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「あの男には近づかない方が良い」
志保が死去して7日目の夜のことだ。マスターが唐突にそう言った。
朔良は記憶の手がかりを探してMIYOSHIやvistaに通いつめていたのだ。その事に必死で、お通夜にもお葬式にも行かなかった。
それよりもっと志保の真実に近づくことの方が大切だとこの時は思っていた。一日だけ…あの雪の日だけは気持ちの整理が必要だったが。
しかしこのvistaのマスターは無口だった。三吉ほど客と仲良くならない為、何度か来ているが朔良は名前も知らない。だがマスターは常連客の顔はちゃんと覚えていた。
前に酔いすぎの状態で来てしまい、なかなか注文出来なかった時があったのだ。それなのにいつも頼むカクテルが出てきたことがあった。無言で……。
その時は志保と二人で来た時で二人してマスターに質悪く絡んだ覚えがある。消したい記憶だ。
マスターはなかなか綺麗な顔立ちをしていたが、クールすぎて近寄り難い雰囲気を醸し出していた。生活感がまったく見えない。年齢も不詳だった。
しかし貴尚とは知り合いのようだった。何度か二人で話しているところを朔良は見かけていたのだ。
だからマスターに貴尚のことをそれとなく聞き出そうとしたのだが、マスターは口が堅かった。
そして一週間通いつめ、やっとマスターから喋りかけてくれたのだ。それが先ほどの言葉だ。その際こちらを見ないで言われた為、一瞬朔良は自分に言われたものだと分からなかった。
その内容に後れ馳せながら返答する。
「どういう意味ですか?」
「別に。そのままの意味だ」
もくもくと洗ったグラスを拭きながら答えている。朔良は眉をひそめた。
「松野さんと、どういう知り合いなんですか?」
その日はマスターが一人で店を開けていて、それで充分と思える客の少なさだった。聞かれて困る者はいなかった。
「関わらない方が良い」
マスターはそれしか言わない。
「それではよく分からないので、余計に関わってしまいます」
朔良がきっぱり言うと、マスターは思わずという感じで朔良の方を見た。
貴尚の情報はこれまですべて空振りに終わっていた。初めて得られる機会なのだ。意地でも聞くという姿勢を感じたのか、マスターはため息をついた。何であれ、マスターが感情を表すのは凄く珍しかった。
「松野はただの知り合いだ。………だが危険なやつだ」
「危険?」
「そうだ。だからだ」
それだけ言うと綺麗に拭かれたグラスを棚に戻すため、朔良から離れた。
(それで終わり?)
朔良は心の中で突っ込んだ。マスターの言う危険…とはどういう意味だろうか。男として危険なのか、それとも人として?
「はい」
朔良は学校の授業でしていたように手を挙げマスターを呼び寄せた。少し酔いが回っていたのだ。
マスターは眉をピクリと上げたが、それに従って朔良の前に戻ってくれた。
「もし私がその忠告を破って関わったらどうなりますか?」
先生のように指してはくれなかったが、構わず朔良は生徒のように聞き方を変えて質問する。正直なところ貴尚の危険な感じは承知していたが、何とか話を続けたかったのだ。
マスターはどこか侮蔑の目で見ていたが教えてくれた。
「君は狂わせられるだろう」
挙げたままだった腕が力なく下がった。
「やつは狂気に満ちている」
(狂気………)
普段無口なマスターから出た言葉だからとても嘘のものとは思えない。
「それってつまり……」
「忠告はしたからな」
マスターはそれだけ言うと今度こそは、という風に仕事に戻った。
「つまり…薬のことですか?」
しかしポツリと溢した朔良の言葉に、マスターは顔を上げた。
「気づいていたのか…」
どこか呆然とマスターは呟く。
朔良が異物を混入されるのは決まってvistaだった。マスターはもしかしたら、何か気づいていたのかも知れない。最初はこっそりマスターを疑ったのだが、それは墓場まで持って行くとしよう。
「だったら尚更分かるだろう?」
「だけど…だからこそ、松野さんのこと教えて欲しいんです」
「分かった」
マスターは聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ため息混じりに呟く。
「松野は薬の研究をしていた。今もしているかは知らない」
そして淡々と語りだした。
(研究……?)
朔良の顔色が険しいものになる。
「薬物に密接に関わっていると知ってるからこそ分かったことだが……たまに君がいるときに不穏な動きを見せていた。だが実際には混入する瞬間は見ていない」
「見てない?」
独り言のように朔良は呟いた。怪訝な気持ちが口についたらしい。
「前後の動きから推察したんだ。やつは頭が良い…その尻尾はなかなか見せないだろう」
そこで一旦言葉を切った。別のカウンターに座っている客から注文が入り、それに応じに行ったのだ。
カクテルを飲みながらそれを待つ。マスターさえも見ていないのであれば、警察に言っても軽くあしらわれるだけだろう。頬杖をつくと、思わず深いため息が出た。前途多難だ。
「諦める気になったか?」
その様子を見て、いつの間にか戻ってきたマスターが素っ気なく言った。
いいえ、と力強く首を横に振る。
「どうして薬の研究してたって知ってるんですか?」
朔良のその質問に、マスターは珍しく戸惑いの表情を見せた。言いたくない、と朔良でも分かる反応だった。
根気強くじっとマスターの答えを待っていると、やがて彼は教えてくれた。
「かつて俺も同じ製薬会社の社員だった。あいつが開発で俺は営業だ」
「ええっ!?」
朔良の驚愕の声が店中に響き渡った。思いきりマスターに睨み付けられ、すみませんと謝った。
だが、動悸は速いままだった。何よりマスターが営業をしていたのが一番の驚きだ。
静かに怒ったマスターは、また朔良から離れようとする。
「待ってください!本当にすみませんでした!最後に一つだけっ!」
焦って朔良はそれを制止した。この時は本当に必死だったのだ。いつもの自分では考えられないくらい、何度も食い下る。
マスターも最後なら、と思ったのか振り向いてくれた。
「松野さんの弱点って知りませんか?」
いつも掴みどころがなくて、それを見抜こうとしてもさりげなく流される。
なかなか貴尚は、本音の感情を現すようなことが無い。何でもマスターに聞いてしまって申し訳なく思うが、他に貴尚のプライベートを知ってる者がいないのだ。
立ち上がる勢いですがる朔良に、マスターはいつもの無表情に戻って答える。
「そんなものは無い。………ひとつだけ上げるとしたら、今なら君だろう」
「え?」
マスターはそれだけ言うと、もう何も教えてくれなかった。それはその日だけでなく、その後もずっと―――。
* * *
マスターの言葉を朔良はナイフを片手に思い出していた。
だけど彼は沙織里伝で、貴尚の連絡先を教えてくれたのだ。あれからいくら聞いても教えてくれなかったのに。ニュースでこの件を知って、何か気づいたのかもしれない。
それともただ、沙織里の推しが自分のそれより強かったのか…。なんにしても落ち着いたら感謝しに行こう、と朔良は思った。
そして…。
(弱点は私…)
どういう意味か未だに分かっていない。まさか色気で勝負しろ、ということでも無いだろう。
(却下!)
だからそれを利用する案は消えた。それから今までの情報をまとめた。
薬の研究……。家でやる仕事。誰にも言わない連絡先。そして、今でも使用されてる薬。
(もしかしてこの家に証拠が………?)
賭けてみる価値は大いに有る。
「何を考えるの?朔良ちゃん」
まったく喋らなくなった朔良に、わざとらしく首を傾げた。朔良はナイフを盾代わりに握り締める。
「何でもありません。とりあえず落ち着くために座りませんか?」
どちらかと言えば、落ち着かなければならないのは自分だけだった。貴尚は気づいていただろうと思えたが、頷いて言った。
「いいよ。何か飲む?お酒も置いてるけど」
「結構です!」
即答して朔良は座る。貴尚もひとつ息を吐くと座ろうとした。
「そっちに座ってください!」
そう、朔良の隣に。思わず朔良はナイフを振って、向かいのソファを示した。
「残念だね」
言いながらそのソファに優雅に深く腰を掛ける。それを見届けて朔良はやっと落ち着くことが出来た。
「何も話す気がないのは解りました」
「そんなこともないよ」
「え?」
貴尚の返答に思わず聞き入った。駆け引きをしようと用意していた言葉を呑み込む。
「じゃあ、賭けをしようか」
足を組み直して悠然と構えながら貴尚が言い出した。
「その紅茶を飲んで、何か混入されてたら君の勝ち。何でも話すよ」
「な………」
朔良は目を見開いた。貴尚は自分が警戒して口にしないことをお見通しなのだ。その上でとんでもないことを提案した。
「それ、私が不利だと思うんですけど」
睨み付けたまま非難する。本当に目の前にいる男の考えていることが分からない。貴尚は見せつけるように自分の分の紅茶を飲んだ。
「でも僕は否定をしてるんだよ?……じゃあこうしよう。混入されていても無くても君がその紅茶を飲んだら話してあげる」
そこで貴尚はにっこりと笑った。まるで名案とでも言いたげだ。
(結局なにも変わってないじゃん!)
朔良はまたしても怒りを覚えた。そして迷いながら紅茶を見つめる。
朔良がここへ来ると行ってからずいぶんと時間が経っている。予め準備することは造作もないことだっただろう。何より貴尚のペースで運んでいることに危惧を感じた。
しかしキスよりはまだ許せる気がしてくる。
(いやいや…最悪もっとヒドイことになるって……)
即座に自分自身の思考を打ち消す。しかし飲まないと話が進まない気も確かにするのだ。
(よし!)
何度目かになる決心をして、朔良はカップの取っ手を掴んだ。ぐいっと一気に飲みほす。
「うっ!」
そして朔良から呻き声が漏れた。
「どうしたの?朔良ちゃん」
一連の流れをやはり楽しそうに眺めながら貴尚は訊く。朔良はわざと音を立ててカップをソーサーに戻した。
「……………入れたの?」
ぼそりとあまりに小さく呟いた為、貴尚には聞こえなかったようだ。
「ん?」
聞き返されて今度ははっきりと朔良は言葉を紡いだ。
「砂糖、何杯入れたのよ?」
貴尚は左手で真ん中の三本の指を立てた。
「3杯」
「甘いですよ!」
紅茶はぬるくなって底の方に砂糖が沈殿しており、さらにしつこい甘さが口に広がる。だから涙ながらに訴えた。朔良はコーヒーもブラックならば、紅茶も砂糖は要らない派だったのに……。
「僕の朔良ちゃんへの想いだよ」
歯の浮くような台詞をいつもさらりと貴尚は言う。それを聞く度、自分が引いていることに気づいて無いのだろうか。 良い飲みっぷりだね、などと言っている貴尚を無視して自分の状態を確認した。
(なにも…ない………?)
特に変化は無かった。
「僕のこと教えたのってvistaのマスターかな?」
朔良がほっと一息ついた瞬間を狙って、貴尚は的確にズバリと言った。つい驚いて貴尚の顔を見る。 油断、していた。
(しまった…)
それが肯定であることが、朔良の反応で気づかれてしまったのだ。
「やっぱりね。彼以外は思いつかない」
貴尚はそこで初めて朔良から目線を外した。
「おかしいと思ったんだ。今は使ってない方の携帯が鳴ったから。彼にはがっかりだよ」
干渉しないタイプだと思ったのに…と言いながら立ち上がった。ビクリと朔良は身構える。
「あのっ!私が無理矢理聞いたんです!何度も!しつこく!」
焦って何とか取り繕った。それに対して貴尚は改めて朔良に視線を戻し、口元に笑みを作って言う。
「心配しなくてもお仕置きなんて冗談だよ」
貴尚はそう言いながら朔良に近づいてきた。嘘だ、と朔良は思った。
その眼鏡の奥の眼が、笑ってなかったから。
朔良は恐怖で凍りつく。ナイフだけを拠り所に握りしめた。
しかし何の障害でも無い、とでも言うように、貴尚の手は朔良の右手首を掴んでナイフごと引っ張った。
「あっ!」
強制的に立たされる。つい声が漏れてしまってそれが朔良は悔しかった。
弱い部分は見せたくない。つけ入る隙を与えてしまうから。そう思い、振り払おうとしたが貴尚の力は強くそれは叶わなかった。
「おいで。約束は守るよ」
薄く笑って貴尚が促した。
* * *
「朔良…」
MIYOSHIの中。
音だけが伝える情報に一樹は何度目かになる呟きを漏らした。
心配で何度も胸が押し潰されそうになる。途中で立っていられなくなって、一樹は少し離れた場所で座り込んでいた。
それでも音声は、充分に容赦なく耳に飛び込んでくる大きさだった。うずくまり両腕で顔を覆う。でも耳を塞ぐことは出来なかった。
朔良が車を飛び降りたときは心臓が止まるかと思った。それから漏れる彼女の息遣いと苦しそうな息から、まったくの無事では無いことは分かった。
(無茶なことはするなと…あれほど言ったのに…)
しかし彼女は今また無謀なことをした。
貴尚が一筋縄ではいかない男なのは分かった。そして気障な奴だというのも。頭は切れるかも知れないが絶対に馬鹿だ。私情込みで一樹はそう思った。
そして朔良はそんな男の挑戦を受けたのだ。
あれから二度ほど朔良の携帯に掛けてみた。車の中とそこから飛び降りた後だ。いずれも、電波が届かないという無機質なアナウンスが流れただけだった。電源を切っているのだ。
(どうして…)
何の為に充電をしたんだと怒鳴りに行きたい気持ちだった。
隼人にも掛けてみたが、こちらはコール音のみで出てくれない。聞きたいことが山ほどあるのに。
(隼人は殴ってやる…)
あまり穏やかではないことを考えているときに上から声を掛けられた。
「いい加減にしろよ、一樹。ここからが正念場だろ」
崇史だった。崇史は、長い付き合いで気づいているのかも知れない。自分の気持ちに。
「ああ」
ぼそりと一樹は呟くだけだった。崇史も辛いはずなのに自分を気遣ってきている。
こういうところは普段の崇史だ。本来は、こういうやつなのだ。
「俺だって怒ってるんだ、榊原に。嘘をつかれたんだからな」
腰に手をあてながら盗聴器のスピーカーの方を見ながらぼやいた。
確かに、朔良はカフェで会うと言って出ていった。おかしいと気づくべきだった。会う時間をきっちり言わなかったから。
作戦の時間を言っても、それなら大丈夫としか朔良は言わなかったのだ。
(作戦…)
失敗だった。いくら朔良が無事に出れていても、皆が捕まるならそれは失敗と言える。
人数が足りなかった。一樹が思ったより来てなかったのだ。それを隼人は電話で打ち合わせしたと言わなかった。
(やっぱり殴る!)
皆無事だろうか。怪我はしてないだろうか。再び一樹は落ち込んだ。
「おい!榊原が頑張ってんだぞ。いちいちため息つくな」
鬱陶しいと崇史は吐き捨てた。
(そうだな…)
崇史の言う通りだった。ここでじたばたしても始まらない。一樹は疲労感を覚えた体を無理矢理立ち上がらる。
せめてしっかり聞こう。そう思って崇史と共にスピーカーの元へ向かった。
* * *
(ったく…)
立ち上がった一樹を、半ば呆れながら崇史は見ていた。
一樹の態度は分かり易すぎる。おそらく自分だけではないだろう、気づいているのは。三吉なら分かっていそうだ。結花や賢二も………いや、ここにいる者なら、鋭い感覚があれば気づいていると思えた。
(でも榊原は難しいと思う)
崇史にはもう、朔良に対して猜疑心は無かった。
彼女は自分の計り知れないところで動いているのだろう……それは分かった。そして犯人を逮捕する、なんてことまで言い出す。震えながら。
このただ一人の女でしかない彼女に、どこからそんな力が湧き上がるのだろうか。崇史は不思議で仕方なかった。
(志保のため…なんだな)
自分とは違うやり方で志保の為に動いている、確かに朔良はそう言った。あの時は意味が分からなかった。今もすべては分からない。
(でもあの男…)
何度か見かけただけの、松野貴尚の顔がぼんやりと思い浮かぶ。接点はまったく無かった。
志保と四六時中一緒にいたわけではないのだ。彼女が飲みに行くときも自由に行かせた。縛ることは彼女の魅力を半減させると思ったからだ。実際は、一秒だって離したくなかった。やっと結婚して落ち着ける、と思った矢先だったのに。
自分が警察に指定した期限が、もうすぐ終わりに近づいていた。しかしそのことはすでに頭の隅に追いやられていた。
明らかに朔良の方がゴールに近い。
そして崇史は、貴尚の声を憎悪の渦の中で聞いていた。
(殺してやる…)
たとえ朔良が失敗しても貴尚の居場所さえ分かれば問題ない。もう朔良は無理せず帰ってきても良いのだ。貴尚の情報を持って。
―――自分が殺しに行くから。
この時崇史は、かつて朔良が不安に駆られた冷笑をその顔に浮かべていた。