二度あることは三度ある
土手の草原に寝転がって紅い空をあおぐ。草の尖端が頭を突っついてむず痒い。川の向こうは鮮やかな桜色で彩られていた。
今日は高校の卒業式だった。苦楽をすごし、輝かしい思い出のつまったあの時間ともこれでお別れである。バカなことをやってともに騒いでいた友人も、愛をもって厳しく叱ってくれた恩師も、永遠に続くと思われた通学路も、そして想い慕っていたあの人も、一旦、あるいはずっとお別れである。
胸の中心に大きな穴が空いたみたいで、吹き抜ける風に心が冷える。
当たり前に思えていた風景が突然姿を消したことに、僕はまだ現実味を感じられずにいた。
「うわっ。あんた辛気くさいよ」
僕の頭上に聞きなれた声がかけられる。けれどその声はいつもより掠れていて、その人の目は夕焼けのように赤く染まっていた。
声の主は僕の元クラスメイトの女の子だった。
「なんだよ。卒業式の日くらいいいじゃんか。僕だって寂しいんだ」
「だったらなんで一人で先に帰っちゃうのよ。後悔するよ」
「……うるさいな」
彼女はなにもしらない。
柄にもなく僕はへそを曲げて不貞腐れた。
僕は卒業式のあとにすぐに帰ったことを悔いてなどいない。もちろん寂しい気持ちが無いわけではないが、むしろあの場に長く留まる方が僕にとっては心が痛む。ならば呆気なく自己完結させてしまった方がよほどいいのだ。
彼女は土手を下りてきて僕の横に座ると、「変わらないね」と笑った。
「お前も変わらないな。一年の時からずっと阿呆のままだよ」
「阿呆とはなにをいう! それが私への餞別か!」
「阿呆かど阿呆かはたまた馬鹿だ」
「言わせておけば!」
彼女は手元にあった雑草を力任せに引き抜いて僕の顔に放り投げてきた。冷たく湿った土の感触とちくちくと糸でつつかれるようなむず痒い感触が顔一面に覆い被さる。
たまらず僕は身体を起こして顔や制服についた汚れを払い落とす。
同時に僕はあまりにも稚拙な反抗に呆れざるを得なかった。
彼女はといえばしたり顔で雑草まみれの僕を見つめて、
「バーカ!」
と悪戯っぽく笑っていた。
いつもなら僕だって笑って彼女に仕返しをしたことだろう。だけど今日はどうにもそうする気になれなかった。
今日だけは彼女の笑顔が胸に刺さるように鋭かった。
僕は彼女に背を向けてまた草むらに寝転がる。最後の最後にこんな暗い顔を見られたくなかったからだ。
背中には彼女の気配だけが感じられた。
「……ごめん。今は無理だ」
「……もうっ。拗ねたって仕方ないよ」
彼女はまるで僕の心が分かったような言い方をする。僕が卒業する寂しさに絶えきれなくてへそを曲げているだけだと、そう思っているのかもしれない。
だとしたらとんだ見当違いである。三年も苦楽を共にしたと言うのに、造られた絆はなんと浅はかで無力なものか。
しかしいくら嘆いても仕方がない。伝わらないものは伝わらないのだし、どうにもならないものはどうにもならん。
「ほらっ! 元気出しなって」
僕の肩を彼女の細い指が揺り動かす。
なんで彼女はこんなにも強いんだ。僕はふてくされて卑屈になっていじけることしかできないのに。
一番辛いのは彼女のはずなのに、そんな彼女が一番前向きに先を見ている。眩しすぎて強すぎて、そばにいるだけで自分の憎たらしさが嫌になる。
「……明日行くのか?」
背を向けたまま、僕は呟いた。
彼女は少しだけ間を開けて、うんと言った。
「そっか。準備は済んでいるのか?」
「万全だよ。あとは卒業証書と制服を詰めるだけかな」
「携帯は向こうでも使えるのか?」
「無理だよ。あっちはこんなのないから」
「ふーん…………そっか」
「うん。そうだよ」
言葉を繋ごうとして、繋がらなくなる。言いたいことは山ほどあるけれど、どれも言葉にすることは難しい。
なんて僕は口下手なんだ。三年間、気兼ねなく接してきたこいつに、なんでこうも気をつかわなくっちゃいけないんだ。
そのくせ向こうはマイペースだ。会ったときからずっと真っ直ぐで、素直で、実直だ。だから今だって、僕のことなんか気にしていないんだ。
もっと見てほしい。気にかけてほしい。注目してほしい。考えてほしい。迷ってほしい。
「ねぇ。見て、もう月が出てるよ」
空を見上げると、確かに藍色と茜色の狭間に白く乾いた月が浮かんでいた。
「珍しくもないだろ」
「別にいいんじゃん」
僕は彼女が見つけたであろう白い月をぼうと眺める。仄かに輝きを帯びた輪郭が夕空に浮き立つ。
僕は月にすら負けてしまった。自分が月よりも綺麗だとかは考えていないけど、今は悔しかった。腹が立った。
じっと月を見つめていると、まるでバカにされてるよな気分になる。随分高いところから見下ろされてる。「お前にゃ無理だ」といわれているようで、むしゃくしゃして、僕は突拍子もなく立ち上がった。
「えっ。どうしたの?」と驚く彼女。
でもそんなこと知るものか。気を遣うのはいい加減疲れたし、なんだかもうバカらしくなってしまったのだ。
全部がどうでもよくなった。どうせ卒業したんだしもう会うこともないんだし、ならば失うものなどあるものか。
明日にはみんななくなるんだから怖くない。
やけくそというやつだった。
「好きだ。付き合ってください」
「は?」
言ってしまった。
頭のなかが真っ白になる。あまねく思考が体外に溢れ出し、いっそ心地よい浮遊感さえ覚えてしまう。
てっきり、僕は告白というものはおどろ恐ろしい儀式かと思っていたが、やっていると案外そうでもない。むしろ胸のつかえが取れたようで、心がすっと軽くなる。
あれほど想い焦がれた言葉がこんなにも容易く口にできたのかと、いっそ不安さえ覚えてしまいそうだ。僕の気持ちは、果たして彼女の胸をうてたのだろうか。
「……まじ、だよね?」
「うん。かなりまじ。もっというと、高二のときに惚れてからずっとまじ」
「え、まじか。そんなにか」
「うん。そんなに」
「そっかー……私のどんなとこがよかった、とかある?」
「えーと……ごめん、わかんない。気づいたら好きだったから」
「えー。まじかー。嬉しいけど、そっかー。んー。えー。どうしよー」
彼女は地面に座り込んだまま、頭を抱えて丸くなる。隙間から覗く頬を夕焼けが朱に染めていた。
しばしあって彼女が立ち上がった。夕陽は地平線の向こうに身を潜め、空は藍色に変わっていた。
「……うんっ。すごく嬉しいんだけど、あのね、ごめんなさい」
ぺこりと彼女は頭を垂れる。黄金色の髪が藍色の景色に際立って揺れた。
僕は稲穂のように垂れる彼女の頭を茫然と眺めることしかできなかった。
告白と違って、ふられるというものは身に刺さるほど実感がある。手足が寒くなって体の芯が冷や汗をかく。思考は目まぐるしく回転し、どうにかしていまの状況を取り繕おうとする。
「……あの、ほら、顔あげてよ」
どうにかして紡ぎ出せたのはそんな仕様もない言葉だった。つくづく僕という人間は話下手なのだと実感させられる。
彼女が下げていた頭を起こす。髪を肩の後ろにかきあげ、困ったように笑っていた。
これでさよならでは如何せん後味が悪すぎる。先まで見せていた無防備な笑みはかちこちに凝り固まっていて、お互いに視線を合わせるのも難しい。
最後の学生生活の締めくくりがこんな苦い餞別では彼女も浮かばれまい。せめて、最後は笑顔で旅立ってもらわねば、僕の好きは嘘であろう。
僕は今にも崩れてしまいそうな心を建て直して、視線をあげた。
煌めく髪の毛をくるくると弄くっている彼女と目があった。
思わず心が躍動してしまう。甘酸っぱい高揚のあとに、苦く冷たい感情が押し寄せる。
駄目だ。呑まれるな。僕は伝えたいことは伝えた。そして彼女も伝えたいことを伝えてくれた。
僕は一度深く息をついてから、言葉を続けた。
「僕はやっぱりお前が好きだ」
春の匂いが僕らのまわりを駆け抜ける。制服が煽られて、紺色のスカートが舞い上がる。彼女は「うぉっ」と可愛らしい悲鳴をあげ、慌てて舞い上がる紺色のカーテンを押さえ込む。
風が過ぎる頃には、僕たちの間に再びの沈黙が流れていた。重く息苦しい耐え難い沈黙だった。
けれど、その沈黙は軽快な笑い声によって打ち消された。
「うん。分かってるよ」
彼女はくすりとおかしそうに笑う。
実際にはものの数分だろうが僕にとっては久しすぎる笑顔だった。暖かくて面白くて愛しくて、他の人に見せるには勿体無い笑顔だ。
独り占めしたい。彼女を余すことなく感じていたい。彼女の特別でありたい。
醜い感情が沸き上がる。それは紛れもなく恋というやつだった。
「でもやっぱりごめんね」
彼女は二度目のその言葉を口にして、にこやかに笑いとばした。
二度目のその言葉も僕の身に染みる。想いが届かないようで悲しく、悔しい。しかし不思議とつられて顔が綻んでしまう。何も楽しくないはずなのに無理のない笑顔がこぼれてしまう。
そうなると、今度はもう会えなくなることが悲しくなる。金輪際、彼女と会えなくなることがひどく惜しい。
この笑顔が見納めだ。
僕は一時も彼女の顔から目を離さず、可能な限りこの光景を頭のなかに焼き付けた。彼女と過ごしたこの瞬間を二度と忘れることのないように。
ふいに彼女の顔から笑みが消える。
どうしたのだろう。何か悪いことでも思い出したのだろうか。それとも、あまりに食い入って見る僕に嫌悪を抱いたのだろうか。
僕は思案した。なぜ彼女があんなにも哀しそうな顔をしているのか考えた。
そうしていると頬が不意に熱くなった。景色が霞み、緑色と闇色のコントラストが混ざりあう。歪んだ視界のせいで、彼女の顔がよく分からなくなってしまった。
「……バカ」
彼女の上ずった声が耳に入る。
今彼女はどんな顔をしているのだろう。笑ってくれてるだろうか。見えない視界を一生懸命擦って、顔を見ようと目を開ける。くしゃくしゃになった顔が見えたと思ったら、またすぐに視界が霞む。
擦っても拭っても止めようとしても溢れでる。これでは彼女の顔が見えないではないか。
困った。実に困った。だけどどうしようもなかった。
だって仕方がないだろう。大好きな人に二度もふられ、あまつさえその人とはもう二度と会えなくなる。悲しくないはずがない。泣きたくもなる。喚きたくもなる。嗚咽をあげて叫びたくもなる。いっそ彼女を捕まえたくもなる。
しかしどうしようもない。捕まえるなんてことは論外だし、彼女はいるべき場所に帰るだけなのだ。それを止める権利も実力も僕は持ち合わせていない。
だからどうしようもない。気持ちを伝えて泣くことくらいしかできなかった。
赤子でもできる簡単なことだ。でも僕にできることはそれくらいだった。
「いつまでも泣いてないでよ。辛気くさい」
彼女は言った。
くぐもった鼻声で不格好にも言った。
「この世界に来てからあんたとは一番仲良くなれたと思ってる。またいつか、会おうね」
周囲に風が吹き荒れる。霞む視界がより細くなって、彼女の姿がおぼろげにまどろむ。
ここで目を閉じたら二度と会えなくなる。だから目を開けなくちゃいけない。最後に彼女の笑顔を見て、心に焼き付けなくちゃいけない。
僕は目を見開いた。淀んだ視界が風に洗われて、彼女の顔をはっきりと写した。
「嬉しかったよ。ありがとね、バイバイ」
箒に跨がった彼女は、旋風とともに暗い夜空に舞い上がった。やがて闇色に溶けていく彼女の後ろ姿を、僕はじっと遠くから眺めることしかできなかった。
冷たい風が体を撫でる。三月の夜はまだ寒く、夜の風は冬のように凍えている。かさかさと揺れる草原に横たわるとやはり頭がむず痒い。
ぼうと夜空を仰ぎ見る。にわかに煌めきだした星たちと、遠くの街の明かりがぶつかって霞んでいる。白くくっきりとした丸い輪郭だけが、そのなかでもひときわ強く輝いていた。
もう不貞腐れても拗ねても仕方がない。いくら愛を叫ぼうとも告白しようとも、それは届くことすらかなわない。
ついさっきまで横にいた人はもういない。でもこうして夜空を眺めて不貞腐れていると、どこからともなく戻ってくるんじゃないかと勘違いしてしまう。また励ましにきて、それから今度こそは想いを受け止めてくれるのではないかと妄想してしまう。
だがそうか。そういえば僕は二度もふられたのか。あの短時間で同じ人に二度もふられたのか。
悲しすぎていっそ笑いすら込み上げてくる。
最後に笑ったのは彼女ではなく、どうしようもないこの僕のほうだったのだ。