Contact.3-2 ぼくのかぞく
「君、誰? どうしてうちに居るのかな?」
椅子から立ちあがった姉は、明らかな警戒心を瞳に滲ませながら、それでも僕を怖がらせないようにと穏かに声をかけてくる。客観的に見れば当然の反応だ、家に帰ったら外国人の小さな女の子がお風呂に入っていて、しかも男物の肌着を着ている。立場が逆なら即座に警察に連絡を入れてもおかしくない。
もしも誰かの子供を預かってるとかなら僕か母がちゃんと伝えている。つまり勝手に入り込んだか、隠して連れ込んだかのどちらかでしかない。
「えーっと……日本語わかる?
お姉さんの名前は大和っていうんだけど、君のお名前、教えてくれるかな?」
不幸中の幸いと言うか、唯一プラスに働いたのは子供の姿という点だろう。状況は依然として最悪だが、暴れさえしなければ即座に通報されたり取り押さえられるような展開にはなり難い。信じてくれるくれないは一旦横に置いて、対話にさえ持ち込めれば少しはマシな展開に持ち込めるかもしれない。
「……! ――!」
自分の口を指差しながらパクパク動かして、身振り手振りで喋れないとアピールする。一瞬怪訝そうな顔をした姉は少し考えるそぶりを見せた。
「まさか、喋れないの?」
どうやら意図は伝わったようで、頷く僕を見ると姉は適当な棚を漁ってペンと紙を探し始めた。時おりこちらを確認するのは逃げないようにだろう、僕も事態をこれ以上ややこしくする気はないので大人しくその場に立ち尽くす。
「はい、これでいい?」
メモ帳とペンを受け取り、クッションを敷いた椅子に膝立ちで登ると、テーブルを下敷きに自分の名前を書いた。
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.03-2 『ぼくのかぞく』
『木崎日向』
ただ四文字が書かれた正方形の白紙を間に置いて、僕達は重苦しい空気と沈黙を共有していた。姉は少しばかりの間を置いて深く溜息を吐くと、トンと人差し指で紙を叩いて口を開いた。
「……お姉さん、こういう状況で冗談を言われるの、あんまり好きじゃないんだけど?」
威圧感に負けて縮こまる僕に不機嫌さを隠そうともしない。それはそうだ、ここで「日向だったのね!」と納得されたら僕の方が逆に驚く、というより姉の視力や精神を心配しただろう。
『本当にぼくなんだよ、姉さん』
そう書いて訴えても姉の不審は解かれない。手元には自分を証明する道具は何一つとして存在しない、部屋に戻れば携帯を取り戻せるだろうけど。
「あのね、日向は私の弟……男の子で、16歳なの」
姉は遠まわしに、僕はどう見ても女の子でしかも二桁年齢にすら見えないと言ってくるのを感じる。暫く見詰め合っていると、姉は一体何を思ったのか不意に威圧感を消して、一転して優しげな顔でそっと肩に手を置いてきた。
「悪いようにはしないから、本当のこと話して?」
先ほどから本当の事しか話していない、と言っても証明できなければそれは嘘と何が違うというのか。言葉に詰まる僕の耳には、時計の音と風の音だけが入ってくる。
『おねがい、しんじて』
ズキリと胸が痛む、まるで小さな棘が刺さっているかのようだ。わずかに視界が滲むのは涙のせいだろうか、散々杞憂だと言い聞かせようとしていた事が現実になりつつある、不安と恐怖が胸中に溢れてきて感情を激しく揺り動かす。
「…………まさか」
涙は女の武器というが、果たして偽者の女である僕のこれも有効だったのだろうか? わずかに顔を顰めた姉が信じられないといった様子をありありと見せつけながら呟いた。どうやら少し風向きが変わったようだ。
「日向が七歳のお盆、どこへ旅行へ行ったか覚えてる?」
『父さんのきゅうな仕事でかぞくりょこうは行けなかった、
キレた姉さんが父さんのへそくりをごうだつして、3人でゆうえんちに行った』
僕の返答を聞いた姉さんがやはり驚きに眼を見開いて、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。
「父さんのへそくりの隠してあった場所」
『押入れにあるアダルトDVDのケースの中』
父さん自身はうまく隠しているつもりのようだが、実際の所はバレバレだったようだ。
「合ってる……、じゃあ日向が私の九歳の誕生日に何をくれた?」
答えようとして、姉が少し古びた兎型のビーズで作られたブレスレットを腕につけているのに気付き、それを指差す。視線を追った姉が深く溜息を吐いて改めて僕の顔を見詰めてくる。
「本当に……本当に日向なの?」
これでやっと半信半疑と言った所だろうか。僕が力強く頷くと、姉さんはやや大袈裟なアクションで額に手を当てて「信じらんない……」と溜息を吐いた。でも姉は涙で絆されるようなタイプじゃない、前進したのは有難いが何が切っ掛けになったのだろうかと気になって居ると、テーブルに頬杖をついて眺めていた姉さんが僕の考えに気付いたのか、苦笑して答えた。
「泣きそうなのを我慢してる時の表情がね、日向の小さい時にそっくりだったのよ」
◆
「取り合えず、弟が犯罪をやらかしてなさそうでちょっと安心したわ」
テーブルを挟んで向かい合う僕らの間で、麦茶の注がれたグラスの中で溶けた氷がぶつかりあい、澄んだ音を鳴らす。姉に付き添われて着替えついでに携帯電話を取りに行き、ロックを解除してメールを送ってやっとこちらの話をちゃんと聞いてくれる気になってくれた。それからリビングに移動して飲み物を用意し、数分かけて経緯を説明した後の第一声がこれだった。
僕の信用度はそんなに低かったのだろうかとも思ったが、急に引き篭もり始めて顔すら見せなくなった弟という情報を前提におけば変な疑いを持たれても仕方ないかもしれない。
「こういう重大な事はもっと早く話して……欲しかったなんて言えた義理じゃなかったわね」
説教をしかけた姉が急にしょげて、麦茶で唇を湿らせる。僕も何も返答できず沈黙が再び部屋を支配する。
「それで、そうなった原因に心当たりは他にないの?」
まだ僕の説明を心から信じているという訳でもないんだろう、しばしば探るような視線が向けられてきて少しばかり居心地が悪い。携帯を弄り、神社の出来事以外に心当たりが無い事を改めて伝えると解ったと頷いた。
「この事を知ってるのは?」
『姉さんだけ。栄司達はゲームでこの姿は知ってるけど、バグでそうなってるって伝えてある』
携帯の画面に打ち込んだ文字を読んだ姉さんが少し呆れたような顔をした後、「それも仕方ない事か」と自嘲するような笑みを浮かべる。
「日向はどうしたい?」
『どうしたいって……』
質問の意図を測りかねていると、姉が内容を捕捉してくる。
「母さんや友達に本当のこと話したい? 隠したい?」
言葉を受けて考える、姉さんはもし黙っているなら協力すると言ってくれている。僕はそれでいいんだろうか、現実を拒否して引き篭もっていて何が変わるというのか。何よりも、これ以上嘘をつき続けるのは僕の心が耐えられそうに無い。元々うじうじ考え込むのは得意じゃないんだ。
『もう、隠すのは辛い』
そんな僕の小さな決意は姉の瞳にどう映ったのだろうか、微笑みながら頭を撫でてきた。母が帰宅するまで作り出された静かな時間は、不思議と嫌いじゃなかった。
◆
「ただいま……あら? 大和もう帰ってるの?」
玄関の開く音のすぐ後に母さんの声が届いた。反射的に逃げ出そうとした僕の肩を姉さんがそっと押さえた。この数日ですっかり癖として染み付いてしまったらしい、先が思いやられる。足音が近づくたびに僕の心臓も激しく鼓動する。リビングの扉が開く音がまるで処刑の合図のようにも聞こえた。
「おかえり、母さん」
「大和、早めに戻るなら言っておいて……? その子は?」
母さんの顔を見るのは何日ぶりだろうか。仕事帰りらしい格好と言うべきだろうか、質の良いブランド物のバッグを片手に抱えて、アイロンのかかったスーツを着込み、髪の毛をアップで纏めている。こうしてみると姉さんは母さん似なんだろう、僕を見る怪訝そうな顔がそっくりだ。息子が娘になりましたなんて言ったら、どんな反応を返すだろうか。
「私もまだ信じられないけど、日向だって」
「……は?」
いきなり何を言っているのこの子はと言いたげな目線が姉さんに向けられて、次いで僕を射抜く。例えようの無い居心地の悪さに俯いていると、姉さんの手がそっと僕の背中に触れた。意を決して携帯を弄り、メールを使って自分が日向本人である旨を伝える。姉さんの時と同じく疑ってかかる様子の母さんだったが、僕しか知らないであろう事をいくつか答えると、明らかに動揺した様子を見せた。
「……嘘でしょ? 二人して私を担ごうとして……日向! どこにいるの! 出てらっしゃい!」
母さんはヒステリックに叫びながら、僕の部屋へ行こうとしているのか階段を駆け登っていった。慌てて追い掛ける僕に姉さんも続くと、開け放たれた部屋の中を呆然とした様子で眺める母の後ろ姿が目に入った。
「日向? どこに隠れてるの!?」
結局、僕が日向本人であると言う証拠なんて僕の記憶の中にしかない。母さんや姉さんからすればいきなり僕が消えたようにしか見えないんだろう。一頻り部屋の中を探し誰も居ない事を確かめると、僅か数分で随分と憔悴した母が、立ち尽くす僕等を押し退けるようにして部屋から出てくる。
家中を周り、部屋を引っくり返すかのように僕を探して回る母を見て心がズキズキと痛みだす。もしもこうなった時、素直に母に相談していれば、ここまで苦しめる事はなかったのだろうか。それとも姉さんというクッションが無い分、もっと酷い事になっていたのだろうか。
「……そ、そうよ、外に出てるのね? あはは、全くあの子と来たら
もう伝えてくれる? 母さんの負け、降参だって」
僕を見つけ出す事が出来なかった母は力なく廊下に座り込むと、震える瞳でこちらを見た。小さく首を左右に振る僕を見た母が縋るように僕の両腕を掴む、爪が食い込んで痛い。
「お願い! 日向を出して! あの子は私の、あの子には……!!」
「お母さん、落ち着いて!」
痛がる僕を見かねた姉が引き剥がそうとしてくれるが、思った以上に力が強いのかビクともしない。母をこんな風にしたのは自分だと思えば後悔が、やはり受け入れてもらえなかったんだと思えば悲しさで胸が満たされて、身体の中から競りあがるように涙が溢れる。
「――――あ、あぁ……」
せめて泣かないようにと歯を食いしばる僕の顔をマジマジと見た母が、何かに気付いたかのように驚愕を顔に貼り付け、手を離した。一歩、二歩とふらつく足取りで後ろへ下がると、そのまま廊下へと倒れこんだ。
「――!」
「母さん!?」
咄嗟に受け止めた姉が頬を叩いて呼んでも反応がない、慌てた姉が携帯を取り出して誰かに連絡を取るのを見ながら、何も出来ない事への無力感に膝を付く、僕はどこで間違えたのだろう。目の前で倒れた母も、焦ったように母を呼ぶ姉の姿も、どこか遠い場所の出来事のように感じていた。
◆
姉に手を引かれて救急車に乗り、この辺で一番大きな……僕が以前お世話になった病院に向かう。僕がぼんやりとしている間に呼んでいたらしい。僕の存在を怪訝そうな目で見られたが、姉が任せろと言って誤魔化してくれた。簡単な検査の結果、診てくれた医者が言うには精神的なショックで気を失っただけのようで、目が覚めたら家に帰っても大丈夫らしい。
医者から説明を聞いてやっと人心地ついた僕と姉さんは、病院の廊下に座っていた。
「はい」
パック入りのりんごジュースを手渡されて、唇の動きでありがとうと伝えてストローを挿し口を付ける。ここでやっと、自分の喉がカラカラだった事に気付いた。姉も乳酸菌飲料を片手に椅子に座ると、すっかりと暗くなった外を眺めていた。
「父さん、一度帰って来るって」
いつの間にか父にも連絡していたらしい、父も母と同じような反応を返したらどうしようと思うと、身体が震えて来る。
「……ごめんね、私が迂闊だった」
肩を抱き寄せた姉が、僕の震えが少し収まるのを待って語り始めたのは、僕が入院した直後のこと。母は随分と自分を責めていて、僕が心を取り戻して少しずつでも友達や家族と交流を持ち始めたときは、それは凄い喜びようだったという。最近の僕の奇行についても心配していて、「出来れば打ち明けて欲しいけど無理強いをして拒否されるのが怖い」と姉さんに言っていたそうだ。
ここまでショックを受けるとは思わなかったという姉に、確認するかのように僕の言う事を信じるのかと尋ねると、姉は困ったように笑った。
「最初はね、信じられなかったけど……
何気ない癖とかが小さい頃の日向にそっくりだったから」
『信じてくれるの?』
まるで縋るような問い掛けだと自分でも思ったけど、今にも崩れ落ちてしまいそうな足元に怯えているのも確かだった。姉さんはそんな僕の身体を恐る恐る抱き寄せる。
「すぐに信じてあげられなくて、ごめんね」
聞こえてくる涙声は謝罪だった。会いにいけなくてごめん、辛い時に傍に居られなくてごめんと、姉さんは今まで会えなかった分の全てを話そうとしているかのように、何度も何度もごめんなさいと言って頭を下げた。姉さんも僕を助けられなかった事を責められ、会いに行けなかった事で僕に拒絶されるのが怖かったのだという。
滲む視界をまぶたで閉ざしながら、僕は腕の中で、「なんだ、怖かったのはお互い様だったんだ」と安堵していた、あれだけ怯えていたのに蓋を開ければ現金なものだと思う。まだまだ問題は山積みで進んだ気は全くしない、でも心を痛める棘が一つだけ消えてくれた気がした。
尤も、両親や友人との事を考えればすぐさま不安で押し潰されそうだったが。
◆
母は時計の針が日付を超える前に目を覚ました。医者から説明を受けて大分落ち着いた様子ではあったが動揺は抜けていなかったようで、姉から連絡を受け血相変えて帰ってきた父の到着を待ち、全員揃った所でタクシーで帰宅した。お互いに酷く気まずく車中で会話が無かったので、運転手さんが少し戸惑っていたのに少し罪悪感が刺激された。運転手さんから見れば、僕等の様子は大層訳ありに見えた事だろう。
家に帰り着いてから事情を話すと、父は驚くほどあっさりと僕の事を信じてくれた。僕は気付いていなかったが、事前に姉からある程度の状況説明は受けていたようだ。母は無言で俯いているし、僕も何もしゃべる事ができなくなっていたのを見兼ねた父の、「時間も時間だし、詳しくは明日話そう」という言葉で僕等はそれぞれ部屋に戻った。
月明かりに照らされた部屋の中は、僕を探して母が物を動かしたそのままだった。何だか酷く痛む胸を抑えながら床に落ちたぬいぐるみや小物を拾い上げて元に戻すと、疲労感に任せるままベッドに倒れこんで眼を閉じる。静かな暗がりの中で考えるのは、このまま母に受け入れられなかったら僕はどうしようという漠然とした不安について。
じくじくと膿んだ傷跡のように胸を痛める不安に、心が悲鳴を上げて目尻から熱いものが溢れる。それから逃げ出すように、僕はいつの間にか眠りについてしまっていた。
不意に嫌な夢を見た気がして目を覚ます。外は暗いままで、果たして何時間経ったのかもわからない。何か暖かい物でも飲もうと身体を起こし一階へと行くと、ダイニングから漏れる明りが目に入った。
「――――最低ね」
誰かまだ起きているのかと思ってドアノブにかけた手を止める、聞こえてきたのは母の声だ。
「本当は、一目見たときにもしかして、と思った。
でもどうしても受け入れる事が出来なかった……一番辛いのはあの子のはずなのに!」
喉の奥から絞り出すような叫びに、僕は入ることも、立ち去る事も出来なくなった。身を隠すように扉から離れて壁に背を預ける。聞きたいけど聞きたくない、複雑な感情が鎖になって僕の足をその場に縛り付ける。
「仕方ないさ、こんな事、簡単に飲み込めるはずがない」
嗚咽を漏らす母を慰める父の声が聞こえる。僕と姉さんが部屋に戻った後、ずっと話していたのだろうか。
「本当なら、私が一番にあの子の事を受け入れてあげなければいけなかったのに!」
きっと僕を起こさないように配慮しているのだろう、声量を抑えた後悔が漏れて聞こえる。良く考えれば、自分でも受け止めきれずに逃げていたような"現実"だ、何も知らなかった母に対してそれをいきなり受け入れてくれなんて虫が良すぎたのかもしれない。傷つけたくなくてついた嘘は多分間違いじゃなかった。でも、自分ひとりで抱え込もうとした事は多分間違いだったのだろうか? 正しい答えはまだ見付からない。
「大丈夫、あの子は強い子だよ、これから示して行けば――」
「強い子だから大丈夫だって、日向を追い詰めたのは私たちじゃない! 同じ事を繰り返すの!?」
「……すまない」
僕に誰かを恨んだり嫌ったりする気持ちは、あまりない。だけど家族はそうじゃなかったんだろう、あのとき傷を負ったのは、僕だけじゃなかった。まだ解らないけれど、母さんが今の僕を受け入れてくれるなら、今までの分も含めて僕からも頑張って歩み寄ろう。もしも拒否されるのならその時は……どうしよう。
「今あの子が求めてるのは、家族が今の状態を受け入れてくれる事だと思う……
ちょっとずつでもいいから、頑張っていこう」
「解ってる……解ってるわ」
暫くして話が終わったのか、ダイニングのドアが開いて父さんが出てくると、大きな手が頭に乗せられた。そのまま動かない僕に父が「ごめんな」と声をかける。
「母さん、今ちょっと混乱しちゃってるんだ、
辛いと思うが、もうちょっとだけ待ってあげてくれないか?」
いつからか解らないが、僕が聞いている事に気付いていたようだ。内容に是非もない、僕に誰かを責める気持ちはなくて、ただ拒絶される事が怖くて悲しかっただけなのだから。父さんの言葉に頷いて二階の自室へと戻る、朝がこんなに遠いと思ったのは、初めての事だった。
◆
寝たのか起きていたのか解らない時間を過ごしているうちに、周囲はすっかり明るくなっていた。鳥の囀りに満足に眠気の取れていない眼を擦り、自分が着替えずいた事に気付く。といっても部屋にある自分の寝巻きはぶかぶかで、シャツとトランクスがパジャマ代わりだったのだが。取り合えず、部屋に篭ったまま母が家を出るのを待とうとシーツを被る。
「日向、起きてる?」
ノックと共に姉の声が聞こえて、もう隠れる意味がない事を思い出した。どうやら僕は少し寝ぼけているらしい。部屋の扉を開けると随分とラフな格好をした姉が出迎えてくれた。廊下には味噌汁の良い匂いが漂ってきている。
「おはよう。 母さんが朝ごはん作ってくれてるから行きましょ」
差し伸べられた手を戸惑いながら取ると、姉さんは少々強引に僕の手を引いて階段を降りていく。廊下を踏みしめる度に板が軋み、不安を逆なでするかのような音をさせる、そのせいで昨日の母の動揺を思い出して足が竦んだ。
「大丈夫だから」
姉さんがダイニングの扉を開けると、椅子に座っていた父さんが僕の顔を見て「おはよう」と声をかけてきた、僕も小さく頷いて姉と共に入ると、今度は料理を運んできた母と目が合う。緊張する僕に、母はいつかのように柔らかな笑顔を浮かべた。
「おはよう、日向」
一瞬呆然としてしまった僕だったが、姉に小突かれて口を「おはよう」の形に動かす。そうしている間に全ての料理を並び終えた母が、膝を付いて僕と目線を合わせると、そのまま頭を抱え込むように抱きしめてきた。状況についていけず眼を白黒させる僕を父と姉は微笑ましいものを見るかのように見守っている。
「昨日はごめんね、お母さんびっくりして……怖い思いさせちゃったわね。
もう大丈夫、どんな姿でも日向は日向、私の大切な子供なんだから」
どこか自分に言い聞かせているような響きを含む母の言葉を、責める気には到底なれない。ただ、昨日の事で自信を失いかけていた、僕が僕である事を肯定されたようでそれが嬉しかった。
「冷めないうちに食べようか、食べたらすぐに出ないといけないんだ」
父が時計を気にしながら催促してきて、母から解放された僕は目元に浮かんだ涙を腕で拭って席に着く。現実で誰かと顔を合わせながらする食事も久し振りなら、家族そろって食べる食事は何年ぶりだろうか。
楽しかった食事を終えると、姉と一緒に仕事に出る両親を見送る。姉さんが母からお金らしき物を受け取っていたのが気になったが、僕を放って仕事へ戻る事への罪悪感が凄いらしい両親へのフォローで忙しく確かめる事は出来なかった。まぁ他人の小遣を羨んだ所でどうしようもないのだが。
少しだけ軽くなった心で、充電器にセットしていた携帯を手に取ると栄司と伊吹宛にメールを送る。
『今度、直接会って話したい事がある』
ただそれだけの文章を送信するのにどれだけの時間がかかったか、でもここまできて逃げ続けようなんて思わない、後は野となれ山となれだ。
意外!それは風邪ッ!
(訳:ごめんなさい1月なったら本気出します)




