眺め興じる者や、談笑しながら騒ぎを一瞥しかしない者――の存在は、ロンファーニアの騎士たちの抜剣をためらわせるには十分効果があった。
ベルダムはふざけながらちらつかせていた剃刀を、ふいにオディロンの口内へ滑り込ませた。直後に痛ましい悲鳴が響く。ベルダムの右手から解放されたオディロンは左頬を押さえ、身悶えしながら手すりに乗りかかった。勇敢な騎士の顔からは血が垂れ、ベルダムは赤くよごれた剃刀を手にしていた。口内にいれた剃刀を、かれは勢いよく引き、相手の口を裂いたのだ。
「すまない! 髭を剃ってやろうとしたのだが、手を滑らせてしまった!」ベルダムは笑う。
レイムゲルドの騎士のなかには思わす目をそむけた者もいたが、ベルダムはひと目を気にするような男ではなかった。この男はさらに、手すりにうつ伏せに寄りかかっているオディロンの腰帯を持ち上げ、真下の踊り場へ投げ捨てた。
階上の騒ぎを警戒しながら見ていた踊り場の騎士たちは驚き、取り乱したように落下物を避けた。頭上にいるベルダムの監視のもとで、オディロンに手を貸そうとする者はだれひとりいなかった。それほどベルダムを恐れていたのだ。
なんとか起き上がろうとする近衛兵長に、ベルダムは自身の悪事によって上機嫌になったと言っても過言ではないほど快活な口調で呼びかける。
「まだ生きてるか、決闘しようぜ? あがって来いよ!」
ベルダムの侮辱の笑い声に怒り心頭に発し、ついにグニエフは友人の手をふりほどき、強悪の男へ突き進もうとした。だがトゥーニスは極めて冷静な男であった。かれは全力で同年の友人の服を掴み、辛うじて広間の隅へ引っ張りこんでから、小声でこう伝えた。
「あとで話がある。いまは生きていてくれ」
どんな種類の奇跡を用いようと、力でベルダムには敵わないのだ。無論、あの男に従うつもりはない。トゥーニスには考えがあった。かれは憤慨している友人に耳を貸さず、ある昔の言葉を思い出していた。それはたしか古い書巻で見たものだったか、異国の賢人の言葉だったと記憶している。
――いかなる絶望の道を歩もうと、神はかならずひとつだけ扉をあけておく――
たしかにこのような言葉だった。不確かな希望をあてにしてすがるのはあまり好きではなかったが、赦せぬ気持がある以上、どれほどの歳月を費やそうとも、その扉を探す機会をのがすつもりはなかった。まずはどうにかこの場を切り抜け、グニエフとふたりで話す必要がある。トゥーニスは友人に、「目立つことはするな」と頼んだ。
ベルダムは依然として手すりの下を覗いていた。もはやうごめく近衛兵長の生死などには興味がなく、抵抗すらできない男どもの腑抜け顔を面白がって見ていた。
「おい、だれか」ベルダムが身を乗り出し、階下へ向けて言う。「とどめを刺せ」
オディロンはどうにか身を起こし、階段に手をかけ立ち上がろうとしていた。意識ははっきりしているようだが、かれの頬の傷は深かった。
常軌を逸した仕打ちに堪えかねて、踊り場にいたロンファーニアの騎士が意見を述べる。「意味のない殺傷には賛同しかねる。ただでさえ先の水害でロンファーニアの騎士の数は減少した。我々はレイムゲルドの騎士と対立しようという考えの者はいない。いまもなお、十分な寝床もなく我慢を強いられている民は多い。無意味な争いをしている余裕などないはずだ」
「無意味だと? 言ったはずだ、この地の王はおれだと。こいつはおれに歯向かった。それを反逆とみなした。おれは罪人を罰しただけだ。さすがに無闇にひとを殺したりはしない。おれが闘技場でどれほど命乞いを聞いてやったと思ってるんだ。それにまず、困窮しているのはロンファーニアから来た奴らだけだ。レイムゲルドの民の中には不満の声をあげる者も多い、窮屈であると! 勘違いするなよ? かつてのロンファーニアの王は既に亡く、ここはレイムゲルドだ。理解できるか? ここにいたければおれに従え。不服があるなら決闘を受けてやる。ロンファーニアの騎士という理由だけで殺しはしない。ひとつ、片が付いたらおまえたちにも働いてもらう。功績をあげた者には褒美として領地をやろう。さあ、やる気のある奴は手柄をたてろ! そいつを殺せ!」
ロンファーニアの騎士たちは緊張に縛られ、だれも身動きできなかった。ベルダムに従う気があったとしても、恨みがあるわけでもない仲間を手にかけるなど、正常な精神の持ち主には不可能だった。
「向上心のない奴らだ!」ベルダムは鼻で笑う。「おまえらの腰にさげた剣は飾りであるか!」
ベルダムの声に反応したのは唯一、傷を負ったオディロンだった。かれはどうにか立ち上がり、ふらつきながら仲間の剣を抜きとろうとした。無謀である、と柄を握られたロンファーニアの騎士はオディロンを制止したが、ただならぬ決意に根負けし、その手をはなした。
騎士ひとりにこれ以上時間を割くつもりのなかったベルダムは、身近にいたレイムゲルドの騎士に剣を借りて、わき目もふらず、立ち向かってくる男の元へ移動した。
一瞬の間もなくベルダムは階段をあがっていたオディロンの腹を刺し、そのまま乱暴に押し飛ばした。
転げ落ちるオディロンは騎士たちの体にぶつかって、踊り場に倒れた。だれもかれを助けなかった。かれの体に接触し、息絶えそうなうめき声を聞いているにも関わらず。
背を向けるベルダムに不意打ちをかけようとする者はいなかった。グニエフもいまはトゥーニスに従い、目立つ行いは控えていた。
広間の隅、男たちの影に隠れてトゥーニスは、微笑をうかべて階段を引き返してくるベルダムを視界におさめていた。冷酷無慙なその男の目は異様な光を発していた。それは闇に揺らめく狂気であり、雨風にさらされても消えぬ諸悪の炎だった。