名前を知る
数週間ほどの時間が経過した。
屋敷に来た当初よりも多少は健康的な肉体に近付いたシーナは、ニコニコと笑みを浮かべながら彼を見る。
「……何?」
「みて、ください……もじ……りんご……!」
「ん〜……? ……ああ、この前勉強用に出した……不慣れにしては良く書けてる。まだ腕も動かしづらいだろうに……いいね、優秀な子は好きだよ。……ただ……林檎は果物の一種であって、果物の総称じゃないからね」
「いっ、しゅ……そう……しょ……? ……いみ、なんですか……!」
「……あー……ああ、わかったわかった。ちゃんと説明するから、そんな詰め寄らないで……」
彼は嫌そうにシーナを引き剥がすと、面倒だと言わんばかりの表情で言葉の意味を説明した。
そうしつつ、彼はじっくりとシーナを観察する。
頭はそう悪くなく、言葉を教えていて苛立つようなことはない。
たまに妙な勘違いが発生することもあるが、基本的には理解するのも覚えるのも早い。
その話し方はまだまだ辿々しいが、ちゃんと話せるようになるのも時間の問題だろう。
「……はい。わかった?」
「りんご……あか、おいしい……くだもの。くだもの……の、いっしゅ! くだもの……そーしょー!」
「ん、合ってる。……ふぅ……とりあえず、ある程度会話が成立するくらいにはなったか。そろそろ不便に感じることはなくなるはず……ああ、そうだシーナ。名前……」
「しー、な? ……しーな、なんですか……!」
彼が呼び掛けると、シーナは興味津々でそんなことを言った。
シーナはまだ、自分の名前を認識していなかったらしい。
思えば、自分はそう頻繁には彼女の名前を呼んでいなかったか、と彼は思う。
「……シーナ。君の名前だよ。絵本に何度も出てきたから、その意味はわかるでしょ?」
「しー、な……なまえ……わたし、の?」
「そう」
「……しーな……しーな……わたし……しーな?」
「そうだよ、シーナ。そう言ってる」
「……なまえ……」
名前、とだけ呟いて俯くシーナに、彼は目を眇めた。
そして、小さく溜息を吐くと、彼はしゃがんでシーナと『目線』を合わせる。
黒い靄に包まれた頭部が視界いっぱいに広がって、シーナはぱちぱちと目を瞬かせた。
「……シーナは……僕がここに連れてくる前のことを、覚えてるの?」
「……ずっと……おなか、すいてました。ずっと……くるしい、きもちでした。……わたし……」
シーナはそう言って、また俯いた。
彼は何も言わず、ただただシーナが再び口を開くのを待つ。
言葉を知らなかったシーナが、何を覚えているのかは、彼の興味の対象だから。
そしてそれは、どうしてシーナがあんな待遇を受けていたのかを知る、切っ掛けになるかもしれないから。
「……わたし、いみごって……よばれて、ました。……いみご……なまえじゃ、ない……?」
「忌み子……忌み子ねぇ」
彼はそんなことを言いながら、シーナの目元をなぞった。
あの屋敷の地下室で、シーナは目を黒い布で覆われていた。
それならきっと、彼女がそう呼ばれた理由は瞳にある。
白は、人間たち、あるいはその宗教で、神聖さの象徴とすら言える色だったと彼は記憶している。
ならばその色は、どんな形であれ歓迎されるのが当然のはずだ。
なら、シーナの両親が異端者だったのか、あるいは……と、彼は思考を重ねる。
「原因は瞳じゃない? 不思議だな……神子と崇められてもおかしくない容姿なのに……」
「……みこ?」
「なんでもない」
不思議そうに見上げてくるシーナにそう返事をして、彼はその純白の髪に触れた。
シーナは彼のことを信じ切っていて、彼が髪に触れただけで甘えるように擦り寄ってくる。
ヒトの形をしていても、彼は紛れもなく人ならざるものであり、化け物だというのに。
人類が目の敵にしている、人外だというのに。
「……この現状の方が、前よりずっと忌み子と呼ばれるに相応しいだろうね。ふふ……」
「たのしそう? たのしいこと、しりたい、です!」
「なんでもないってば。……忌み子は名前じゃないよ。そして、シーナは知らなくてもいいこと。はい、この話はおしまい。わかったら勉強に戻りなよ」
「あっ……うぅ……あの、あの! ききたいこと、あります!」
シーナが手を挙げてそう言うと、彼は軽く首を傾げた。
無言のままに彼が続きを促すと、シーナは緊張した面持ちで背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼のことを見つめて言う。
「なまえ、なんですか!」
「……僕の?」
「はいっ。なまえ、しりたい……です!」
少し意外そうな声で彼が確かめると、シーナは確かに彼の名前を知りたいと言った。
ふぅん、と彼は小さく声を零し、裂けるような笑みをその口元に浮かべる。
そして、シーナを見下ろしながら、自らの名を名乗る。
「フィフラティエ。僕は、フィフラティエだよ。ちゃんと覚えて呼ぶんだよ、シーナ」
「……ふー……?」
「シーナには長すぎる? 覚えれない? なら、もう少し成長してから……」
「ふぃ……ふー……ふーさま!」
「は?」
明らかに『ふーさま』と自分のことを呼んだシーナに、フィフラティエは圧のある声を出した。
不機嫌そうな雰囲気を出すフィフラティエだが、シーナはそんなことを気にする様子もなく更に続ける。
「ふーさま! ふーさまっ!」
「うるさい、その呼び方するな。……様はどこから出てきたの……」
「……え、と……えほん! おーさま、でてきて! おひめさま、おーじさま……いっしょ!」
「はぁ? ……なんで果物は全部林檎だって勘違いしてたくせに、そこはちゃんと理解してるんだよ……おかしいでしょ……王様って名前だとか勘違いしとけばいいのに……」
心底嫌そうにフィフラティエがそんなことを呟き、シーナの目を見た。
きらきらと輝いていて、きっと彼の名前を知ることができたことに心底喜んでいる。
そして、それと同時に、その名前を呼べることにも、とてもとても喜んでいる。
「ふーさま!」
「いい、シーナ。その名前で僕を呼ぶな、呼べるようになるまでは適当に、僕に話しかけてくれればちゃんと応える……」
「……おとーさん……?」
「なんでそうなる! あーもういい、わかったわかったもうふーさまでいいよ。お父さんなんて呼ばれるよりずっとマシ……ほら、僕の名前は?」
「ふーさま!」
「……まぁ、よし……にしておこう……お父さんよりマシ、お父さんよりマシ……受け入れないとなんて呼ばれるかわからないしな……はぁ」
フィフラティエは溜息を吐き、仕方無くその省略された呼び名を受け入れるのだった。




