Contact.8-5 一つの結末
手術室の前で、手を組んで点灯している手術中のランプをじっと見詰める。
「日向ちゃん、無理しちゃだめだよ……?」
「医者も大丈夫だって言ってただろ?
ちょっと長引いてるだけだから休もう、な?」
窓の外はもう月が登り切っていた。あれから救急車で運ばれた栄司に付き添って病院へ行き、ミィに傍について貰いながら事情聴取を受けた。担当になった婦警さんが気を使って着替える時間をくれたので、今は連絡を受けてすっ飛んできた母の持ってきた普段着用のワンピースに着替えている。
肝心の事情聴取は被疑者の態度や様子があまりにも酷いためにスムーズに行われた。僕の主張は他の人たちの証言や現場の証拠も手伝ってほぼ全て受け入れられ、あいつは殺人未遂とか薬物とか諸々で現行犯だそうだ。
でも、そんなことは今はどうでもよかった。あいつのことなんてどうでもいい、今は栄司さえ助かってくれればそれでいい。祈るような気持ちで手術室の扉を見る。手術室に入ってからもう二時間は過ぎているはずだった。まだ手術中のランプは消えない。
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.08-5 『一つの結末』
「……?」
人が動く気配に身体を起こす、気づかないうちに寝てしまっていたようで酷く眠くてだるい。掛けられていたらしい毛布がはらりと廊下に落ちた、誰かが掛けてくれていたのだろうか。気配の元を辿ってみると、皆が立ち上がって手術室を見ていた。
釣られて視線をそちらに向けると、手術中のランプがついに消えていた。反射的に立ち上がると同時に扉が開いて、手術着に身を包んだ医者が出てくる。
「先生、栄司は! あいつは……」
「どうなったんですか!?」
「落ち着いてください、一命は取り留めました」
詰め寄る伊吹とメイリにマスクを外して笑みを浮かべた医者は力強く頷いた。
助かった――?
「よ、かったぁ……」
ギルマスが呟きながらその場にへたり込む、他のメンバーも似たようなもので、すあまさんとミィは泣きながら良かったと口に出して、廊下に座っている。その場でまともに立って話を聞いていられたのは伊吹だけのようだった。僕も他の大多数と同じように、安堵のあまり床に座り込んでいた。
良かった、本当に良かった……。医者が道を開けると、手術室からストレッチャーに乗せられた栄司が運ばれてきた。ふらふらになりながらもそこに飛びつくと、看護師の女性が苦笑しながら足を止めてくれた。
「彼のご家族は?」
「連絡はしました、昼頃には付くそうです」
「解りました、では簡単に病状だけお伝え……」
申し訳ないけど、細かい部分は伊吹に任せてしまおう。背伸びをして栄司の顔を覗きこむ、マスクに包まれた口元からは確かな呼吸の音がしていて、暖かい身体が生きていることを証明している。溢れてくる涙を何度も腕で拭いながら、僕は看護師さんに窘められるまで栄司にすがりついて泣いていた。
◇
栄司の容態は安定していて、早ければ明日にも目を覚ますという事だった。幸いなことに臓器は殆ど傷ついておらず、出血こそ多かったものの病院に運ばれたのも早く命に関わるほどではなかったようだ。
安心したところで出来れば起きるまで付き添っていたかったんだけど、夜間の宿泊許可は降りず、しょうがなく母に付き添われて一度家へ戻ることになった。そもそも……栄司の両親にどんな顔して会えばいいのだろう。
「日向、ほら」
うつらうつらしながら歩いていると、母が目の前で背中を見せながらしゃがんで僕を呼んだ。意図はわかったけど、そろそろ良い年なんだからあんまり無理しないでほしい。……かといって、そろそろ限界なのも確かだった。
今の体なら、あんまり負担がないはずだ……歩くのも辛いし、甘えさせて貰ってもいいんだろうか。
「遠慮しなくていいから、ほら」
母さんの背中に覆いかぶさると、両手がお尻を支えるように回される。首に抱きつくように腕を回しながら体重を預けると、母さんはよいしょっと声を出しながらゆっくり立ち上がった。
「日向……本当に無事でよかった、連絡が来た時は心臓が止まるかと思ったわよ?」
家で仕事の残りを片付けている時に連絡を受けて、慌ててすっ飛んできたらしい。僕の軽々な行動で多くの人に迷惑と心配をかけたのだと自覚する。栄司にまであんな怪我をさせてしまって。どうすれば、彼に償っていけるだろう。
「……栄司くんが目を覚ましたら、ちゃんと謝ってお礼言うのよ?」
背負われながら頷く。でも、そんなことで許してくれるかどうか……。
「栄司くんね、日向が入院した日、私達に泣きながら謝ったのよ」
その言葉で受けた驚きで眠気が飛んだ。
「栄司君は何一つ悪くないのに、
守れなかった、すいませんって何度もね……」
母さんの服を握りしめる手に力が入る。
「日向は、良い友だちを持ったわ。
毎日のようにお見舞いにも来てくれたし、
ずっと貴方の事心配してくれてたのよ?
だからね、栄司君はきっと許してくれるから……心配しないで」
栄司と伊吹もこんな気持ちだったのかな、何も出来ない自分が情けなくて、悔しくて許せなくて。そんな感情ばかりがどうしようもなく心のなかで洪水を起こす。ごめんね、ごめんね栄司……ごめんね。
背中に涙を押し付けているうちに、僕の意識はゆっくりと眠りの中に落ちていった。
◇
朝早く、面会時間に合わせて栄司の様子を見るために病院へ向かう。受付で病室を聞いてエレベーターで直行する。目が覚めたらまずきちんと謝って、それからお礼を言おう。いつか栄司が僕にしてくれたみたく毎日お見舞いに来よう。
もう目が覚めたかな、どんなものが喜ぶかな、動けないと暇だろうな。食べ物とかは不味いかな、店売りのものなら大丈夫かな。考え事は止まらない、軽い足取りで病室の矢島という名札を確認してノックをした。
程なくして静かに病室のドアが開く。ベッドを囲むように栄司の両親が肩を寄せあって泣いていた。どうしたんだろう、まさかもう目が覚めたのかな、回りこむようにしてベッドを覗きこむ。
昨日まで血色の良かった栄司の肌は白くなっていて、何故か顔に白い布がかけられていた。どうしたんだろう、新手のファッションだろうか。顔を抑えて泣いていた栄司のお父さんが口を開く。
『今朝早く容態が急変して』
おじさんは何を言ってるんだろう、わけが解らない。栄司の肩を揺する。夏だっていうのにこんなに身体を冷やして、クーラーが効き過ぎじゃないだろうか。
『栄司は死んでしまったの』
今度はおばさんが無機質な声で言う。随分と性質の悪い冗談だ。ふざけてないで早く目を覚ましてほしい。先程より強く身体を揺する。栄司は動かず、その代わり刺し傷のある辺りから赤いシミが溢れだした。
『栄司は死んでしまったの』
何でこんなに血が出てるのか、傷口が開いてしまったんだろうか。医者のくせに手術が雑すぎるだろう。両手でシーツをお腹に押し付ける、でも血は止まらない、とぷとぷと染み出した赤い血が溢れて床に流れ出ていく。
やめてよ、止まってよ、このままじゃ栄司が死んじゃう……。
『栄司は死んでしまったの』
『栄司は死んでしまったんだ』
おじさんとおばさんの言葉が重なる。
嘘だ、そんなの嘘だ。だって昨日までは元気で、医者は一命を取り留めたって。
『お前のせいで』
『お前のせいだ』
そうだよ、僕のせいだ。だからこれから謝らないといけないのに、沢山謝って、お礼を言って、仲直りしないといけないのに、今度は僕が栄司に恩返しする番なのに。何で、何で!
『お前が殺した』
『お前が殺した』
『お前が殺した』
『お前が殺した』
おじさん、おばさん、伊吹、メイリ、ミィ、ギルマス……知っている人たちがいつの間にか背後に立って、その言葉を合唱する。わかってるよ、わかってるからもうやめて、おねがいだから、僕が悪かったから、ごめんなさい、ごめんなさい。
血が止まらない、溢れでた血で足首までが真っ赤に染まる。ごめんなさい、僕が悪かったんだ、僕が悪いんだから、栄司はなにもわるくないんだから、止まって、止まってよ。
栄司の顔を見る、いつの間にか顔を起こした生気のない瞳が僕を見据えていた。喉がひきつる。固まった僕を見たまま、栄司は静かに口を開く。
『お ま え の せ い だ』
「――――――――っ!!」
悲鳴を上げながら起き上がる、ここは僕の部屋? 夢だったのか……ベッドの上で前のめりにうなだれる。
カーテン越しに太陽の光が部屋の中を照らしていた。外からは鳥の鳴き声が聞こえる。時計を見ると午前6時。酷い、本当にひどい夢を見た。ハッとして掛け布団を跳ね飛ばし、机の上に乗せておいた携帯を手に取る。
着信履歴やメールを確認しても、連絡は来ていない。寝汗が酷くて服が濡れて気持ち悪いけど、今はそれより確かめなきゃいけないことがある。部屋を飛び出して母さんの部屋に行くが、既にもぬけの殻だった。
階下から物音がするのが聞こえて、転ばないギリギリの速度で階段を駆け下りるとリビングに飛び込む。携帯をテーブルに置いた母が、コーヒーを飲んでいた。僕に気付いたのか驚いたように振り返る。
「日向!? どうしたの?」
立ち上がった母に飛びつく。
「こんなに震えて……何があったの?」
『えいじ、えいじは大丈夫?』
乱暴に文章を打ち付けた携帯を見せると、母さんは困ったように笑って僕の頭をなでた。
「あぁさっき矢島さんから電話があって、
今朝早く病院についてて、ついさっき栄司くんの意識が戻ったって」
本当!? っと反射的に口パクだけになってしまったが、それだけでも通じたのか母は頷く。本当の意味で安堵できたおかげか急に力が抜けて、母さんに抱きかかえられる結果になってしまった。16にもなって恥ずかしい……。
「朝ご飯食べたら病院行こうか……あー……シャワー浴びて着替えてからね」
何か言いたげに言葉を濁す母さんの視線を追いかけると、いつの間にか着替えさせてもらっていたパジャマのズボンが言い訳不可能なほどに……濡れていた。
◇
何も見なかったことにしてくれた母に内心で感謝しつつ、何もなかった事にした僕は手早くパジャマを洗濯機に放り込んでシャワーを浴び普段着に着替えた。
昼までは時間があるので付き合ってくれる母と共に病院へ行くと、旅行先からとんぼ返りしてきたらしい栄司の両親が病室の前で出迎えてくれた。夢のことが頭をよぎり、背筋が凍り付きそうになりながらも必死になって頭を下げて謝ると、栄司から事情を全て聞いていたらしいおじさんとおばさんは気にしなくていいと笑ってくれた。
自分の息子が心配で仕方ないだろうに、元凶である僕に無事で良かったと言ってくれる二人の姿に、騙していることへの罪悪感や巻き込んでしまった申し訳なさで涙が溢れてくる。
母さんは別の場所で話があるということで、病室の中へ入れてもらえた。昼くらいには警察の人が来るらしい。調子はいいみたいなので一日傍に居ていいらしい。
恐る恐るベッドを覗きこむと、横になっていた栄司がこちらを向いた。その仕草が、夢のなかで見た栄司と重なって一瞬ドキリとする。だけど、彼は夢とは違って僕を見るなり微笑みを浮かべた。
「良かった……今度はちゃんと守れたな」
こんなになってまで何、言ってるんだこいつは……。感情を爆発させるままにベッドに飛びつく。小さな子供のように自分自身を制御できない、もう相手が怪我人だとか安静にさせなきゃとか、そういった思考がすっ飛んでしまっていた。
「ぐおっ!? いだだ! 待て日向、傷口が開く!」
「――――! ――――ッ!」
胸にすがりついて泣いていると悲鳴が聞こえて、残っている理性で身体をずらして傷口に障らない位置で抱きつく。申し訳ないけど身体が僕の意思とは関係なく動いて離れてくれない。
「っつつ……」
ごめんね、僕のせいで、ごめんね。守ってくれてありがとう。滲んでまともに見えない栄司の顔に向かって、口をひたすら動かす。彼も慣れたものできちんと声にならない言葉を受け取ってくれたのか、僕の頭に手を置いた。
「気にすんな、男の勲章みたいなものだろ?」
あくまで僕に気を使わせないようにしてくれているんだろう、いろんな気持ちが形にならないまま心のなかを渦巻いて、瞳から雫としてあふれだす。僕が気を使わなきゃいけない側なのに、そう思っても涙は止まってくれない。
栄司に頭を撫でられながら、ただ泣き続けていた。
◇
「――ったよ」
ぼんやりとした意識の中、耳に入ってくる誰かの声に顔を上げる。……どうやらまた眠っていたらしい。昨日はちゃんと寝れなかったし、寝覚めも最悪だったからそのせいだろうか。見舞いに来て怪我人のベッドに突っ伏して寝るとか、我ながら何をやっているんだろう。
「あ、起きた」
「ありゃ、起こしちゃったかな」
聞き慣れた、ミィとメイリの声だとわかった。どうやら二人も見舞いに来ていたらしい。目元を擦りながら身体を起こそうとして、ベッドに突っ伏しているんじゃなくて栄司の隣で寝ていることに気付いた。……なんでこんな状況に?
「お前がひっついて離れないから、看護師さんが気を使って横に寝かせてくれたんだよ」
答えは栄司からもたらされた。呆れたような声色に羞恥で顔が熱くなる、眠って落ち着いて考えて見れば僕の行動は正直色々とありえない、自分でも彼等と同い年であるなんて主張するのが厳しいだろうなと思えるレベルだ。
「本当に中身まで子供みたいになっちまって……医者にも苦笑されたわ」
ついついシーツを被って隠れるという行動を、気合と精神力で抑えてベッドから降りる。本当、ご迷惑をおかけしました……。
「怪我、大したことないんだってね」
「傷がふさがって抜糸したら、少し経過見て退院だってさ、
二週間くらいで学校に戻れるそうだ」
「勉強遅れないといいわね」
「それだけが心配だよ……」
あぁ、そうかもう新学期なんだと、二人の会話から理解した。今までみたくずっとゲームの中で遊べる機会も減っちゃうんだろうな。笑いながらも時折顔をしかめる栄司を見ながら、ちくちくとした胸の痛みを感じていた。
もっと、一緒にいたいなぁ。
程なくして警察の人が話を聞きに来た、一体僕は何時間寝ていたんだろうか。奴の扱いについては色々難しいようで、未成年ということもあってきっと大した罪にはならないだろう。出来ればこの手で栄司の分までぶん殴ってやりたいけど、法が出来るだけ厳しい処分をしてくれるのを祈るしか無い。
警察が帰ってからギルマスと伊吹も合流して、病室は少し賑やかになった。流石に病院だから騒ぐことはないけど、ギルマスが言うには皆凄く心配しているようだ。栄司は面倒見が良いから、後輩とかにも慕われているんだろう。
中学の時はどっちかというと年下の子に慕われていたっけ……部活のマネージャーとか。まずい、今までは何とも思わなかったのに、このままだと助けてくれた相手に憎まれ口を聞いてしまいそうで、別の話題を振ってみる。
『そういえば、どうして僕のいる場所がわかったの?』
栄司は僕の声を聞いてすぐに駆けつけられる距離に居た。最低でも目処がついてないと難しいだろう。偶然なんだろうか。
「あぁ、それな、あの後すぐにお前が居ないことに気付いて慌てて探したんだ」
……気のせいか、栄司の言葉にちょっとした刺を感じた。居心地が悪くて身体を縮こませる。
「そしたら、本社の裏のほうから猫の鳴き声が聞こえて、
行ってみたら林の中にお前の携帯と、猫のぬいぐるみが落ちてたんだよ」
そうだったんだ……もしかして、あの猫がまた助けてくれたのかな。借りばかり増えていってしまう。
「あ、そうだ、これ日向ちゃんに返さないとね」
話の最中、何かを思い出したように手を叩いたミィが鞄の中から、昨日僕がとった白猫のぬいぐるみを取り出した。僕はその子を両手で受け取ると、ありがとうと口の中でだけ呟いて頬ずりをした。
「……昨日は土で汚れちゃってたから、
綺麗にしてから渡してあげようと思って連れて帰ってたんだよ、遅くなってごめんね」
首を左右に振って、口の動きでミィにお礼を言う。どこ行ってたのか気になってたんだけど、聞ける空気じゃなかったんだよね、戻ってきてくれてよかった。
「み、ミィ、家に置いといて、何もなかったの?」
不自然に硬い声がした、メイリは少し青ざめた様子で僕から距離をとっている。珍しいこともあるものだと思ったけど、視線は僕じゃなくて僕が抱いているぬいぐるみへと向いていた。ホラー苦手だったっけ。
「? 何もないよー?」
「そ、そう……」
あんまりこのぬいぐるみはメイリに見せないほうがいいかもしれない。冷や汗をたらし固まっているメイリへと、全員の視線が集まる。栄司が傷をおしてニヤリと笑った。
「……怖いのか?」
「怖くない!!」
病院で大きな声を出しちゃダメだってば、メイリ……。
◇
一週間が経ち、カレンダーは九月へと突入した、学校が始まってからメイリ達が見舞いに来る頻度が少し減っている。僕は伊吹に送り迎えをしてもらって毎日病院へ通っていた。流石に単独行動であんな目にあったせいか、単独での外出禁止令がでていたので伊吹が学校のプリント等を届けに行くのに便乗して連れて行ってもらうことにしたのだ。
今日も他愛無い話をしながら梨を剥いたり、洗濯物をまとめたりして病室で過ごす。伊吹は気を使ってるのか何なのか席を外していることが多いので、大半が二人きり。このゆっくりとした時間は決して嫌なものじゃなかった。
衝動に任せるまま、剥き終わって一口大に切った梨をフォークを使って栄司の口元に突き出す。渋い顔をした栄司は、僕からフォークを自らの手で奪い取ってから梨を口に運んだ。微妙に気まずい沈黙が流れる。
……またやってしまった、ここ数日一緒にいる時間が多いせいか、油断すると殆ど無意識にこういった行動を取ってしまう。自分でもどこで覚えたのか謎なんだけど、今まで見たドラマや漫画の影響なんだろうか。
そして行動を取っては拒否される度に、胸がじくじくと痛む。これの繰り返しだ。
「……なぁ」
俯いている僕に、栄司が声をかけた。
「……いや、何でもない」
再び、沈黙が訪れる。静かな病室の中で備え付けられた時計の音だけが響く。開かれた窓から入って来た風が誰が持ってきたのか置型の風鈴を鳴らし、草花の香りを運んできた。携帯を手にとって、文字を打つ。
『僕さ、決めたよ』
「…………」
沈黙の中、自分が携帯を打つ音と呼吸音だけが耳に届く。
『新しい戸籍、もらう、
女の子として、生きることにする』
「そう、か……頑張れよ」
その言葉に偽りはないんだろう、でも声になっていない部分に含まれた多くの意味くらいは、僕にだって解っている。
『あのさ、栄司』
「何だ?」
指が震える、ある意味では葛木に追いかけ回された時よりも怖い。これを伝えたら全てが壊れると解っている、だけど僕にはもう、初めて知ったこの想いを胸の中だけに秘めておくことは出来そうになかった。
例え結果がどうなっても、自分から素直な気持ちを伝えられる人は凄いと思う。勇気がでなくて、壊れそうなほどに携帯を握りしめながら出来上がった文章を読み返す。
今ならまだ後戻りできる、これを消して何でもないと言えば、きっともとの関係に戻れる。でも、ボタンに押し付けられた指は固まったかのように動いてはくれなかった。
栄司は何も言わない、僕の言おうとしていることが解っているのかどうかは解らない、けれど僕がどうするかを待ってくれているかのようだった。震える身体を慰めるように何度も深呼吸を繰り返す。これを言わないと、どうしても前へ進めそうになかった。
ゆっくりと、携帯の画面を英司に見せた。
『僕さ、栄司のこと、好きになっちゃったみたい、女の子として』
たったそれだけ、30文字にも満たない文章。なのにただの一撃で僕の全てを壊しうる可能性を秘めていた。たっぷりとした、心臓が張り裂けるには十分すぎるほどの時間を置いて、栄司が頭を下げた。
「ごめん」
心臓が握りつぶされるって、こういう感覚なんだろうか。
「ずっと気付かないふりしてた、一時の気の迷いだって、
急に身体が変わって混乱してるだけだろうって、思い込もうとしてた。
本当に解ってなかったんだな、俺は……」
歯を食いしばる、そうじゃないとまた涙を流してしまいそうだから。
「俺は……お前の気持ちには応えられない。
今でもお前は俺にとって変わらない、親友のままなんだよ。
だから、ごめんな、俺はお前を――女としては見れない」
解っていたはずだった。性別が変わるってことの意味を、自分自身が良くわかっているはずだった。今にも堤防が決壊しそうだった、いつまで我慢できるかわからないと、携帯を持ち直す。
『そっか、うん、ハッキリ断ってくれてありがとう』
たった一文を打つだけなのに、こんなに苦しい思いをするなんて思わなかった。喉が痛む、でもここで泣いちゃダメだ。最後の最後くらい、男として最後の意地を見せないといけない。
『これからも、友達でいてくれる?』
本当は、やだ、友達じゃ嫌だった。だけど、ここで我儘を言ったら壊れてしまいそうな気がした。栄司と会えなくなるのは、もっと嫌だった。
「あぁ、当然だ」
複雑そうな顔の栄司に、僕は必死で笑顔を返す。絶対に泣いてたまるものか。
『ありがとう、じゃあ僕は、今日はもう帰るね』
「……気をつけてな」
手荷物を掻き集めて飛び出すように病室をでる。驚いた顔の伊吹が廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。
「どうした?」
声をかけてきた伊吹に何でもないと首を振って伝えると、それだけで一体どこまで察したのか「家まで送ろう」と言って病室に入り、自分の荷物を持って出てきた。良いのかと視線で伺う。
「気にするな」
言いたいことも聞きたいことも山ほどあるだろうに……でも今は、その心遣いが有難かった。
帰り道は何も会話すること無く、玄関先で別れてすぐにドアを開けた。すぐに部屋に戻りたかったのだ、じゃないといつ爆発してしまうか解らない、伊吹や栄司に今こうやって泣いている姿を見られるのは嫌だった。そして乱暴にドアを閉め、サンダルを脱ぎ捨てようとした矢先……。
「おかえりー」
家の中から姉さんの声が聞こえた。
「驚いた? 大丈夫だって聞いてたけどやっぱり心配で、
事務所に無理言って今日はオフに――」
だから、誰にも会いたくなかったのに……居ても立ってもいられなくて姉さんに飛びつく。
「ど、どうしたの日向!? 落ち着きなさい!」
動揺した姉さんが、泣きじゃくる僕を抱きしめながらリビングへ連れていってくれる。それからソファで膝抱きにされてずっと背中を撫でられた。子供みたいで恥ずかしかったけど、少しずつ落ち着いていったのも確かだった。
ようやく涙も少し収まり、姉さんに栄司に告白しフられた事を話した。何を言ってるのだと叱責されるかと思ったが、姉さんは優しく頭を撫でるだけ。
「そっか……辛かったね、よく頑張ったね」
姉さんも、同じような経験があるんだろうか。どうやってこの胸が引き裂かれるような痛みを消したんだろうか。出来る事なら、今すぐ知りたい。視線に込められた僕の言葉を感じ取ってくれたのか、姉が困ったように笑う。
「苦しいよね、でもそれは時間が癒してくれるのを待つしか無いわ」
やっぱりそうなんだろうか、でもこんなに苦しいの、消えてくれるまで耐える自信はない。しかも痛みの大本とはこれからもずっと付き合っていかなきゃいけないんだ。いずれ別の誰かと幸せになる姿も見届けないといけない、そう考えるだけで、まるで心臓をプレス機にかけられているかのように苦しくなる。
そんなの嫌だ、絶対にヤダ! 栄司の傍に居たのはずっと僕だったのに、今更他の女の子なんかに渡したくない。美味しそうに料理を食べる顔も、頭をなでてくれる大きな手も、広い背中も全部僕のものがいいのに、手が届かない。
「…………ねぇ、日向、諦めちゃうの?」
また涙を流し始めた僕に姉が言った。諦めたくない、諦めたくなんかないけど、栄司は僕のことをあんなにハッキリと断ったんだから、諦めるしか無いじゃないか。栄司が他の誰かと一緒になるのはイヤだけど、もう会えないのはもっとイヤだ、嫌われるのなんか、死んだほうがマシだ。
「恋をするには、心も身体も小さすぎるのね、日向は」
不満を抱いて姉を睨みつける。そんな事はない、身体は小さくたって、心は16なんだ。小さい子どもと言われるのはいくらなんでも心外だ。
「男の子だった時に、誰かを本気で好きになった事ないでしょ?」
怒りが霧散する……正直に言えば図星だった、だからこの感情の抑え方や制御の仕方を知らない。
「簡単に諦められるなら、それはきっと本気じゃないのよ、
それに……諦めなきゃいけない理由はないんでしょ?」
くすりと笑う姉の言葉の意味が解らなかった、だって断られたんだから、諦めないといけないじゃないか。不満気に頬を膨らませていると頬を突付かれた。
「だって、栄司くんは付き合ってる子がいるわけじゃないし、
他に好きな子がいるからって断られた訳じゃないでしょう?
そんなすぐに諦めちゃったら、勿体無いわよ」
言われてみれば、確かに栄司に女性の影は見当たらない。一回断られただけで諦めちゃうのは……いや、でもしつこい女は嫌われるだろうし。
「今の日向は小さいけど凄い美少女なんだもの、
これからどんどん魅力的な女の子になって、
今度は栄司君から好きだって言わせちゃえばいいのよ」
思い悩む僕を見かねたのか、姉が頬を引っ張りながら顔を近づけてきた。本当にそんな事出来るのかな。
「お姉ちゃんも手伝うし、きっとミィちゃんも手伝ってくれるわ。
だから、頑張ってみない?」
決断できた訳じゃない、だけど姉さんやミィは女の子として魅力的だった。二人が手伝ってくれればもしかしたらという気持ちが沸き起こる。何よりも、どうしても栄司との未来を諦めたくない気持ちが強くもある。
だけど、同時にどうしようもないほど怖くもあった。僕は……どうしよう。
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