有効範囲の関門
真奈美の探偵としての第一歩となる事件です。規模はそれほど大きくありませんが、少しでもお楽しみいただけたら幸いです。
翌日の冬期講習終了後。
私は早速詠梨ちゃんの家に向かうことにした。と言っても場所が分からなかったから、商店街の連絡版に掲示されていた張り紙に書かれている住所を携帯の地図検索を使って調べたんだけどね。
それによると、詠梨ちゃんの家は児童公園からほど近い住宅街にあるらしい。時修舘高校からでも歩いて十分とかからない距離だ。
「へぇ~、詠梨ちゃんの家って学校のすぐ近くだったんだ。ここなら、学校の帰りに会うこともできるわね」
ちょっとだけうれしくなって、私は鼻歌交じりで通い慣れた通学路を歩く。
ちなみに本格的に事件(と呼んでいいのかな?)を調査するのは今日が初めてということで、現在の私のテンションは極限値さえも突き抜けて暴走している。
いままで刑事ドラマや二時間サスペンスの事件捜査を見るたびに全身の血がうずうずして仕方なかったのよね。最初はなんの手がかりもない状態から捜査が始まるけど、地道な聞き込みと検証を重ねていく内に少しずつ少しずつ事件の全貌が明らかになっていく、あのぞくぞく感がたまらない!
聞き込み調査――ああ、なんて素晴らしい響き……。
「あの~、真奈美さん、聞いてます?」
目がイっちゃってる私の隣で、頭頂部から飛び跳ねたアホ毛が不満そうにぴょこぴょこ動いた。同時に、梅雨時期の湿気をありったけ含んだようなジトーとした視線を感じて、私の意識は現実に不時着する。
「あ、ご、ごめんね、胡桃ちゃん。それで、えっと……なんだったかしら?」
慌てて取り繕ってみるも、胡桃ちゃんの視線は冷たいままだ。というか、どうして胡桃ちゃんまでついてくることになったんだっけ?
「むぅ、ひどいです! 昨日、美味しいオムライス屋さん知ってるから一緒に食べに行こうって誘ってくれたのは真奈美さんじゃないですか!」
そ、そうだった……。事件のことで頭がいっぱいですっかり忘れてた(ついでに授業内容も忘れていて今日の小テストの出来が壊滅的だったけど、過ぎ去ったことをぐちぐち言ってもしょうがないわよね)
「あたしは小テスト満点だったけどね。というか真奈美さんはテストの点が悪いとおじいさんに折檻されるのでは?」
「やめて! それ以上言わないで!」
あぅ、せっかく考えないようにしていたのに……。こんなひどい点数見せたら、またおじいちゃんに殺されちゃう……。
事件への期待に膨らんでいた気持ちが、パン!と派手な音を立てて弾けた。それはもう、大きく膨らんだ風船が一瞬で割れるかのごとく。
極限まで上昇していたテンションが見事に中和され、私は盛大なため息をついた。
あ~ぁ……。
「でもほら、元気出してください。無事に事件を解決できたらきっと見直されますって。これも人助けなんですから」
そう、よね。なによりこれは三年前から決まっていた約束でもあるんだもの。それを途中で放り出すことなんて私にはできない。今までの自分を信じるのなら。
「ありがとう、胡桃ちゃん。そうよね。困っている人がいたら迷わず助けてあげるのが探偵への第一歩だよね」
「赤朽葉先輩――あ、あたしが所属している文学部の先輩なんですけど、その人もとってもお人好しなんです。正直少し頼りないところもありますが、みんなの中心にいるって感じで……。だからあたし、そういう人にはできる限り協力したいと考えているんです。推理はちょっと苦手ですが、情報集めに関しては誰にも負けない自信があるので!」
「それって……私に付き合ってくれるってこと?」
「もちろんです! 探偵に優秀な助手は必要不可欠ですから!」
それに、と一言おいて胡桃ちゃんはポケットから例の手帳を取り出した。
「事件と聞いて何も行動を起こさなかったら記者として失格です。がむしゃらに真実を追い求めるという点においては、探偵も記者も同じだと思いません?」
とびきりの笑顔で語られる胡桃ちゃんの夢には一点の曇りも感じられなかった。
「あたしはあたしのために、真奈美さんについていきます」
自分の夢に向かって積極的に動いている姿がまぶしくて、私は胡桃ちゃんからやや視線をそらしながら「ありがとう」とお礼を言った。
「ではまず、依頼者の中村詠梨さんに関する情報ですが――」
手帳をパラパラとめくりながらさも当然のように言うけど、ちょっと待ってほしい。
「どうして詠梨ちゃんの個人情報を知ってるの?」
商店街や駅前に例の張り紙が掲示されたのは、つい数日前だったはずだ。そのわずかな時間で詠梨ちゃんの個人情報を調べ上げたのだろうか。
「ふっふっふ。それはですねぇ、実を言うと鳴海お兄ちゃんのおかげなんです」
「あの刑事さん? それって、警察が動くほどの事件ってこと?」
「うーん、事件というほど大きくはないんですが、ちょっと奇妙な現象があの住宅街周辺で多発しているんです。それもつい最近」
「奇妙な現象……?」
「ええ。お兄ちゃんから聞いた話によると、毎日午後四時くらいになると住宅街で飼われている犬が一斉に吠え出すんだそうです。小型犬から大型犬までほぼすべての犬が。割とおとなしい種の犬でさえ、窓際あたりを落ち着かなそうに行ったり来たりするらしく、付近の住人からは『原因を突き止めてほしい』という不安の声が上がっています。苦情を訴える人もちらほら出てきていますね」
「それは、確かに不思議な話ね……。すべての犬が吠え出すっていうのもそうだけど、時間帯が午後四時前後に限定されているのも気になる」
「あたしもその点は疑問に思ったので休日を使って張り込みをしてみたんですが……」
「……なにげにすごい行動力ね。それで何か突き止めたの?」
「いえ、ますます分からなくなりました。というのも、犬が吠える時間帯がばらばらだったんです。朝の十時ごろに吠えたかと思えば、夕方の六時にも同様の現象が起きましたし」
つまり、平日は午後四時前後、休日はばらばらということか。言い換えれば、平日は犯人?が一定の習慣に基づいて行動しているともとれる。午後四時ごろと言われて、真っ先に思い浮かぶのは学校の下校時間。すなわち、犯人は学生……?
「お兄ちゃんもその可能性は高いだろうと言ってました。あのへんは浜下小学校の通学路指定区域にもなっていますから。――ただ、それでも多くの疑問が残ります」
そう、犯人が学生だと仮定しても、依然として事件解決の糸口は見えない。
胡桃ちゃんの言うように、解き明かさなければならない疑問は大まかに考えて三つ。
一つ目は、飼い主も環境も異なる犬たちに、どのようにして共通の刺激を与えたのか。すなわち、この不可思議な現象を起こす方法だ。
二つ目は、ずばり動機。どうしてこんなことをする必要があったのか。
そして最後、なぜ詠梨ちゃんの愛犬だけが家を飛び出してしまったのか。
「その三つ目に関しての補足なんですが、愛犬の名前はラッシー。メスの柴犬で、プロのドッグトレーナーさんによくしつけてもらった賢い犬だそうです」
へぇ、意外。今はペットショップ屋さんで生後間もない赤ちゃんを引き取るスタイルが一般的だと思っていたけど、そういうこともあるのね。
「でも訓練された犬ならなおさら主人の言うことを聞くはずよね……。勝手に家を飛び出すような真似はしないと思うんだけど……」
「ですよねー。そのあたりの詳しいことは詠梨さんご本人に色々訊ねてみるしかなさそうです」
推測に推測を重ねても真実には近づかない。まずは依頼者に話を聞いてみるのが筋よね。
私は大きくうなずくと、目の前のインターフォンを押した。
「はい。ラッシーはちょうど二年前の冬に、とあるドッグトレーナーさんから引き取った犬です。普段はおとなしいけど、とても賢くてやんちゃで。休日には一緒にお出かけしたりすることもあります。でも片時も私のそばを離れたことはありません」
相当思い入れがあるのだろう、詠梨ちゃんは愛犬の写真に視線を落としながら辛そうに語り出した。
インターフォンを鳴らして名を名乗ると、すぐに詠梨ちゃん本人が玄関から顔を出した。詠梨ちゃんとは実に三年ぶりの再会となるけど、あのころと容姿はほとんど変わっていなかった。唯一、記憶と違うところは、丸くて可愛らしい眼鏡をかけていることくらい。それが詠梨ちゃんの優しさを前面に押し出しているというか、よりおっとりさが感じられるというか。
とにかく私のドストライクゾーンで、顔を合わせた瞬間思わず、
「眼鏡ロリっ娘……」
と、口から飛び出してしまいそうになったが、寸前で「真奈美さん! 自重してください!」という胡桃ちゃんからの警告が入り、私の変態発言は未遂に終わった。
落ち着く色合いの調度品に囲まれたリビングに通してもらった私たちは、余計な雑談は抜きにしてさっそく事件について訊ねてみた。そして愛犬ラッシーについて返ってきた回答が上記の通りというわけだ。
「ますます分からなくなったわね……。それほど詠梨ちゃんに懐いている愛犬がどうして家を飛び出したのかしら……」
顎に手をあてて考える私の隣で、手帳に一生懸命事実を書き記していた胡桃ちゃんが控えめに手を挙げた。
「すみません。一つお伺いしますが、この家には犬用の出入り口とかってあるんですか?」
「あ、はい。裏の勝手口のほうに一カ所だけ。あと庭にも一応小さな隙間があります。そちらは植え込みの陰に隠れていて気付きにくいですが」
「ラッシーがその隙間を利用することは?」
「いえ……多分なかったと思います。散歩に行くときはいつも一緒ですし、帰ってきたらすぐ鎖につないでしまうので。ただ最近は外が寒くなってきたので、家の中で放し飼いしてましたけど」
うーむ……。愛犬について切り込んでみたものの、このへんが限界みたいね。よし、切り込む角度を変えてみましょう。
「そういえば、この住宅街一帯で平日の四時ごろに犬が一斉に吠え出すという話を聞いたんだけど、詠梨ちゃんはなにか知っているかしら?」
「はい! それは知ってます。もうずいぶん前から問題になっていましたから」
「ずいぶん前? つい最近のことじゃないの?」
「いえ、騒ぎが大きくなったのは二週間ほど前からですけど、ラッシーに落ち着きがなくなり始めたのは今年の秋ごろからなんです。なんだか妙にそわそわしているような様子で……動物病院にも行ってみたのですけど、異常は見られないって言われました。ストレスをため込んでいる様子もなく、いたって健康だって」
「秋ごろ、ですか。正確な時期は分かりますか?」
「ええと、確か十月の初めあたりだったと思います」
十月の初めに事件の引き金となるような出来事ってあったかな……。
私は一生懸命記憶の引き出しを探ってみる。
うーん、町内会の障害者支援団体の企画で"盲導犬に親しんでもらおう"みたいなイベントがあったような気がするけど、それが事件に直結するかどうかまでは分からないわね。
「あ、そのイベントなら私も参加しましたよ。実際に目隠しをした状態で盲導犬をつれて街中を歩いてみたんですが、不思議と怖くはなかったです。盲導犬訓練士の方も仰っていましたが、一番大切なことは犬との信頼関係だそうですよ」
「八王子でも似たようなイベントありましたねー。もっとも、内容はプロのドッグトレーナーさんによる犬のしつけ方についての講義でしたが。中でも笛を使った教育方法が印象深かったのを覚えています。まるでヘビを操るアラブ人みたいで」
「ま、待って胡桃ちゃん。その笛の音にラッシーが過剰反応したってことは考えられないかな? ほら、ラッシーもプロのドッグトレーナーに躾けられた犬なんでしょう。だったら可能性としては十分ありそうじゃない?」
「ああ、そう言われればそうですね」
胡桃ちゃんも得心がいったようにうなずく。しかし、詠梨ちゃんは反対に首をかしげた。
「そう、でしょうか。私も問題の時間帯――つまり平日の午後四時ごろには周囲に気を配るようにしてましたが、せいぜい集団下校中の小学生の話し声が聞こえてくるくらいで、笛の音のようなものはまったく……」
「そっかぁ……。良い線いったと思ったんだけどな……」
推理が外れてしょげかえる私を励ますように、胡桃ちゃんは明るく言った。
「まあまあ、まだ捜査は始まったばかりですし、これからですよこれから。ひとまずはこの付近一帯の住宅に聞き込みしてみませんか。もしかしたら新たな手がかりを入手できるかもしれませんよ」
「……うん、そうする。それじゃあ、私たちはこれでお邪魔するね。またなにか分かったら連絡するから」
「はい。……あの、真奈美さん」
リビングを出て玄関に向かおうとしたら、詠梨ちゃんに後ろから呼び止められた。振り返ると、頬を赤く染めながら妙にもじもじした様子の詠梨ちゃんが目に映った。
ちょ、なんて可愛いの、この子!? 眼鏡ロリっ娘ってだけでも強烈なインパクトなのに、その仕草は反則よ!!
思わず抱きしめたいほどの衝動に駆られたが、背後から突き刺さる胡桃ちゃんの冷たい視線を感じ、私は努めて平静を装って聞き返した。
「え、えっと、なにかしら?」
すると詠梨ちゃんはより一層顔を赤くして、ほとんど消え入りそうな声で呟いた。
「三年前に私があげたブレスレット、今も身につけてくれているんですね。とても嬉しいです。ありがとうございます!」
頭を下げられ、逆に私のほうが狼狽してしまう。
「そ、そんな、お礼を言われるようなことじゃないわよ。もうほとんど御守りみたいなものだし、むしろ身につけていないと落ち着かないというか……」
「そうなんですか。良かったぁ。あの後、真奈美さんがアクセサリ類苦手だと耳にしたもので、ひょっとしたら気分を害されているのではないかと心配だったんです。でも気に入っていただけたのなら、渡して正解でした。そのブレスレット、真奈美さんにとってもよく似合っていますから!」
「あ……う……?」
ここまでストレートに似合ってると言われたのは初めてだった。だからだろうか、自分でも顔が火照ってくるのがわかった私は、
「ありがとう! それじゃあ、またね!」
と、半ば逃げるようにして詠梨ちゃんの家を後にした。
「うーん。新たに得られた情報の中で特に事件解決につながりそうなものはありませんでしたねぇ」
胡桃ちゃんがシャーペンで額をこつこつ叩きながらうなる。視線はさっきからずっと例の手帳に注がれたままだ。
「でも、同じペットでも猫やオウムに目立った変化は見られないということが分かっただけでも一歩前進じゃない? きっと犬だけが感じ取れるなにかがあるのよ。たとえば特定の周波数の電磁波とか」
「うわぁぁぁあ! 理系用語はやめて! あたし、そっち方面はとことん苦手だから」
あー聞こえない聞こえない、というように両耳を塞ぐ胡桃ちゃん。その仕草がとても可愛らしくて、調子に乗った私はさらに解説を加える。
「ちなみに電磁波は波長の長いほうから、電波、赤外線、可視光線、紫外線、X線……というように呼び分けられていてね。電磁波の挙動はマクスウェル方程式として体系化されていて、波動方程式の一般解として必然的に導出されるものなの。それから――」
「真奈美さん。それ以上知識をひけらかすのでしたら、あたしにも考えがありますよ?」
不気味に微笑んで、手帳をぱらぱらめくる胡桃ちゃん。そしておもむろに携帯電話を取り出すと、番号をプッシュし始めた。しばらくしてから鳴り響くコール音。
「どこに電話かけてるの?」
「佐倉翼さんのお宅です。真奈美さんが翼さんに想いを寄せていることを教えてさしあげようと思いまして」
なっ!!?
頭で考えるよりも先に、私の体は動いていた。
コール音が途切れ、
「はい。佐倉ですけど――」
翼お兄ちゃんの声が受話器から聞こえてきた瞬間――
プツッ! ツーツーツー……
私は胡桃ちゃんから携帯電話をひったくり、通話を切った。切断中の文字が消え、メニュー画面に戻ったのを確認してから、額に浮かんでいた汗をぬぐう。
ふぅ~……危なかった。おかげで寿命が十年くらい縮まったわ。
ほっと胸をなで下ろす私の横で、胡桃ちゃんのアホ毛がぴょこぴょこ動く。
「あの~、いい加減携帯返してくれません?」
「あ、ごめんね。それから、さっきは調子に乗ってすみませんでした……」
「分かればいいんです。今回は特別に許してあげますけど、次は容赦しませんのでそのつもりで。ふふふ……」
……やっぱり、この子は敵に回さないほうが身のためね。いろんな意味で。
「――っと、そうだ真奈美さん。今回の事件をあたしなりにまとめてみたんですが、ご覧になられます?」
「うん、お願い」
うなずくと、胡桃ちゃんは小さく折りたたんだ紙をポケットから取り出した。
「これが事件についてまとめたページのコピーになります。もうだいぶ暗くなってきましたし、それは自宅で目を通していただければいいかなと。続きの捜査は明日の冬期講習が終わってからということでどうでしょう」
「うーん、そうしよっか。うちもあんまり帰りが遅いとおじいちゃんがうるさいし」
「決まりですね。では具体的な推理は真奈美さんにお任せします。あたしも一応お兄ちゃんに意見を訊いてみるので、明日はそれらを検証することから始めましょう」
児童公園で胡桃ちゃんと別れてから、今日はどこにも寄らずまっすぐ家に帰宅した。一刻も早く事件について整理したかったからだ。
少し遅めの夕飯を食べ、お風呂にゆっくり浸かって疲れを取ってから自室に戻る。ベッドの上で俯せに寝転びながら、私は胡桃ちゃんからもらった紙を開いた。
「ええと、なになに……」
<ラッシー失踪事件の概要>
・十月上旬→障害者支援団体による、盲導犬とのふれあい企画が実地された。事件との関係性については不明であるが、この時期から住宅街の犬に異常が見られるようになった。なおイベントには、地域の小学生ら約六十名のほかにボランティアで集まった福祉関係者など、大勢の人が参加した。詠梨さんも参加している。
・十月中旬→犬に落ち着きがなくなるという現象が起こり始める。時間帯は平日の午後四時前後。問題とされる時間帯はちょうど浜下小学校の集団下校時にあたり、犯人は学生であると推測されるが確証はない。また、犬以外のペット(猫やオウム)には異常が見られないことから、おそらく犬だけが感じ取れるなにか(電波類?)が放出されていると考えられる。
・十一月上旬→ラッシーを動物病院で診てもらう。診断結果は「ストレスをため込んでいる様子もなく、いたって健康」とのこと。このことから、もし何らかの電波類が放出されているのだとしても、健康に害を及ぼすものではないと思われる。
・十二月中旬→犬が一斉に吠え出すという奇妙な現象がより顕著になる。飼い主からは不安の声も。
・一週間前→ラッシーが突如失踪。商店街や駅前に張り紙を掲示して捜索協力を呼び掛けているが、依然として見つかっていない。なぜラッシーだけがいなくなったのか、という疑問についても謎のまま。
<補足事項>
・住宅街で飼われている犬の中で、唯一ラッシーだけがプロのドッグトレーナーに躾けられた犬であるため、それがなにかしらの手がかりになるのではないかと考えられる。
・犯行方法に躾け用の笛を用いたとも考えられるが、詠梨さんを含め住人のだれもそのような音は聞いていないとのこと。また仮に電波類を使用したとしても、なぜそのようなことをしなければならなかったのかという動機の部分までは解明できない。
「ふむ……」
時系列順にまとめてあるとやっぱり事件の流れがわかりやすいわね。しかし胡桃ちゃんすごいなぁ。私も頑張らなくちゃ。
――具体的な推理は真奈美さんにお任せします。
別れ際の胡桃ちゃんの台詞が脳裏によみがえる。
推理、か……。偉大な探偵たちが己の究極の武器としている灰色の頭脳。どれほどの難問であろうと彼らの前では必ず解き明かされる。
私はそんな探偵たちに憧れた。いつか彼らと肩を並べたいといつも思っていた。
だけど、所詮は平穏な毎日を過ごすだけだった。当たり前だ、ただの女子高生がそう頻繁に事件に巻き込まれるはずがない。一流魔術師を目指す希ちゃんや、灰色の脳細胞をもつ黒猫師匠と密接な関係になったといっても、それもやっぱり日常の範囲内の出来事でしかないんだ。
でもね。最近になってようやく気付いたの。
――事件に大きいも小さいも関係ないってこと。被害者や困っている人たちを幸せにできるかどうかがもっとも重要なんだってこと。
だから私は全力でこの謎に挑む。必ずラッシーを見つけ出してみせる。
「よし! いっちょ推理してみますか!」
気合いを入れ直し、私は再びメモ用紙とにらめっこ。
まずは、犬だけに刺激を与えるなにか――このメモ用紙では電波類と記載されているものから考えてみよう。
一般的に(これは人間の場合だけど)体にストレスや不安感を与えるものと言えば、低周波音が挙げられる。中でも周波数20Hz以下の超低周波音は、相当の音圧でない限り人間の耳には聞こえない。しかしその環境下に長時間いると健康に悪影響が出る恐れがあるだけでなく、共鳴によって微振動を繰り返す陶器や調度類をポルターガイスト現象と間違えてしまう人もいるらしい。
「だけど、ストレスをため込んでいる様子がないってことは低周波音とは考えにくいわね……。となると、ひょっとして高周波音?」
そういえば、高周波音は聴くことによって免疫活性が増大し、ストレス性ホルモンが減少すると聞いたことがある。ラッシーが高周波音の影響を受けていた可能性は十分考えられる。
私はPCを立ち上げ、高周波音についてネットで調べてみた。
とあるサイトの情報によれば、人間の可聴範囲は20~20000Hzとされている。一方、犬の可聴域は45~65000Hz。下限は人間とそれほど差がないが、上限が圧倒的に違いすぎる。
この高周波帯域を利用して犬だけに聴覚刺激、あるいは指示を与えたと考えると一番しっくりくるような気がする。
そして、それを可能にする道具といえば――
「犬笛……」
人間には聞き取れない超音波(約20000~30000Hzの音)を発して、犬を呼び戻すために開発された道具だ。一応猫も聞き取ることができるが、猫はそれほど人間に忠実ではないため無関心でいることが多いらしい。
そしてもう一つ注目すべきは、犬笛を使って的確に指示を出せるようになるまでにはある程度練習が必要だってこと。犯人が十月中旬に犬笛を購入していたとしても、十二月中旬になるまで騒ぎが大きくならなかったのは、きっとまだ完璧に犬笛を使いこなせていなかったのだろう。あるいは、住宅街の犬たちが笛の指示を覚えるのに時間がかかったのかもしれない。
いずれにせよ、もしラッシーがこの犬笛に過剰反応したとすれば……。
「でも動機は何……?」
犬笛自体はペットショップで千円前後の値段で手に入る代物だから、単に小学生のいたずらってことも考えられるけど……。
「なんかもっと深い理由があるような気がするのよねぇ……」
でもまあ、動機については犯人に直接訊いてみることにしましょう。ここまで分かってしまえば、あとは詰めを誤らないようにするだけだ。
私はもう一度頭の中で推理を反芻してから、眠りについた。
「まったく事件解決のためとは言え、三学期開始早々、授業をサボって張り込みとは」
私の隣で胡桃ちゃんがぼやく。
「ごめんね、付き合わせちゃって。でも犯人を捕まえるにはこの時間帯がもっとも有効だと思ったから」
「それはそうですけど……。でもいいんですか。真奈美さんの推理だと、犯人は浜下小学校の生徒なのでしょう?」
平日の午後四時。通学路となっている住宅街には下校中の子供たちの姿がちらほら確認できる。この歳の子供はまだ恋の意識が薄いからか、男女一緒くたになって楽しそうにおしゃべりしている姿が微笑ましい。
「うん。だけど、住宅街の人たち、特に詠梨ちゃんがとても心配しているということはきちっと教えてあげなくちゃ。それに動機についても気になるしね。もっともなんとなくは予想ついているんだけど」
「へぇ、さすがですねー。……あ、あの子じゃないですか、真奈美さん。小さな笛のようなものを持っていますし」
胡桃ちゃんが指さしたほうを見ると、ネットで見た画像にそっくりの犬笛を吹きながら歩いている男の子がいた。ほかの子とは違い、なにやら決意を秘めたような真剣な面持ちをしている。
「胡桃ちゃん、行くわよ」
「はい!」
私たちは男の子に気付かれないように、あとをつける。
決定的な証拠がない今、不用意に声をかけるのは得策じゃない。なにより、ここでは目立ちすぎる。もし本当にあの子が犯人だとしても、学校の友達がいる前でそれを暴露されたら相当大きなショックを受けると思う。それこそ一生心に傷を負ってしまうかもしれない。それじゃあ、あまりにもあの子が可哀想だ。
男の子を尾行し始めてから十分後、私たちは田んぼに囲まれたとある一軒家にたどり着いた。どうやらここが男の子の家らしい。
「あ! 真奈美さん、見てください! あそこの庭にいる柴犬、ラッシーじゃないですか!?」
胡桃ちゃんの視線の先を目で追うと、確かに張り紙の写真と瓜二つの柴犬が行儀良くお座りをしていた。男の子はラッシーに近づくと、笛を地面に置いて頭を撫で始めた。
「私の推理は間違ってなかったみたいね。あとはあの子にどう説明するか、だけど……」
「大丈夫ですよ、自信持ってください。真奈美さんは子供の幸せを一番に考えられる方なんですから、きっとうまくいきますよ」
「そういくように願うしかないわね。――じゃあ行きましょうか。この事件を終結させるために」
私は一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着けると、広い庭へ足を踏み入れた。
「そう、だったんだ……」
私の推理を聞き終えた男の子は、それまでの正義感溢れた表情から一転して罪悪感に苛まされたように肩を落とした。
そうなることを予期した上で、敢えて私は自分の推理をすべて語った。
犬笛の影響で、住宅街の犬に落ち着きがなくなっていること。ラッシーの飼い主である詠梨ちゃんがとても心配しているということ。
もちろん男の子からしてみれば、まさかこんな事態になるなんてまったく予想していなかっただろう。彼はただ一流のドッグトレーナーを目指して、日々犬笛を吹く練習を重ねていただけだろうから。
「けど、どうしてドッグトレーナーになろうと思ったんですか?」
胡桃ちゃんの素朴な疑問が触媒になったのだろうか、男の子は目に力を取り戻すと、キッと顔を上げて答えた。
「駄菓子屋のおばあちゃんを助けるためだよ」
「それってもしかして、『ハッピーライフ!』の文子おばあちゃんのこと?」
男の子はこくんとうなずいて続けた。
「あそこのおばあちゃん、去年の夏に目が見えなくなっちゃったでしょ。何も見えないってすごく不自由で怖い世界だって僕は知ってる。二年前に死んだ僕のおじいちゃんがそうだったから。駄菓子屋のおばあちゃんも表面上は明るく振る舞っているけど、きっと内心ではすごく怖くて寂しいんじゃないかと思うんだ。だから何とかしてあげたくて、僕にできることはないか探していたときに盲導犬という言葉を耳にした」
「ああ、十月上旬に開かれたあのイベントですね」
「うん。あのとき盲導犬訓練士さんから犬笛という訓練用の笛があるというのを聞いて。値段も安かったから思い切って買ってみたんだ。だけど、僕には音が聞こえないから本当に効果があるのか分からなくて、それでその……」
「犬を飼っている家がたくさんある住宅街で試してみたくなったのね?」
男の子は私の問いには答えず、黙って俯いただけだった。
私はその頭に軽く手を乗せて言った。
「君は……とても優しいんだね」
「へ?」
その言葉が意外だったのか、男の子はきょとんと目を丸くした。
「だって、文子おばあちゃんのためにドッグトレーナーを志すと決めたんでしょ。そのために犬笛を買って、正確な指示が出せるようになるまで毎日頑張って練習して。その姿勢は決して間違ってないと私は思う。むしろ、小学生のうちから誰かのために一生懸命努力できる子ってなかなかいないんじゃないかな。だから君は、堂々と胸を張ればいい。君の心の中にあるものはすごく尊くて優しいものだから」
黙って私の言葉を聞いていた男の子の瞳から、涙がこぼれだした。
「でも…僕……ひっく……みんなに…ひっく……迷惑を……」
「うん、確かに今回はこういう結果になっちゃったけど、それを心から反省している君なら、きっとこれからは正しい道を歩めるって信じてる。だから前を向いて。ね?」
「……うん。分かった……」
「よし。それじゃあ、ラッシーを詠梨ちゃんの家に返しに行こう。ちゃんと理由を話して、ごめんなさいって言えば、きっと詠梨ちゃんも許してくれるよ」
それを肯定するかのように、ラッシーも「ワンッ!」と元気に吠えた。
「いやあ、無事事件解決できて良かったですねぇ」
胡桃ちゃんが清々しい笑顔で、うーんと大きく伸びをする。
「うん、そうだね。あの二人もこれからは仲良く交流を続けていくみたいだし、結果オーライ、かな?」
実に三週間ぶりに愛犬と再会できた詠梨ちゃんは瞳に涙を浮かべて喜んだ。男の子のことも、きちんと事情を説明したらあっさり許してくれた。また、その立派な志に深く感動したらしく、今後は休日にラッシーをつれて男の子の家へ遊びに行くことに決めたそうだ。もちろん犬笛の練習に付き合うために。
「しかし、真奈美さんは本当にすごいです! 初めての事件にしては、細かいところまで気配りが行き届いていて。あんなに素敵なハッピーエンドを迎えることができたのも、真奈美さんの優しい心遣いがあってこそだと思います!」
それは、私がこの道を歩む上で最低限の条件だ。だって――
「探偵はみんなが笑顔になるように事件を解決しないといけないからね」
名声なんていらない。ほんの少しでも、周りの人たちが幸せになれる手助けができればそれでいい。
私にとって、だれかの笑顔が一番の報酬なのだから――。
今回ミステリっぽく仕上げてみましたが、いかがでしたでしょうか。
後半少し書くのがしんどくなって脳が悲鳴を上げていましたが、一応の形は書けたと思っています。
今回が割と真面目だったぶん、次回はまたはっちゃけたいなぁ。バレンタインのチョコ争奪戦って燃えるよね!
ではでは。