新歓チラシの暗号
「駄目だ、駄目だ! こんな低レベルの暗号じゃすぐ解かれてしまうに決まってるだろ!」
カーテンの閉め切られた薄暗い教室で、丸眼鏡をかけた男が吠える。その声色と剣幕に、ひょろりと痩せた男子生徒がびくっと椅子から飛び上がった。その顔には部下が上司に接する時のような弱々しい表情がありありと浮かんでいる。
「そうは言っても、このチラシは新入生を勧誘することが第一の目的でしょう? あまり難しい暗号を使うと反って解読者が減ってしまって、本末転倒な結果になるんじゃないでしょうか。せめて日時と場所だけは普通に書くとか」
「それでは駄目なんだ!」
丸眼鏡の男が再び机をバンッ!と叩いた。その様子に辟易したらしい理知的な顔立ちをした女生徒が口をはさむ。
「ちょっと。あんまり大きな音立てるの止めてくれない? ただでさえ私たちは公認の部じゃないんだから、生徒会に見つかったら面倒なことになりかねないわよ」
「うむ……そうだな」
切れ長の瞳に静かな怒りを感じ取った男は、大人しく矛先を鎮める。しかし確固たる意志が揺らいだわけではない。今度は鞄の中から新聞の切り抜き記事を取りだし、熱っぽく語り始める。
「君たちも知っているだろう。世間が注目していた強盗事件を地元の高校生らが解決したことを」
「絶叫スペシャルランドの件ですよね。それなら僕も読みました」
のっぽは首肯を返したが、女生徒は何も言わない。それで? と言うように視線で先を促す。
「どこの誰かは分からないが、高校生という若さでこうした手柄を立てているんだ。我々としても後れを取るわけにはいかない。なんとしてでも我々の存在を世に知らしめなければ!」
拳を握って熱く語るが、男には知らない事実が三つほどあった。
一つ。その事件を解決した高校生らが自分の後輩であること。
二つ。世に知らしめる前に、まずは生徒会に認められることが先ではないかという超正論を胸中に秘めながらも、生温かい目で成り行きを見守ることしかできない部員が約二名いること。
そして三つ。
「表沙汰になるなんて私たちはごめんですから、やるなら部長一人でやってくださいね」
そもそも部の方向性が未だに定まっていないことである。女生徒の反論に乗じて、のっぽも意見を述べる。
「そうですよ、部長。僕たちは別に探偵を気取っているわけじゃない。ただ暗号が好きで好きでたまらない連中が集まっただけの緩いコミュニティみたいなものじゃないですか。そりゃ確かに身内だけでは刺激が足りないとは思いますし、自分の作った暗号を誰かに解いてもらいたい、あるいは既存のシステムに応用したいという欲求もあります。ですが、今はあくまで趣味の範囲で活動していたいんです。専門的なことは部長のように大学に入ってから学べばいい。それよりも、自由な発想で、自由な思考で、暗号を楽しむ。これが一番重要なことではないでしょうか」
彼の言葉に動かされるものがあったのだろう。男――時修舘高校のOBである冬木行人は遠い過去に思いをはせる。まだ小学生だった頃、偶然手にした児童書でふと見かけた暗号に興奮を覚えたのが最初だった。もちろんそれは、今の彼からすれば幼稚な代物でしかなかったけれど、あの頃の自分は純粋に暗号が面白いと思っていた。パズルや迷路よりも、ずっと。
そして中学~高校とより複雑な暗号化技術を独学で勉強していく内に、彼は暗号を解く側ではなく“作る側”になりたいと思うようになった。近年、コンピュータの処理性能・計算速度はますます向上し、鍵空間をしらみつぶしに探索するブルート・フォース・アタックによって「どんな暗号もいつかは解読される」とされている。事実、1949年にシャノンによって理論的に解読不可能と証明された使い捨てパッドを除き、無条件で安全とされる暗号アルゴリズムはまだ見つかっていない。しかし彼は夢を追いかけることを諦めなかった。すなわち、“誰にも解けない究極の暗号を作る”ために、その方面に興味を持っている同志を集め、ひっそりと非公認の部活を立ち上げたのだった。
「今日から我が“暗号部”の活動を開始する!」
希望を胸に、そう宣言したのはちょうど四年前だっただろうか。わざわざ勧誘チラシを暗号化し、それが解けた者一人一人と個別に面談を行い、入部させるかどうかを判断した。結果、ごく少人数でのスタートを切った彼らは、毎週月曜日と木曜日の放課後に図書室に集合し、各々が持ち寄った文献を参考に新しい暗号化技術について意見を交わし合った。文献に至っては古今東西の推理小説も数多く集められた。有名な作品には古典的なシーザー暗号や単一換字暗号の例が随所に見られるからだ。
「ふーん、でもすごいよね、この探偵。なんの手掛かりもない状態から暗号を解読しちゃうなんてさ」
その時、何気なく呟かれた感想が彼の胸をちくりと刺した。
誰にも解けない暗号を作る。それを目標に今まで努力してきたが、もしかしたらその考え方自体が間違っていたのではないか。
そもそも暗号アルゴリズムとは暗号化と復号化がセットになったものだ。各暗号には必ず解法となる鍵が存在し、正式な受信者のみが復号を許される。つまり、絶対に解けない暗号とはただの意味不明な言語あるいは数字の羅列にしか過ぎず、“解けなければ暗号とは呼べないのだ”。そこには必ず解があり、そこに至るまでの試行錯誤こそが面白いのではなかったか。
自由な発想で、自由な思考で。
鍵を見つけるまでがもっとも困難な暗号を作る。――それこそが正しい目標なのだ。
「そうだったね。君の意見はもっともだ。新入生にはまず暗号を解くことの面白さを知ってもらう所から始めたほうがいいかもしれない」
「じゃあ……!」
「うむ。君の案を採用しよう。明日の新歓で配るチラシにはこの暗号文を用いるように」
「はい!」
功績を認められ、のっぽに笑顔が戻る。一方、女生徒は相変わらずクールに言い放った。
「ま、部員の確保は望み薄にしても宣伝くらいにはなるんじゃない?」
しかしその瞳は微かに笑っていた。
*
始業式の翌日。真奈美がいつものように学校に着くと、校門に人だかりができていた。皆、部活のユニフォームを着たりストリートダンスやライブを演じたりと、周りから見れば文化祭でもやっているのかと間違われるレベルの盛り上がりようだ。
またか、と真奈美はため息をつく。毎年恒例の新入生歓迎会。メインのプログラムは体育館で行われるのだが、どの部活も部員確保のために各々の腕前や業績をアピールするのに一生懸命で、校門付近は必ずと言っていいほど激戦区と化す。それだけには留まらず、運動部の熱気に押されがちな文化系クラブは、校内の掲示板や配布物に様々な趣向を凝らす。例えばイラスト・マンガ研究部は今話題のアニメキャラをモチーフにしたポスターを制作するし、文芸部は新歓用の部誌を予め各教室に配っている。パソコン部は自主制作ゲームを無償公開しているし、化学部は顧問の許可を得た上で最新の実験を行うと聞いたことがある。ゲーム研究部はプログラムの合間に全員参加の椅子取りゲームやフルーツバスケットを企画しているとのことだ(しかし体育館でそんなことやったら間違いなく怪我人が出そうなのに、よく生徒会が許可を出したものだ……)。
「そういえば、ロリコン同好会は何するつもりなのだろう……」
つい不安が口から飛び出す。必死に記憶を掘り返してみても、ひたすら希への熱い愛を叫んでいたことしか出てこない。しかもその度に生徒会役員に強制連行されているのだ。恥ずかしい目で見られることはあれど、誇れるポイントは何一つないのである。それでもかろうじてあるとすれば、ロリコンを否定されても決して揺るがない逞しい幼女への思いだが、そんな変人が集まる部活にわざわざ入る新入生がいるとは思えない。同類でない限りは。
「ふー、こうなったら最終兵器を使うしかないわね」
真奈美は手に提げていた紙袋に視線を落とす。中にはいつぞやのメイド服と猫耳カチューシャが入っている。これを希に着せてステージ上で可愛さをアピールすれば……。
「おい」
想像だけで鼻血を垂らしそうになっている弟子を冷ややかに見上げ、黒猫は真奈美の意識を現実に引き戻した。
「え……あ、ごめん、師匠。なんだっけ?」
「ったく。もう一度言うからよく聞け。これから黒猫部を始動させるに当たって、専用の部室を割り当ててもらえないか生徒会に掛け合ってもらいたい。いつもの児童公園でもいいが、できることなら静かに腰を落ち着けられる環境のほうが取り組みやすいだろう。とりあえずは設備が整っていなくても最低限の机と椅子が揃っていれば文句は言わん、とな」
「でも顧問はどうするの? 部の設立には確か顧問を明記しなければならなかったはずだけど」
「それについても心配はいらん。俺が引き受けるからな」
「師匠が?」
「……なんだ、不満か?」
師の冷たい殺気を感じ取った真奈美は、慌てて両手をぶんぶん振る。
「い、いや別にそういう意味じゃなくて。もちろん、私も師匠が適任だとは思うけど、書類にどうやって書けばいいのかな、なんて」
「それは生徒会の指示に従えばいい。衣笠玲奈という女生徒に俺のことを話せばなんとかしてくれるはずだ」
「へ? 衣笠先輩……って、生徒会のナンバーツーと呼ばれている人だよね。師匠、そんな人とも知り合いなの?」
「去年の夏だったかな。彼女の地元で起きたある怪奇現象について真相解明に協力してあげたことがある。もっとも、彼女も薄々とは気付いていたみたいだったがね」
「へぇ、詳しく聞きたいわね」
「お前さんがもっと推理力をつけたらその内に、な。さて、そろそろ予鈴も鳴るし、俺はこの辺で引き上げるとしよう。言っておくが、朝から晩まで日常のすべてが黒猫部の活動だ。いかなる時でも観察を怠るんじゃないぞ」
「うん。それはもうばっちり!」
「……希の観察じゃないぞ」
「わ、分かってるわよ!」
図星をつかれた表情で答える弟子に大いに不安を覚えながらも、黒猫は「じゃあ、しっかりやれよ」と最後に声をかけて来た道を引き返した。
真奈美はその背中が見えなくなるまで見送ってから、未だ熱気溢れる人混みの中へ足を踏み入れた。
どうにかこうにかして、ようやく教室へたどり着けた時には身も心もくたくたになっていた。特に真奈美らの学年はノリの臨界点が存在しないのか、部活動宣伝とはまったく関係のない時修舘グッズの販売や仮装パレードまで行っていた。もはや完全にお祭りと勘違いしているのは明白だが、それを指摘した所で収まるはずもない。真奈美もあれよこれよという間に空気に流され、昇降口に着いた時には大量のチラシを抱えている状態だった。
「大丈夫、真奈美ちゃん? 今朝はちょっと元気ないね」
疲れた瞳に、ツインテールの天使が映る。どんな処方箋よりもロリが最高の回復薬である真奈美はそれだけで元気を取り戻した。
「平気、平気。退院直後のお寿司バトルに比べれば何てことないわよ。むしろ、希ちゃんのほうこそ大丈夫だった? あの混雑を通り抜けるのは大変だったでしょ?」
「ううん、そうでもなかったよ。あたしが来たのはもっと早い時間だったし、通り抜ける時に煙幕使わせてもらったから」
可愛く、「てへ☆」と舌を出す希。うんうん、ロリは何をやっても許されるのよと真奈美は心の中で擁護する。
「あ、でも」と希は何かを思い出したように自分の席に戻り、一枚のチラシを持ってきた。
「これだけ渡されたよ。意味不明なアルファベットが並んでいるから悪戯かとも思ったんだけど、もしかしたら暗号になってるんじゃないかなって」
「暗号?」
真奈美の中にある探偵の血が急に騒ぎ出す。先ほどまでの疲れはどこへやら、真奈美はルーズリーフとシャーペンを用意し、希から渡されたチラシに目を走らせる。そこには一見して脈絡の無い英文が書かれていた。
HBNMZWQAGWQJBNL! KBAWZXWFXQXHQJPX!
CTKFBNQKBAVBJNAL?
JUKBAYXHBEXWEXEYXZBUBAZHGAY,
CXWZXCWJQJNMUBZKBAJNQTXQTZXXQCBHGWLL.
「うーん、確かにこれは……。見た感じ、暗号とも取れないことはないけど、そもそも新歓チラシに普通暗号なんて使うかしら? 多くの人は希ちゃんのように悪戯だと判断するだろうし、仮に暗号だと気づけたとしても解読まで至らなければ意味がない。もしこれが本当に新歓チラシだったとしても、とても新入部員確保を目的にしているとは思えないわね」
「やっぱり真奈美ちゃんもそう思う? あたしもおかしいなって思ってはいたの。これを配っていた人からは部員を確保しようという熱意みたいなものが一切感じられなかったから。強いて言うなら……そう、純粋にこの暗号が解けるか試しているかのようだった」
「へぇ……。ちょっと興味あるわね、その人たちに。他になにか覚えている、あるいは印象に残っているようなことはない? 身体的特徴とか癖とか」
「えっとね。男の人のほうは背がすっごく高くて、ひょろりと痩せていたよ。ちょっと弱気なタイプって言うのかな。自分から率先して行動するというよりは周りに流されやすい性格だと思う。肌もすごく白かったから典型的な文化系の人間とみて間違いないよ。で、もう一人。女の人は冷静というかクールな感じだった。他人の行動を一歩外から観察しているかのような不思議な瞳だった。例えるなら清花ちゃんに近いかなぁ。でも無気力って感じでもなくって、ここ一番って時にはずばっと意見を言いそうなタイプ。委員長キャラのテンプレに少しアレンジを加えたって所かな」
「す、すごいわね、希ちゃん。一瞬でそこまで見ているなんて……」
「えへへ。それほどでもないよ。――でも個人的な意見としては、あの二人の他にまだ部員がいると思うんだ」
珍しく真剣な表情で希は言う。
「それは何か根拠でも?」
「ううん、あたしのカン。でも部員があの二人だけだったら存続すら危ういと思うんだ。明らかに波長が合ってなさそうだったし、それを補うための協調性があるとも思えない。無理に他人と合わせるよりは一人で活動している方が楽っていう人間だよ。なのに部として成立しているってことは、彼らをまとめている第三者がいるってことじゃないかな」
「なるほど……。私は実際に会ってないから何とも言えないけど、希ちゃんがそう推理するなら間違いないでしょう。ただ、じゃあどうしてその三人目がいなかったのかという疑問が残るわね」
「うーん、そこまではあたしも分からないよ。とにかく、まずはこの暗号を解いてみるのが先じゃないかな。きっとあの人たちの居場所が書かれているはずだから」
「そうね。よし、じゃあ早速解読作業と参りますか!」