Contact.8-4 ヒーロー
暗闇の中で、そいつは眼を爛々と輝かせながら歯をむき出しにして笑う。逆光の中で瞳だけが輝いているように見えて、不気味でしょうがない。
「俺は、木崎の野郎のせいで、矢島と川倉のせいで、人生を滅茶苦茶にされたんだ、
解るか、お前にわかるか、俺の気持ちが……俺はエリートになるはずだったんだ、
全ての人間の上に立って、支配する側の人間になるはずだった、
なのにお前らみたいな、カス共のせいで台無しになったんだよ……許されねぇよなぁ?」
一歩、近づいてくる。まるで先日ゲームの中であった光景の焼き直しだ。だが言葉と表情に反して奴はどこまでも穏やかで優しい声色だった。それがさらなる恐怖を掻き立てる。完全に、壊れてしまっているみたいだ。
「だからさ、俺にもあいつらの人生を滅茶苦茶にする権利があると思うんだ、
なぁ、お前もそう思うだろ? 安心しろ、殺さねぇよ……簡単に殺したりしねぇ、
それじゃあいつらが苦しまねぇ」
かたかたと、何かが音を立てている。逃げようと身体を動かそうとしたしたけど、脚の動きが鈍い。
「その顔だ、その顔が見たかったんだ……、
ゲームの中では澄ました顔でいられても、現実じゃあそうもいかねぇよなぁ」
言われて、初めて気付いた。自分の体が震えていることに。歯の根が合わずかたかたと音を発てている事に。自覚した瞬間、恐怖で涙が溢れそうになる。
怖い、怖い、怖い怖い怖い。今まではゲームの中だというフィルターがかかっていた、それは物理的な痛みを排除してくれて、だから物理的な暴力にも一歩引いて落ち着いた思考を保つことが出来た。
でも、ここは現実だ、それを認識してしまった。殴られれば痛いし動けなくなる、いざとなっても強制切断で逃げることは出来ない。ナイフで、刺されたら……。
「ヒャハ、そうだ、もっと怖がれ、もっと俺を怖がれェ! 俺をなめてんじゃねェ!!」
もはや奴は正気とは思えない。今ここに居るのは僕だけで、声をあげて助けを呼ぶことも出来ない。落ち着け落ち着けと内心で何度も自分を怒鳴りつける。
逃げなきゃ、何とかして逃げないと。
また一歩、奴が近づく。一瞬だけ腕が下がった、その瞬間に奴の顔に向けて土を蹴りあげた。
「ぐっ!?」
咄嗟に顔を覆われて目潰しは出来なかったけど、隙は出来た。踵を返して駆け出す、まだ脚が震えている、転ばないように慎重に、でもできるだけ速く。心臓が早鐘のように鳴っている。
「クソがっ、待ちやがれ!」
そう遠くない位置から怒鳴り声が聞こえる。振り返っちゃダメだ、その分速度が遅くなる。冷静に慎重に、それだけを言い聞かせて必死で足を動かす。樹を目隠し代わりにしながら森の中へ、そこから人の多い場所に出ればいくら奴でも無茶は出来ないはずだ。
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.08-4 『ヒーロー』
「……っ……っ!!」
僅かしか走っていないというのに、息が切れはじめた。下駄と浴衣のせいで走りにくいのと、林の中であるが足場の悪さ。体力のなさと恐怖による緊張、それが悪いように働いたみたいだ。……こうやって別のことを考えて冷静な思考を保たないと、あっという間に精神的な均衡を崩してしまうだろう。そう思えるほどに怖い。
現実で突きつけられる悪意の怖さは解っていたはず。だけど、小さくなった僕にとって今の奴はとんでもない怪物に見える。こわい、しにたくない、だれか助けて。どんなに出したくても振り絞った声は喉の奥に引っかかって出て来ない。
「待てぇぇええ!!」
声はまだ、近いままだ。何とかして人の多い方向に行きたいが、動揺するあまり逃げるのに必死で結構大きな林の奥まで来てしまったようで、灯りが遠い。
「こっちにこいよクソガキがぁ、可愛がってやるからよぉ!」
奴の叫声は灯りのある方角から聞こえる。完全に逃げる方向を間違えた、状況は最悪だ。少しでも長く時間を稼ごうと、目に入った木々の重なった根本に身を小さくして縮こまる。暗闇の中でならやりすごせるかもしれない。
「どこだぁ、どこに居やがる!」
聞こえるのは樹を蹴る鈍い音。頭を下げながらも瞳は開けて視界を確保する。奴はこの近くを探しまわっているみたいだ。バレたら終わり……緊張感に苛まれながら、今のうちに連絡をしようと胸元を探る。
「――――!?」
携帯や財布を入れていたはずの場所には、何も無かった。気づけば猫のぬいぐるみもどこかに行ってしまったようだ。逃げる途中で落としてしまったんだろうか。これで……完全に孤立してしまった。助けを呼べないという事実がさらなる恐怖に変わって身体を支配する。
不味い、と思っても遅かった。殺される、痛いのはやだ、怖い、怖いよ、助けて。必死で押し込めてい感情が心の奥から溢れ出す。少しでも気配を殺すように口元を抑える。
何で僕がこんな目に遭うんだ、何で僕ばっかり目の敵にされるんだ。理不尽への怒りが抑えきれず、口を覆う手の甲に涙が伝った。
「ただじゃおかねぇぞクソガキが! 絶対許さねぇ!
ズタズタにしてやる、二度とまともに歩けねぇようにしてやるからなぁ!!」
暗闇の中からたたきつけられる罵声を聞きたくなくて耳を塞ぐ。早くどこかに行ってほしいのに、アイツはしつこく樹の周りを一つ一つ確認しているようだった。ほんの少しだけ顔を出して様子を伺うと、耳障りな声で笑いながら樹の幹をナイフで何度も切りつける奴の背中が見えた。
息を殺していると、さんざん暴れていた奴は急に静かになって何かしているようだった。そろそろ我に返って立ち去ってくれるなら、見なかったことにしてもいい、だから、お願いだから早くどこかに行ってほしい。
「はぁ、はぁ……く、くはは、ヒャハハ、どぉーこかなー?」
さっきまでの怒りに満ちた声が、急に楽しそうなものへと変わった。ぞわり、背中に鳥肌が立つような嫌な気配が襲ってくる。
「ひひ、ひぃ、サンちゃんだっけかぁ、どこに隠れてるのかナァー?
でーておいでー、おにーさんとあーそぼーぜー、ギャハハハ!」
一体、あの一瞬で何があったんだ。今までも十分すぎるほど狂気的だったのに、今度の笑いはその比じゃないほどに狂気を感じる。アイツは笑いながらもすぐに見つけ出すより隠れている僕を嬲る方向に趣旨変えをしたらしい。……悔しいことに効果は抜群だ、身体の震えが止まらない。
「ここかなー? それともォこぉっちかなぁー?」
声がどんどん近づいてくる、逃げなきゃいけないのに立ち上がることも出来ない。たすけて、だれか助けてよ。
「ひ、ひひぃ、見ぃ付けたぁー!」
間近で聞こえた声に顔を上げる。焦点の合わない目でヨダレを垂らしながらニタニタと笑う奴の顔は……バケモノという言葉が似合うような雰囲気をまとっていた。
◇
「どぉーしたのかなァー、震えちゃってェ……ギャハハ」
何が楽しいのか、ナイフの歯の背をガリガリと噛みながら笑い声をあげる奴の顔には、さっきまで少しは残っていた正気の色は微塵も見当たらなかった。説得しようとか命乞いしようかとか、そんな気持ちを根本からへし折るようなその形相に、心が軋む音が聞こえた。
「怖いでちゅかー? ひっひひひひ」
じわり、とおしりの辺りに温かく濡れた感触が広がる、でも今は気にしてなんていられない。動けないまま固まっていると髪の毛を掴まれて樹の影から引きずりだされる。あまりの痛みに涙がこぼれた。
「なぁ、どんな気分だぁ? 教えてくれよぉ……」
奴はナイフの刃でぺちり、ぺちりと頬を叩いてくる。答えたくても声が出ないから答えられないし、仮に声が出ても恐怖で震えて何も言えないだろう。せめてもの矜持の為に心のなかでだけ強がって冷静な振りをしているけど、それも限界に近い。
「なぁ、なぁ? 答えろよぉ、答えろっつってんだろうがぁ!!」
急に身体を離した奴がニタニタと笑いながら、まるでボールを蹴るような体勢で脚を振りかぶる。連鎖的にゲームの中で奴が何をしたか思い出せば何を考えているのか、手に取るように解る。警鐘が頭の中で響き渡った。
顔を狙って放たれた蹴りを、咄嗟に顔を横にずらして避ける。ゲームで何度か食らったおかげでタイミングを解っていたから出来た芸当だ。でも避けれたのは偶然というか奇跡に近い、二度同じことをやろうとしても無理だろう。
心臓が破裂しそうだった、この体はゲームの中と違って決して僕のイメージ通りになんて動いてくれない。
「ぐぎぇ」
その一撃にどれだけ力を込めていたのか、奴はバランスを崩して背中から地面に倒れ込む。迫り出した木の根に打ち付けるようにだ、あの倒れ方なら痛みで暫くは動けないかもしれない。今なら逃げれるかも、その予感が恐怖で屈しかけた心をもう一度抱き起こしてくれた。
なりふり構っていられない、四つん這いでその場を這い出すと、適当な樹を支えにして立ち上がる。震える足に喝を入れて、何とか自分の力だけで立ち上がった時、また背後から声がした。
「どこへいくんだぁ?」
奴は、何事もなかったかのように立ち上がっていた……背中から思いっきり地面に倒れ込んだんだ、しかも木の根ででこぼこになっている場所に。普通ならこの短時間で何事も無かったみたいに動けるはずもない、今のやつは絶対にどこかおかしい。痛みなんて感じていないかのようにヘラヘラと焦点の合わない目で笑って……。
そこまで考えて、奴が可笑しくなった理由に心当たりが出来た。どこでどうやって手に入れたのかは解らないけど、ソレに手を出すまでに追い詰められていたのだろうか。だとしたら正気を失っているのも納得だ。
「こっちにこいよぉぉぉ」
今や僕の方がしっかりとした足取りで走れるのに対して奴はどこか覚束ない、何度も転んで身体を打ち付けては、何事も無かったように立ち上がってへらへら笑いながら僕を追いかけてくる。まるでパニック映画に出てくるモンスターだ。普通に追いかけられるより遥かに怖い。
足を止めそうになる度に思い出すのは先ほどの手加減なしの蹴り、まともに食らっていたら顔は潰れていたし、仮に腕で受けてたとしても骨が折れていたかもしれない。完全に狂ったアイツに捕まったら最後、どんな目に遭うか解らないと、自分に発破をかけ続ける。
「――っ、――ゅー」
息が切れそうになる、胸が苦しい、それでも走ることをやめるわけには行かない。幸いにも相手は判断力をなくしている、このまま人のいる場所にまで逃げ切れば、なんとかなる。遠くに見えていた灯りはいつの間にか大分近くなっていた。
後もうちょっと、あと少しだけ頑張れば。それだけを励みにして脚を動かす。だけど現実は甘くなくて、脚が縺れて地面に倒れてしまう。痛みをこらえて背後を見ると、奴はボロボロになりながらも確実にこちらに近付いて来ていた。
まだ間に合うと立ち上がろうとして、脚に鋭い痛みが走る。よりにもよって挫いたみたいだった、灯りのある場所はまだ遠い。奴は僕を追い詰めるようにわざとゆっくり近づいてくる。
「――――!!」
瞬間、声が聞こえた。聞きなれた親友の声が。
「――日向! どこだ!!」
「日向ちゃーん!」
他にも、友人達の声。みんなが探しに来てくれたみたいだ、恐怖とは別の勘定が胸にあふれて返事を返したい、助けてと叫びたい、だけどどれだけ振り絞っても声は出てくれない。
「日向! 返事をしてくれ!」
声の聞こえる場所は遠くない、こちらから場所を教えればすぐに来てくれる。だけど、そのための声が出てくれない。
「――――!」
口を動かし、喉を震わせて何度叫ぼうとしても、声は引っ込む。怪物は着実に距離を詰めてくる。この一瞬だけでいい、お願いだから出て……!
「――――」
「日向! 頼む、音を鳴らすだけでもいいから!」
心のなかで、口の中で、叫ぶように繰り返す。
「――――っ」
たった一言、だけでいいから!
「――――えい、じっ!!」
自分の口から飛び出た、甲高い悲鳴に驚いた。ずっと出なかった言葉が声が、やっと出てくれた。
「ひひっ」
ナイフを振り上げた体勢でニタニタと笑っていた怪物が、横合いから飛び込んできた影に突き飛ばされる。見慣れているはずの背中はいつもよりとても大きく見えた。もう大丈夫だって思ったら、涙が止まらなくなる。
「はぁ、はぁ、日向、大丈夫か!?
みんな、こっちにいたぞ!!」
勢い良く吹き飛ばされたせいか、樹にたたきつけられて動きを止めた怪物。それを睨んだまま目を離さずに栄司が表情を歪めていた。怖くて心細くて、涙を止めることも出来ずに手を伸ばす。
「馬鹿野郎! 何で一人になった!」
だけど怒鳴りつけられて、伸ばしかけた体勢で手をとめてしまう。ごめんなさいと口を開くけど、もう声は出てくれなかった。僕はやっぱり馬鹿だ、危険だと散々言われていたのに、だから出来るだけ誰かが一緒にいてくれたのに、大丈夫だと楽観的に考えて、自分から離れるような真似をして迷惑をかけてしまった。ごめんなさい、ごめんなさい。
「日向ちゃん!!」
「大丈夫!?」
森の奥から息を切らせて、メイリとミィが飛び込んでくる。二人は泣きじゃくる僕を見つけるなり、強く抱きしめてきた。
「怖かったね……もう大丈夫だから」
「警察すぐに呼ぶから、安心してね?
……あ、メイリ、私ちょっとハンカチ濡らして来るから」
「うん、お願い」
ぬくもりが暖かくて、まだ身体が震えていることを自覚した。今度こそ我慢できずに抱き返したまま泣きじゃくる。小さな子供のように涙を流しながら泣きじゃくっている間、メイリはただ大丈夫だよと繰り返しながら、僕の背中を撫でてくれていた。
◇
「葛木らしき奴を見つけてまさかと思っていたんだが……な」
泣くだけ泣いてやっと落ち着いた後。メイリとミィ、すあまさんが壁を作りながら僕の身繕いを手伝ってくれている向こう側で、男性三人はどこから持ってきたのか紐らしきもので葛木の身体を縛っているところだった。
奴は僕を追いかけていた時の狂気が嘘のように大人しい、気を失っているからだろうか。正常な判断力はとっくに失っているだろうし、このまま静かにしていてくれると嬉しい。
「ごめんね、着替えを持ってきてあげれたらよかったんだけど……」
気にしないでほしいと首を横に振る。三人とも酷い有様の僕に対して何も言わず、身体を拭いたり土を払ったりしてくれていた。人任せで情けなく思うが、多少落ち着いてはいてもまだ体の震えが止まらないのでお願いしている。
「しっかしとんでもない奴だな、コイツは……逆恨みにもほどがあるだろ」
「警察は今向かってるそうだ、10分もすれば来るだろう、
……凶器を素手で触るな牧田」
「おっと」
地面に落ちていたナイフを拾おうとしたギルマスを伊吹が咎めている。視線をずらして栄司を見ると……彼は不機嫌そうに僕を見ていた。確かに心配かけたのは悪かったけど……胸が痛くなる。
「何で一人で行動したんだ?」
腕を組んだまま黙っていた栄司が口を開く。厳しい口調に引っ込んだはずの涙がじわりと浮き上がる。メイリ達が拾ってきてくれていた携帯で返事を打つ。
『ちょっとだけ、ひとりきりになりたかったから』
涙で滲んで携帯の画面が見難いけど、なんとか打てた。だけどそれを見た栄司は一気に不機嫌さを増した。
「だったら一言いえばいいだろ!
俺達がどれだけ心配したと思ってるんだ!」
正論過ぎてもう何も言えなかった。たった一言、短時間のワガママを許してくれないほど狭量じゃないのは少し考えれば解ることなのに、勝手な想像で人払いした結果がこれなのだから、ただただ申し訳なくて謝り続ける。
『ごめんなさい』
「栄司くん、言い過ぎだよ!」
「日向ちゃんは怖い思いしたばかりなのよ!?」
途中でミィとメイリが間に入ってくれたおかげで、栄司はもうそれ以上何も言ってこなかった。彼が怒っている理由は僕を子供扱いしないで対等に見てくれているからだって、本気で心配しているからだって解っている。だけど……。
「……さ、ちょっとは綺麗になったかな。
浴衣は、残念だったけど……無事で良かった」
すあまさんがハンカチをしまうと、気持ちを切り替えるように手を叩いて言った。浴衣はあちこち破けて汚れて、もう捨てるしかなさそうだった。結構お気に入りだったのに……あぁ、涙が止まらない。
「しょうがないよ……その、また一緒に買いに行こうね?」
「うん、同じのがあるかもしれないし、もっと可愛いのもあるかもねー」
慰めの言葉に頷き袖で涙を拭うと、改めて栄司を見る。ついさっきよりは落ち着いたみたいで、ちょっとバツが悪そうに目を逸らした彼はぽつりと漏らした。
「……怒鳴って悪かった」
悪いのは僕だ、怒られて当然だったと言う意思を伝える為に首を強めに左右に振る。栄司が怒ったのは当然だし、悪かったのは僕だ。何よりも……森のなかを全力で走ったんだろう、シャツは枝で引っ掛けたのか所々がほつれていて、汗だくになっているのは休まず走り続けていたからだろう。
そんなに必死で探してくれた栄司には、僕を怒る資格がある。文句を言うのなんてお門違いだし、そこまで馬鹿にはなりたくない。
「……とにかく、無事で良かった」
肩の力を抜いた栄司がやっと微笑んだのを見て、やっと涙が止まってくれた。本当は抱きしめて欲しかったけど贅沢は言わない、言える立場にない。この安堵はきっと、栄司に嫌われなくて済んだからだ。
「あ、おまわりさんこっちですこっち!」
何かに気付いたすあまさんが手を振り始めた、その方向を見ていると向こうから懐中電灯を携えた紺色の制服の二人組がこちらに向かってきていた。これでやっと……。
そう、気が緩んだ瞬間だった。
「――――ぁぁぁぁあああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
「なっ!?」
絶叫をあげて、おとなしくしていた葛木が無理矢理立ち上がった、咄嗟にギルマスと伊吹が抑えようとしたが、腕を掴まれたまま強引に突進してくる。向かってくる先は……僕だった。
「うわっ! しまっ……」
「くそっ、暴れるな! くっ!?」
ゴキリと鈍い音が奴の身体からした、左腕がだらりと力なく垂れ下がる。驚いて手を離してしまったギルマスとまだ身体を掴んだままの伊吹を振りほどき、関節が外れたせいか拘束していた紐まで解けてしまい。獣のように四つん這いになりながら銀色に光る凶器を手にして、地面を這うように一直線に、まるで他の誰も目にはいらないかのように僕を狙って迫ってくる。
全てがスローモーションに見えた、白刃が迫ると同時に今までの人生が脳裏を通り過ぎて行く。あぁ、何だか前に感じたことがある、これは階段から転げ落ちた時だっけ。僕はこのまま殺されてしまうのだろうか。
「日向ちゃん!!」
「いやぁぁぁぁ!!」
嫌だ、怖い、諦めたくない、死にたくない。逃げたくてもいつの間にか尻もちをついていた。もうだめだ……目を瞑る。
「ぐっ、ああああぁぁ!!」
「きひっ!」
だけど衝撃の代わりに感じたのは、怒声と何かが殴られる音。目を開けると、立ちはだかっていた栄司の背中越しに、慌てて走ってきた警察官が葛木を抑えつけているのが見えた。
た、助かっ……た?
「……」
とすっと軽い音を立てて栄司が膝をつく。また助けられた、ありがとうと感謝を伝えたくて背中に手を伸ばす。その指先が届く前に、栄司はゆっくりと前のめりに倒れた。
「栄司!!」
「救急車! はやく!」
「があああああああ゛あ゛あ゛あ゛」
「大人しくしろ!!」
「至急応援を……」
叫び声がどこか遠くて聞こえる。何でこんな所で寝てるんだろう、疲れたにしては大げさすぎる。隣りに座って背中を揺すっていると、生暖かい物が膝に触れた。暗くてよく見えなくて、手を当てたらソレがぬるりとした感触と共に指先に絡みついた。
懐中電灯が揺れて、光が一瞬だけ僕の手を、真っ赤な液体でそまった指先を照らした。視界の端の方で、同じ色の液体で濡れたナイフが転がっている。
「――――ぁ」
えいじ、なんで、こんなところでねてるの、なつだからって、かぜひくよ。だからおきて、かえろう、もうおわったから、あいつはつかまったから、ごはんはぼくがつくるから、たすけてくれたおれいに、すきなものつくってあげるから。
ゆさゆさと、せなかをゆらしてもえいじはこたえてくれない。おきて、おきてよ、おねがいだから。
「栄司くん!」
「栄司、しっかりしろ!」
みんなしんぱいしてるから、だから、おねがい……おきて、なんでもないって、いってよ。




