Contact.6-1 お母さんは心配性
今回はちょっぴりシリアス
掲示板でスク水幼女疾走事件なんて名付けられた隠しボス討伐から翌日、僕はゲームにログインする事も億劫で心配してくれた友人たちにメールだけを返して、家でごろごろしていた。
熱くて外に出るのも億劫で、動画サイトを見たりメッセンジャーで伊吹や栄司と話したりしつつ時間を潰していると、夕方も間近といった頃に突然単身赴任中の父と、仕事に行っていたはずの母が帰って来た。
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.06-1 『お母さんは心配性』
何故かリビングに呼び出されたので行ってみると、少し硬い表情の両親が出迎えてくれた。促されるままにテーブルを挟んで向かい合って座ると、父が真剣な表情で口を開いた。
「日向……まずは落ち着いて聞いてほしい。
先日、同一人物かどうかを調べるDNA鑑定を行なってもらったんだ」
一瞬、父が何を言っているのか解らなかった、現実逃避していたのかもしれない。すっかり、両親にも信じてもらっていると思い込んでいた。酷く荒い呼吸音が耳を突く、それが一体どこから発せられているのかも解らないほど、僕は混乱していた。
「――……ぁ」
呻くような、言語になっていない高い音が口から漏れる。慌ててメモを探すと、何時の間にか近づいていたのか、横から母が紙とペンを差し出してくれた、覚束ない指先で文字を書き込む、酷く揺れて文字が書きにくい。
『けっかは?』
たった4文字、それだけを書いて父に見せる事が、今の僕にとって途方も無い労力が必要だった。僕の言葉に反応して、父が何枚かの書類を取り出してテーブルの上に置く。怖い、ガチガチと歯がぶつかって不快な音を口腔内で響かせる。
室内は冷房が効いているのに、じっとりとした嫌な汗が全身から噴き出している。怖い、見るのが怖い。怖い、知るのが怖い。それでも身体は勝手に動き、視線を書類へと向けてしまう。消えてしまいそうな意識の片隅で、誰かが肩を支えてくれているのが解った。
『比較対象:木崎 日向
該当DNAの保有者が、対象と同一人物である可能性:否定』
「日向!?」
読み取れたのはその一文だけだった。僅かな一瞬だけ視界が暗くなり、目の前のテーブルが天井に変わっていた。楕円型のカバーに覆われた蛍光灯の明かりが酷く滲んで眩しく見える。その中心に光を遮るようにして覗きこむ、心配そうな母の顔が見えた。
起き上がろうとしても力が入らない、何もかも壊れてしまった音がした。父も慌てた様子でこちらにやってきているようだ。何時の間にか、自分の息子を名乗る異物をすっかり信じて家に招き入れてしまった両親の気持ちは如何ほどだろうか。喉を焼く痛みと共に胃の内容物がせり上がってくる、涙が溢れて前が見えない。
「……す、すまない日向、だがこちらも見てほしい」
差し出してきた父の手には、僕が見たものとは別の書類があった。強引に袖で涙を拭い、少し開けた視界に映るのは『親子鑑定』の文字だった。再び涙が瞼の中を埋め尽くす、僕が木崎日向であることを否定された以上、結果なんて分かり切っている。
心の何処かでは、本当は記憶を持っているだけの別の人間になってしまったのではないかと思っていた。この科学全盛の世の中で、僕の身に起きた現象が真実であるなどと誰が保証してくれるのだろうか。普通に考えれば僕の記憶を持った別人と言われた方がまだ納得できる。
怖かった、失ってしまうのが。怖かった、家族にまで異物として扱われるのが。怖かった、友人たちが離れていくのが。思い浮かぶのはいつもの呆れた顔でもなく、苦笑でもなく、悪戯を企む悪ガキのような顔でもなく、一切の興味を失った冷たい顔の栄司。
『俺を騙してたんだな』
そんな幻聴が聞こえたような気がして、ついに涙を堪え切れなくなった。
「――……」
言葉にならない声で嗚咽を繰り返す、慌てた母が背中を撫でてくれるのを感じた。何故だろう、僕が息子でないことは科学の名の下に証明されたというのに、何故この人達は僕に優しくするんだろう。いっそ罵ってくれた方がいい、いっそ追い出してくれたほうがいい。中途半端な優しさは残酷だ、諦めようとしても、甘い僕は期待してしまう。
「とにかく落ち着きなさい、順序が悪かったな……、
こちらの書類は親子鑑定を頼んだ物なんだが、結果は肯定だ。
お前は間違いなく俺と梢の子供なんだよ」
耳に届いた言葉を何度も反芻したことで、少しだけ心が落ち着いた。父の言葉をもう一度吟味する。僕は木崎日向でないことはDNA的に証明された。と言う事は芋づる式に僕と両親が血の繋がった親子でないことも証明されたはずなのだ。でも親子関係は肯定されているとはどういう事なんだろう?
内心の恐れを噛み殺しながら書類を読み進めると、そこには確かに僕と母、父との親子関係を肯定する結果が記載されていた。ついでに姉との血縁関係を肯定する書類もある。どういう事かと父に視線を向ける。
「私も最初は驚いたんだが、親子鑑定の結果を見て、何となく納得した。
勿論父さんは浮気なんてしたこと無いし、
母さんも産んだ子供は二人だけだ、それは間違いない」
母もその言葉に力強く頷く、母は日本人らしい容姿で黒髪だ。ハーフにしても真っ白な髪に翡翠色の眼の子供なんてそうそう産めるものじゃない。そもそも今の僕は白髪ではあるがアルビノではないので地球にいる人間のカラーリングとしては早々ありえない。
「それと、これを見てほしい」
更に追加で出てきた書類に載っていたのは、"今の僕"と木崎日向が兄妹関係であることを肯定する内容だった。推測される情報としては、科学的に僕と木崎日向が同一人物ではないと証明されたが、それと同時に僕が木崎日向と同一人物だと認識せざるを得ない証拠も出てきてしまった。
母が姉さんと僕以外を産んだ記憶も記録もない以上、母と父、姉と木崎日向全員と確実に血縁関係である僕の存在は明らかにオカシイ。それが回りまわって、僕自身が木崎日向本人で、僕の供述した通りの超常現象によって女の子になってしまった、というのが一番しっくり来る事になる。
勿論技術的にはクローンだとか、借腹出産だとか疑える部分もあるが、そう簡単に出来る事ではないし誰かがそれを行う理由もない。何より先程も考えたとおり、三代先まで遡っても両者とも純日本人である父さんと母さんの子供である僕が、こんな容姿になることは有り得ない。
最終的に父さんと母さんは息子の言葉を信じる方向で落ち着いたと、しっかりと僕の眼を見て言った。今度こそ本当に力が抜けて母の腕の中に倒れながら、心配する両親に最後の力を振り絞って書いたメモを見せる。
『せめて、さきにDNAかんてぃするって、いってはしかった』
改めて見ればひらがなすら書き間違えるという酷い状態だったものの、どうやら僕の言いたいことはちゃんと伝わってくれたらしく、ぐったりとしている僕に両親は暫く平謝りを続けていた。
因みに最新の鑑定法では髪の毛でもかなりの精度で調べることが出来るのだそうだ、前の僕のはへその緒から、今の僕のは髪の毛からサンプルを用意したらしい。予想していなかった分、採取されてることに全く気づいていなかった。
取り敢えず、知っていて協力していたであろう姉には怒りのメールを送信しておいた。
◇
姉からは『父さんたちを本当の意味で納得させたり、戸籍を得るために必要だった云々』と謝罪と言い訳のメールが届いたので即座に『( ・ω・)、ペッ』と返しておいたら5分に一回くらいのペースで『ごめんなさい』『お姉ちゃんを嫌いにならないで』とメールが届くようになった。
なので今度の姉の休みに、ファンシーなキャラクター商売で営業し続けて数十年の老舗企業、サーリオ直営のアミューズメント施設へ連れて行ってくれる事を条件に許してあげた。こう、ずっと興味はあったけど男だし恥ずかしくていけなかったのだ。
そのことで喜んでいると何故か父が微妙な眼で見ていたような気がしたのは、きっと気のせいだろう。
そんな一幕があった休憩を間に挟み、やっと落ち着いたものの腰が抜けて動けなくなってしまい、ソファの背もたれに深く埋もれた僕に父が聞いた。
「それで、お前の戸籍についてなんだが、
このまま行けば、今まで出生が届け出されて居なかったとして私達の、
……三人目の子供として登録することになると思う。
お前はどうしたい?」
息が、詰まった。
『その場合、"木崎日向"はどうなるの?』
恐る恐る聞いてみると、父はそっと目を伏せる。
「行方不明……最終的には死亡扱いになるだろう」
死亡扱い……その言葉を反芻しながら、記憶の片隅に押し込めていた栄司や伊吹が調べてくれた情報を思い出す。栄司が教えてくれた、いつか聞いた猫の怪談の元になった話。
確かに精神病院に入院してしまった生徒は居たらしい、その生徒が「俺は人を殺した」「猫が、猫が」とうわ言のように呟いていたというのも事実で、怪談さんも確認していたという。
伊吹が教えてくれたのは、この近辺に昔からあるという伝承の話。どこから出始めたのかわからないが、『身代わり石』と呼ばれる話があったらしい。正確な記録として残っているものではなく、一部で細々と語り継がれているという口伝を元にしたお伽話があるようだった。
話の内容はこうだ。ある村に母と子の二人で暮らす親子が居て、ある日、子供が大怪我をしてしまった。母親にとっては自分の子が全てで、仮に自分の命を投げ売ってでも助けたかった。必死で看病する母は、村のはずれの小高い丘には不思議な力を持つ大きな石があって、心から誰かを助けたいと願えば、願った人物を身代わりにしてその誰かを助けてくれるという、その石に頼ることを思いついた。
当時にしても眉唾の話だが、他に縋るものがなかった母親は遮二無二駆けて、見付けた身代わり石に祈り続けた。毎日朝と夜に身代わり石に祈りに行く母親を、他の村人は哀れに見守っていた。
ところがある日、朝に出かけた母親が夜になっても帰って来ない。気になった村人の一人が子供の様子を見に行くと、あれほどボロボロで死にかけていた子供がピンピンして起きていた。驚いた村人だったが、子供に母親の行方を聞かれて言葉に詰まる。
まさかと思い若者数人が身代わり石を見に行くと、母親が怪我をした時の子供と同じ、無残な姿で死んでいた……。
ここまでならちょっとホラーなだけの民話だけど、伊吹はいくつかある話のうち、どうしても気になる後日談を伝承に詳しいある老人から聞いたと言った。そのうちの一つに息子だったはずの子供が、気づけば母親に似た女の子になっていたという話がある。
そして、俗説の一つに母親が身代わり石に通い始めた頃には、既に子供は亡くなっていたという話があった。
身代わり石は、文字通り。願った者の"身を代わりにして"別の誰かを助けるもの。そこで話を止めた伊吹はそれ以上何も言わなかった。僕がもうそのことに触れなくなった事に関しても何も言わなかった。
言われなくなって解る、全部、辻褄が合ってしまうのだから。そんな力を持った石が歴史の闇に埋もれた理由、あの神社は何かを封印するために作られたという話。
――あれはきっと、命のやり取りをする為のものなんだろう。
口にするのが怖かった。認めて受け入れるしかなくなってしまうから。
『もう少し、考えさせて』
「あぁ、急がなくていい、
流石にずっとこのままという訳にはいかないが、
今日明日中に答えを出す必要はないからな?」
僅かな可能性に縋るか、現状を受け入れて進むか。それを判断するにはもう少しだけ時間が欲しかった。
部屋で沈黙が続く中、話すべきことを終えたのか、空気を変えるように父が言った「今日はすき焼きにしよう」という言葉に、一体何年前の風習だと母と共に自然と笑いが漏れた。
不思議なものだと思う。たったそれだけなのに、どちらを選んでも大丈夫だって優しく背中を押されたような気がするのだから。
◇
すき焼きはいいけど材料が無いと言う母と一緒に父を置いて近所のスーパーへ買い物へ行くと、偶然にも栄司と伊吹のコンビと出会った。母に軽く挨拶をしてから、なぜか栄司が心配そうに僕を見る。
「大丈夫なのか?」
何がと聞くと自覚なしに結構ヒドイ顔をしていたらしい、母は事情が解っているので敢えて触れないようにしていたようだけど。
「いや、やっぱりショックだったのかと思ってな……」
どうやら同じスーパーが目的地だという2人と歩きながら話をしているうちに、栄司は何か誤解をしている事に気付く。いや、確かにアレはショックだったし、その後にスク水幼女、スク水幼女と騒がれたらしい事もダメージは大きかったけど、『僕の現状はそれが原因じゃねー!』とそれとなく伝えた。
理解は得られなかったが、後で話すという事で納得してもらい何故か一緒に買い物をすることになった。なんでも栄司の家の両親が旅行に出掛けて暫く留守だから、折角なので伊吹を誘って2人で肉肉肉の男飯と洒落込もうとしていたらしい。
「木崎さんとこはすき焼きですか、羨ましいです」
前は僕にも声がかかったのにと、ハブられた事にむくれていると、何故か世間話をしている栄司に向かって母さんが笑顔で言った。
「あら、だったら折角だし一緒に食べない?
日向も栄司君たちが一緒なら喜ぶでしょうし」
「え、でも……いいんですか?」
「いいのよ、子供が遠慮なんてするものじゃないわ、
いつも日向がお世話になってるし、その御礼もあるんだから」
「おぉぉ、御馳走になります!」
「いや……んん、お言葉に甘えさせて頂きます」
急展開にぽかんとしている僕を尻目に、あっさりと話が決まってしまった。いや別に家族の団らんに拘る訳じゃないけど、栄司は普通だったけど伊吹の表情が一瞬複雑な感じで固まったのが気になった。
『どうしたのさ?』
「……いや、何でもない、考えすぎただけだ」
結局、こっそりと聞いても伊吹は言葉を濁すだけで答えてくれなかったが。
「――」
母さんが目の前で霜降りの牛肉をぽいぽいと籠に放り込んでいく。割りとお高めのお肉様を容赦なく買い込む母に色々心配になりつつも、お父さんのへそくり使うから大丈夫という言葉に僕は涙を止められなかった。
一応許可は得ているらしいけど「可愛い息子を元気づける為って言ったら一発だったわ」という発言からして、父さんも涙を止められなかった事は容易に知れた。何も出来ない僕だけど、見てくれは良くなったのだからせめて晩酌くらいはしてあげようと思う。
「あ、俺達も少しは出しますので……」
流石に放り込まれていく肉の質と量に恐れをなしたか、腹立たしいほど健やかに育っている健康系男児が頬をひくつかせてそんな提案をする。まぁ僕も同じ状況なら同じ提案をする。これで素直に喜べるほど無邪気でも残酷でもない。
「いいのよ、遠慮なんてしなくても」
完全にお母さんモードになってる母は久々に遊びに来る息子の親友達に浮かれているようだった、きっと僕が元気に学校に通っていた頃を思い出しているのだろうと考えると、止められない。
『良かったら、代わりにお酒でも買って行ってあげて』
「俺らは未成年だっつの」
気持ちを同じくする僕はせめて別ルートでお父さん宛てに何かお土産を用意してもらおうとしたが、法律の壁によって阻まれることとなった。あぁ、僕にできることは何もない……。
◇
帰り道では、小声で親戚のやってる酒屋に寄ると言い残して伊吹が一度離れて後で合流することになった。これで多少は自分に言い訳が立つと胸を撫で下ろす栄司を見ながら苦笑して夜の匂いがしはじめた帰り道を歩いて行く。
「……何かあったのかしら?」
道中、赤い回転灯を光らせた警察の車が何台も止まっているのが見えた。気になりながらも、栄司に荷物を全て持たせている手前立ち止まるのもなんだか悪い気がして、横を通り過ぎようとしたら野次馬らしき人たちがちらほらと僕に視線を向けてきた。
……な、何?
悪意は感じないけど、視線が集まるというのはどうにも落ち着かない、迷った末に母の背中に隠れると、視線が今度は母に集中する。
何事かと戸惑う僕らだったが、その中に母の知り合いらしき人がいたようで、群衆から抜け出すと声をかけてきた。
「あら、木崎さん……そちらのお子さんは?」
「……えぇ、親戚の子でして、うちで預かっているんですよ。
ちょっとお話聞いてから帰るから、栄司君と一緒に先に帰れる?」
子供扱いに不満がなくもないが、余計なことして余計な注目を集めるのも嫌なので素直に頷くと栄司の傍へ行く。今度は野次馬の視線が栄司に集まって、彼は僅かに戦いた。
「お、同じだ……俺をロリコンと蔑む奴等と同じ眼だ……」
途端に謎の被害妄想を発症した栄司の手を引いてさっさと野次馬エリアから抜け出す。暗くなる前にさっさと家に帰ってしまいたかった。
栄司が被害妄想から復帰するまでに結構な時間がかかったせいで、伊吹のほうが先に合流してしまった。父さんにはメールで2人を連れていくと伝えて了承を貰っている。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
「おぉ、栄司君に伊吹君、いらっしゃい」
玄関を開けると笑顔の父が出迎えてくれた。伊吹が自分たちからの土産と言ってちょっとお高めのブランデーを渡すと父が喜んだ表情を見せた。
「気を使わせてすまないね、有難く飲ませて頂くよ」
「はい、こちらこそ御馳走になります」
「御馳走になります――っと?」
和やかな空気で話す3人を見て、やっぱり昔とは違うんだなとちょっと感傷的な気持ちを抱きながらも靴を脱ぎ、栄司の手を引いてキッチンへ向かう。栄司の顔を見上げながら袋と、次いでテーブルを指差す。
「ん、あぁそこに置けばいいんだな、冷蔵庫に入れるものはあるか?」
『アイスは下の冷凍庫に、ジュースとお肉は冷蔵庫にお願い』
言われたとおりに冷やしておく必要があるものを冷蔵庫に入れる栄司を横目に、僕はこの姿がバレてから買ってもらったお立ち台を台所にセットして手を洗う。きちんと綺麗にしたら包丁とまな板、受け皿を用意して、袋から野菜を取り出す。
しいたけは石づきごと茎を落としてから傘の表に十字の切れ込みを入れて、白菜とネギは適当なサイズに切り分け、豆腐は四角く一口大に切り揃えて、熱したフライパンで軽く焼き目を付けておく。白滝はそのままでいいとして、あとは春菊を洗って……。
「手際いいなぁ……」
まぁ、普段から手伝いはしているからね。ちょっと胸を張りながら5人分の具材を用意してはそれぞれ受け皿に並べて置いていく。後はすき焼き用の鍋とコンロを取り出して……。
「あぁ、それは俺がやるよ……っと」
上にある棚から背伸びしつつ、おっかなびっくりコンロと鍋を取り出している所で横から手を出されてしまう、まぁちょっと怖かったからむしろ助かったと考えよう。割り下はお手軽に瓶入りのものをベースに、調味料を足して調整する。
空腹を堪えて行なっていた下拵えが全て終わる頃、大分遅れて複雑そうな顔をした母が帰宅した。
◇
「近所でね、プールから帰る途中の女の子が変質者に悪戯される事件があったんですって」
我が家のすき焼きは所謂関東風、野菜や白滝を入れて割り下で煮込む作り方だ。ぐつぐつと煮える鍋からする香ばしい匂いにお腹を擦り、器に落とした卵を溶いていると突然母がそんな事を言い始めた。
「幸い、その、すぐに近所の人が見付けたから大事はなかったみたいなんだけど」
抵抗できないような小さな子に手を出すなんて許されない行為だと思う。ギルマスやメイリは変態だが紳士淑女を自称しているだけあって、そういった事件を起こす連中に対しては強い怒りを覚えるようだ。
僕へのセクハラはどうなのかと聞いてみたが、仲良くなった女の子にお願いしてるだけだと目を逸らされ、更に突っ込んでみたら「あ、さ、サンちゃんって16歳なんでしょ? じゃあ問題ないよね、うん!」と僕の年齢主張を逆手にとられる結果になっている。
「それで、日向」
変態どもに顔をしかめているところで名前を呼ばれ、反射的に顔を上げる。何故か全員がこちらを見ていた。
「お父さんは明日には赴任先に戻るし、
私も明日から3日ほど短期で出張しなきゃいけなくなっちゃったのよ」
ほんとうに困ったと言いたげな顔で言う母、最近大きなプロジェクトが動いてるとかで忙しいようで、それにともなって行かなければいけない出張なのだろう。3日くらいならこちらとしては特に問題もない。
『うん、分かった、そのくらいなら一人でも大丈夫だから、気をつけて行って来て』
いつもどおり携帯で伝えると、今度はあからさまにため息を吐かれた。暫く逡巡した様子だった母は父を見て、何やら目と目で会話していた。
「うーん……ねぇ栄司君、伊吹君、良かったら明日から泊まって行ってくれないかしら?
この子まだ自覚ないみたいだし、一緒にいてくれると安心なんだけど……」
……はい?
「俺は家族が留守の間家事をしなければいけないので、難しいですね……」
誰よりも先に何故か伊吹が先制した、いや、こいつの両親も帰りが遅くて小学生くらいから家事を手伝っていたのは知ってるのだけど、妙に慌てているのが気になる。ついでに何故か父さんも厳しい顔を浮かべた。
「……あの、俺もちょっと外せない」
「お前は今日から一週間は家で一人きり、俺は自由だって叫んで居ただろう?」
……初耳情報が続々なのだけど、こいつら意図的に僕を話題から省いていやがったな? 裏切り者めと2人を睨む僕、裏切り者めと伊吹を睨む栄司。この場で最も敵意を集めている1人だけが涼しい顔だ。
「そう……ねぇ、栄司君……栄司君なら安心できるわ、
私が帰るまででいいから、うちに泊まって行ってあげてくれないかしら?」
「う……ぐ……」
物心ついたばかりの頃から家族ぐるみで付き合いがあるせいか、栄司は自分の親と同じくらい僕の母に弱い。というか、母さんは僕のことがそこまで心配なのだろうか、これでも中身は16歳の男なのだから、早々変なことにはならないと思うのだけどな。
「ね、お願い……心配なのよ」
「わ、かり……まし、た」
ぐつぐつと鍋の煮える音だけが支配する空間の中で、母の真剣な顔に押されるように承諾の返事をしてしまった栄司は同時にテーブルに突っ伏するように項垂れてしまった。行儀が悪いなぁ。
「良かったわ、ありがとうね栄司君」
「いえ、いいんです……ははは」
乾いた笑いを浮かべる栄司だが、そんなにうちに泊まるのが嫌なんだろうか? 子供の頃は普通にお互いの家に泊まりに行ったりしてたのに、ここまで露骨に嫌がられるとかなり複雑な気持ちになる。
なんだかやり場の無い不満を押し付けるように、昨日のアレをそこはかとなく連想させる色合いの霜降り肉を鍋へとぶち込んだ。煮えてしまえば色も変わって問題なしだ。
◇
「あ、てめ、それ俺が狙ったのに!」
手を伸ばして煮えた肉を掻っ攫うと栄司から物言いが入る。どうやら泊まりの件に関しては開き直ったらしく普段通りの明るさになっていた。取り敢えず早い者勝ちなので堂々と味の染み込んだ肉に卵を絡めてかぶりつく。
「まだ一杯あるから喧嘩しないの、あと日向は野菜も食べなさい」
しいたけは一杯食べるので大丈夫ですーと反論しようとしたら、肉を追加した母が流れるような動作でネギと白菜を僕の取り皿へ投下していった。別に嫌いではないけどたくさん食べたい類のものではないのに。
しっかりと割り下が染みたネギを箸で掴んで、息を吹きかけながらちょっとずつ齧る。ネギ特有の辛味と匂いと共に出汁の風味が効いた醤油の濃い味が口の中に広がる。確かに美味しいけどアクセント程度に食べるのが最適量だと思う……決して僕が子供舌な訳ではない。
「……子供か」
ちびちびとネギを齧る僕をちらりと見て、伊吹がぽつりと口走った言葉が胸に突き刺さる。く、野菜好きにこの気持ちは分かるまい……。
ワイワイと騒ぎながら肉を取り合った楽しい団欒の一時は終わりを告げた、因みに4勝7敗だった、食事の場の支配者である母親が敵に回ったのは痛かった。父は最初こそにこにこしていたが、途中から何故か難しそうな顔で僕と栄司のじゃれ合いを眺めていた。
「ご馳走様でした」
「御馳走さまでした、美味しかったです」
「いえいえ、日向も喜ぶと思うからまた遊びに来てあげてね?
それと、栄司君は明日からよろしくお願いね」
「はい」
挨拶もそこそこに、僕は2人を自分の部屋へ誘った。2人には今日知ったことを話しておきたかったのだ。片付けをしてくれると言った両親の言葉に甘えてそのまま階段を昇って部屋へと入る。
「それで、何があったんだ?」
『父さんが僕のDNA鑑定を依頼してたらしくてね、その結果が今日出たんだ』
2人が完全に固まるのが見るまでもなく解った。それを幸いとどんどん話を進めていく。木崎日向と同一人物であることがDNA的に否定されたこと、ただし両親や姉との血縁関係は鑑定の結果で証明されたこと。状況的には僕が"木崎日向"である事が証明されたに等しい事。
『それを踏まえて、家族は僕を木崎日向本人として扱ってくれようとしているみたい』
ここまで彼等は真剣に僕の話を聞いているのか一言も発しなかった。この事について話すのに前ほどの恐怖はない、それでもほんの少しだけ手が震えた。
「なるほどな……それで、どうするのか決めたのか?」
「まぁ、一生に関わることだからな、すぐに決められる事じゃないだろう」
いつもと変わらない声がした。2人とも知っていたかのように平然としている。
『うん、もう少しだけ考えたいって答えた』
「そうか……だけどな、
例えどうなったとしても、俺達がお前の親友だって事は変らないからな?」
「あぁ、栄司の言う通りだ」
2人の言葉が嬉しくて、自分が少し情けない。きっと思うところは色々とあるのだろう、だけど全て飲み込んで普段通りに接しようとしてくれているのくらい、僕にだって解る。だから僕も明るく答えよう。
『ありがとう』
◇
2人が帰って、1人ベッドの上で窓から夜空を見上げる。静かな夜は更けて、時計の音だけが耳を打つ。こうなった時から常に頭のどこかで考えていたことだ、道は2つに見えるけど辿り着く場所は1つしかないのだから。
だから……いつまでもしがみ付くようなみっともない真似はやめよう。
夏の終わりまでに、覚悟を決めよう。
いったい何が始まるんです……?




