不可能
「とりあえず、順を追って整理してみましょう」
真奈美は鞄からノートと筆記具を取り出し、問題点を箇条書きにまとめる。
「まず、犯人は学校内部の人間か、そうでないかについて。私の席を知っていることからして外部犯の仕業とは考えにくいけど、逆に学校関係者には全員アリバイがある」
真奈美は“始業式”の文字を丸で囲んだ。
「希ちゃんの話だと、式の最中に席を立った生徒や教師はいなかったのよね。なら、九時四十分から十時半までの五十分間は、誰にも犯行を行う時間はなかったと言える。ここまではいい?」
視線を投げると、希は軽く頷いた。
「うん。そして始業式が終わると、あたしたちはまっすぐ教室に戻った。体育館を出てから教室に戻るまでにかかった時間はわずか二、三分。その間に急いで封筒を真奈美ちゃんの机に入れたと考えられないこともないけど、現実には難しいと思う。廊下には作業員さんもいたし、そんなに慌てた生徒がいたら記憶に残っているはずだもの」
「ねぇ。やっぱり作業員さんが犯人だってことは考えられないかな」
状況的には最も現実的な案を再度口にするものの、希は一蹴した。
「確かに、作業員さんなら実行するチャンスはいくらでもあったと思うよ。でも、やっぱり疑問が残る。第一に動機。何のためにこんな手の込んだ悪戯をしたのか、だけど、その明確な理由がはっきりしない。第二に雨」
「雨?」
「沙尾鳥先生の話によると、本当は昨日点検を行う予定だったんだよね? もし雨が降っていなかったら、封筒を用意した意味も、そして“この密室の意味”もなくなってしまうじゃない」
真奈美は、はっとした。確かにそうだ。この密室を構成しているのは鍵ではない。作業員による監視と、大雨でぬかるんだ地面が作り上げているのだ。ということは――
「そう。犯人はその二つの要素を知っていた人間――つまり、作業員の配置と校内の敷地に関して詳しい情報を入手できた人物だよ」
希は胸を張って主張する。しかし真奈美は思案顔だ。
「うーん、と言われてもまだ一つピンと来ないわね。希ちゃんの説は正しいと思うけど、特定の個人を突き止められるって程じゃないし……。やっぱり、このタイムテーブルに隠された穴を発見するのが先決じゃないかな」
「穴、ねぇ……」
希は腕を組んで、時間軸の流れを思い返す。
八時二十八分 沙尾鳥と会話、点検作業開始
二十九分 真奈美、教室へ
三十三分 戸川現れる
三十五分 体育館へ移動(この時点では、封筒はなかった)
四十分 始業式開始
九時三十分 始業式終了
三十三分 教室に戻る(封筒発見)
補足① 始業式には学校関係者全員が出席しており、その間席を立った者はいない。
② 点検開始から始業式終了まで、廊下には常に作業員がいた。故に、ドアからの侵入は不可能である。
③ 教室の窓は開いていたが、樹木周辺の地面に足跡が残っていない点と、枝や窓枠に泥がまったく付着していないことから、侵入経路に樹木を利用したとは考えられない。
④ ②および③より、教室は“開放的な”密室であったと考えられる。また、①は学校関係者全員のアリバイを保証することにも直結する。
⑤ 状況的に唯一犯行が可能であった人物は作業員だが、彼は真奈美の席を知らなかったはずである。また、動機も不明瞭。
「うーん……やっぱり普通に考えたんじゃ、密室を破る方法どころか、犯人の目星さえつかないね……。視点を変える必要があるのかも」
考える仕草に合わせ、希のツインテールが左右に揺れる。その動きを目で追っていた真奈美は、ふと視界の端に映った“ある物”を見て解がひらめいた。
「分かった! アレよ!」
「アレ?」
希は、急に目を輝かせて立ち上がったパートナーを訝しげに見る。一方、真奈美は鞄の中からいそいそと鹿撃ち帽とパイプを取り出すと、右手にパイプ、そして左手を顎に当てるという探偵ポーズをキメた。無駄に凝った演出である。
希の視線が一層冷たくなっているのにも構わず、もったいぶった口調で謎解きを始める。
「さて、ワトソン君。我々は今まで犯人がどのようにこの教室へ侵入し、そして脱出したのかという面からアプローチを試みた。しかし、いくら考えても答えは出なかった。ドアや窓に鍵はかかっていないものの、作業員の存在と昨日の大雨が間接的に密室を構成するファクターになっているからだ。だが、我々にそう思わせることが犯人の狙いだったのだよ。あたかも外部から侵入したかのように見せかけるために」
「前置きはいいから、早く結論を教えてよ」
希に急かされても動じることなく、ゆっくりと教室を徘徊し始める真奈美。
「外部からの侵入が不可能ならば、次のように考えればいい。“犯人は外部から侵入したのではない。最初からこの教室にいたのだ”、と」
「どういうこと?」
「ふふふ。そのヒントはずばり――」
二呼吸ばかり溜めるという謎演出のあと、
「あれだよ、ワトソン君!」
びしっ! と、教室の隅を指さした。そこには、どこにでもあるような掃除用具入れのロッカーが置いてある。希は嫌な予感がしたが、はたして真奈美はその“まさか”を口にした。
「そう。犯人はずっとあのロッカーの中に隠れていたのだ!」
キマった……! ロッカーを指した姿勢のまま、真奈美はしばし謎解きの余韻に浸る。その脳内では事件関係者が口々に「いやぁ、お見事! 君の名推理には毎回驚かされるよ!」と拍手を送っていた。それ故、希がガチャっとロッカーを開けて、
「ねぇ、真奈美ちゃん。掃除用具がぎっしり詰まっていて、人が隠れられるスペースなんかないよ?」
と言ったとき、その意味がすぐには理解できなかった。
「なん……だと……」
動揺を隠せない真奈美に、希はさらに追い打ちをかける。
「それに、仮にこの中に隠れていたのだとしたら、一度掃除用具を全部出したってことだよね? けど、埃のたまり具合から判断するに、用具を動かした形跡は見当たらない。つまり、このロッカーは春休み前からずっと使われていないってことになる」
「…………」
完全に推理を否定され、真奈美は真っ白に燃え尽きた。脳内では一転して、事件関係者たちが「いやぁ、君の迷推理には毎回驚かされるよ」と生温かい目で一瞥していた。ポン、と肩に置かれた手がすごく重い。
「ほら、元気出してよ、真奈美ちゃん。きっと別の方法があるはずだから、一緒に考えよ!」
「うん……そうね」
真奈美は大人しく帽子とパイプを鞄に仕舞う。これはもっと推理力がついてから身につけることにしよう。
「じゃあ、再開ね。あたしは、やっぱり窓から侵入したんだと思う」
「窓ってことは、樹木を利用して?」
「うん。地面に足跡を残さず、樹木に飛び移れる方法が何かあるんじゃないかな。ありきたりな物で言えば、ロープなんかを使って」
「なるほど。確かに一考する価値がありそうね。じゃ、そうと決まれば、早速中庭を調べてみましょうか」
中庭に出た真奈美と希は、アスファルトの上を歩いて問題の地点まで移動した。そして目測で大まかな距離を測る。
まず、中庭の幅。すなわち、二年棟と三年棟の間は約七メートル半。その中央には幅、一メートルほどの舗装路が校舎と並行に伸びており、ここは乾いている。そして舗装路の両側にぬかるんだ地面が広がっているというわけだ。
ポイントとなる樹木は二年棟から一メートル七十五センチほどの場所に植えられている。つまり、舗装路の端からは一メートル五十センチの距離があることになる。なお、中庭は左右対称に作られているため、三年棟側にも同じように樹木が植えられている。
「ふむ。つまり、まとめるとこうなるわね」
・二年棟→(1.75m)→樹木→(1.5m)→舗装路(1m)→(1.5m)→樹木→(1.75m)→三年棟
「樹木まで一メートル半、か。立ち幅跳びでもなんとか行ける距離だよね。男子高校生の平均が二メートル弱、女子でも百六十センチは越えていたはずだから」
「うん。けど、うまく幹に捕まることができるかしら……。手をかけられる所と言ったら、かなり高い位置にある枝しかないのに」
最初の枝までの高さは、およそ一メートル九十センチ。三平方の定理を使うと、舗装路の端からは二メートル四十センチ以上もある。
「人の腕の長さが大体五十センチくらいあるから、やってやれないことはないと思う。特に今日は打ってつけの道具もあるんだし」
「道具?」
「ほら、照明点検の際に作業員さんが使っていた――」
「なるほど! 脚立ね!」
真奈美は、ポン、と手を打った。
「そう。あれを伸ばせば三メートルほどにはなる。幹に立て掛ければ余裕で枝に届くはずだよ」
希は得意そうに胸を張る。真奈美は素直に拍手を送った。
「さすが希ちゃんね。でも、その推理だとやっぱり犯人は作業員ってことにならない?」
「可能性として高いのはそうなるね。けど、決めつけるのはまだ早いよ。例えば、作業員さんがトイレに行った隙に、誰かが利用したとも考えられる。もっとも、リスクが大きいことは否めないけど……」
希は苦い表情を見せる。
中庭に出て脚立を立て掛け、樹木の枝から教室に飛び移る。そして封筒を真奈美の机に入れたあと、また同じルートで戻らなければならないのだ。二、三分でできる芸当ではない。
「時間がかかり過ぎるわよね……。でも、一応その線で調べてみましょう。作業員さんならまだ学校に残っているし、全員に当たってみれば何か手掛かりが掴めるかも」
一時間後、すべての作業員から情報を得た二人は、樹木を前にして難しい顔で黙り込んでいた。希の推理がほぼ完全に否定されたからである。
作業員の話を要約すると、次のようになる。
・点検中、トイレを利用した作業員は数人いたが、持ち場を三分以上離れた者はいなかった。
・三年棟一階廊下を担当していた作業員によると、“樹木に脚立が立て掛けられている光景は見なかった”という。
「樹木に脚立ねぇ……。いや、俺はずっとここで作業していたけど、気付かなかったなぁ」
「ほんとですか!? よく思い出してください!」
「思い出すも何も、そんな不審な行動をしている奴がいたら視界に入らない訳ないだろう。この廊下からは中庭が丸見えなんだから」
そう言って作業員は手で外を示した。所々、樹木の影になって見えない箇所もあるが、見通しの妨げになるほどではない。
「そりゃ、俺だって絶えず中庭を見ていたわけじゃないさ。けど、何分間も脚立が放置されていたら、さすがに気付くって」
*
「結局、振り出しに逆戻り、か……。一体犯人はどういう方法を使ったっていうのよ……」
謎は依然として強固なベールに包まれたまま、西の空ではゆっくり日が傾き始めていた。