プロローグ
街の雑踏の中、彼女は人混みをすり抜けるように歩いていた。
黒くスリムなロングコートに黒いブーツ。肩まであるストレートヘアーは茶色く染めてあったが、明るい派手な色ではなく落ち着いたものだった。
歳は二十代前半くらい。
表情はなく、ただ足早にヒールの音を響かせながら歩を進める。街ではつい先刻から雪がちらついていた。
今年一番の寒さになると、今朝気象予報士がテレビで言っていたことが薄い記憶のなかから呼び起こされる。
彼女はもうどれくらいそうしていただろうか。
とくに目的地が無いのか、同じ道を通ったり駅の反対側に行っては戻ったりしていたのだ。
―――まるで、何かから逃れるかのように。
しかし、振り向くことは無かった。まるでその様は動いてないと落ち着かないように見える。
夕方の退勤時間になったせいで、かなりの人々が行き交っていた。
ある時、彼女はサラリーマン風の男性に避けきれず、肩がぶつかった。何時間もヒールのあるブーツで歩き、疲れきっていた足は、その衝撃に耐えられず彼女は少しよろけた。
それをきっかけに立ち止まる。
すぐ後ろを歩いていた、これまたサラリーマン風の男性が、いきなり現れた障害物に軽く舌打ちをして避けて行った。
彼女は比較的邪魔にならないよう、道の端に寄り天を仰ぐ。
そのままパラパラと落ちる雪を見つめた。
この街で雪は珍しい。年に一、二回降るか降らないかだ。
夕方とはいえ既に冬の空は暗い。しかし街のネオンのせいか雪のおかげか、空は闇色にならず少し明るい。
どこか幻想的だった。
それからどれだけそこに立ち尽くしていただろうか。
「あの……」
ふと声が聞こえてきた。あまりに小さく空耳かと思うほどの声。
どの方向から聞こえたのかすぐには把握できなかった。
ゆっくり下を向くと目の前にいつの間にか少年が立っていた。
声に反してしっかりした目で彼女を見つめている。そして申し訳なさそうに少年は言った。
「大丈夫…ですか?」
彼女はまじまじとその少年を見つめ返した。
ヒールを履いた彼女より少しだけ背が低く、見た目は高校生くらいだった。ダッフルコートにジーンズというラフな格好。
恐らくずっと立っていたから心配したのだろう。彼女が口を開きかけたとき、ふと別の目線を感じて新たな存在に気づく。
少年の後ろからその主は徐々に近づいてきていた。ロック好きそうな黒い服で、髪は金髪。少年より二つか三つくらい歳上にみえた。
その彼は近くまで来ると少年に言った。
「勝手に先行くなよ」
「あ、ごめん……でも…」
少年はサラッと彼に一言だけ謝ると彼女に向き直った。
「あの、変なこと言うようですけど…」
そこで一旦間を置く。
そして次に少年が発した言葉は、その後しばらく彼女の忘れられない一言となった。
「悲しかったら素直に泣いた方が良いと思います」
「!」
彼女は驚いた。ここへきて初となる表情の変化だったかもしれない。
しかしそれは一瞬のことで、彼女はすぐに笑顔を作り、先ほど言おうとしていた言葉をそのまま言う。
「ありがとう。でも大丈夫です」
――――これがこの不思議な二人と、彼女―――榊原朔良―――との初めての出会いだった。