④
レイムゲルド城壁都市、主館のある最上層の下、第2層にある騎士館内で、17歳の青年トゥーニス・ロクシアンは朝方の事件を知った。
部屋の外で、慌ただしく複数の騎士が叫んでいる。
「シュゼットさまは? この館の一室を借りられていたはずだ」
「御子は何人か?」
「ふたりだと思うが、シュゼットさまのご両親はどこにおられる? ご兄弟はいたか?」
「たしか、弟君が。それよりオーレリーさまは、ここにはいないのか?」
「主館のほうだと思うが。兄弟までわからぬ! 兄弟の子まで連れて行くのか?」
「知るか。一応連れて行けば良い。全員はここにいないぞ。町のほうへはだれか行ったか? 呼びに行け!」
トゥーニスがひとを押し分け階段をおりると、1階の廊下には、掻きまぜた桶のなかの水のように騎士たちが入り乱れていた。
王の4人目の妻シュゼットの付き添いをすべくトゥーニスが廊下を直進し、反対側の階段を目指していると、5歳の長女の手を引いて数人の騎士とともに階下へおりてくるシュゼットが見えた。傍らにはレイムゲルドの騎士が1歳の次女を抱きかかえ、深刻なようすでシュゼットと言葉を交わしていた。
トゥーニスは、終始ひとの出入りで忙しなく開閉をくりかえす、八角形の玄関広間に出る扉をあけ、奥方を待った。むせび泣きながら通り過ぎるシュゼットのローブの裾は、悪報を携えた男たちの足で運びこまれた泥によって、汚れていた。
奥方のあとを追い、急ぎ玄関に続く広間を歩いていると、トゥーニスは数人の騎士とすれ違った。
「アニカさまの居場所を知る者はいるか!」
トゥーニスをよけて奥へむかった男が大声をだす。
「ここにはいない。我々も至急主館の広間へ行ったほうがよい!」
館内からべつの男の声が聞こえる。
「親族全員だぞ! まずそっちを探してからだ」
「奥方さまを先に探せ!」
「ここにはいないぞ、部屋中探した! 使用人居住区へは行かなかったか?」
「もうだれか行っただろう。それよりダーナさまの姉君のどちらかがまだ見つかっていない」
「ご姉妹は最上層にはいないはずだ。町のほうだろう、住民の家を借りている。西側の、役所の近くのはずだが」
トゥーニスは広間をもどり、男たちに声をかけた。「アニカさまの居場所は知っている」
一斉に男たちが振り返り、そのうちのひとりがトゥーニスの肩に手を置いて、急かすように押し出した。「ならアニカさまはおまえに頼む、急いでくれ」
トゥーニスが外へ出ると、館内にいた騎士たちもあとに続く。激しい降雨に全身を打たれつつ、西側の使用人居住区を見渡すが、出入りしている騎士の姿は見えない。すぐさま向かおうとしたとき、外にいた騎士に呼び止められ、まだ来ていない親族の名を列挙されたが、近くにいた騎士にまかせ、トゥーニスは群れを抜け出した。
トゥーニスは2年前、ベルダムの移動と同時にこの地に配属された。かれの出身はロンファーニアなので、踊り子として舞台にあがっていたアニカを知ってはいたが、それほど親しくはなかった。14日前の水害でアニカがレイムゲルドへ来たときも、顔を合わせる機会はなかった。それでもトゥーニスがアニカの居場所を知っていたのは、つい先日、偶然の用事によりアニカへの届け物をたのまれたからである。
依頼主のかわいらしい情熱に胸打たれ引き受けた用件だったが、なにやら助けてもらった際の礼の品として、どうしてもアニカに渡したく用意したという、自身手作りの首飾りを預かったのだ。はじめは微塵のうたがいもなく最上層の主館へ行ったが、これは間違いだった。主館にいた使用人や騎士たちもアニカの居場所を知る者がおらず、都市内をさ迷うはめになった。いくらなんでも民の住む第3層にはいないだろう、と思いながら端から端まで探し回ったがやはり見つからず、そしてだれに聞いても有力な情報を得られずにいたのだ。日も暮れかけ、疲れ果てた足取りで、まだ訪れていなかった使用人居住区へ行き、近くの井戸にいた女に声をかけると、それがアニカの侍女だった。
首飾りを手に疲労困憊しているトゥーニスにアニカは「まさかここにいるなんて思わなかったのでしょう?」とねぎらった。身重のアニカを気遣って、年寄りの侍女がしきりに追い立てようとするので早々に立ち去ろうとしたが、アニカは引き止め、あたたかい礼の言葉をトゥーニスに送った。さらに、レイムゲルドの住民と話をしてみたいだの、首飾りは大切にするだの、親しみある笑顔で打ち解けようとしていた。去り際にアニカは「またいつでも訪ねて来てくださいね」と、心遣いをトゥーニスに残した。噂に聞く「粗雑な娘」という印象は、すこしも受けなかった。
数日前の記憶を頼りにトゥーニスは使用人居住区の建物にはいり、右の角をまがった先の廊下を左へ進む。黒い外套からたれる水滴で板張りの床を所々濡らしながら、1番奥の部屋へ急ぎ、扉を叩いた。
「レイムゲルドの騎士トゥーニス・ロクシアンです。火急の用件があり、参りました。御目通り願いあげます」
「おはいりなさい」
許可する女の声が聞こえ、トゥーニスは扉をあける。が、ただちに室内から扉を押し戻され、若い侍女がひどくあわてたようすで隙間から顔を覗かせた。
「なりません、お待ちください」侍女は室内と騎士を交互に見て言った。
「良いのです、ドリス。その方をいれてあげて」室内から声がする。
「ですが……」
ドリスはためらっていたが、再度アニカが許可をだすと、騎士の男を部屋へいれた。
鎧窓はとじられ、暖炉のない室内は暗く、明かりは木製の火鉢と机に置かれたろうそくに頼っていた。4人部屋ほどの広さがあるが、アニカのために部屋を整えたのか、ベッドはひとつしかなかった。
「まあ、ずぶ濡れではありませんか。ロクシアン、あなたのことはおぼえていますよ。あの首飾りのお礼をちゃんと伝えたいと思っていたの。今度その子のところへ案内してもらえるかしら」
トゥーニスはすぐに返答できなかった。室内で目にした光景に動揺したからだ。
「この状況を知る者は?」様々な思いが入り乱れる騎士は、かろうじて言葉を発した。ベッドに身を起こすアニカは赤子を抱えていたのだ。
「わたくしたちだけでございます!」年寄りの侍女ノーマが憤慨したようすで答えた。「たったいまのことでしたから。これから陛下にお伝えするところでございましたのに! あなた、ロクシアンと言いましたね? このことは他言無用、陛下がお知りになるまで絶対にだれにも告げてはなりません。一言でも漏らせばわたくしはあなたを呪いますからね、いいですね? あなたが部屋にはいれたのはアニカさまのご厚意であることをお忘れなく。いいですね?」
「先に陛下をお呼びしようと思ったのですが……」
興奮するノーマから騎士を庇おうと、もうひとりの若い侍女があいだにはいるが言葉に詰まる。
「昨晩、陛下はあのひととおられたようですから」赤子の頬をやさしく指で撫でながらアニカが呟く。「それより、まずはあなたの火急の用件を聞かなくては。どうぞ、話してください」気持を切り替えるように顔をあげ、トゥーニスに微笑みかけた。
トゥーニスは一瞬どうしようかと迷ったが、避けて通れぬ道だと運命を憎み、ベッドのそばへ移動した。
「わたしの口からこのような報せをアニカさまに告げねばならぬことを、どうかお許しください」幼気な娘のようなアニカと目を合わせるのが辛く、トゥーニスは視線を落とす。「陛下が殺されました。ベルダムの手によって。奴はロンファーニアの騎士一同、そして陛下のご親族を全員、主館の2階の広間にあつめるよう、命を下しています」
湿った室内に緊張がはしる。
「やはりあの男……!」ノーマが足で床を強く打ち付ける。怒りで顔中のしわが震え、男への呪いの言葉はいかずちよりも激しかった。「わたくしははじめからそう思っておりました。あの男が悪魔のような男であると! ええ、ええ、知っておりましたとも! わたくしは見ていたんですからね、あの男が立ち去った窓のしたには……ああ! 恐ろしいこと! とにかく、わたくしは知っておりました。悪人の目つきというものは偽れないものですからね! いつか愚かなことを仕出かすと思っておりましたが、よりによって陛下のお命を奪うなど……ああ! なんと嘆かわしいことでしょう……陛下はすばらしいお方でした。わたくしのような年寄りにも声をかけてくださって、お優しいお方でした。わたくしは赦しませんよ、絶対に、絶対に! わたくしは呪い続けてやりますとも! あの男が地の底に張り付けになったとしても、わたくしは死ぬまで呪い続けてやります!」
ノーマはしわに染みこむ大量の涙を前掛けで拭い、ときに角張った指で両目をおさえていた。若い侍女たちも陰惨な報せに項垂れている。潤った目を見開き、騎士の話に聞き入っていたアニカは失望の吐息を漏らしてから、腕に抱えている赤子を見守っていた。
アニカはノーマをそばへ呼び、赤子を手渡した。「わかりました、すぐに行きます。ですがロクシアン、ひとつだけ頼みがあります」
毅然として答えるアニカは搔き集めたシーツをまるめて自身のローブのなかにいれ、ふくれた下腹部を帯で固定し、その上に足首まで丈のある外衣を着た。そしてトゥーニスの元に寄り、こう告げた。
「まだ産まれていないことに」
かすかに震えた声から張り詰めた思いが伝わる。
それからアニカはノーマの抱える我が子に切望の眼差しをむけ、「この子にはどうか陛下と同じ名前を」とノーマに伝えてから、自身の頬を我が子の温かい頬によせ、悪意にけがれぬ無垢な額に、憎しみを知らぬちいさな手に、混沌たる大地に降り立つ前の天使の足に、キスをした。
「なりません、アニカさま」ノーマは小刻みに首を横に振る。「アニカさまもお逃げください。ロクシアン、あなた、アニカさまをおねがいしますよ。いまならまだ間に合うでしょう? ここへ来た騎士はまだあなただけなんですから。さあ、はやく! アニカさま、我が子と別れるなんてあってはなりません、まだ間に合いますでしょう? お顔を隠せば良いのです。病だから見せられない、と嘘をつけば良いのですから! そんなもの、嘘をつけば良いんです。わたくしが言ってやりますとも! さあ、アニカさま! こうしているうちにも時は過ぎますから」
返す間もなく喋りたてるノーマの肩に、アニカはそっと手を置いた。「良いのです、ノーマ。わたしは広間に行かなければなりません。ひとりでも逃げ出した者がいると知れば、おそらくあの男は残った者に危害を加えるでしょう。だからわたしは行きます」そしてふと思い出したように、吊るしカゴにいれておいた首飾りを我が子の首にかけた。先日トゥーニスが渡したものだ。「ロンファーニアの孤児だと言って、この子はだれか、子を望むひとの手に渡してください。面倒を押し付けてしまってごめんなさい。わたしのことはこの子には知らせずに。なにも知らず、しあわせに生きてほしいのです。さあ、ロクシアン、行きましょう。案内してください」
引き止める侍女たちを残し、アニカは部屋を出た。