朝の訪問者
「ピンポーン‥ピンポーン」
又、鳴ってる。
うたた寝の夢の中と思いきや、現実。これは現実だ。
ベットの脇の目覚まし時計に目をやると午前7時の5分前。昨日も全く同じ時間だった。
(出る訳ねーだろ‥)万里男は布団を頭から被った。
(でも‥さすがに今日で一週間目か)
万里男の仕事は夜が遅い。地元では中堅クラスの老舗スーパーに正社員勤務を始めて早6年目。夜型人間の万里男は、早朝の仕入れ業務のある青果や鮮魚の担当者には不向きと思い、24時間営業のこの店の夜の部門責任者を敢えてかって出た。
帰宅はほぼ明け方だ。
4時から出勤してくるアルバイト学生に任せて上がる。すぐ眠りにつけるように、今年に入ってから店の近くのアパートに空きが出たので引っ越してきた。
定番の貧乏一人ヤモメだ。
「ピンポーン‥ピンポーン」
これは夢ではない。玄関のチャイムは鳴っている。
いや‥今朝は異様に鳴り続けていた。
「ピンポーン‥ピンポーンピンポーン」
新聞屋とかNHKとか‥それにしては時間が早すぎる。少なくとも玄関の外にいる人物は知り合いでない事だけは確かだ。知り合いの急用なら、この一週間のあいだに昼間連絡をくれんだろう。
考えれば考える程、不気味である。
このボロアパートには訪問者を確認できるインターホンなどは当然ながら設置されてはいない。
万里男はその朝、突如として何かが気になり始めた。
過去の自分の不始末や言動から恨みをかった事が無かったか‥自分の記憶の中にはない。たぶん‥。
(でも、この朝の訪問者はオレに何らかの用事があるから無礼にも
こんな早朝にけたたましくチャイムを鳴らしているんじゃないか)
頭の中で、もう一人の自分が万里男を責め立てた。
(わかったよ、出りゃいいんだろ出りゃ)
久々、何かに切れる自分の回路があった。
ドアを開けずにチャイムの音に答えた。
「どなたですか?何の用ですか?」
するとドアの向こうからか、驚いたようなか細い女性の声が聞こえた。
「あっ、朝早く申し訳ありません。
良かったです、いらっしゃって‥。あの~怪しい者ではありません。貴方にどうしてもお願いがあってお会いしたくて‥この時間でないとゆっくりお話出来ないかと‥本当に申し訳ありません」
(女か‥良かった。)
万里男は正直ホッとした。どうも自分の不始末やらで追ってきた人物では無さそうだ。危害を加えそうな気配もない。
話を聞いてやろうと言う気持ちになっていた。
でも、この汚い部屋とボサボサの頭とヨロヨロのスウェットと‥
(無理だろう)
でも、そのか細い声の女性は、声とは裏腹の力強いエネルギッシュな拳でドアを叩いた。
「お願いです❗ドアを開けて頂けませんか。お話は5分で終わります。人の命に関わる事です❗」
次の瞬間、万里男は素直に玄関ドアを開いていた。
そこに立っていたのは、どこか懐かしい香りのする相当な美人の女だった。
「あ、ありがとうございます。
私は絹子と申します。急ぎてご用件をお伝え致します。
万里男さんに売って頂きたいものがあるのです。どうしても譲って頂きたいのです。時間もないのです。お願いします❗」
(この女は何を言っているのだ?)
万里男には貯金も金目になる財産も何もない‥どころか、借金なら沢山ある。このアパートへの引っ越し代と、去年通勤の為に買った車のローン。合計280万くらいは残っている。
「僕に売れる物など何もないですよ~誰か他の人と間違っているのでは‥それに何で僕の名前知ってるの?」
清々しい美人だが、万里男の頭の中に突如として不振感が渦巻いた。
「万里男さん、あるんです。貴方しか持っていない物。貴方の記憶です。貴方の1996年もしくは2006年の記憶を売って頂きたいのです。早口で申しますと私はこの世ではないアチラの世界から参りました。生きている人が霊界などと現しているアチラの世界です。私は生前ボランティア活動に勤しみ、自分の欲を滅して仏道にも励みました。そのため財産は残せませんでしたが、お陰さまでアチラの世界では特別なポジションが用意されていました。
今、生きている人々の夢を造る工場で働いています。
でも毎日世界中の人々の夢を作っているとネタもきれてしまって‥そんなある日、どうしてもある夢を作成して救ってあげなければならない男の子を見つけてしまったんです。この男の子は現在8歳で、今学校で虐めにあっていて自殺を考えています。このままだと5日後の夜11時に死ぬ運命です。本当は運命を変えてはいけないのですが‥どうしても助けてあげたい‥。」
オレは一瞬、少し頭がいかれてる女かと確信した。でも、話し方にリアル感がある。この空虚感満載の日常茶飯事、少し遊んでやっても良いのかと、もう一人の自分が囁いた。
「わかりましたよ。で、記憶を売るってどうやって?
しかもいくらで?」
「お金に射止めはつけません❗いくらも良いですが、万里男さんの残された人生を換算し、一番最良の結果がもたらされる金額は
1億9000万です。」
「もしかして‥僕は早死にですか?
病気?それとも事故で?」
「ちがいますよ❗貴方は相当な長生き。長寿を全うします。
人間、お金が有りすぎるとかえって幸せにはなれません。」
「まあ、いいや。じゃあそれで手をうとう。
それで、どうすれば記憶を売れるんだ?」
「万里男さんがこの承諾書にサインをして下されば良いのです。
ただ、消された記憶は決して戻りません。それで良ければ、今夜記憶の消去は決行されます。そして私は、その男の子の明日の夢にそれを張り付けます。サインとともに、口座番号も記載しておいて下さいね。
万里男さんの口座に3日後には1億9000万入りますよ。ご確認下さい。」
「では、1996年の記憶の方でお願いします。」
オレはまだ夢を見ているのだろうか。
でも夢ではない。アパートの小さな窓越しから朝日がいつものように眩しく差し込んでいた。
万里男は、か細く力強いその女性の言うとおりに、承諾書にサインをして、引き出しから通帳を取りだし間違いの無いように記載した。
「ありがとうございました。感謝致します。」
そして女は丁寧におじぎをして去った。
万里男が目を覚ましたのはお昼の12時。
(もう出社しないと‥)あれから少し寝たが、やはり夢ではない。
自分でサインを施した承諾書は、キチンとテーブルに存在感豊かに置かれていた。
その晩、万里男は珍しく店で具合が悪くなった。
ひどい嘔吐と下痢を繰り返し、たまたま店長も居合わせて早退の許可をもらえた。インフルエンザが流行っている。
夜中の12時に帰宅した。
夜間病院に行くのもしんどくて、薬局で薬を買い早々にアパートに戻った。
(とにかく寝るぞ~。そうだ。あの女かの言うことが本当なら
今夜1996年の一年間のオレの記憶がなくなる。
まさかな‥でも面白い話だったな。
1996年‥オレ、8歳か。
何をしてただろうか。
まあ、その記憶が万が一無くなったからといって、今のオレに何ら影響はない。
でも、何故そのオレの記憶が男の子を助けることになるんだ?)
ここはアパート。
(早く治して明日も頑張るぞ。)
深夜1時、万里男は床に入った。間もなく、麻酔でもかけられたような、安らかな眠りに落ちていった。
夜が明けた。
そこにはいつもとは何処か別人の万里男がいた。
手にはキッチンの果物ナイフが握られていた。
(オレはアイツをどうしても殺す)
万里男の頭の中には父親の姿が映し出された。
(アイツがオレの全てを変えた❗許せない❗)
その頃~
あたたかい夢を見て、瞳に涙をいっぱい溜めて元気にベットから目覚めた少年の姿があった。
「お母さん、僕、学校に行くよ」
少年の母親は奇跡が起こったことを実感し、泣きじゃくりながら目には見えぬ天の神様に手を合わせた。
「お父さんも僕みたいに虐めにあっていたんだね。でも、仕返しなんかしないでいつも明るく頑張ったんだね。勉強も頑張ったんだね。だから、僕に異常に厳しくしたんだね。僕に強くなれって心の中で泣きながら、厳しくしてくれたんだね。
僕が憎いからじゃ無かったんだね。
夢でみたんだ❗
お父さん~お母さん~ごめんなさい」
果物ナイフを熱く握った万里男が切り刻んだ物は一枚の写真だった。慰霊写真の中の万里男の父親が悲しく笑っていた。
~完~