卯月 第一花
それは、短い恋だった。
初めての恋だった。
在士公人は、高校の始業式からの帰り、とある少女と知り合った。
それは、彼が自分の街へと向かう電車が次の駅に止まった時であった。
一人の少女が、少なくとも彼の記憶にはない少女が電車に乗り込んだ。
そして彼の横の空いていた席に躊躇いもなく、まるでそれが当然であるかのように腰かけた。
別にこれと言って何もなかった。
当然であった。見知らぬ少女に声を掛けるほど、いや掛けられるほど彼は軟派ではなかった。
電車は相も変わらず動いている。窓の外からは夕暮れの直射日光が差し込み、彼を刺激する。
刹那、彼の肩から重さを感じた。
彼が自分の肩に目をやると、そこに見知らぬ少女の頭があった。
彼女は眠りに落ちていた。
電車の揺れのせいで、電車が揺れたおかげで、偶然にも(これまた当然なのだったのかもしれないが)彼女は彼の肩に頭を預けることになった。
彼はそれが嫌ではなかった。もし少女の頭ではなく中年男性や大人の女性の何ともない頭、それが女子小学生のものだったとしても、その重みは単なる気障りでしかなかったと彼は思うのだが、そのときは今のままで居続けられたらと少なくとも確信していた。
電車は減速し始める。確実に次の駅に近づく。日差しは相変わらず厳しい。
彼は、どうしたら彼女が起きないで、快適に眠りつづけてくれるのか考えることにしていた。彼女の頭の重みはもはや心地よいものにまで彼の中では昇華されていた。
駅に着く。衝撃はあった。彼女は起きない。
彼が住む街までは、まだ幾らか途中の駅を越えなければいけない。しかし、彼は思うのだった。彼女はどこで降りるのだろう、と。もし駅を通り越して通り越して自分の駅に着くまで彼女と一緒だとしたら? もしかすると、自分の駅よりもずっと先の方の駅で降りるのかもしれない。そんな風に考えて、考えて、でもそれはいずれ分かることだからと考えていた。
ふと気づいた。そういえば今のこの状況は周りから見てどうなのだろう、と。
もしかすると、付き合っている二人なんて、いやそれは無い、だって彼女と自分は違う駅から電車に乗ったのを他の乗客の何人かは見ているし、でもーここで彼は思考を遮る。
制服を着ている少女と自分は、少なくとも同年代と思われるだろうし、女の子が男の子の肩に頭を預けてすやすやと眠っている構図だけを切り取って見てみれば青春の1ページという題名だって通用するかもしれない。
気に病む必要はない。考えるから恥ずかしいのだ。大丈夫だ、みんな気にしていない。どうせみんなはみんなのことを考えているのだから。自分と同じように、自分の周りのことを。
思い直した刹那、電車の揺れが大きくなった。彼は驚くと同時に、自分の肩から重みが消えたのを感じた。
彼は内心動揺し、焦燥し、落胆した。彼女はもう、少女に戻ってしまったのだった。
だが、予想を斜め行く事態が起きた。
「ごめんなさい、私、あなたの肩を借りていました。ご迷惑でしたよね?」
か細く、繊細で、だけど心に馴染む声に恍惚感を覚えながらも、それは正しく少女の声だった。
「いや、全然。大丈夫だけど。」
在り来たりの、当たり障りの無い言葉だった。
「そうですか? それならいいんですけど・・・あ。」
少女は声を止める。
「K高の学生さんですか?」
「そうだけど、なんで?」
「いや、私K高行きたかったな、って思ってて。」
意外だった。彼は、少女は中学生なのではないかと勝手に考えていた。勝手に彼は確信し、勝手に彼は想像していた。
「君、高校生なの?」
「私、N女ですよ?」
N女、N女学園。それは女子高だった。そういえば少女が乗ってきた駅が最寄り駅だった。それに今の今まで少女の頭の重みに心奪われていて気が付かなかったのだけれども彼は少女が着ている制服を知っていた。いや、最初に気が付かなければいけなかった。その制服は姉も来ていたからだった。それも3年の月日の間。失念していた。
「あ、そうなんだ。いや、まあ、うん。そうだよね。」
「何ですか、その言い方? ま、良いんですけど。そっか、なんだ、K高生だったんだ。」
「それがどうかしたの?」
「いや、別に何でもないですよ。にしても、恥ずかしいな。私、同じくらいの年の男子の肩で寝ちゃってたなんて。」
電車は駅に滑りこむ。彼女も彼もまだ降りない。他人は降りる。他人は乗る。電車が動いた。
「まあ、良く寝てたね。疲れてたのかな。」
「今日始業式だったので。初めてだからかもしれないですね。」
初めて、彼はその言葉に反応した。
「もしかして、君も一年なのか?」
「そうですけど?」
「僕もこの春から高校生なんだ。 そっか、僕たち同い年なのか。」
彼は、なぜか浮足立った。わくわくした。心高ぶった。嬉しかった。少女と共通点があった。ただそれだけのことだったが、それだけで充分だった。
「私、深山嫁さくら、って言います。あなたは?」
「公人、在士公人。よ、ヨロシク。」
ぎこちない返事だった。内心を現実に持ち込ませないよう必死だった。
「こちらこそです。これも何かの縁ですね。ねえ、友達になりません?」
それは、思いがけない返事であった。一瞬、何も考えないままスルーしそうになった。それくらい自然に響く彼女の声は、しかしその内容が彼を現実へと引き戻す。
「う、うん。良いけど。君はどこで降りるの?」
「次の駅です。」
それは彼が降りる駅だった。