最終話
目を覚ますとそこは病院だった。
しかし朔良がそう認識する前に両親の顔が眼に入った。母親が泣いていた。いつも怒ってばかりの母親だったが、初めて泣くところを見た気がする。
「バカだよ、あんたは」
弱々しく叱られた。無口な父親も辛そうな顔でそれを見ていた。
「ごめん」
床に伏したままで朔良は呟いた。腕には点滴がの針が刺さっている。
そして、あれから丸一日経ったと聞いた。本当に出血多量で、朔良が思ったより大変だったらしい。だから起きたのは二日後の朝。
今回関わっていた皆も来てくれていたらしいが、両親が付き添っているということで帰ったらしい。母親が教えてくれた。
「友達増えたね」
そう言い残して昼を過ぎる頃には二人で帰っていった。
そのあと入れ換わるように沙織里や三吉、結花と賢二が来てくれた。皆にもやっぱり叱られた。
沙織里は泣きじゃくっていた。
「松野さんの番号教えなきゃよかった」
沙織里が悔やんでいたから、遅かれ早かれ自分は行っていたから気にしなくて大丈夫、と伝えたらまた叱られた。そういうことではないらしい。
「それで松野さんはどうなったの?冬馬さんたちは?」
そこでやっと気になっていたことを訊いた。両親には何となく聞けなかった話題だった。
両親からも事件のことは何も話してこなかったから。放任主義なのだ。朔良も充分血を受け継いでいそうである。
四人は一瞬、顔を見合わせてから代表して三吉が口を開いた。
「崇史は俺たちを解放して出頭したよ。お前のおかげだな朔良」
「え?」
意外な言葉に朔良は眼を丸くした。自分は途中で目的を変え崇史から去ったのに。でも最悪な状況だけは免れて良かった。
結局、崇史に大きな口を言えた義理は無いのだ。自分も、自分を見失ってしまったから。
「朔良とあの男の子の言葉が効いたみたいだ。志保なんだって?あんときの彼は」
「そう……」
肯定とも頷きともとれるように朔良はポツリと呟く。
誰から訊いたのか、と一瞬疑問に思ったが、盗聴器があったことを思い出した。ケイは盗聴器がある中で力のことを説明したのだった。
「それから松野は一応取り調べ中。決定的な証拠は無いみたいだが……盗聴器の情報では証拠として弱いし、朔良もこれから事情聴取が待ってると思う」
三吉達はすでに事情を聴かれたのだと教えくれた。
「他の人たちは?私に協力してくれた…」
「バイクに乗ってた連中も勾留されたみたいだな。今は分からんが。多分一番責任をとわれるのは、指示を出した一樹かもしれない。彼も今は警察にいる」
一樹という名にどきりとした。無意識にシーツを握る。
自分の責任で一樹が捕まるなんて耐えられなかった。
「そんな顔しなくても大丈夫。きっとすぐ帰ってくるでしょ」
朔良の様子を見て気遣ったのは結花だった。意外さに僅かに眼を見開く。照れたように結花ははにかんだ。
「あんたも素直になんなよ」
朔良には結花の言葉がよく分からない。怪訝そうな顔を向けると、なぜだか結花と沙織里は顔を合わせてクスクス笑っていた。
「なんなの?」
「聞いたよ!結花から。良かったね朔良」
はっ?と声に出ず息だけが漏れた。何となく、これ以上この話題には触れたくない。朔良はそっと嘆息した。
もういいか?、と言いたげな表情を見せてから三吉は続けた。
「そんで、あの二人は今は行方不明」
「行方不明?」
「そう、隼人とケイ…だったか?警察と救急車を呼ぶだけ呼んで、現場からいなくなってたんだと」
まあすぐに素性はわれると思うけど、と三吉は付け足した。確かにDark Killにいた誰かに聞けば分かるだろう。
きっと二人には二人の事情があるような気がした。不思議とすんなりそう思えた。
「そんなところか」
三吉が頭を掻きながら話を締め括った。
それに賢二が割って入る。重要な情報を言うように声をひそめた。
「あの亮ってやつ。あいつは逃走してるぜ」
「………………」
途方に暮れたような顔をして朔良は少し黙る。いや、その場にいた誰もが沈黙していた。
その上結花は賢二を流し目で見た。沙織里だけは顔にクエスチョンマークをつけていたが、空気を呼んで口を閉じている。
やがて空気に耐えられなくなった賢二は、苦しみ出してとうとう叫んだ。
「なんなんだよ!」
「いやあ…あの人はなんかもう……好きにして、というか…」
ぼそりと朔良は力なく言った。何となく、逮捕されている姿がイメージできない…何となく。
「だな」
三吉も頷くと爽やかに笑って白い歯を見せる。その笑顔に一気に空気が和んだ。こういうところは流石だと思う。
それから他愛ない会話をして、三吉が腕時計を見ながら言った。
「あ、俺そろそろ店に戻らないとやばいわ」
その言葉をきっかけに皆は揃って帰ることになった。
「みんなありがとう」
まだ動けない朔良はベッドの上から見送る。
四人は揃って扉に向かったが、しかし結花だけが一人戻ってきた。
「ちょっと朔良に話あるから」
結花がそう言うと皆は病室から出て行った。二人きりになる。
僅かに、MIYOSHIでのトイレの中を思い出させた。あのとき以来、ちゃんと対面するのは初めてだった。
朔良は緊張した面持ちで結花を見る。病室にしばし気まずさが流れた。結花は言いにくそうに顔を歪めた。そして長い息をひとつ吐く。
「あんたがいまここで、こうしてるのは間違いなく、あんたが不用意に動いたせいよ」
「う、うん」
怯みながらも朔良は頷く。結花は更に眉間にしわを寄せた。
「でもあんたが撃たれたきっかけになった、あの場所を作ったのは私なのよ」
「結花…」
「朔良はバカでアホでマヌケでいい加減だけど」
「結花?」
僅かに朔良の眉間にも縦じわが刻み込まれる。
「ちゃんと、謝りたかったの」
「え?」
「そりゃあ、あそこであんたが素直になっていれば、すべて丸く収まってたことよ。私が悲鳴を上げることも怖い想いをすることもなかった…」
「もう分かったよ!」
朔良は堪らず結花を止めた。本当に不器用だな、と内心で思う。でも悪くない気分だった。結花の言いたいことは分かるから。
朔良はふふっと笑った。笑うと少し脇腹が痛んだが構わなかった。
「なによ?気持ち悪いわね」
「素直にごめんなさい、悪かったですって言えないの?」
「なっ!」
「ごめん。私こそごめん。間違えてた」
「……」
きっぱり言い切る朔良に少しだけ結花は黙った。そしてばつが悪い顔をする。
「とにかく、早く治さないとお酒飲めないわよ!」
「え?飲んじゃダメ?」
「当たり前でしょ!なに言ってんの!バカねバカ!」
結花は本気で憤慨していた。そして仏頂面になる。
「なんか疲れた。もう帰る」
そう吐き捨てるとさっさと踵を返した。
「結花ありがと」
朔良が素直に言うと結花は一度だけ振り返った。
「一樹さんとかいう人、ちゃんと考えてあげなきゃダメだからね。あんた、すぐ適当に対応するんだから」
そんな言葉を残してバタンと少し乱暴にドアが閉められた。朔良は独りきりになると、床に伏せ布団を頭まで被せる。結花の言葉が心に刺さって痛かった。
言いたいことは分かる。けれど自信がない。今頃どんな気持ちでいるのか、まったく想像がつかなかった。恨んでるのかもしれない。嫌われたかもしれない。自分のせいで一樹の経歴にキズをつけた。
凌駕する畏怖の念。
こんなときケイならば大丈夫と言ってくれるだろう。朔良が何も言わなくても…。だがケイはここにはいない。もうその必要がなくなったのだ。
そしてきっとその都合に合わせて隼人もいないのだろう。
貴尚のことも結局中途半端なままだ。いつ保釈されるか分からない。
(私がしたことってなんだったの?)
すべてが空回りに終わった気がした。
それからは医師や看護師が顔を出す以外、この病室に訪れる者はいなかった。
そして夕方になって刑事が現れた。池田と知らない男の二人。男は青木だと名乗った。主に池田が話をして、青木は一歩下がって見守っていた。
「酷い顔だな。ちゃんと治療してるか?」
池田は開口一番、不躾なことを言った。今日もよれよれなコートとスーツ。
朔良は布団で顔を覆い、池田に背を向けた。今は警察という名のつくものには、複雑な反応しか示せない。すると後ろから勝手にパイプ椅子に座る音がした。
「おいおい、話してくれるって約束だろ」
確かに車の中で朔良はそう言った。池田とは志保のことで二、三度話してる。そのとき悪い印象は持ってなかったから、話すなら池田にと思っていた。
「いいか?君の証言次第でこれからが決まるといっても過言じゃないんだ」
「え?」
この発言には完璧に朔良の心が傾いた。合わせて体も少し池田に向く。
「いまは盗聴器を通しての話だけだ。だが君は直に聞いている。裁判に持ち込めば変わってくるだろう。松野貴尚をきっちり処罰したいと思うなら、君の証言が効いてくる」
それにと池田は続けた。
「君に協力した者の情状酌量もそれにかかってくる。…だがそれには君も無罪放免となるかどうかは分からないが」
朔良は布団ごと飛び起きた。急激に動いたせいで脇腹に激痛が走る。でも構わず池田の目を捉えて言った。
「私はどうなっても構いません!なんでも話します。全部私が望んで彼らに動いてもらったことなんです!」
池田は無精髭を撫でながら僅かに笑みを見せた。いやらしいものではなく、本当によく言ったとその顔が言っていた。
「じゃあまずその辺を聞こうか?ではあのときの運転手は?」
いきなり朔良は言葉につまった。あの二人についてはどこまで話せば良いか分からない。
しかしすべてを話すならそれは不可欠だった。二人がいなければ事態はまったく別のものになっていた。三吉達はどこまで話しただろうか。
「彼らも協力してくれただけなんです。私がビルに入りたいって言ったから」
朔良は目を伏せた。
「冬馬さんに人を殺させないために」
「なぜそこまでして?」
池田が食いつく。朔良は志保とのこと、そして貴尚についてをすべて話した。
もう志保とのあの話をするのに躊躇いはなかった。お互い間違っていたのだ。それについてはまだ心が痛んだのだが、護るものはもうない。
「ではその本城隼人が来て、君は殺さずにすんだと?」
池田は時々無精髭を撫でながら聞いていたが、ここでその目が鋭いものになっていた。手には手帳を持っていてペンを動かした。
「はい。だから私はあのとき殺意がありました。それで罪にとわれるなら、ちゃんと受け止めます」
朔良はまっすぐ池田を見据えた。その背筋は伸ばされ、凛としていた。それを眩しそうに池田は見返す。
「なるほどな、まあそこは追々聞いていくとしよう」
そしてなぜか話をかわす。朔良は肩透かしを食らった気分になった。
「松野貴尚という男、かなり才能があるようだな。君の傷口に染み込ませた薬品、あれは医学界が驚くようなものだったらしいぞ」
「あんなに痛かったのに?」
釈然としないで呟く。
「あれは熱で血液の凝固作用をさせるものだが、周りの皮膚には一切火傷を起こさないようになってるらしい」
オレもよく分からんが、と素直に池田は頭を掻いた。その説明は手帳を見ながら話された。カンペか、と朔良は口に出さずに突っ込む。
そして池田はちらりと朔良を見た。
「……あと、その後にしたケイという少年との会話のことは?」
「それは………」
思わず朔良は黙る。これは言いたくなかった。
ここからはケイの力の話になってくる。あまり好奇なものとして捉えて欲しくない。もっと神聖なものだと朔良は思うから。
「あの二人のことは私にもよく分かりません。連絡先も知らないんです」
これは半分本当だった。いつもケイが見つけてくれたから、連絡先は知らなかったのだ。それから何度か二人について聞かれたが、すべて知らない分からないで通した。
「分かった。また話を聞きにくる」
池田の方が諦めてその日は帰っていった。見た目とは違い池田は鋭くて、何か見抜いていそうに感じた。
* * *
病院というのは本当に退屈だ。沙織里が持ってきてくれた本は二冊。それを1日で読みきってしまってあとはやることがない。
あれから二日が経っていた。皆仕事や普段の日常があるからなかなか来れないようだ。確かに無理してまで来てもらおうとは思わないが。
朔良は怪我自体はたいしたこと無かったため、ここでの仕事は安静と検査だ。しかし検査はすべて終わっていて安静のみになっていた。
時間があるといろいろなことが頭をよぎり、しんどくなってくる。朔良は枕に顔を埋めた。
もう痛みもない―――これは痛み止のおかげだ―――し、血の気も充分だ。
(一樹さんどうしてるかな?)
ぼんやりそう思って朔良は慌てて首を振った。
沙織里や結花が変なことを言ったせいで、変な意識をしてしまう。自分はそれどころではないのだ、気持ち的に。
志保には間違っていたなんて言ったが、実際に感じていたことは志保に会う前から思っていたことだ。
(いまさら考え方を変えるなんて、できるの…?)
じんわりと目尻に水分が溜まった。焦ってそれを拭う。あれから…涙腺が甘くなってしまったようで、困る。
両親の甘さから、未だに個室でいることは幸なことか否か…。少なくとも人がいればまだ気が紛れたかもしれない。
「甘いな、私も」
だけどやはり一人の方が居心地が好い、と思ってしまう自分がいた。
「何が甘いんだ?」
いるはずのない他人の声を聞いた。
あれ、と思って朔良は枕から顔を上げた。そして目を丸くする。
「ええ?なんでいるんですか?ってか、いつ入ったんですか?」
声の主は苦笑した。
「ノックしたんだけど、聞こえなかった?」
「えっ?聞こえなかったですけど…じゃなくて、刑務所とか拘置所とか…に行ったんじゃ……あれ?鑑別所?」
知識のない朔良の言葉に、一樹は呆れた顔を見せた。
「どれにも行ってない。警察には……ちょっと事情を聞かれただけだ」
留置場にはいたけど、とは一樹は言わなかった。わざわざ面白おかしく話すことでもないし、朔良は気にするだろう。
「ええ?でもみんなが…池田さんも…」
何て言っていただろうか。朔良は深く考えた。
「そうだ勾留!あと情状酌量がどうとか…私てっきり逮捕されたのかと」
朔良の顔が、徐々に自信のないものに変わっていく。
池田は朔良を話をするように持っていったのだろう。一樹も池田と話したが、なかなか理解ある刑事のようだ。悪いようにはしない、と取調室でこっそり、ぼそりと言っていた。
朔良には伝えなくていい。こういう裏側は………まだ、今は。傷を治すのが最優先だと思った。
一樹は鮮やかに笑って左手に持っているものを僅かに上げた。
「これ飾っていいかな?」
それはアレンジメントされた花だった。バスケットに黄色い花を中心にあしらわれている。
「う、うん」
戸惑いながら朔良は頷き、上半身をやっと起こした。なんてお洒落なんだろう。しかし愛でている場合ではない。
「それでどうなったんですか?他のみんなは?」
「全員家に帰ってる。心配ないよ」
こだわりを持って窓際で花の向きを変えながら一樹が答える。意外な一面を見た気がした。
「隼人くんたちは?」
「隼人は……警察に行く前に一度電話があった。しばらく姿を消すって」
朔良は唇を噛んだ。きっとケイのためだ。あの力が公にならないように。
「しばらく経って騒ぎが収まれば、会いにくるだろう」
俺もまだ殴ってないし…と心の内で一樹は付け足した。そうとは知らない朔良は、ほっと胸を撫で下ろす。
「そうですよね」
どこまで隠せるものなのか、今のところ朔良には分からないけれど。
「あとは冬馬さんか…」
崇史はどうしてるだろうか。とても辛そうにしていた顔だけが浮かんでくる。
一樹が朔良の呟きに振り返った。
「怪我が治ったら、一瞬に面会に行こうか」
「はい」
特に深い意味もなく朔良は頷いて続けた。
「松野さんの面会は出来ないかな」
「なぜ?」
一樹の表情が強張った。しかしそれは一瞬だけだったため、朔良は気づかない。
「肩の怪我、どうなったかなと…」
朔良は自分の手を見つめる。また震えていた。かなり深く刺した感触が残っている。
「あのことはもう気にするな。あれは自業自得だろう」
「でも………」
「朔良」
制止するように一樹は呼んだ。思わず顔を上げると、一樹の顔が近くにあった。ベッドに腰掛け、体重をこちらに寄せていたのだ。
朔良の鼓動が速くなった。
「もう終わったんだ。あとは警察の仕事だ。朔良は治療のことだけに専念すればいい」
「それは、分かってます」
「いや、分かってない」
「ええっ?信用ゼロですか?」
「ずいぶんハラハラさせられたからな」
そこで一樹は真面目な顔になった。
これだ。この表情をされると、朔良は何も言えなくなってしまう。だから目線を逸らして言った。
「それは……すみません」
「駄目だ。許さない」
「え…っと……」
「約束してくれ。もう独りで危ないことはしないと……じゃないと俺がもたない」
そこで一樹は項垂れる。綺麗なうなじが朔良の瞳に映った。
触りないな、とぼんやり思う。しかし一樹は顔を上げた。しまった。真剣な話しをしている最中だった。
「だいじょー……」
大丈夫ですよと最後まで言えなかった。一樹が低い姿勢のまま抱き締めてきたから。
今回は予感があった。なんとなく。なのに体が石のように硬くなり動かせない。うなじが近くにあった。
「朔良は俺とは約束してくれないよな」
「あの…そんなことないです」
見惚れていて即答出来ませんでした、とは朔良にはもはや言えない。
「だったらお願いがあるんだ。もっと朔良のことを聞きたい。朔良がなぜ死について考えるようになったのか、死にたいと思っているのか知りたいんだ」
この話はまだ胸が騒いだ。でもそれは、明らかに以前までのとは違うものだった。
「それとも、それも重荷に感じるか?それなら無理にとは言わない…でも……」
一樹にも迷いが見えた。迷わせているのは自分だと気づく。
「あれは…もういいんです。間違っていたって分かったから」
勘違いという名の羞恥心。本当は分かっていたのかもしれない。歳を重ねるごとに変わり始めていた心。いつまでも死を拠り所にはできないのだ。
(もうやめよう)
もう意地を張った思い込みは必要ない。朔良は意識を切り替えた。
「それより私は一樹さんが心配です」
「心配?」
一樹が離れて顔を上げた。思いもよらなかった言葉を聞いたような顔をしていた。
「私のせいで前科がついたんじゃないですか?」
心配そうに言う朔良に一樹はため息をついた。
「あのな。卑屈に考えすぎだ。別に今更これくらいの罪が増えたところで…」
ふいに一樹が黙った。失言とその顔が言っている。
「いまさら?」
はっきり朔良はしかめっ面になった。
「いや、たいした罪にはならないということだ。今回もおそらく書類送検か、悪くても罰金ぐらいで終わり…」
「今回も?」
「………………」
完全に一樹は言葉を失っていた。それに朔良はふふっと笑う。
心のタガが外れたように軽くなった。慣れているから良いという問題ではないことは分かっている。しかしあまりにも軽く一樹が考えているから、可笑しくなったのだ。
「今日はいろんな一樹さんが見れて楽しい」
クスクス笑いながら素直な感想を述べた。
「うるさい」
僅かに顔を赤らめて一樹は言った。また、新しい顔。
「一樹さん、約束します。もう無茶なことはしません。もう、その必要も無くなりましたから」
約束は稀に鎖で交わしたものを締め付ける。しかしこれは、そうはならない。確信があった。
(だって満たされていくから)
隙間が埋まる。それは憎悪に支配されたときと似て非なるものだった。確実に今の方が好い。心が健康的だ。
「重荷なんて…感じません。いえ、感じてもいいんです。嬉しいから」
「朔良……」
「だからお願いは聞きませんよ。あ、後半部分だけですけど」
もう思想を分かち合う人は必要ないのだ。
「分かった」
やっとそこで一樹も微笑んだ。そして真顔になると、朔良の耳に左手が伸びてきた。
「朔良。俺も約束する。ずっとそばにいる……俺が朔良を護るから」
親指が渇いた目の下を撫でる。彼が触れている部分が火照るように熱くなった。
しばらく動けず見つめたままでいると、一樹の顔が近づいてきた。
鼓動が最高潮に高鳴る。しかし嫌な気はまったくしなかった。
だから……目を閉じた―――。
そして一樹の唇が朔良の唇に重なる。
―――朔良には幸せになって欲しい。
志保はそう言っていた。自ら耳をふせていたが、これも確かに志保の望みだったのだ。
朔良の瞳から涙が溢れた。だけど…そのまま身を任せていた。
頬を伝う水分に気づいて一樹が顔を離す。そして何も言わずに指で拭った。
「ごめんなさい。私あれから泣き虫になったみたい」
ダメだな、と朔良は目を押さえながら呟いた。
「全然駄目じゃない。いままで無駄に我慢してきたんだ。泣きたいときは泣けばいい」
「ムダ…」
少々朔良の頬が膨らむ。だけどすぐに笑みが戻った。
それを見ると一樹は包み込むように抱き締めた。朔良も背中に腕を回す。
すると一樹はそっと耳元で囁いた。
「良かった。ほんの少しだけ罪悪感があったんだ」
「え?どういうことですか?」
首を出来るだけ一樹に向けて訊く。しかし、それからしきりに朔良が問いただしても、一樹は口を割らなかった。
あのとき、朔良の寝込みを襲ったようになってしまったことは、これで闇に葬り去られたのだ。
窓際にある黄色いチューリップが僅かに揺れた。