殺意
―――理解が、出来ない。
そんなことが目の前に現れたとき、今までは自然と受け流してしまってきた。そういうものだと割り切って。
(なんで…死にたい、なんて…)
しかし今回ばかりはどうしても納得がいかない。受け流してしまえるものならば、今すぐそうしてしまいたい。
………いつか死ぬ為に彼氏をつくらない。間違ってる、と一樹は拳を握り締めた。
今までDark Killに来る客の中で、死にたいと自分に漏らす者は少なくなかった。実際にリストカットの痕を持つものや荒んで暴れる者もいた。
しかし彼女のように内に秘めていて、おくびにも出さない人には初めて会った。よりによって…何で彼女が、と思うのは贔屓目なのだろうか。
一樹の隣では崇史が怒りを露にしていた。
「こいつ絶対に許さない!ここから出るぞ!亮。殺しに行く!」
戸惑い顔で亮が無理だよ、と答えている。
(止めないと……)
一樹はどこか頭の隅でそう思っていた。自分は崇史には誰も殺させないと、朔良に約束したのだ。
(そんな必要あるのか?)
そのとき違う方向から別の声が聞こえた。ねとりと張り付いて、それは執拗に一樹にまとわりつく。
しかしそれも自分自身の声だった。
自分もこの男は許せない。どうなろうと構わない。だが朔良の願いを叶えたいと想うことは……いずれ彼女の最終的な目的さえも…自分は力を貸してしまうことになるのか…。
(嫌だ!)
そんなのは駄目だ、と強く思った。
今ではなく、例えそれがいつかだとしても、そんなことは問題ではない。失いたくないんだ…どのような形であれ。
(この気持ちも重いと、朔良は思うのか?)
途中でスピーカーからガサガサという不快な音が耳を障った。その隙間からしっかり聞こえた声だった。
(朔良が泣かないのは誓いのため?)
時折見せた哀しげな笑顔。それは見ている自分の方が切なくなる表情だった。
「崇史!」
亮の叫ぶ声が一樹をはっと我に返らせた。
崇史が拳銃を握り締め窓から身を乗り出すところだった。珍しく亮が慌てて、それを押さえていた。
一樹は苛立った。自分には、あんなに偉そうなことを言ったのに。
(お前は何だ?)
気づくと頭より体が先に動いていた。
大股に窓に近づくと一樹は崇史の肩を掴んで、力づくで引きずり降ろした。
「落ち着けよ!!」
一喝して崇史の頬を力任せに殴る。崇史は後ろによろけた。
亮が読んでいてしっかりと支えていたため、倒れることはなかった。力が逃げないから余計に痛かっただろう。
「朔良はお前が殺人犯にならないようにここまで来たんだ!いい加減にそんな感情に捕らわれるのはよせ!」
呆然と崇史は下を向いていた。やがて、くしゃくしゃに顔を歪めてその場に座り込む。両手で顔を覆ったから、その後の表情は分からない。でも肩が震えている。
(ちくしょう…)
殴っても全然すっきりしなかった。むしろ自分も痛かった。
手と…心が…。
それは八つ当たりに近かったからだ。
張りつめた空気の中で、しばらく誰も口を開かなかった。
* * *
閑静な高級住宅街の一角。そこにこの場所には不釣り合いな車が停まっていた。そのバンパーはこれ以上はない程にひしゃげている。
その中で二人はじっと時期を待っていた。
車内では暖房を効かす為にエンジンがかかっている。
「ああ、また一樹さんからだよ」
そのときバイブ音がして携帯を見ながら隼人が嘆いた。そして何度か悪寒を感じたようで、落ち着かなくそわそわしている。
その隣でケイは応える余裕がなかった。まっすぐ一件の家を見つめている。
いや、厳密に言うとその周りを蠢く影にであった。
(ここには良くない気が満ちている)
影は形を成していなかったが、ケイはそこに六体いることを見抜いた。
その中に挑むように彼女は立っていた。
影が発するのは、言葉にならない憎悪、軽蔑、驕慢、嫉妬、そして悲哀―――そんな負のエネルギー。
すぐに感化されてしまう自分には、この場にいることがとても耐えられない。だがその影は、自分よりも彼女を取り込もうとしていた。それは彼女だからというわけではなく、たまたま近くにいるという理由だけで。
だから、彼女は入れない。
彼女は最初から朔良の傍にいた。あの雪の日だ。
本当のことをいうと、ケイには立ち尽くす朔良より、彼女に心を奪われていた。
罪悪感と戸惑い、そして労るような気配がそうさせた。まだ言葉としては何も聞こえなかったが、想いだけが溢れていたのだ。
朔良のオーラから感じたのは、極度の悲しみと絶望感。危うさはこのときから存在していた。
しかしそのようなモノは街中至るところにあるのだ。
ケイは人混みが苦手だった。すべての声が波のようにうねってケイの耳に飛び込んでくるからだ。
普段ならばケイはそのすべてに無関心を決め込んでいた。そうでなければ気がおかしくなる。その他に、隼人が嫌がるからという理由も確かにあった。
自分を心配しているのは痛いほど感じるのだが、どうしても見て見ぬ振りは出来ないものが中にはある。
まさに彼女と朔良のそれは、無視できない念だった。多少距離があっても感じてしまう程の強さがあったのだ。だから自分から近づいていった。
彼女は嘆いていた。
―――ツタワラナイ。
一番最初に聴こえた彼女からの言葉はそれだった。実際に離れていたが、微かに届いた。
ケイは思わず朔良を…いや、彼女を探し出した。
―――どうしたの?
そして見つけた彼女につい声を掛けた。最初は頑なで何もケイには伝えて来てはくれなかった。
だから隼人と再び会いに行ったのだ。あのビルへ朔良が向かって行ってるのは判然していた。
(でも榊原さんが無茶ばかりするから)
彼女はとうとうケイに振り向いた。朔良と同じくらいに寂しそうに笑って、そして懇願した。
―――ツタエテ…。アタシノホントウノ想いヲ。
けれど、それに自分は失敗した。伝えきる前に拒絶されてしまったのだ。
(今度こそ、ちゃんと言うから)
ケイが硬く口を結んだとき耳をつんざくような絶叫が聴こえた。
(!)
耳を反射的に覆ったが、それは意味を成さないことは知っていた。聴覚ではなく心に直接響くから。
―――痛い!痛い痛い!……いやだ!!
朔良の思念だ。そう気づいた時には終わっていた。残されたのは静寂な闇。しかしそれは混沌としていた。
新たな波がくる…。嫌な予感が、する。
「――…い、おいっ!」
はっとケイは呼び戻された。心配そうな隼人の顔がこちらをうかがっていた。
何度も呼んでくれていたようだった。気づかなかった。
「ああ…ごめん」
声を出して初めて血の気が引いているのに気づいた。
隼人は何か言いたげな顔をしていたがそれ以上は何も言わない。自分が踏み込める領域ではないことを、隼人はちゃんと知っているのだ。
(助かるよ)
普段はなかなか素直に言えないことを、やはりケイは口には出さずに心だけで想った。
そしてケイは再び彼女に顔を向ける。
……今でも彼女は朔良を見守っていた。そこには今起きたことを目の当たりにして、悔やんでいる念がある。
―――アタシトノ約束ガ、サクラヲ、縛ってシマッタ。
(そんなことないよ、貴女のせいじゃない)
ケイは目を閉じて念じた。 彼女はこちらを見ようとしない。ケイの声は届いていないようだった。
(中で何が起こってるんだろう)
ケイが得るモノのひとつは、彼女から伝わってくるものだ。透視能力があるわけではないから。
彼女が中に入れないのと、こちらを意識する余裕がないから今は何も分からなかい。
そしてあとは思念だ。
だからケイは集中して何とか読み取ろうとする。
彼女の思念と中にいる朔良のオーラ…そしてもう一人の男の声。
人ならざる者も、そして生きている人も強い思念を持っていればケイには否応なしに届くのだ。
しばらくして、影に勢いが増した。家の中に次々と入り込んでいく。周りから負のエネルギーに誘われて、下級な霊が集まり出してくる。
彼女が振り向いた。
―――サクラガ……。
その声にぴくん、とケイが反応した。そして合わさって聴こえた男の声。
―――この女はもうすぐオレノモノになる!
恐ろしいまでの執着心。
吐き気が襲ってきて、ケイは右手の掌で口を覆った。自分のオーラを汚されたのがわかる。
しかし間髪入れずに次の声が聴こえてきた。
―――コロシテヤル!
ケイは顔を上げた。
(榊原さん!)
あまりの憎悪に触れ全身が震え出した。思わず自分で自分の体を覆う。
強すぎる思念は頭痛も引き起こした。しかしそれを押さえるには手が足りない。
「ケイ!」
隣で隼人が再び心配そうに声を掛けてくる。今度はしっかりケイも反応して隼人を見返す。
隼人はいつもそうだ。何の力もないはずなのに、自分の異変にはすぐに気づいてしまう。
大丈夫、と言おうとしたが声にはならなかった。しかしそれは体調のせいではなかった。
そのとき、聴こえてきたのだ。
強く荒々しい渦の中に、そっと紛れた弱々しくて小さな思念を。
だけど、待ち焦がれるほどに待った、朔良からのその言葉。
―――助けて…。
「隼人!中へ!」
変わりに目を見開いて叫んだ。それが合図になった。
その瞬間の隼人の反応は素晴らしかった。
何も発することなく、すぐさま車から降りて標的の家に向かって駆け出した。その左手に予め用意したバットを走る勢いに合わせて振っている。
周りで蠢いていた影は、隼人の輝くオーラに負けて道を開けるみたいに別れた。いつだって強いのは生きている人間の想いの方だ。
ケイはそれを見送りつつも、不本意ながら動けずにいた。強すぎる思念を受けたせいでしばらくその場に留まらなければならなかったのだ。
背もたれに体をすべて預けると、ずるずると重心が下がっていった。
そしてケイは長い息を吐いた。
(聴き漏らさなくて…良かった)
* * *
貴尚は朔良の頭を右手で撫でた。顔にかかっていた髪を後ろにやる。
そして顔をゆっくり近づけた。しかし唇が触れそうな瞬間になっても朔良は何の反応しなかった。
だから口づけはやめて、その唇を朔良の左耳に持ってきた。
「つまらないよ朔良ちゃん。今なら簡単に君を犯すことが出来る」
心底つまらなそうに貴尚が呟いた。仕方なく貴尚は喋り続けた。
「それじゃあ今まで我慢した意味がない」
おそらく耳には届いているだろう。たとえ心までいかなくとも。ならば心を響かせることを言えばいい。
「君を送るとき、志保ちゃんの家まで行ったんだ。どうなったか気になって。あと、証拠隠滅を計るためにね。そしたら悲壮感たっぷりの彼女が出てきて面白かったよ。君は寝ていたけど」
強い薬物は容量を間違えると拒否反応を起こすことがある。 朔良は一日に二錠呑んだために、そうして気を失った。そんな彼女を送っていく前に寄ったのだ。
「でもね。飛び降りる瞬間彼女は笑ったんだ。苦しみから解放されるっていう笑みだったのかな?」
そう言いながら貴尚も笑みを作る。
「本当に君たちは笑うことが好きだよね。僕もそれで笑顔でいたんだよ」
楽しくもないのに、と言いかけてやめた。愉しいことならあった。くだらないこの世界でたったひとつ。
しかしそれは今、目の前でつまらないものに成り下がっている。
「朔良ちゃん。志保ちゃんは君を裏切った。だったら君ももういいんじゃない?」
そう言うと、ぺろりと朔良の耳を舐めた。ぴくっと目の前の耳が小刻みに震える。
おや?と思って貴尚は体を僅かに起こす。目に入った朔良はまだ虚ろな表情をしていた。死んだ瞳だ。
腑抜けだろうとも、こういうこと|には反応するのか。それとも芝居か…。
貴尚の眼孔が光った。
(確かめる価値はあるよね)
そして貴尚が中央に体勢を立て直したときだった。静かに朔良の両腕が貴尚の背中にまわされた。
貴尚は腑に落ちない顔をした。朔良から抱きしめてくることはあり得ない状況だ。しかし朔良の表情に変化はなかい。
「どういう、つもり?」
怪訝に思いながら視線を移した。返答がないことは分かるため自分で探る。
(なにか変化は………)
そのときパソコンのデスクの上に目線が止まった。
あった――。
貴尚は気づくとすぐさま左腕を上げた。するとちょうど、朔良の右腕が貴尚に向かって降ろされたところだった。腕と腕がぶつかる。
そのとき朔良の手から何かが落ちた。貴尚はそれが何か見ないでも分かった。手当てのときに使い、デスクに置いていたはずのナイフが、いつの間にか消え失せていたのだ。
失敗に終わると朔良は貴尚を押し退けた。今までにない力だった。
愕然としながら貴尚は退く。
一連の動作のなか、やはり朔良は腑抜けのままだったからだ。
「朔良ちゃん?」
理解不能と脳のデータが打ち出した。
焦点の合わない眼で立ち上がると、落ちたナイフを拾う。痛みが生じているはずなのに、まったくそれを感じさせない滑らかな動きだった。
そして一言、久しぶりに口を開く。
「殺してやる」
貴尚はぞっと鳥肌がたった。完全に目がおかしい。
(イッてるってやつかな)
冷や汗をかきながらも貴尚は冷酷な含み笑いをみせた。
―――こうでなくては、面白くないだろう?
* * *
脳が指令を出すより速く身体が動く。
だが条件反射とは違った種類のものだ。それよりは遥かに永い時間だった。
先ほどまで雁字搦めに縛っていた痛みは、不思議と今は解放されていた。それを差し引いても、自分の能力よりはるかに強い力と動き。それが今は可能だった。
乗っ取られている。それが一番フィットする言葉だ。
感情についてはただの殺意。誰かの望みだとか自分の願いだとか…もうどうでも良かった。
彼女の想いはすでに自分の手の届かないところにある。自分の望みも意味を成さなくなってしまった。
―――ではおまえのほんとうの願いはなんだ?
どこからか声が聞こえた。女性のものとも男性のものとも…果たして若いのか年寄りの声なのかも判らない。
(本当の?)
面白い聞き方をする。だからそんなものは失くなったのだ。
―――では何故そこまで殺意に満ちている。
それなら分かりやすい。決まっている、憎いからだ。
目の前にいるこの男が現れなければ、今でもどんな形であれ志保と同志でいられた。それを壊したのは間違いなくこの男。憎んで当然、怨んで何が悪い。
―――そうだな。当然の権利だ。
声が同調した。そのとき更にどくんと朔良の鼓動が鳴った。何かが入ってきた。そんな感触があった。
不思議と恐怖は感じなかった。むしろ体が軽くなる。
―――ではそれが今のおまえの願いだな。
声は遠くではなく、自分の中から聞こえてきた。
(願い…)
そうかもしれない。
余計な感情はすべて取り払ってしまえばいいのだ。そうすれば生まれてくる。怨念。
自分の右腕が大きく振りかぶる。足が跳ねるように軽く、貴尚に向かって駆け出した。
目指すところは貴尚の左胸。そこに狙いを定めナイフを突き刺すように腕が動いた。
「甘い」
貴尚は寸前で右向きにかわす。勢いが止まらず二、三歩無駄に前に行く。
すぐに振り向き、貴尚の方へ斜めにナイフを降り下ろすもすべて空振りに終わった。
「動きに無駄が多いよ。朔良ちゃん」
貴尚は自分が殺されるかもしれないのに余裕があった。朔良の憎悪は貴尚の声を聞く度に増す。
(むかつくむかつくむかつく!)
休むことなくナイフが貴尚を狙う。貴尚は避けながら朔良の左腕を掴むと、自分に一旦近づかせ背中を壁に向かって押した。
今の朔良の体は強く、壁に激突されることは免れた。しかし一瞬隙が出来る。
その隙をついて貴尚はひとつの棚から何かの薬品を取ろうとした。
「サセルカ!」
カッと瞳孔を開いて迷いなくナイフを背中に突き刺す。
貴尚は舌打ちをして身体を反転させ、それもすれすれのところで避けた。
(え?)
数秒遅れて朔良に戸惑いが生まれた。それでも体は止まらない。ナイフを左右上下に降りながら貴尚を追いつめていった。
(なに、今の声…)
とても自分から発せられたとは思えない低くしゃがれた声だった。
途端、綻びが生じた。迷いと恐怖が憎悪に混じって溢れ出す。
―――なにを躊躇うことがある。おまえの願いが叶うならそれで言いはずだろう。
中から再び声がした。それと共に、ある映像が脳裏に焼きついた。
―――この男がなにをしたか思い出せ。
―――そうだ。
―――こいつに情けは無用だ。
―――殺人犯なのだから。
四方八方からそれぞれ違う声が集まった。
(志保を奪い、人を弄んだ)
ぎりと朔良は歯ぎしりをして貴尚を睨んだ。これは自分の意志であった。
そのとき浮かんだ映像は、朔良は見ていないはずのもの。
志保がベランダへ出てきたところだ。泣き腫らした瞳に、それでもまだ足らず涙が滴っている。
そして目を閉じて…笑った。安らかな笑み。やっと楽になれる、そう志保の口が動いた。
そして………その身は優雅に飛び立った。
なぜこのようなものが見えるのか、そんなことは気にならない。確かに自分には志保の哀しい過去のことは分からない。だが綻びは完全に修復された。
朔良の視界が戻ると貴尚が出入口から見て左の突き当たり、壁と壁とが接する角に追い込まれていた。遠慮なくナイフを振りかざす。そこにはすでに朔良の意思もシンクロされていた。
貴尚はやはり不敵に笑って、そして言った。
「君が僕を殺したら、完全に君は僕のものだね」
「………」
このときは貴尚の言葉の意味が分からなかった。しかしそのままナイフを持った右手は、まっすぐ前に突き出された。
「ぐっ!」
一瞬の動きの鈍さが貴尚の致命傷を避ける。貴尚は下にいた。
しかしその左肩には避けきれなかった傷がある。紅いものが白いシャツに鮮やかに染み渡っていった。
朔良の顔にも飛沫を浴びた感触があった。それを拭いもせず朔良は思った。
(まだだ…)
この男はまだ生きている。
朔良の左手が、逃げられないように貴尚の胸ぐらを掴んだ。位置を合わせて片膝をつく。
(やっと殺せる)
(本当に…?)
どれが自分の声なのか、朔良には分からなくなっていた。
殺す。
これで終わりだ。
コロス。
でも……。
コロセ!
待って…。
シンデシマエ!
違う…。
シネ!
助けて…。
コイツガ死ネバ全テ終ワル!
「シネ!!」
朔良の口について出た言葉と共に、右腕は持ち上げられた。
貴尚の眼が揺らいで硬く閉ざされたのが見えた。
ナイフが降り降ろされたそのとき―――。
ガシャンという破裂音が下の方から微かに聞こえた。それと同じくして自由になる身体。朔良は思わず反発した。
ガキッという鈍い音。
ナイフは貴尚の左側、その身に触れるすれすれの壁にめり込まれた。
どっと押し寄せる重みと痛み。今までの軽さが嘘のように。
朔良の息がかなり荒くなってきた。上下に激しく揺れる。
貴尚がどこか驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「朔良!」
叫びと共に開けられたドア。重い頭をぎこちなく向かせた。
すると瞳に飛び込んできたのは隼人だった。右手にバットを持っている。あれでどこかの窓ガラスを割って入ったのだと、朔良の頭ではまだそこまで回転しなかった。
「なにやってんだよ!」
隼人は怒鳴ると固まったままのこの状態を睨み付けた。そして近づいてきた。朔良の硬くなってる手を持ち、左から指の一本一本を外していく。
貴尚の縛りが解けた。しかしそれでも動かずに突然やってきた侵入者を見つめた。
「なんだ?お前は」
不快感をあらわにしている。いつもの柔らかさは無かったがこれが本来の姿かもしれない。
それに隼人は一瞥だけくれると今度は朔良の右手も外しにかかった。まだナイフを握り締めたままだったのだ。
朔良は茫然自失となり眺めているだけだった。すべての白くなった指を外すと隼人は貴尚から朔良を離した。そして貴尚を見る。
「俺はあんたはゆるせない。いまツレが警察呼んでるからな。大人しくしてろよ」
貴尚は二人が前から離れたのを見計らったように立ち上がった。パンパンとジーンズをはたいている。
「警察が来て困るのは君たちの方じゃない?ここは僕の家だし、殺されかけたのも僕だ」
殺されかけた、その言葉に朔良が震えた。やっと実感が湧き上がってくる。
それに気づいて隼人は朔良を気遣うように隅に座らせた。パソコンデスクの隣の壁だ。そして隼人は貴尚と対峙した。
「いいや、あんたの方がヤバいだろ。ここの薬とか見られたらさ」
貴尚は机に向かいながら言った。
「別に困らないよ。これは僕の仕事だ。薬物禁止法に定められているものはない」
そこで机を背にもたれた。まったく肩の傷は気にしてないようだった。
「誰かに、無理矢理呑ませたということをしてない限りね。でもそれも証拠がなければね」
朔良はぼんやりした頭で何気なく床に落ちてるはずのカプセルを探した。どこにも無かった。
(いつの間に……)
おそらく手当てしたときだ。あのときしかそんな暇はなかったはずだ。
「知らねえよ、んなこと。あんたは悪いやつだから何か出てくんだろ」
隼人はさらりと言った。適当で自己中心的な物言いに朔良は笑いそうになった。はっきりしていて気持ちが好い。
こんなふうに自分もなれれば良かったのかもしれない。朔良は両膝を立てて顔を埋めた。すると朔良の耳に知っている声が左上から落とされた。
「榊原さんは榊原さんだよ。誰かになる必要はない」
ケイだ、と顔を上げなくても分かった。だからそのままにしていた。
「また侵入者が増えたか。出て行ってくれないか?僕は招待した覚えはないよ」
貴尚が不機嫌そうに言うのが聞こえた。自分には決して出さない声色。
「うっせえよ」
一言だけ隼人が吐き捨てると、ガシャンという音がした。慌てて顔を上げる。するとバットを握り締めた隼人が、机の上にある薬品を割っていた。
「変なもん使うなよ」
また貴尚が何かしようとしたらしい、とこの台詞で分かった。青ざめて様子を見ているとケイが肩を叩いた。
「ここは隼人に任せて俺たちは下に行こう」
朔良は戸惑った。心配そうにこの場を見つめる。
「でも………」
「大丈夫。隼人も強いんだよ」
優しく笑う顔とは裏腹にかなり強引に朔良を立たせた。
「ま、待って…」
体が鉛を持ったように重い。それだけではなく、当事者である自分がさっさと退散していいのか躊躇われた。
「ゆっくりお話したいから」
ケイが澄んだ眼でそう言う。
(お話…)
何の話か朔良には痛いほど分かった。