Contact.2-1 嵐の前に★
「~~~~」
髪の毛を頭の後ろで結び、浴槽にすっぽりと収まりながらお風呂を洗っている僕は今、きっと笑顔を浮かべているのだろう。大収穫と共に僕の中に黒歴史を作り出した≪クレセア≫遠征より既に四日が経った。
当初は使った札や回復剤のお金をすっかり忘れていて、装備を貰う代わりに他のアイテムを全部栄司達に渡してしまっていた。おかげで暫く金欠に陥っていた僕だったが、栄司の所属しているギルド『グングニル』――名前は一昨日初めて知った――そのマスターから頼まれたバイトをこなし、お金をためることで所持金が回復するどころかまさかの六桁にまで届いていた。
たかがゲームのお金と侮るなかれ、五感全てをかなりの精度で再現されている上に、食事をはじめとした仮想空間特有の遊びも数多く存在しているのだ。『エーテルフロンティア』のサービス開始から二週間以上、次回生産分のクライアントも既に予約分完売という人気っぷり。
最近では外食産業の有名チェーン店も宣伝も兼ねたゲーム内での出店を始めていて、ちょっとしたニュースにもなっている。
そのおかげでゲーム内の料理屋はどこもプレイヤーで大繁盛。ゲーム内通貨、『リル』が使える範囲はどんどん広がりを見せている。
因みにゲーム内での相場は、僕の好物であるアイスの値段が一皿につき六〇〇リルほど、最前線のプレイヤーが一時間の狩りで稼ぐ額の平均が四万リルと言われている。六桁以上稼ごうとするなら最低でも二十時間は集中して金策しないといけないのだ、懐が大きく潤った僕が上機嫌になるのも解ってもらえるだろう。
美味しいアルバイトの内容は、先日死闘の末に倒した『グレイシャルロード』がリポップする六時間ごとに木の洞からイベントアイテムを回収、ボスを呼び出したら付与術で味方を強化して、邪魔にならないように後方で待機するだけという簡単なもの。あの欠片はエリア内限定アイテムだったらしく、雪原エリアから出る度にインベントリから消えてしまっていたので取得しなおしが必要だったのだ。
仕事を頼まれた経緯は、栄司達から話を聞いて現場に向かったギルドの面々だったが、現状あの鎖を回収する方法は他に判明しておらず、持ち出せるのは僕だけだという事に気付いて、伊吹を窓口にして必死に交渉されたのだ。契約内容は相談の末に一回につき三十万リル、アイテムや経験値の分配はなしと言う純粋な現金報酬、知らない人と話すのは苦手なので極力接触の少ないやり方を提案させてもらった。
代償としてここ数日レベル上げがあまり出来ず、単独でボスを倒した扱いとなった時に上がった十四のままとなっている。栄司達との差がどんどん開いてしまって少しばかり不安ではあったが、稼げる時に稼いでおくべきだと思いお金稼ぎに集中していたという訳だ。
そんな美味しいバイトも、昨日の夜半に他の探索者によって木の洞が発見され情報が拡散、レベル二〇後半推奨の街で特定のイベントをこなす事で手に入るアイテムを使い、フラグを回収すると女神の住む泉を氷の魔法で封印しているボスに挑む事が出来る。というクエスト情報が芋蔓式に公開される事となり、徐々に人が訪れ始めて終了となってしまった。
具体的な話の内容は、大昔に封印された氷の魔物が復活し、その地にあった泉の女神を粉雪の結界で封じてしまっているから、解放の為に魔物を倒してくれというものだったらしい。イベントフラグに関しては森のどこかに魔物を封じていた鎖の欠片が残っていて、それを手に入れると狼が気配を嗅ぎ付けて襲ってくる……という流れだったようだ。我ながら色々すっ飛ばしすぎだった。
とはいえボスを独占できた三日間、グングニルの人達からも経験値とお金を大量に稼ぐ事が出来たと感謝された。僕も今までは普通に頑張って一時間数千リル稼げれば御の字だったので、これで一気に装備を整える事が出来ると大喜びだったのでお相子だと答えておいた。
今日は夕飯を終えたら装備を新調する為に露店を見て廻る予定なのだ、全て買い換えてもお金は余るだろうから、その後で何か美味しい料理でも食べに行きたい。今度遊覧船に乗ってみるのもいいかもしれない。先の事を考えると楽しみがどんどん広がって行くようで、自然と笑顔がこぼれてしまう。
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.02-1 『嵐の前に』
浴槽に吹き付けた洗剤をホースを使って流しながら、目に付いた白い髪の毛を回収していく。いつもはカラスの行水よろしく母が仕事に出かけた隙をついて手早く入っているので、風呂掃除の時にしっかり回収しておかなければいけないのだ。当然洗濯物も抜け毛にだけは注意して、自分の分は自分でやっている。これが今の状況でもしっかり家事をこなしている理由の一つだ。
たまにはお風呂にゆっくり入りたいとは思うが、今の自分の裸を見るのが怖くて仕方ない。これが小さな女の子の裸を見ているような気持ちになって恥ずかしいなら僕は何とか耐えられるだろう。一番怖いのは、それを自分の体だと受け入れてしまう事だった。
最初の頃は違和感しかなかったこの顔も、鏡を見ても何も思わなくなってきた。動かしにくかった身体も、急に低くなって不便だった視点も、今は問題なく動けるようになっている……いや、問題なく動けるようになってしまっていた。
洗剤が全て流れ落ちたのを確認してから、蛇口を閉めホースを片付けると浴室を後にした。途中でキッチンに寄って適当な飲み物とお菓子を抱えて二階にある部屋へと戻る。ドアの鍵を閉めて、ベッド脇のテーブルに持ってきた食料品を置くと、髪の毛を結んでいた紐を解きながらベッドへと倒れこむ。
柔らかいマットレスの上を這い、枕元に置いてある胴長の身体を伸ばした格好で寝そべる兎四郎抱き枕の腹部分に顔を埋めた。これは中学に入ったばかりの頃、遊びに行ったテーマパークで買ったマスコットグッズだ。一目見て脱力しきった糸目に心を惹かれてしまって衝動のままに購入し、帰り道で栄司に随分とからかわれた曰くつきの一品。
この身体になるまでは押入れの住人となっていた彼だったが、今ではこうやって本来の用途である枕として使われている、随分と出世したものだ。
元々、小動物や動物を模したぬいぐるみは好きで、たまに買ったりしては押入れの住人を増やしていたのだが、今までは適当に眺めるだけで満足していた。男がぬいぐるみを抱きしめたり、小動物にテンションを上げる事に抵抗感があったのは言うまでも無い。
ところが今の見た目的に問題がない事に気付いてしまえば、そんな抵抗感も霧散した。まるで本当に小さな女の子みたいだと、寝転がったまま枕元の棚を見上げて自嘲する。そこには我慢しきれず押入れから引っ張り出してきたぬいぐるみ達が、所狭しと立ち並んでいた。そのうちの一つであるペンギンのぬいぐるみを引き寄せて、強く抱きしめながら欠伸をする。
ここ最近、油断すると自分が男である事を忘れそうになってしまう。試しに前まで使っていた枕の匂いを嗅いでみる。今まで気にも留めなかった自分の匂い、でも自分の物だとは思えなくて、まるで兄や父の枕を抱きしめているように感じた。
溜息と共に枕を足元に投げると、再び兎四郎の腹に顔を埋める。普段使っているトニック系シャンプーの匂い、男だった頃と同じ物を使っているはずで、まったく同じ匂いのはずなのに何かが違うと感じる。……違うはずなのに、何だかこちらがしっくり来るのは何故だろうか。
解っている、少しずつ僕の中の何かが変化している証拠だ。
さっきだってそうだ。無意識に男"だった頃"と思っていた、男であった事を無意識で過去の事だと捉えてしまっているのだ。少しずつ心の中まで女の子へと変わって行く、それに順応していく事が怖くて怖くて仕方ない。
今感じている恐怖はきっと救いなんだろう、自分が女の子になりつつある事に何も感じなくなったら、その時にはもう何もかもが手遅れなのだから。
◆
食事を済ませ、寝転がったまま動画サイトでバラエティ番組を見ながら時間を潰す。
軽快なコントを繰り広げる芸人の姿を余所目にパソコンの時計に目を向けると、時刻は午後八時を過ぎたところだった。八時半からミィさんに装備品を見てもらう約束をしているので、そろそろログインしていた方がいいだろう。億劫ながらも身体を起こしマウスを操作し、ブラウザを閉じてクライアントを起動させる。
ログインしてからヘッドギアを装着しベッドに横になった。いつも通りの手順を踏んで暫くそのまま待機する、暗くなっていた視界が開けると、街灯の光によって暖かなオレンジに彩られた煉瓦作りの道が現れた。ここは夕方前にログアウトした≪エスカ≫東門の前だ。ゲーム内時間も現実と連動している為か、周囲はすっかり夜の帳が降りて道脇に設置された街灯が幻想的に街並を照らし出している。現実に比べれば随分と薄暗いにも関わらず、人通りは多く未だ活気づいているようだった。
僕の姿は初期のキャスターローブのまま、遠征の翌日に着せられたエプロンドレスは罰の終了と同時に返却してある。そのまま持っていて良いと渋られたものの、こんな物まで貰うのは悪いと押し返す勢いで強引に返却した。あれに慣れて女の子の格好を恥ずかしいと思わなくなるのが嫌なのもあるが、所有していればメイリだけでなく栄司までもが積極的に着せようとしてくるだろう。
栄司達には好きこのんでネカマプレイをしていると初手で宣言してしまったようなものなので、恥ずかしくてからかわれる事に文句は言い辛い。ただでさえ色んな矛盾に目を瞑って貰っているのに、余りにも強く拒否すると見ない振りが出来る疑念が許容範囲を超えてしまうかもしれないのだ。
伊吹の方は何となく察知してくれているのか苦笑いを浮かべているが、栄司に関しては開始直前のグダグダやら好意で譲った装備を投げ捨てたことが重なり結構頭に来ていたようで、理由は解らないが恥ずかしがっているのを良い事に、最初のバイトの日に意趣返しでお姫様抱っこまでやろうとしやがった。
幸いにもメイリのハリセンアタックが炸裂したお陰で回避する事に成功したが、色んな事に取り返しがつかなくなっていたかもしれないと思えば感謝して然るべきだろう。一番取り返しがつかなくなるのが栄司であろう事については、あいつも考えが浅いと言わざるを得ないが。
溜息交じりに歩いていると待ち合わせ場所である公園に辿り着く。初日に栄司達と合流したのと同じ場所だ、ここは今でもプレイヤー達の待ち合わせ場所に使われている。昼間は人で溢れているここも、今の時間となるとカップルらしき男女をちらほらと見かけるだけだ。
蔓延るリア充達の邪魔をしないように大人しくベンチに腰掛けているだけだというのに、先ほどから視線を感じて妙に居辛い。静かに足を揺らしているだけなので睨まれる謂れはないはずなのだが、いい加減注目を集める事は諦めた方がいいんだろうか。
縮こまっていると入り口辺りに人影が見える、街灯に照らされた髪の色は濃い桃色、以前より少しばかり装飾の増えたプリースト用の装備を身に着けた救世主が、いつも通りの柔らかな笑顔で手を振っていた。
助かったと思い、軽く手を振り返すと飛び降りるようにベンチから離れて彼女と合流する。
「ごめんねサンちゃん、待たせちゃったかな?」
『いえ、時間ぴったりです』
時計が指す時間的には待ち合わせほぼピッタリ、僕の方が早く到着しすぎただけだ。
「そっか、よかったよー
それじゃ、あんまり遅くならないうちに行こうね」
『はい、ミィさん』
中腰で微笑みかけてくるミィさんに頷き返すと、横に並んで夜の道を歩いて露店通りへ向かう。町中ではプレイヤーキルは出来ないのでそこまで心配はいらないと解っていても、暗い道を歩くのは心のどこかで恐怖を感じる。光の届かない薄暗がりに何かが潜んでいるような気がして仕方ないのだ。果たして以前の僕はこんなに暗闇を恐れていただろうか、ここ数年は夜に外出した記憶がないので解らない。
「そういえば、そんなに丁寧じゃなくてもいいんだよー?
メイリの事も呼び捨てにしてるし、ちょっぴり寂しいかも」
『いいんですか?』
歩いていると僕が黙り込んだのを気にしたのか彼女が話を振ってきた。確かにいつも遊んでいるメンバーで、ミィさんにだけさん付けをしていた。メイリは何と言うか、なんかああいう扱いで良い気がしてついやってしまっていたのだが、ミィさんは常識人ぽかったので気が咎めたのだ。
「うんうん、私もそっちの方が嬉しいなー、呼び捨てでいいからね」
『それじゃあ、お言葉に甘えて』
彼女とも同い年と言う認識があったので正直に言えば有り難かった、少し肩の力が抜けたような気がする。遠慮なく普段どおりの言葉遣いをさせてもらい、その後も目的地である露店とおりに辿り着くまで嬉しそうに頷くミィさん……ミィと好きな音楽や食べ物についてなどの雑談を続けた。
◆
露店通りも随分と人が減って歩きやすくなった気がする、時間もあるが多くの人間が他の大きな町へ主な活動場所を移した為に、過剰だった人口密度は丁度良いくらいまでに減っているのだろう。また新規登録が始まればまた一気に人が増えるだろうから、それまでに僕も拠点を移しておきたい所だ。
栄司達も溜まり場を≪エスカ≫からレベル二〇台向けのエリアもある≪ユーベル≫に移してしまったようだし、僕も装備を新調したらそっちに移動したいと思っている。
「武器だけでいいんじゃない? 折角凄い防具が手に入ったんだからそっちまで買うのは勿体無いよー?」
使いやすそうな武具を探して露店を眺めていると、ミィが顎に指先を当てながら言う。どれを指しているのかは解っている、僕が最初の狼戦で手に入れたあの似非巫女服のことだろう。
伊吹を介してギルドの協力を得た僕らは泉についても検証してみたのだが、狼を倒した後リポップするまでの晴れてる状態で装備品を泉に投げ込むと、低確率で女神が現われて該当するアイテムの三ランク上にある同系統アイテムを提示してくる、そこで童話に倣って正直に落とした物を答えると、該当装備の二ランク上の同系統アイテムをプレゼントしてくれると言う物だった。
どうやら装備のランクが高いほど女神の出現率は下がるらしく、ランク一の店売り装備を大量に投げ込んだ時は三〇回に一回くらいの確率で女神が出てきたが、そうして手に入れたランク三の装備を投げ込んだ時は一〇〇個近く投げて一回しか出てこなかった。しかも晴れてる間に出てくるのは一人につき一度きりのようで、何が出てくるかは選べない。
下級品といっても安いものじゃないしコストも馬鹿にならない、泉を使って上級レアを作り出すのは無理があるという結論が出ていた。
そんな訳で、とんでもない確率を一発で引き当てたらしいあれの性能は、驚愕の七というランクに見合ったものだった。具体的に言うならば、現状作れる生産品の最上級であるランク四の重装鎧に匹敵する防御力に耐性持ち。もしもあれのデザインがまともだったなら喜んで常用していた事だろう。
『あれを着て人前に出ろと……?』
だがしかし、デザインだけは如何ともしがたい。ミィにも物質化して見せた事があるので意味は通じるはずだ。例えゲームの中でこの身がアバターだとしても人目に曝すには恥ずかし過ぎる。
「確かにサンちゃんにはちょっと派手すぎる気もするけど、
性能凄かったし可愛いかったから問題ないと思うよ?」
現物を目にした友人達の感想がそれぞれ「着てる姿を想像した事に自己嫌悪を覚える」、「……酷い犯罪臭だな」、「可愛いけどえっちぃねー」、「お願いちょっとだけ! ちょっとだけでいいから! 一枚だけでいいから着てる姿撮らせって馬鹿栄司なにすんだ離せ私はサンちゃんにあれ着てもご、もごごー!!」である。どれが誰の意見かは語るまでもないだろう。
『多少なら我慢できるけど、あれは限度を超えてるよ……着たがる人なんていないでしょ』
実際にあれを着たがる女性がどれほどいるのだろうか、幸いな事に未だ男としての自覚が強い僕にはその気持ちが解らない。ミィは俯く僕を見ながら、照れているとでも判断したのかくすくす笑っている。
「サンちゃんは恥ずかしがりやさんだね
まぁ、私も現実であの格好は少し厳しいけどね、ゲームの中ならはっちゃけちゃうかも
女の子はね、自分をちょっとでも魅力的に見せたいものなんだよ?
サンちゃんも、もうちょっと大きくなったら解るかもね」
そういう物なんだろうか……出来れば解る日が来る前に元に戻れる事を祈りたい。
「あ、これなんかいいんじゃない?」
武器を扱っている露店に置かれていた短めの槍をミィが指さしている。短めといっても長さ自体は僕の身長と同じくらいで、先端に水晶の刃が取り付けられている。性能を確認してみるとランクがⅣとかなり高く、攻撃力が優秀で氷属性持ち、しかも以前使っていた剣よりずっと軽い。属性は魔法で変更できるから問題ないし、リーチもあって使いやすそうだ。
「目の付け所がいいねぇ嬢ちゃん、
その水晶槍は最近流れるようになったグレイシャルロードっていうイベントボスの素材で作ったんだ、
軽いし武器としても杖としても使える、値は張るがそっちのちっこいお嬢ちゃんが使うなら丁度いいと思うぞ」
二人で槍を見ていると店主らしき三〇代後半に見える男性が話しかけてきて、驚いた僕は思わずミィの背中に隠れてしまう。システム的に露店のアイテムを盗難することは不可能なので、この時間帯はアバターを残して離席している人も多くて声をかけられるのは稀なのだ。
それにしても我ながら酷いリアクションだと思う、咄嗟の行動だったとは言え本当に子供の反応だ。確かにこの店主さんほどの年代の男性に多少なり苦手意識はあったが、何時の間にここまで症状が酷くなったのだろうか。
「ありゃ、驚かせちゃったかな?」
店主さんが短く刈った頭を太い指でかきながら申し訳無さそうに言う、不意打ちで声を掛けられた程度で過剰反応した僕に原因があるのだが、身体が震えて何もリアクションが取れない。おかしい、精々がちょっと苦手、話す時に少し身構えてしまう程度だったはずだ。僕は何故ここまで怖がっている?
「ごめんなさい、この子恥ずかしがりやさんだから、ちょっとびっくりしちゃったみたいで」
ミィが苦笑いしながら僕の頭を撫でる。フォローはありがたいのだが、何だかどんどん手遅れになっていく気がして複雑だ。
「そっか、いきなりお父さんくらいの知らない男に話しかけられたらびっくりするよな
ごめんな嬢ちゃん、おっさんデリカシーなくてなぁ」
「ほらサンちゃん、怖い人じゃないから大丈夫だよ?」
どうやら気のせいじゃなかったようだ、ミィは僕を何歳だと思っているんだろうか。せめて二桁くらいの認識で居てくれるといいのだが、先ほどやった自分の行動を思い返すと小さい子扱いされても仕方ないと思える。
『ごめんなさい、いきなりだったので驚いてしまって』
深呼吸を繰り返して暴れる心臓を抑え付けると、まだ震えの取れない指で謝罪の言葉を打ち出す。
「怖がらせて悪かったよ、許してくれな?」
一瞬困ったような表情をした店主さんがもう一度頭を下げる、子供相手に随分と腰の低い人だ。確かに悪い人では無さそうで、過剰に怖がってしまった事が申し訳なくなってきた。
『もう大丈夫ですから、気にしないで下さい』
「そう言って貰えると助かるよ、お詫びといっちゃあなんだが、何か買ってくれるならサービスするよ?」
腰を屈めて悪戯小僧のような笑みを浮かべる店主さんは、意外と商魂たくましいようだ。おかげで大分落ち着いた僕は、お言葉に甘えて槍を手に持って見せてもらう、実際に手に持ってみると剣よりも扱い易い。アビリティが無いのでスキルやアーツを使う事は出来ないが、プレイヤースキルが重要視される世界でもあるのでアビリティが無いと闘えない訳でもない。
そもそも僕が闘うとすれば格下相手だろうし、そこそこの攻撃力とリーチがあれば問題ない。種別こそ槍になっているが魔法使い用の杖として魔法を強化する力も有るようで、攻撃魔法の札にも影響するから僕にはお誂え向きだろう。僕は買うと決めたらすぐに買う性質だ、値が張ると言っていたがいくら位だろうか。確かランク四の生産武器の相場は五十万リルだったか。
『これ、いくらですか』
「それが気に入ったかい? うーん、百万リルするんだが……」
値段を聞いた僕に向かって店主さんが困ったような顔をする、今の僕が着ているのは初期装備のままだ、小ささも相まってどう贔屓目に見てもお金を持っているようには見えないだろう。武器の能力的にも申し分ない、素材の流通量を考えれば百万リルは良心的だろう。何より普通に予算内だ。
「ちょっと任せてね」
買いますと言いかけた僕を制してミィが一歩前へ出る。
「おじさんおじさん、この子こう見えて純付与型のエンチャさんなんだよ、
将来を考えれば仲良くしておいて損は無いと思うけどなー?」
どうやら僕に代わって値引き交渉してくれるつもりのようだ、先ほどの会話から店主さんを生産職と見込んだ発言だろう。
彼女が僕のクラスを引き合いに出した理由はというと、レベル三〇で転職できるエンチャンターの上位職、『エンチャントマスター』には『魔法刻印』と言う、装備品に対し素材を消費する事で特殊な加工を施す事が可能になるアビリティが存在するからだ。
この能力によって中盤以降、純付与型の需要は凄まじく上がると予想されているが、そっち方面に進んでしまえば戦闘力は大きく落ちる。即ち実戦能力が強化される他職と差が更に大きく開く事となり、プレイヤー人気は無いけど需要は高いと言う奇妙な状況が形成されるであろうと廃プレイヤーの多くが考えている。
付与が渇望される時代を見越して大きなギルドは純付与型を囲い込もうとしているらしいが、職別スレを見ていると余り待遇はよろしくないようだ。
高待遇を謳って勧誘したにも関わらず、必要な時だけ呼び出しパーティに入れず付与だけさせ、経験値や分け前を与えない……通称"付与奴隷"として扱うギルドも珍しく無いと言う話で、レベル上げの辛さと能力の地味さ、他プレイヤーの待遇の悪さや粘着行為に嫌気が差してキャラクターを削除し、人気のあるナイトやウィザードを作る人も増えているそうで、益々純付与型の人口が減っているという有様だった。
かくいう僕も友人達が自分のレベル上げそっちのけで積極的に狩りの手伝いをしてくれていなければ、今頃挫けていたかも知れない。
時間が過ぎるごとに貴重さが増している昨今、エンチャンターと知り合いなら製作したアイテムに直接エンチャントしてもらって売る事も出来るし、提携すれば相手の望むエンチャントを用意しやすい。単独でやるのに比べて遥かにお客さんを取りやすくなるだろう。生産職のスレッドを見る限りでは、装備品作製をやっている人達にとって純付与型とのコネクションは喉から手が出るほどほしい物らしかった。
「本当か!?」
彼もまたその例に漏れなかったようで、身を乗り出す勢いで声を荒げる、余りの大声に周囲の視線が集まるほどだ。店主さんは驚いて一歩下がった僕に気付いてから、バツの悪そうな表情で頬を掻き小さく「悪い」と呟く。
「いや、つい先日知り合いの純付与がウィザードに鞍替えしたばかりでね、
お嬢ちゃんが上位職になった時に力を貸してくれるなら、九十万でいいかな」
「んー、こんなに可愛いエンチャンターさんは全鯖探しても居ないと思うよ、五十万」
「ははは、確かにその通りかもなぁ、八十九万」
「今後も付与特化でいくつもりらしいから、可愛い付与師さんとして将来は有名になるかも、六十万」
ミィと店主さんが笑顔で火花を散らす様子を一歩引いた位置から眺める。正直こういった交渉事は苦手なので任せるしかないが、意外と言うか納得したと言うか、ミィも普段のほんわかした態度と裏腹に中々に強からしい。
「そいつは将来が楽しみだな、八十五万」
「これだけの美少女ちゃんが付与した装備品なら、それだけでも価値が出ちゃうと思いません?
そんな子と仲良くできる機会なんてもう二度とこないと思いますよー? 七十万」
店主さんもガードが硬いがミィも一歩も引かない、そんなやり取りが暫く続き、観客が集まりだした頃ついに店主さんの方が折れることにしたようだ。
「はぁ……負けたよお嬢ちゃん。七十五万、これが限界だ」
「サンちゃん、それでいい?」
『うん』
どこか勝ち誇ったミィの笑顔に慄きながら首肯する。何だか申し訳ない気持ちで一杯だし、ここら辺で納得しておかないとミィがまた攻勢に出そうなので、さっさと支払いを済ませる事にする。ウィンドウからお金を選択し、物質化させてから手渡す。
皮袋に入った状態で出現したカード状の金貨、全部で七十五枚分を数え終えた店主さんから、槍と共に修復用の砥石アイテムをいくつか手渡される。砥石は頼んでいないので、不思議に思って首を傾げた。
「砥石はおまけだよ、その代わり今後も贔屓にしてくれよな?
おっさんはガッシュって言うんだ、武器作成型のクリエイターをやってる
いつもこの辺で店だしてるから、よろしくな」
そういう事なら有り難く受け取っておこう。ここまでして貰って、それをなかった事にするほど僕は薄情じゃない。刻印打ちが出来るようになったら是非協力させてもらおうと思う。
「ミィです、おじさん、ありがとねー」
『僕はsunって言います、今日はありがとうございました』
お互い軽く自己紹介をしてからミィと一緒に店主さんに頭を下げると、手を振りながら店を後にする。ミィと店主さんのおかげで大分お金が浮いた、これなら防具もそれなりの物が用意できそうだ。
◆
その後も他の露店を見て回った。見付けた良い性能のローブや雑貨をはじめ、消耗品を買い揃え、気付けば十時近くになっていた。寝るには少し早いが何かして遊ぶには遅いそんな時間。僕らはログアウトする前に何か食事でも取ろうと、最近出来たばかりのレストラン街へ向かっていた。
「流石にこの時間だと人もまばらだねー」
≪エスカ≫中央にあるターミナルタワーの一階、僕が始めた頃はまだがらがらだったフロアは、今や次々と参入するレストランのゲーム内店舗でその大半が埋め尽くされている。ゲームの世界でも有名店の味を楽しめるという触れ込みで宣伝されたここは、昼時や夕食時になると人で溢れかえる事になる。
一部のプレイヤーの間では現実では簡素な物でお腹を満たし、ゲームの中で舌と心を満たすのが流行っているらしい。ダイエットにも節約にもなると話題だったが、なんともいえない気持ちだ。カロリーを気にしなければいけない甘い物に関してならまだ理解できるのだが。
様変わりしたフロアを軽く見回してみる。まばらと言っても人の数自体が少ない訳じゃない、結構な数のプレイヤーが立ち並ぶ店々を出入りしているのが見える。待たずに入れそうな店の数はそう多くなく、大半の店が多少の待ち時間を必要としているようで、外で座ってメニューを見ている人の姿もあった。
『ご飯時は想像もしたくない……』
「あはは、同感かもー」
目的地はミィがリアルでも通っているというパスタの有名チェーン店、学生の身分で通うにはちょっとお高く、ダイエットも考えると抑えなければならないで我慢していた所に出店が決まったそうで、発表を知った時は嬉しそうにはしゃいでいた。
「このお店だよ、おすすめは海の幸のスパゲッティかな」
『へー……美味しそう』
見本として表示されたパスタを見ながら呟く。丁度人の切れ目に入っていたようで待ち時間は無く、スムーズに入店する事ができたのは僥倖だった。店員用のノンプレイヤーキャラクターに案内されてボックス席に座る。店内は結構広めに作られていて座席も多く、今は半分以上が埋まっている。
お客の大半は成人層なようで、ワイン片手に談笑している騎士服の男性達もいれば、見詰めあいながら大人の雰囲気を醸し出している男女も居る。
酷く場違いさを感じる気持ちに目を瞑り、メニューの中からボンゴレ・ビアンコと林檎のジュースを注文する。ミィの方はヤリイカのトマトスープスパゲティにしたようだ。注文を終えて背凭れに体重を預けながら一息つく。実際に体力を消耗する訳じゃないが、歩き回るという行為自体が精神的な疲労も伴うものだ。
『メイリが来れなかったのは残念だね』
「そうだねー、でも転職までの追い込み頑張ってるみたいだから」
そうだ、本当ならメイリも誘おうと思っいたのだが、ギルドメンバーと大きくレベル差がつくと拙いと言う事でここ数日はレベリングに集中している。今日も昼間にミィが夜の予定を聞いた時も一日レベリングに集中したいの一言でばっさり切られてしまったくらいだ。原因は彼女に頼りっぱなしだった僕にもあるので無理を言う気はないし、そもそもレベル上げを邪魔するほどの大層な用事じゃない。
今もどこかのマップで栄司達と狩りに励んでいるはずだと、心の中でそっと応援する。
「でも、サンちゃんはメイリよりもエースくんが居なくて寂しいんじゃないのー?」
『? なんで?』
アイツとはいつも一緒に居る訳じゃない、いつでも連絡は取れるし、今日だって昼間に軽く顔合わせしているのだ。ホモでもあるまいし、四六時中べたべた一緒に居るのはお互いに微妙な気分になるだけだろう。ミィの質問の意図が測りかねる。
「だってサンちゃん、男の人苦手そうな割にはエースくんとは仲良しさんじゃない?
本当は私じゃなくて、大好きなお兄ちゃんと一緒が良かったんじゃないかなーって」
からかうような彼女の言葉に目が点になった。確かに背負われた時以降は触れ合いにも慣れてきて、肩を組もうとして失敗したり、モンスターに追われたときに盾にしようと背中にしがみついたりと色々やっていた。でも感覚的には男同士でも普通にありうるスキンシップの範疇のはずだ。
それを指して『大好きなお兄ちゃん』なんて言われると何だか寒気がして鳥肌が立ってくる。冗談ではない。
『会おうと思えばいつでも会えるし、そもそも何でそういう発想になるの』
取り合えずジト目で言葉を返す、見た目はこんなでも僕は男だ。栄司の事は嫌いじゃない、むしろ好きな方だがそれはライクの方で間違ってもラブじゃない。
「サンちゃんって基本無表情だけど、エースくんに対しては表情ころころ変わるじゃない
りばーくん相手でもそうだけど、エースくんに対しては特に解りやすいよ?
メイリが最近エースくんにやたら手厳しいのもそれが理由だしねー」
あぁ、なるほど……なんとなく理解した。本人は男同士のじゃれあいのつもりでも、性別が変わればそう映ってしまうのか。男女間での友情は有り得ないと誰かが言っていた、僕等は互いが男だという認識で付き合っているが、外から見ればそれは彼女の言うとおり『お兄ちゃんに甘える妹分』にしか見えないんだろう。
『今の僕って人見知りだからさ、気兼ねなく話せるのが親友のあいつらくらいなんだよ』
思わず文章が明らかな男口調になってしまう、しかしミィは「今の?」と別の所を気にしている様子だった。これはセーフだろうか。どこか気まずくなりかけた時、空気を切り裂いてウェイターが料理を運んでくる、実にナイスタイミングだ。
再現されている料理の美味しそうな匂いが嗅覚を刺激し、減っていないはずのお腹が鳴っているような錯覚を起こさせる、そのお陰で気まずい話を切り上げる事が出来た。
「っとと、料理が来ちゃったね、冷めないうちに食べよった」
『冷めることってあるの?』
料理品の細かい仕様はいまいち良く解ってない、把握してるのは地面に落としたり、ダメージを与えると消滅するとかそのくらいだけだ。設定された温度が変化する事ってあるのだろうか。
「雰囲気だよ、雰囲気」
笑いながらフォークで麺を絡め取り、口に運ぶミィを見てなるほどと得心し、僕もスパゲティを口に運ぶ。あっさりとした塩味と、ワインのほのかな甘みがアサリの風味を引き立てている。これは美味しい、現実でもちょっと食べてみたくなってきたくらいだ。
「ね、美味しいでしょ」
『うん』
料理アビリティも生産職の中で人気があるという事だし、その内料理店を開くプレイヤーとかも現われるのだろうか。この世界ならではの食材も発見されていると言うし先が楽しみだ。現実で質素に、ゲームで豪華にを実践するプレイヤーが増えそうなのだけが不安要素だが。
「こっちもちょっと食べてみる?」
『いいの?』
人の皿から分けてもらうのはちょっと行儀が悪い気もして悩んで周囲に視線を配る。幸い気にしている人は居ないようなので大丈夫だろうか。
「うんうん、はい、あーん」
そんな事をしてるうちに、スパゲティが巻きつけられたフォークが眼前に差し出されていた。これが栄司なら睨んでいるし、メイリなら戸惑うことなく回避している。しかしミィが相手となると悪意や下心が全く感じられなくて逆に戸惑う。というか完全に子ども扱いされているだけのようだ。
数秒ほど静止した後、僕は考えるのをやめた。どうせメイリにもやられているのだ、膝の上に抱っこされてないだけマシだろう。口を開けてパスタを受け入れると、音を立てないように注意しながら咀嚼する。トマトの旨みと酸味が良いアクセントとなっていて、こちらも美味しい。
『じゃあこっちのも、ちょっとあげる』
「ほんと? ありがとう」
差し出した皿から一口分だけ巻き取って口に運ぶのを見届けながら、ストローで林檎ジュースを飲む。家に居ながら外食気分を味わえるというのは嬉しいが、引き篭りが加速しそうで微妙に欝な気持ちになるのだった。
◆
「そういえば、八月八日なんだけど、≪ユーベル≫でイベントあるの知ってる?」
『イベント?』
実に有意義だった食事の時間を終えて一息ついていると、デザートのケーキを突っついていたミィが思い出したように口を開いた。興味はあってもレベル差もあり、≪ユーベル≫には一度も行ったことがない。
「うん、偶数月の八日に開催される予定の公式のゲーム大会があるらしいの、
風渡りレースって言うんだけど、賞金や賞品が結構豪華らしいんだよねー」
公式主催でのミニゲーム大会があるという話は耳にした事があるが、全く把握出来ていなかったのは最近公式サイトのチェックを怠っていたせいだろうか。今後はもう少し情報を集めた方がいいかもしれない、それにしても風渡りレースか、どんな内容なのだろう。
『知らなかった、どんなレースなの?』
「えっとね、空を飛べる専用のアイテムを使って行うサバイバルレースなんだって
上位入賞者には飛行アイテムがそのまま貰えるって話だから、応募者も多いみたい
明後日が予選で明々後日が本大会だね、うちのギルドも全員で参加するみたい」
ブラウザを呼び出して確認しながら説明してくれるミィの声を聞いて面白そうだなと空を飛ぶ姿を思い浮かべる。今のところ飛行アイテムはまだ入手方法すら発見されていない。
『僕も参加してみようかなぁ』
イベントという事でさぞ人が集まる事だろう。しかし人ごみは苦手だけど空を飛ぶ事には興味がある、仮に入賞できなくても飛行システムを経験出来るなら参加してみるのも有りかも知れない。
「予選の申し込みは明日までできるし、一緒に参加しようよ」
『……うん、後で調べて申し込みしてみる』
明日は申し込みをして、様子見がてら≪ユーベル≫へ行って見ようかと、簡単に予定を決める。その後デザートを食べ終え支払いを済ませた時にはもう十一時を回っていた。この身体になってから段々夜更かしが辛くなっている、前までは午前一時くらいまでは平気だったと言うのに今は十一時ですら眠気でふらついてしまう。
「サンちゃん大丈夫?」
『ちょっと眠い』
口に手を当てて欠伸を堪える。平気なうちにログアウトしておかないと寝落ちしてしまいそうだ。寝落ちはアバターのログアウトまで数時間ほどの誤差が生まれるので、その間が無防備になってしまう。町中だとそこまで困る事はないが、寝ている間に色んな人に寝顔を見られるのはあまり良い気分じゃない。
「じゃあ今日はこの辺でお別れだね、おやすみ、また明日ね」
『ん、おやすみ、また明日』
適当な道の脇で別れを済ませて、恐らく栄司達と合流するのだろうミィを見送り片手でコンソールからログアウトボタンを押す。数秒の待機時間を経て、夜の街並みが自室へと移り変わった。
身体を起こしながらヘッドギアを外し枕元に置き、外の気配を確認しつつ二階にあるトイレへ向かう。
熱気の篭る廊下を音を立てないように歩くと、角にあるトイレのドアを静かに開ける。音を立てないように気をつけながら鍵を閉めて、便座カバーを降ろしトランクスを脱ぎながら腰を降ろす。最初の頃は色んな違いに大分戸惑ったものだが、今となればすっかり慣れたもの、用を済ませてトイレットペーパーでちゃんと拭き取ってからズボンを上げる。
うん、Tシャツにトランクス、短パン……我ながら酷く残念な格好になっている気がしなくもないが、女物を着る趣味はないし、そもそも僕が着れる女物は我が家にない。一応姉のお古はあるが、『姉が小さい頃の服を着る高校生の弟』という図を言葉だけで想像して貰いたい、僕にはそんな状況を作り出す勇気は無い。
手を洗うために階下に降りると、親と鉢合わせする危険性があるので部屋に戻ってウェットティッシュで手を拭く、適当な時間で切れるように冷房のタイマーをセットして、ベッドの上で掛け布団に包まり目を瞑った。
先ほどからずっと苛んでいた眠気が、意識を暗幕の中へ引きずり込もうと頑張っている。眠りに就くまでどのくらいだったのだろうか、気付けばあっという間に眠っていた僕はその晩、迷子の子猫の夢を見た。




