どうやら婚約者が浮気したようです、殺す
「で、その顔はなに?」
「っ、……」
「ヤダもう、ローズったらそんなに急かさないの。ベルがこんなふうに思い詰めてるのを見たことがある?」
「ジャスミンの言う通りだわ。きっと、よっぽどのことがあったんでしょう……親が処刑されそうだとか、ついカッとなって人を殺してしまっただとか」
「ンフフ、それは思い詰めるわね」
「ちがうもん……」
「ハァ……あのね、わたしはあなたたちが大好きよ。ベルにジャスミン、リリーに出会えたことは人生で一番の幸運だと思ってる。でもね、もう一時間。一時間もウジウジぐずぐずされたらさすがに我慢の限界よ。早くおっしゃい、どうせどこかのバカ女にマウント合戦で負けたとか、男に浮気されたとかでしょう?」
「わたしがマウントで負けるわけないじゃないッ!!」
いつもの女子会が始まって一時間。
これまでウジウジと黙り込んでいたブルーベルが爆発するみたいに叫ぶと、目をまん丸にした少女たちが一拍置いて、涙を流しながらアハアハと大笑いしだした。
彼女たち——ブルーベル、ローズ、ジャスミン、リリーはそれぞれが花の名を持つことから“花の乙女”と呼ばれている。
特別な力があるわけでもロマンチックな伝承があるわけでもなく、単に実家が帝国の根幹とも言える最有力貴族であるとか、家門のブランドに負けず劣らず本人たちが信じられないくらい有能で派手だとか、その派手な御令嬢がたまたま年が近くてたまたま気が合っただとか、そういう奇跡の産物として最悪な仲良しグループが結成されただけのことである。
要するに、さまざまな主義主張が入り乱れた社交界で分裂するはずのボスクラスが勝手に結託してしまったのだ。
当然、帝国内で対抗勢力が育つはずもなく、彼女たちの世代は至って平和であり、統制の取れたカルト教団くらい同じ方向を向いていた。
なので最近では親世代の謀略に首を突っ込むか他国の姫君とバチバチの喧嘩をするくらいしかトラブルらしいトラブルはないのだが……
この日は珍しく目を赤くしたブルーベルが思い詰めた様子で下を向いていたので、他の乙女たちは彼女が話しはじめるのをキッカリ一時間待っていたのである。
「ハァ……浮気されたのね」
「うわぁ〜〜〜ん!」
「あらあらあら」
「嘘でしょう⁉︎ あのクリフ皇子殿下が浮気ですって⁉︎」
「……」
「し、知ってたくせに……」
三人は顔を見合わせて肩を竦めながらヒョイと眉を上げた。まぁね、という仕草だ。
というのも、事の発端は三ヶ月前まで遡る。
彼女たち“花の乙女”は帝国貴族でも選ばれた者のみが通うことができる全寮制の国立アカデミーに通っている。
アカデミーでは基本的な教育に加え、剣術、戦術、魔法や魔導工学、マニアックな言語や各国の宮廷作法まで、ありとあらゆる専門分野を学ぶことができ、どんなにマイナーなジャンルであっても本人が実力を示せば他国からでも専門家を呼び寄せ講義をしてくれるという大陸最高峰の教育機関であった。
当然、他国からも留学を望む者は多いのだが、その中でも今期からやってきた異国の姫——ペレシャ・アイデン王女がとんだ問題児だったのだ。
彼女はバルム王国現国王の十三番目の娘で、男なら誰だってメロメロになるくらい可愛かった。つまり、よく笑い、清楚に見えるがふたりきりになると事故みたいなボディタッチをして来て、ここぞと言うときに谷間を寄せながら上目遣いでふるふる震える巨乳のかわい子ちゃんである。
そしてこの東大帝国とバルム王国は爆弾を抱えながら笑顔で握手する関係であり、皇室としてもペレシャ姫を丁重に扱う必要があった。
そんなわけでアカデミーに在籍していて年も近いクリフ皇子は自然と彼女の案内係となり、まんまと彼女の巨乳に顔を埋めることになったのだった。
「来た時から怪しかったものね」
「そうそう。ダンスの練習だって婚約者のベルを差し置いて毎回クリフ殿下と踊っていたし」
「わたし、一番頭に来たのがこないだのパーティよ。クリフ殿下が彼女をエスコートしたでしょう? ローズのお兄様がエスコートを引き受けてくれたから良いものの……そうじゃなかったらと考えたらゾッとするわ」
「お兄様クラスの男はこの帝国にはいないものね」
「こんなときにブラコン発揮するのやめてくれる?」
この一件がクリフ皇子の心変わりを決定づけた。
そのパーティというのがクリフ皇子の兄であり、ローズの婚約者でもあるアダム皇子生誕祝いの宴だったのだ。
国が催す大々的なパーティーで主役の弟であるクリフが他国の姫君を連れて歩けば、周囲はクリフが結婚相手を替えたのだと認識する。
ちなみに当のクリフは「ペレシャはまだこの国に慣れていないし、気心が知れている俺がエスコートするべきだと思ったんだ。ベルならわかってくれるだろう?」とほざいていた。
ベルは「そうですね。お優しいこと」としっとり笑って見せたが、心臓はすっかり凍りついていた。なにせドレスも靴もアクセサリーも仕立て終わった“パーティの三日前”に告白されたのだから。
これも当のクリフは「ペレシャはまだこの国のデザイナーを知らないし、ベルと背格好も似ているから少し直せば着られるだろう?(お前の仕立てたドレスをペレシャに着せるから譲ってくれ)」と宣った。
これほどの屈辱があるだろうか。
ひと月も前から皇妃や皇女たちと相談して色やデザインが被らないよう、そしてクリフの衣装と対になるよう準備してきたのに。
親友たちともお揃いになるようそれぞれのモチーフのイヤリングまで特注したのに。
パステルカラーの似合うペレシャがこれ見よがしに濃いブルーの鈴蘭を身につけている様は、当然花の乙女たちの逆鱗に触れた。
他の乙女たちも本番三日前に衣装を総とっかえしたので逆鱗どころの騒ぎではなかったのだが。
「思い出したら腹が立ってきた」
「あの時は言えなかったのだけど、例のドレスね、わたしに持って行かせたの」
「正気?」
「それで、“胸元が少しキツいようです”とか言ったのよ、あの女」
「慰謝料を請求しましょ」
「もちろんバルムにも。仲良く一緒に、ね」
「ほんと、どこに行くにも一緒だったわよね」
「寝所まで一緒だって噂もあるわ」
「……あのふたり、xxxしてるの」
「は?」
「か、カラダの関係があるの! セックスしてるのよ!」
「あのクソビッチ!」
「最悪ッ! 穢らわしいバルムの売女め!」
「信じられないッ! バルムだって婚前交渉は御法度のはずでしょう⁉︎ 何を考えているのかしら」
「わたしだって信じたくなかったわ。クリフ様がそういうお年頃でそれなりに欲があることもわかっていたし。だってわたしたち、その……」
「ええ、分かってるわ。婚約者としてそれなりの関係まで進んでいたんでしょう?」
「クッ……」
ベルは絶望と憎悪をないまぜにしたような表情でグッと拳を握り締めた。
最後まで至らずともその直前まで行為に及ぶことは婚約者の特権であり、乙女の命よりも重い、誓約めいた儀式なのである。
自身の何もかもを曝け出せるのは、信じた相手だからこそ。
生涯あなただけ、という長い長い結婚の誓いと同義であった。
よって貴族社会では“寝取り”が最低最悪の下品な手口という共通認識があり、没落貴族や崖っぷちの底辺令嬢が「最後までヤらせてあげるから結婚して」と擦り寄ることはあっても、花の乙女が牛耳るアカデミーでは男の方が縮み上がって手を出せない。
それを、皇族であるクリフがしでかしたという事実が女としても友としても、帝国貴族としても許せない。
リリーの手は震えていた。
「わ、わたし……」
「いいのよ、何も言わなくていいの」
「あの人にすべてを捧げるつもりで」
「そうよね、婚約ってそういうものだもの」
「愛してたの……心から」
愛した男が他の女を抱いている。
愛の言葉を囁き、ふたりの未来を語り、誰にも知られるはずのないふたりだけの甘い秘密を共有している……自分ではない、別の女と。
——どうやら親友が婚約者に浮気されたらしい……
このなかで一番年上のローズはそっとベルの拳に手を添え、慈悲深い微笑みを浮かべて、
「殺す?」
と囁いた。
それは悪魔の母のごとき優しい殺意である。
「こ、殺してやる」
「そうね、そうしましょ」
「二度と生まれてきたくなくなるような地獄を見せてあげましょう」
「恋なんかよりずっと楽しいことをしましょう」
「そうね」
「そうよ」
「うふふ」
「アハハハハッ」
「クスクスクス」
「ふふ……楽しくなりそう」
乙女はしばらくのあいだ笑い合っていた。
女子会はこうでなくちゃと言いたげに。
「いけない、今の流れは良くないわ。まるでわたしたちが悪女みたいじゃない」
「そうね、どうかしてたわ」
「いつ誰に聞かれているか分からないものね」
ジャスミンは魔導端末を取り出してサロンのセキュリティを確認した。このサロンはリリーがデザインしてジャスミンがセキュリティを担っているため万が一にも盗聴の恐れはないが、億が一のことがあれば軽いジョークを切り取られて悪用される恐れがある。
魔導工学の天才と謳われるジャスミンは「大丈夫、わたしたちは無罪よ」と言ってひとつの不安材料を排除した。
「とりあえず、アダム様を呼ぶわね」
「ベルが失恋したばっかりだっていうのにカレピを呼ぶなんて……本当にローズはデリカシーに欠けるわね」
「じゃあお兄様も呼ぶ?」
「天才! 失恋には新しい男だって相場は決まってるもの」
「え、待って。わたしメイクを直したいわ。メイドを入れてもいい?」
「あ、わたしも」
◆
花の乙女がメイドにメイクを直してもらっている頃。
アカデミーの皇族専用執務室ではアダム皇子が青い顔で室内をうろうろしていた。
「マズいマズいマズい、マッズい……」
「どうした? 北の砦でも破られたか?」
「もっとマズい。ローズから呼び出しがあった」
「ローズから? それならいつもみたいに尻尾振って飛んでいけばいいだろ」
「花の乙女全員集合だって……」
「それは……マズいな」
「文を預かった文官がメーデーって叫んでた」
「あ、俺戦争行ってくる。近場でやってる今一番ホットな戦場ってどこだっけ?」
「俺はどうしたらいい? 直近の俺の行動を思い出して何か問題があったらいまのうちに言ってくれ」
——どうやら弟の浮気がバレたらしい、殺される!
アダムの右腕でありローズの兄でもあるジェイドは「ん〜」と考えるふりをしたあと「あったら俺が殺してる」とだけ言った。
「無いなら良い。一応確認したかっただけだから」
「マァどうせあの件だろう?」
「そうだよ、俺は今日死ぬんだよクソッ」
「墓石に刻む言葉は決めてあるか? 俺で良ければ聞いてやるぞ」
「ちなみにお前も同行させろってさ」
「え、お前と同じ命日とか嫌なんだけど」
「ほら、紙やるからお前も書けよ」
「わるい、助かる」
アダムとジェイドは仲良くふたり並んで墓石に刻む言葉を書き残し、青い顔のまま服を着替え、しっかり髪をセットして葬儀に向かうみたいに乙女の待つサロンへと急ぐのだった。
サロンの扉前。
アダムとジェイドは五分ほど黙って立ち尽くしている。遅れるとマズいと思って魔導馬車をかっ飛ばして来たのに、いざ扉を前にすると開けるのが怖くて体が動かない。
しかし、ガチャと扉が開いてメイドがぞろぞろと出てくると、とんでもない美女と目が合った。
——うわ、俺の恋人って世界一の美人だったんだ。あ、こわ。
婚約者であるローズを含む花の乙女たちは眩いほどに輝いていて、恐ろしいほどに華やかだった。
いつもよりその美貌に磨きがかかっているのは皇族を殺す覚悟を決めたからだろうか。
願わくばその対象が自分ではありませんようにと祈りながら、アダムは今着きましたという顔でにこやかにサロンへと足を踏み入れた。
「アダム様、ごきげんよう。お兄様も。突然お呼び立てしてしまい申し訳ありません。ご迷惑かと思いましたが急ぎ確認したいことがございまして」
「や、やあローズ会えて嬉しいよ。それに花の乙女たちも。全然、まったく迷惑などではないよ。愛しい君に会えるならたとえ戦場にいたって駆けつける。知ってるだろう?」
「ええ、存じておりますわ。アダム様は婚約者を大事にする義理堅いお方ですもの」
「義理だなんてやめてくれ。これは紛れもない愛で、いつだって俺は君に恋してるんだから」
「そうであってほしいと願うばかりですわ」
開口一番重たい挨拶を受けたアダムは心臓が縮み上がって背中にびっしょり汗をかいていた。これは本当にマズイと思って必死に彼女の機嫌を取ろうと試みるが、花の乙女たちは相当ご立腹らしい。
「あ、あの、ローズさん? そろそろ普通に喋っていただきたいなと……緊張するので」
「あら殿下。わたくしたちのようなただの娘が皇族であらせられるアダム殿下に失礼な物言いができるわけがありませんでしょう? 皇室が望めば何もかも差し出し、皇室が不要とおっしゃれば口を噤んで神の下僕となるしかないような、取るに足らない存在ですもの。違いまして?」
「……う、うぅ……すみませんでしたッ! すべて兄である自分の責任です!」
「で?」
「この度は愚弟クリフがブルーベル嬢を裏切る形になったこと、皇族を代表して心からお詫び申し上げます!」
「うわぁ〜ん! やっぱりクリフ殿下は浮気してたんだぁ!」
「あ、あぁ……それは、あの……」
ベルの大泣きを合図に他の乙女たちがギッとアダムを睨みつけた。彼女たちは親の仇を前にした目をしているが、手だけはベルの背をさすったり手を握ったり懸命に慰めている。
それは男子禁制の海より深い愛と絆のようで、数万の敵軍より恐ろしく感じるのである。
——あ、失敗した……死ぬ。
花の乙女に下手な言い訳をすると末代まで呪われると思っているアダムは問い詰められる前にすべてを白状し謝罪したのだが、現状はどうあれコレが一番の正解だった。
「ウフフ、冗談です。アダム様のそのお顔が見られたので少し気が晴れました」
パッと顔を上げたブルーベルは悪戯な笑みを浮かべており、しかし隠しきれない悲壮感が漂っていた。
アダムは知っている。
花の乙女は皆強い。
凄まじい美貌と圧倒的な頭脳を持ち合わせ、天を穿つほどの胆力を兼ね備えている。
そんな乙女がこれほどまでに疲弊するということは、それは本当に、大変なことであると。
「どうぞお座りになって。ゆっくりお話しいたしましょう」
「あ、はい」
「緊張しないで、アダム。ここにはわたしの特別な友人と家族しかいないのよ」
「ソウデスネ」
「あの、俺帰ってもいいか?」
「ダメよお兄様。これからシケた話をするんだから少しでも目の保養は必要でしょう?」
「あ、よかった。それなら全然」
付き添いのジェイドはホッとしてすぐに帝国一のハンサムを取り戻した。彼はアダムの直属の部下にあたるのでクリフの監督責任はないが、一応関係者の自覚があるのでヒヤヒヤしていたのだ。
「ジェイド様まですみません。ご迷惑ではなかったかしら?」
「問題ない。俺も君のことが気になっていたんだ。まだ顔色が悪い、どうした? 話を聞こうか?」
「ジェイド様いい感じです。その調子でベルを口説いてくださいませ」
「任せてくれ。俺はこのためだけに生まれてきたんだから」
「ジェ、ジェイドもすべて知っていました!」
「おいバカ皇子、言っていいことと悪いことの区別も付かないのか! 俺はお前と同じ命日だけは避けたいんだよ、せめて二日は空けさせてくれ」
「ローズ、聞いて欲しい! 俺はちゃんとクリフに言ったんだ! 一時の気の迷いだとか、性欲に呑まれているだけだとか! あと、バルムの謀略だって話もした!」
「ふぅん」
「でもあいつ、真実の愛を見つけたとか言って……」
「ハッ……」
その瞬間、乙女たちは心底バカにするみたいに鼻で笑って「やってらんないわね」と言いたげに脚を組み替えた。
男が見限られる瞬間の、なんと恐ろしいことか。
当事者であるベルなど乾いた笑いでクリフをすっかり“過去”にしている。
アダムはもし自分がローズにこのような捨て方をされたらと考えると、自然と涙が溢れていた。
「ローズ……お願い。捨てないで。俺には君しかいないんだ。愛してる。なんでもするから、弟の心臓でもなんでも……君が望むなら用意する」
「まぁ嬉しい。でも要らない♡」
「え……?」
「わからない? わたしは親友を裏切った男を吊し上げたいだけで、政治の火種になりたいわけじゃないの。あなたが弟の眉間に弾丸をお見舞いしたところでそれはただの皇位争いでしょう? もちろんあの男は殺すけれど」
「そう、だよね。俺、兄弟たくさんいるから全然いいと思う! うん!」
「うふふ、アダム様壊れちゃった」
「あーあ、どうして我が国の皇子様はこんな性悪が良いのかしら?」
「うぅ……よかった。婚約破棄されたらどうしようかと思って。気が気じゃなかった」
「あら、わたしあなたのことは誰より愛しているけれど、皇妃になっても良いと思ったのはベルと姉妹になれるからよ? わたしひとりで皇室に入るなんて不安だもの、少し考え直させて欲しいわ」
「え」
「だって、虐められちゃうかもしれないし」
「ンフフフフッ」
「ヤダもうローズ」
「アハッ、うふふふッ」
「お。俺は、どうしたら……えっと継承権を放棄して、自力で爵位を、いや国を……作る? そしたらクリフを蜂の巣にしても、皇位争いにはならないし……ローズを煩わせる権力争いも生まれない……? あ、ジェイドたすけて?」
「待て待て考え直せ。俺は顔と役職しか取り柄がないんだからお前が皇帝になれなかったらベルを口説けないだろ? 頼むよご主人様、お前は必ず皇帝になれ」
「もう、ジェイド様ったら」
「ハハッ、俺はベルを口説くために帝国一の良い男になったんだ。クリフなんて忘れて俺と新しい恋を始めよう」
「考えておきます。ありがとう、優しいのね」
アダムは自分だけ安全地帯を築き上げたジェイドを憎々しげに睨みつけた。
しかし同時に、ジェイドは本当に帝国一の良い男なので、少しでも乙女たちの怒りを鎮めてくれと僅かな希望も託していた。
彼ほどの男が適齢期になっても恋人のひとりも作らないでいることが少々不思議ではあるが、こういうときは頼りになるのだ。
「それで、ブルーベル嬢……改めて謝罪を。愚弟が申し訳ないことをした」
「ええ、本当に」
「ヒッ……」
「……殿方の前でこのような話をしたくはありませんが、わたくしはもう、完璧な純潔乙女とは言えません」
「それは……」
肩に重たい空気がのしかかった。
下級貴族ならばまだいい。だがブルーベルの家は代々帝国の司法省を統括する法の番人。その一人娘が嫁ぐ先となれば、最上位の貴族か他国の王族しかあり得ない。
そういった最上流階級の花嫁には完璧な清廉さが求められるし、何より彼女の尊厳と矜持がこれ以上ないほど踏みにじられたことを意味している。
この責任をどう取るか。
もしこの事がブルーベルの父親に知れたら……
「ご安心なさって。父には生涯秘密にすると約束します。ですからこれはここだけの話に……」
「ありがとう。本当に、すまない……」
「仕方ないではありませんか。この国にはわたくしの大事な友人が住まうのです。ただの失恋で祖国の君主制を終わらせるわけにはいかないでしょう?」
「……申し訳ない、ブルーベル嬢」
そういう話だ。
国が滅ぶか、皇室が解体されるか。
花の乙女ひとりひとりがそれだけの力を持っている。
たとえばローズの父は軍を統括しており彼女自身も謀略、戦争に長けている。
ジャスミンは帝国のセキュリティを完全に破壊できる魔導工学の知識を有しているし、帝国の技術はジャスミンによりめざましい発展を遂げた。
リリーは男女共に虜にする魔性の女なので彼女が耳元で囁くだけで国の重要人物が足並みを揃えてクーデターを起こすだろう。
花の乙女がジッとこちらを見ていた。
見定めるような瞳は主君としての資質を試しているようにも思えた。
けれどアダムはこういうとき、絶対に選択を間違えない。
彼はスッと表情を整えて皇族の顔をした。
「では、具体的な作戦会議といこうか」
◆
——どうやら息子が浮気していたらしい……死んだな。
「お前は自分が何をしでかしたのか分かっていないようだ」
「……父上、お言葉ですがバルム王国との永続的な友好関係を望んだのは父上ではありませんか。父上だけではありません、議会も貴族もバルムの重要性を——」
「友好を望みながら姫君に手を出すなどどこの間抜けだと問うておるのだ!」
「王族同士の婚姻が一番の契約ではありませんか? ペレシャは十三番目の姫ですからあちらも喜んで差し出すでしょう」
「貴様はそれでバルムに枷をかけられると思うておるのか? 我が息子ながら呆れた皇子であるな」
「?」
「今首に枷をかけられておるのは貴様だ。アダム、説明してやれ」
クリフへのお説教に同席させたアダムは深々と頭を下げ、弟であるクリフの前にガラガラとホワイトボードを引っ張ってきた。
「真面目にやれよ?」
「もちろんです陛下」
アダムが「バン!」と真っ白なホワイトボードをひっくり返すと、そこには大陸の地図に簡単な勢力図が書き込まれていた。
母親によく似たアダムは良く言えば美男子であり、悪く言えば線が細そうな中性的な顔立ちをしている。が、実は後継者候補のなかで一番頭が切れて冷酷な一面もある。
資質は後継者として申し分ないが、その容姿ゆえに決めきれないでいた。小国の王なら構わない。だが巨大な帝国を統べるには威厳が足りておらず、甘いマスクと冷酷な性格は良くないギャップを生む恐れがある。
対してクリフは自身によく似たため顔立ちも凛々しく、鍛えれば体躯も良くなるだろう。利発で、少々強引なところもあるが帝国を率いるにはそれくらいの勢いがあった方が良い。
だが、どんなに勢いがあっても全国民の命を背負う皇帝には「ここだけは間違ってはいけない」という場面がある。
クリフは肝心なところで選択を誤った。
そう、間違ったのだ。
「まず、なぜ我が東大帝国がバルム王国を軽視できないか分かるかい?」
「それはバルム王国が我が国の魔法石需要の八割を支えているからでしょう? 輸出を止められたら帝国の全機能は麻痺する。百年前はこれほど魔導工学が発達していなかったから大した問題ではありませんでしたが、近代ではもう手遅れという状況です」
「その通り。ではなぜ圧倒的戦力を誇る我が帝国はバルムに侵攻しない?」
「それは……人道的な問題とか」
「なぜバルムは帝国相手に対等な力関係だと強気でいられる?」
「輸出を止めると脅せば帝国を言いなりにできると思っているから……」
「お前は絵本でも読んでいたのか? 事はそれほど単純ではないよ」
「ッ……」
「まず前提として、バルム王国は宗教国家だ。彼らの神様は世界の半分が信仰していて、俺からすればイカれているとしか思えない熱心な過激派も飼っている」
「アダム、言葉」
「失礼しました。とにかく、バルムの戦力は実質世界の半分だと考える必要がある。戦争になれば世界大戦だ、ここまでは理解したか?」
「はい……」
大帝国であっても世界の半分を相手にするのは無理がある。とは言え、その規模の戦争に発展させるにはそれなりの大義名分が必要になるため、バルムもそう易々と引き金を引くようなことはしない。
「では次の質問だ。バルムは帝国に何を求めていると思う?」
「土地とか……資源も」
「違う」
「技術力……」
「違うよ」
「、……」
「バルムは小国だ。手に入るなら土地は欲しいだろうし、資源や技術力があればさらに発展できるだろう。でも彼らの教義には“富を求めてはいけない”という絶対的な掟がある。富のために人の命を奪うことを悪魔の所業と断じ、自然の恵に感謝しながら善良な精神を育めば神が相応の幸福を与えてくれると信じている」
「……?」
「だから富が集中する王侯貴族は国民向けのパフォーマンスが本職と言える。表向き彼らは質素で慈悲深く、禁欲的な生活をしているとアピールしているが、実際はどうだい? 修行僧が国の隅々から美人ばかり集めて家畜のように子を産ませるか? 外から見てバルムの王族は倹約家か? ペレシャ姫はお前によく宝石を強請っていたね?」
「あれは、俺が勝手に。自国では贅沢できないからと」
「でもペレシャ姫は自国の宝石を帝国貴族たちに自慢して回っていたよ?」
「誤解です兄上! ペレシャは自国の特産を帝国の貴族たちに売り込もうと……魔法石はただのエネルギーではなく、美しい美術品になり得るのだと知って欲しくて、必死に……」
「オーケー、バカクリフ。マヌケなお前にもわかりやすく説明してやろう。まず帝国貴族の女性たちは魔法石が極上のジュエリーになることなんて百年前から知っている。だから旦那に高い金を出させて買い集めているし、デザイナーの加工技術も右肩上がりだ。そんな魔法石需要最高潮の帝国に原産国の姫君がやってきて我が国の魔法石は素晴らしいんです? 舐めてンのか。お前はあの子を巨乳の天然ちゃんだと思っているかもしれないけど、全部分かってやってるからね? じゃなきゃなんで俺の誕生会の三日前にエスコートしてくれる人がいないなんてお前に泣きつくんだよ。国の行事は留学前から伝えてあるし、ドレスだって持ち込んだのを確認してる。あれはお前の婚約者様を男に捨てられた惨めな女にするために仕組んだ茶番劇だ。思い詰めた顔で相談して来やがって。あの時ほどお前を殺したいと思った事はないね。あ、事前に俺に相談した事はローズには黙ってろよ? なぜその時お前の眉間に銃弾を撃ち込まなかったのかってローズに怒られるから」
これである。
アダムは顔に似合わず口が悪いので父親ですらたまに「え?」となってしまう。
正直なところ愛する妻に似た顔で暴言を吐かれるのが嫌なので、アダムのことはちょっとだけ嫌いだった。
「発言を撤回してください。ペレシャはそんな女じゃない……」
「おいおい勘弁してくれよ。まだ分かんないかなぁ? 俺は何度も言ったはずだよな? バルムは貞操観念がうちとは比べ物にならないくらい強くて女は結婚するまで唇すら許さないって。露出の激しい服装は男を誘惑するから禁じられてるって話は常識だろうが」
「ペレシャは俺を心から愛してると……だから俺だけ……特別に」
「乳を揉ませてくれたって? あの女が他の男にも谷間を寄せてベタベタくっ付いてるのを見た事がないのか? ああ、お前はアカデミーの防犯映像を確認して貴族の弱みを握る趣味がないから知らないか(笑)ちなみに俺も留学初日に乳を押し付けられたけど怖すぎてチビるかと思った。あれは俺たちにとってピンの抜かれた手榴弾なんだよ。ジェイドが銃を突きつけたから俺は今も五体満足でいられるけど」
「え……兄上も? え?」
「もう分かっただろう? バルムの王侯貴族は信仰のわりに贅沢をしていて? ただでさえギリギリ体面を保ってるところなのにこれ以上の富を求めて他国を侵略するなんて言えるか? しかも同じ神を信じる兄弟国もだいたい似たような状況で、バルムより切羽詰まった国だってある。たとえば国民が飢えているのに国が金を使い切って首が回らないとか、敗戦国の移民を受け入れたせいで土地が足りないだとか。あとは戦争で経済を回したい国もあるし単に帝国が気に入らないカルト国家もある。帝国の鉱山と化しているバルムは兄弟同然の諸外国からせっつかれているだろうね。そこに来て貞淑な女であるはずのバルムの姫君が帝国の皇族に娼婦みたいな色仕掛けをしてきたんだ。肌に触れただけでも責任を取れと言ってくるだろうし、処女を奪ったなら神を冒涜したと糾弾することもできる。つまり、バルムが欲しいのは“戦争の大義名分”で、お前がその材料を作ったんだよ」
「あ……そんな。そんなつもりじゃ。ただ俺は彼女を愛して……」
「花の乙女」
「あ、え?」
「お前、花の乙女をその辺の仲良しグループだと思ってない?」
「いえ……帝国の、重要な姫君だと」
「でも他国の姫君の方が上だって?」
「あ、それは……ベルには申し訳ないとは思ってます。でも自分に嘘は……吐きたくなくて」
「自殺なら他所でやってくれないかな? 国を道連れにした無理心中なんて笑えないんだけど」
「それはどういう……あの、兄上。こわ……こわくて」
「今怖くて泣きそうなのは俺だバカ! お前がゴミみたいに捨てた帝国乙女は世界の半分と戦うよりハードモードのラスボスなの! しかも俺はそんなラスボスのひとりを心の底から愛してる。ローズに嫌われたら俺が世界大戦始めるからね?」
「あっ……ちょっと、整理させて、ください」
クリフはもう限界だった。
あまりにもアダムが怖すぎて理解力が八歳児程度まで落ちている。
皇帝はこれ以上は無駄だろうと思ってアダムを止めようとしたが、アダムはキレ過ぎて逆に冷静さを取り戻していた。
ホワイトボードをひっくり返したのだ。そこには先ほどまではなかったはずの帝国内の勢力図が描かれており、ボードのうしろにはペンを持ったジェイドが一仕事終えた顔で立っていた。
「いや、事前に用意しておけばよかろう」
「何を説明するかは話の流れ次第だったので。有能な部下でしょう?」
当のジェイドは先ほど妹をラスボス呼ばわりされたにもかかわらず、満更でもない様子で皇帝陛下にウィンクを飛ばしていた。
「お勉強の続きといこうか。俺はお前にこれを説明するの、二回目なんだけどな」
「申し訳、ありません……ありがとうござい、ます」
「あれ? なんか電波悪い? あ、脳みそがポンコツなだけか。陛下、あなたの息子に不良品が混ざってます、返品しておきます?」
「やめなさい」
それからアダムの講義は一時間続き、終わった頃にはクリフだけでなく皇帝も涙目になっていた。
改めて他人の口から説明されると本当に酷い有様だなと、心臓が痛くなったのだ。
花の乙女を踏み躙っただけでもとんでもない愚行だというのに、バルムの姫君と男女の仲になったことでついに世界大戦の条件を満たしてしまった。
クリフは未だ“たったそれだけのことで”と思っているだろうが、政治とはそういうものだ。
たったひとつの真実があればいかようにも加工してよく効くプロパガンダを書き上げることができる。
良くて姫君の輿入れ。
最悪、世界大戦。
しかも大義名分はあちらにあり、輿入れで手を打てたとしても内部からじわじわと侵食されるだろう。
そんなことに気を揉んでいるうちに我らが花の乙女がやって来るだろうが。
クリフはほとんど意識を失った状態で側近に引き摺られていった。
残ったアダムは「は〜、疲れた」とコキコキ首を鳴らしている。
「なぜ我が国にはあのようなラスボスが控えておる?」
「神の采配なのではありませんか? そうだ、もし帝国が滅びたら俺が新しい国を建て直すのでついでに花の乙女を主軸にした建国神話を作りますよ。百年に一度花の乙女が降臨して国に審判を下すとか適当なことを書いて」
「お前は作家になれ」
「嫌だな、冗談ですよ」
「クリフは生かしておくのか?」
息子の処遇を息子に聞くのもおかしな話である。
しかしこの件に関してはローズの婚約者であるアダムの方が正解に近いところにいる。
「花の乙女は寛大ですから」
◆
クリフはバチンと意識をハッキリさせて、すぐにキョロキョロとあたりを見回した。
別宅のソファーに深く腰掛けていて、ここまで連れてこられたことも何となく覚えている。側近のひとりが泣いていたのも覚えているし、荷物をまとめて出ていった奴のことも覚えている。
悪夢から醒めたような感覚だが、未だ悪夢の中にいるような気もする。
脳の許容量をオーバーしてただただボーッとしていた。少なくとも二時間ほど何も考えられずにいた。
「あ……俺、死ぬのか」
不思議とベルに対する罪悪感は湧かなかった。
もう恋とか愛とかそういう話ではなかったから。
死ぬかもしれない。帝国が滅びるかも。世界大戦の引き金をひいてしまったのかも。自分のせいでどれだけの人間が死ぬのか。
人の身には背負いきれない重圧を感じ、ひたすら後悔している。
「ペレシャ……」
最初は普通に可愛いなと思っただけだった。ペレシャの無邪気な笑顔とセクシーな体は男の本能をこれでもかと掻き立て、彼女が甘えてくれることが何より嬉しくて幸せだった。
いや、普通にセックスが最高だった。
最近では猿のように彼女を求めていて、婚約者がどうとか皇族がどうとか、なにも考えられないくらい欲に溺れていた。
その結果がこのザマだ。
「ペレシャに会いたい……」
気付けばボロボロ涙が溢れていて、愛しいあの子の笑顔ばかり思い出していた。
それなのに。
「クリフ様? どうなさったの?」
「あ……」
「もう! 寂しかったんですからね? 昨日もアカデミーをお休みされていたでしょう? お加減が優れないのかしらと思って遊びに来るのも我慢したんです」
「ああ……」
「偉いでしょう? ヨシヨシして?」
「うっ……」
クリフは咄嗟に口元を押さえてトイレに駆け込んだ。
あんなに可愛いと思っていたペレシャのすべてが怖い。
キュッと抱きついて来たときの柔らかい感触も、上目遣いで見つめて来るのも、頬を膨らませて唇を尖らせるのも、全部可愛いと思っていたのに恐ろしくて仕方ない。
そのすべてが地獄への道標に思えて体の芯が震えている。
「ねぇ、本当にどうなさったの? クリフ様?」
「来ないでくれ」
「わたしよ? ペレシャです。少しだけでもお顔を見せて? 心配で放っておけないわ」
「帰って……」
「クリフ様? クリフ様ァ〜?」
「……」
——ドン!
「ひ……」
「あのね、今日はエッチな下着よ?」
え、今言う?
と思った次の瞬間。
——ドンドンドンドン!
「クリフ様〜? 聞こえてるんでしょう? わたし、こっちに全然お友達がいないのよ。だからクリフ様がいてくれないと寂しくて……授業が嫌ならずっとベッドで過ごしてもいいわ。ね? 素敵でしょう?」
「やめ……やめてくれ! 帰れ!」
「うふふ、クリフ様ったら今日はそういうお遊びがしたいのね?」
彼女の足音が遠くなるとフッと全身の緊張が解けた。
唯一の癒しであったはずなのに、もう彼女が良く研がれたギロチンにしか見えない。
——愛していたのに……愛していた? 本当に?
気がつくとベッドにいた。
部屋には淫乱な音が響いていて、ペレシャは腹の上でパドルを持ったまま腰を振っている。
——あ。俺はもうまともな判断能力すらないのか。
「うぇっ……」
濃い胃液を嘔吐すると、すぐさまペレシャは跳ね退いてウッと眉を顰めた。
そして「本当に具合が悪かったのね……じゃあ続きは治ってからにしましょ♡ だから早く治してね」と投げキッスをしていそいそと服を着はじめた。
しばらくしてやってきたメイドは何も言わずに清めてくれたが、次に入ってきた部下は「情けない……」と泣いていた。
クリフも静かに泣いていた。
こんな状況でも彼女に誘われるままベッドに行き、嘔吐するほど恐怖してもしっかり男の精まで吐き出している。
これが愛なのか性欲なのか分からなかった。
彼女をいつから好きだったのか。
自分はどこで何を間違えたのか……
父にも兄にも「バルムの扱いは慎重に」と口酸っぱく言われていた。敵対関係になってはいけないとか、舐められてはいけないとか、今よりもっと強固な友好の証を築きたいだとか、そういった思惑も理解していたつもりだった。
ペレシャが自分に惚れていたのは明白で、彼女を娶ればバルムは帝国に手出しできないと本気で思っていた。
兄を出し抜いたつもりでいた。
兄アダムは兄弟のなかでも特に頭が良く政治的センスが抜群に良い。対してクリフは戦の類に長けており、騎士や軍部からの信頼が厚い。軍事を強化するならクリフが皇帝になるだろうと言われていた。
しかしだ。
兄アダムの恋人があのローズでは勝負にならない。
ただでさえアダムにはジェイドという軍の守り神が付いているというのに、そのうえ戦の女神まで手にしたとなると……
正直なところ、ブルーベルでは手札が弱いと感じていた。
そこにバルムの姫がやってきて、自分にだけ懐いて兄には近寄ろうとしない。
おまけに彼女は素直でかわゆくて、ベッドではどスケベ性欲モンスターときた。
初めてのときは感動したし、それからは毎日のように、否、昼も夜も関係なく体力の続く限り彼女と愛し合っていた。
当然、授業や兄の説教は耳に入らず、いつでもボーッとしていたような気がする。
クリフは一応次期皇帝としてアダムの次に有力視されていただけあって、頭は悪くないし漢気のある気持ちの良い青年だった。
婚約者のブルーベルを愛していたし、大切にしていた。数ヶ月前までは。
——まさか……
嫌な予感がして部下を呼びつけた。
「なあ。俺が薬を盛られている可能性は?」
「ありません……」
「その、心を操る魔導具とか……」
「そちらも陛下のご指示により調査済みです」
「ないんだな……」
「はい……」
信じられないことに、クリフはすべての愚行を思春期の性欲のみで強行していたのだ。
しかも浮気が悪いことだと知っていてしっかりアリバイ工作や隠蔽工作を施している。
ペレシャと会うときは必ず影武者を立てたり架空の公務を入れていたし、アカデミーの自室は使わず名義が追えない別宅を用意し、半径1キロは私有地として防犯用の記録媒体に残さないようにしていた。
使用人は最低限に絞り、買収される可能性がないか親族に至るまで調査し、裸エプロンのペレシャと「新婚みたいね」と言いながら仲良く料理をしたりもした。
——なぜバレた?
そこからだ。たしかに兄の生誕祝いの席でペレシャをエスコートしたのは危険な賭けだったが、外交力をアピールするチャンスだった。
現にペレシャをエスコートするに相応しい人物はジェイドくらいしかおらず、そのジェイドはペレシャをエスコートするよう打診に行くと中指を立ててきたのだ。
他国の姫君を招いておいてひとりにするわけにはいかない。
「いや、ちがう。リリーの父親か」
リリーの父は帝国の窓口——外務卿である。
特使を兼ねた姫君のエスコートならば彼が適任だし、奥方は愛人を二桁囲っているので嫉妬もしないだろう。そも、彼自身が歩く媚薬爆弾と言われるほどの人誑しであるため、娘と同年代のペレシャに籠絡される可能性は天地がひっくり返ってもないと言える。
なぜそれに気づかなかったのか。
ペレシャが「わたし、知らないおじさんと腕を組んだりしたらもうお嫁に行けないわ。宗教上の理由で……」と悲しそうに言ったからだ。
彼女に鼻の下を伸ばす男はたくさんいて、脂汗を浮かべた中年貴族が彼女に言い寄っているのを見たことがあったため、勝手に勘違いしていた。
「クソ……」
「殿下、どうか冷静に」
「俺は、騙されただけなんだ。あの女に……そうだろう?」
「はい……おっしゃる通りで」
クリフは目が覚めた思いで別宅を後にした。
もうこの屋敷に来ることはないだろうと思って、あの魔女を断罪してやると思って、勇ましくアカデミーに向かったのである。
しかし。
「クリフ様〜! よかった! もう体調はよろしいの?」
「あ、かわい……」
「もう♡ クリフ様は少しお痩せになったのではありません?」
「少しな、これくら……うっ、オロロロロ……」
「キャア!」
クリフは口元を押さえながら目をパチパチしていた。ペレシャを見て嬉しくなったし、可愛くてエロくて最高だと大はしゃぎしたい気持ちなのに、胃が痙攣してまたも盛大に嘔吐してしまった。
騙されていると分かっていても彼女は可愛いし、けれど彼女のどこが可愛いのか分からない。
心配そうに見つめる彼女の潤んだ瞳は可愛いが、口元をハンカチで押さえて僅かに身を引いているところはなんだか裏切られた心地がする。
愛している。今すぐ抱きしめたい。キスをして、彼女の頬が赤くなるところを見たい。
そう思っているのに、彼女の高い声が嫌に耳に響いた。今日はカフェに行きたかったとか、こないだ約束していた有名デザイナーを紹介してほしいだとか、ついでにドレスと街歩き用の私服を仕立てたいとか。
——だからなんだ?
だから体調不良では困ると彼女は言っている。自分のわがままを叶えてくれなきゃセックスさせてあげないわよ、と言っているのだ。
「クリフ殿下⁉︎」
慌てた声に顔を上げると、今一番会いたくない女の姿が目に入った。
「ベル……?」
「体調が優れないのですか? お付きの者はどうなさったのです?」
そう言いながら彼女はクリフに駆け寄ってサッと魔法で床を洗浄してくれた。
それからハンカチで口元を拭いてくれ、両手で顔を包むようにして親指で下瞼をグッと下げる。するりと手のひらを首筋に滑らせると静かに脈をはかり、ホッとした様子で「毒ではないようですね」と呟いた。
久しぶりに誰かの優しさに触れた気がして、どうしようもなく泣きたくなった。
「毒だなんて……まさかベル様はわたくしを疑っていらっしゃるの?」
「いえ、皇族のクリフ様には常にそういった危険があるというだけのことですわ。深い意味はございません」
「でも……」
「クリフ殿下、彼女と医務室に行かれますか?」
「……」
首を振るのが精一杯だった。まだ混乱している。騙されたと憤っていたのに会えば可愛いと思ってしまって、けれど脳が彼女を拒絶している。
「わたくしがこうしているのも不快でしょう……今人を呼びます」
これには思い切り首を振った。
なぜか今一番会いたくないはずのベルが一番安心できた。ペレシャとふたりになるのが怖くて、ひとりになるのが不安で、ベルの手が触れる場所だけが唯一の安息地であるような気がしたのだ。
「歩けますか? どうぞわたくしに寄りがかかって」
「え、ちょっと。クリフ様? 今日はわたしと」
「あ、失礼。殿下は体調が優れないようなので医務室にお連れします。ごめんなさいね、この場にいてその程度のことも理解できないと思わなかったの。もしかして、そちらの神様は嘔吐物が不浄だとか具合の悪い人間よりショッピングが優先だとかおっしゃるのかしら? ずいぶんね」
「あなた……その発言の意味を理解していて?」
本人より親兄弟。親兄弟より神である。
これは禁忌のカードで最悪の侮辱行為だ。
信仰心をバカにされたペレシャは見たこともない鬼の形相でベルを睨んでいる。
クリフはベルの悪辣な煽り文句よりもペレシャの憎悪にショックを受けていた。バルムの人間なら誰だってこの顔になるというのに、宗教に明るくないクリフは「やはりこれが本性か……」と自分の鈍感さに絶望している。
対してベルは相変わらず優しかった。
医務室に向かうまでエスコートされるフリをしながら体を支えてくれたし、ベッドに横になってからは水を飲ませてくれ、人払いをしてくれた。
これから自分がすることを理解してくれている。
気を利かせてふたりだけの時間を作ってくれた。
「ご、ごめん……ごめん、ベル……」
ツー、と涙が枕に流れ落ちていく。
一度謝罪の言葉を口にするとこれまで無視していた罪悪感が堰を切ったように溢れ出した。
ベルはいつも一歩身を引いて男を立てる女だった。それとなくサポートし、自分が出来るヤツだと思わせてくれた。
頭を撫でると恥ずかしそうに目を伏せ、キスをすると涙を溜めてふるふると首を振る貞淑な女だった。
その初心な彼女が少しずつ、自分にだけ女の秘密を明かしてくれるのが堪らなかった。
「……」
本を読む彼女の隣で昼寝をするのが好きだった。
賢い彼女は決して知識をひけらかさず、必要なときだけ助言をくれた。
手をつなぐだけで幸せだったのに。
彼女が控えめに笑うその一瞬が、何より大事だったのに。
「ひっく……ごめん、ベル。俺は……」
「いいのです。分かっています」
「ごめん……許してくれ、俺はとんでもない間違いを」
「仰らないで。もう過ぎたことです」
「愛してる。ベル、愛してる……お前だけだ。もう、絶対に」
ベルは優しく頭を撫でるだけだった。
うっすら笑みを浮かべて子供を寝かしつけるみたいにゆっくり優しく髪を撫でる。
ひさしぶりに重たい頭痛が引いていく。
ドクドクと小刻みに脈打っていた心臓が落ち着いていき、いつのまにか深い眠りに落ちていた。
三日ぶりのまともな睡眠。
目覚めると多少頭はスッキリしていたが、すでにベルの姿はなく途端に不安になった。
呼吸が浅くなっていく。胃のあたりがザワザワしていて、わずかに手が震えている。
それからクリフはベルがいないと眠れなくなった。
アカデミーでペレシャを見るたびに酷いパニックを起こし、夜ひとりになると何億という命の重さが胸をすり潰した。
そのたびベルはクリフの元に駆けつけ、「大丈夫」と優しく声をかけてくれる。
「——ハッ……ベル?……ベル!」
「……? 殿下?」
「あ、ベル……よかった。俺の側にいてくれ。ずっと、俺から離れないで」
「ふふ、かわいい人」
ギュッとベルにしがみついた。嫌な夢を見ていた気がする。とてつもない恐怖に押しつぶされる夢を。
少しでも彼女との距離を埋めたくて、いっそひとつになってしまいたくて、無意識に彼女の唇を求めていた。
が、ベルはスイと横を向いて片手で胸を押し返す。
「ごめんなさい……まだ少し、気持ちの整理ができなくて」
「あ……そうだよな。悪かった。すまない」
目の前が真っ暗になった。
まだ悪夢は終わっていなかった。
寝ても地獄、醒めても地獄。
取り返しのつかない間違いを犯した。
ベルの本心が分からない。優しくしてくれるが、以前のようにすべてを捧げてはくれない。
それだけのことをしたという自覚もある。もう、さすがに理解した。
ペレシャは以前にも増して付き纏って来るようになり、その手段や言動には政治的な意図が見え隠れしていた。
けれどどこか頭の片隅では未だ自分に惚れていてほしいという浅はかな願望もあった。これは浮気中ベルに対しても抱いていた感情だ。
どんなに離れても、どんなに酷いことをしても、いつまでも自分を想っていてほしい。
俺の迷惑にならない程度に俺を想いながら自室のベッドで泣いていてほしい。
あまりにも身勝手な願望に自分の頭がおかしくなったのかと思って兄に相談したことがある。
しかしアダムは「分かるよ、男ってそういうものだ。でもお前にはその器がなかったんだよ。あと分別も」と、軽くあしらわれてしまった。
皇位権争いをしていてもアダムとは一番年が近く、仲が良かった。信頼していたし、好きだった。
その兄にも見放された。
もう自分にはベルしかいない。
ベルだけいればあとは何もいらない。
「ベル、結婚しよう。ふたりだけで結婚式をして……郊外に小さな家を建てよう。継承権もいらない。貴族の身分もいらない。ベルだけ……ベルだけいてくれたら俺は生きていける」
「……」
ベルは悲しそうに目を伏せるだけだった。
きっと優しい彼女なら、いつか許してくれる。同情でもいい、側にいてくれるならどんな感情でも……
そう思ったときだった。
「クリフ様? ことこの東大帝国において、婚約済みの男が言う“結婚しよう”が女にはどう聞こえるかご存知ですか?」
「?」
「“今すぐヤらせろ”よ。だから出来た殿方は婚約すると彼女に“今すぐにでも結婚したい”と思って貰えるように心を尽くすわ。政略結婚でも同じこと。相手の家門とより良い関係を築くために女がその気になるよう礼儀を尽くすのよ。だから女は自由を捨てられるし、命をかけて子を産めるの」
「ベル?」
「クリフ様は責任を放棄して楽になりたいだけでしょう? すべてを捨てて一緒になろうだなんて、口説く相手を間違っているわ。だってわたしは捨てても良いものなんて婚約者くらいだもの。うふふ、アハハハハ……そうなの。わたしね、美人で頭が良くて友達にも恵まれているから、バカな中古男なんてお荷物なだけなのよ」
「あ……ごめん。そうだよな……間違えた。ごめん、ベルごめん! 間違えた! 俺はまた間違えた!」
「ええ、そうね。クリフ様はいつも間違えるのね。優しくする相手も、抱く女も何もかも」
「うぁ……あぁぁぁ……ごめん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……俺は」
——どうやら俺は浮気で人生が終わるらしい、死にたい。
◆
この一件に派手な断罪劇は必要なかった。
わざわざ恥を晒す必要などなく、単に始末を付けられればそれでよかったのだ。
「アッハッハッハッ! 見た? クリフ様の顔!」
「アレはもうダメね。完全に壊れたわ」
「ブルーベルさん、感想のほどは」
「ん〜、クリフって誰だったかしら? リリーの新しいペット?」
「ンフフフフッ、アハハハッ」
「普段真面目なベルが怒ると一番怖いのよね」
「ベルって喧嘩になるといつも法令集を片手に持って喋るじゃない? わたしグリーンの背表紙がトラウマになったもの」
「で、あの男にはどんなトラウマをプレゼントしたの?」
「そうね、とりあえず女性を見るだけで嘔吐するようになったわ。可哀想に、思春期の性欲を世界大戦に紐づけられて少しでも“異性”を感じるとパニックを起こすようになったの」
「あはは、傑作」
「あとは家族や側近もトラウマね。幻滅されたことがショックだったみたいで、疑心暗鬼になってるわ」
「じゃあもう彼に残された居場所は戦場くらい?」
「そういうこと」
「ジェイドお兄様が喜んでいたわ。クリフ様って元々戦の才能があったでしょう? 皇子のプライドがどうとかでお兄様とぶつかることが多かったのだけど、今じゃすっかりお兄様の下僕よ。彼、将来英雄になるわね」
「あら楽しみ」
「そうね、英雄が元彼だなんて素敵だもの」
「フフフ、みんなありがとう。本当に良い友達を持ったわ」
「いやね、わたしたちは何もしてないわよ」
花々がアハアハ笑いながら優雅にお茶を楽しんでいる。
優しい日差しが差し込む美しいサロンは楽園のごときであった。
そこに、
「あなたたち……よくも!」
真打登場である。
髪が乱れところどころ擦り傷を作ったペレシャ姫がナイフを持って入り口に立っていた。
午後の楽園には花の乙女と異国の姫だけ。
「あら、ペレシャ様。どうなさったの?」
「ご一緒にお茶でもいかが?」
「美味しいお菓子もありますよ」
「どうぞこちらに。さあ。さあ……」
乙女は彼女を歓迎するように、不自然に空いた席を指す。
ペレシャは真っ赤にしていた顔をザッと青くしてその場に立ち尽くした。
今日この時間、彼女がここに来ることは決まっていたのだ。
「すべて、あなたたちの仕業ね……」
「さあ? 何のことかしら?」
「クリフ様がおかしくなったわ。あんなにわたしを愛していたのに、今じゃ——」
「あ、その話はもう終わったの。別の話題をお願いできる?」
「な、なん……あなたたち人をバカにして」
「そうよ? どうして自分がバカにされないなんて思ったの?」
花の乙女は心底不思議そうにアイコンタクトを交わしながら、「ね?」「ほんとに」「世間知らずなのかしら?」とヒソヒソ続けた。
「フンッ、見下していた相手に男を取られた気分はどう?」
「?」
「あなたの婚約者ね、すぐにわたしに夢中になったわ。昼も夜も、起きている間中ずっとね!」
「ヤダ、お下品」
「ごめんなさいね、わたしたち宗教上の理由でその手の話題はちょっと……」
「プッ……」
「アハハハハ、やだ、笑わないでよ」
クスクス笑う花の乙女にペレシャは顔を真っ赤にした。赤に青にと忙しい女である。
彼女はこめかみの血管が切れそうなほど怒りを爆発させて、近くにあった花瓶を薙ぎ倒した。
ベルが三人を諌めるように「もう」とひと言言えば、三人はピタと笑うのをやめて整った笑みを貼り付けた。
それはゾッとするような恐ろしさで、ペレシャもジッと黙り込んでしまう。
「気に障ったかしら? 特に深い意味はないのよ? ただ、ずいぶん安い女だなって……アハ……ンフフフフ」
「もう、ベルも笑っちゃってるじゃない」
「だっておかしくって。セックスで男を射止めようだなんて、みっともない」
「野蛮よね」
「ご立派な信仰心だこと」
「そうそう、信仰といえばどこぞの姫君が幽閉されるんですってね。神の教えに背いた罰だそうよ」
「留学先で色に狂った挙句、ヤリ捨てられただけなのに」
「かわいそうに」
「その子の神様も泣いてるわ」
「姫君が売女だなんてとんだ恥晒しだものね」
「クスクスクス……」
「嗚呼ひどい……」
「ウフフフフ、地獄みたいな毎日が待ってるわ」
「あなたたち……許さない……許さないから」
途端に笑い声がワッと大きくなった。
ペレシャは歯をガチガチ鳴らしながら薬物中毒患者みたいに目をギョロギョロさせている。
「ご安心なさって。バルムの兵はわたしたちが許可しない限りこのサロンには入ってこないわ」
「兵に捕まれば最後、強制送還されたあとは秘密の部屋に入れられるんでしょう?」
「どうしてそれを……」
ベルはスッと立ち上がって震えるペレシャの手を取った。
握っていたナイフがカランと床に落ちて、ペレシャはそのまま“彼女の席”まで連れて行かれる。
ベルは彼女の隣に座って友達に話すみたいにラフな笑みで言った。
「わたしね、法律屋の娘なの。だから他国の法律もたくさん学んだわ。面白いわよね、法律書を眺めているとその国の風土や闇が見えてくるんですもの」
「なにが言いたい……の」
「バルムって徹底的な男尊女卑文化じゃない? 女を物みたいに扱ってる。それは王族も同じ……違う?」
「……ッ」
「あなた、教義を破ったうえにもう使い道がないから、王族専用の性奴隷になるのよね? 血のつながった親族に死ぬまで玩具にされるってどんな気持ちかしら?」
「ッ! お前たちが仕組んだんだろう! わたしの! わたしとクリフ様の映像をバルムに送ったのはお前たちだろ!」
「アハハハハ!」
クリフは完璧な秘密の別邸を手に入れたと思っていたが、そも皇族の使用する魔導具のほとんどはジャスミンが手がけたものなので、逢瀬の映像など簡単に手に入れられる。
それを、バルムの国王にプレゼントしたのだ。
「戦争になるわよ……ハッ、男を取られたくらいで世界を戦争に巻き込むなんて。まるで魔女ね……」
「ならないわよ?」
「は?」
「戦争にはならないわ」
「え? は? 他の国が黙ってない……そんな、そんなはず」
「バルム王国の十三番目の姫君が世界対戦の大義名分になるのは、これまで絶妙なバランスで均衡を保っていたからなの。だから、もう一度バランスを取り直したわ」
「?」
「飢餓で苦しんでいた国があったでしょう? あそこね、政府が民に重税を課していたんだけど、巻き上げた税金の使い方が呆れるほど下手で、それで首が回らなくなっていたみたいなの。だから上層部を入れ替えて経済支援と技術支援をするよう手配したわ。同時に移民を受け入れ過ぎて土地が足りなくなった国から労働力として移民を送り込む準備を進めているところよ。まだひと月程度だけど思った以上に順調でね。たった二カ国でも人道的な支援をした帝国に、攻め入る大義名分は……ふふ、なくなっちゃったの♡」
彼女たちの宗教は国が違えど兄弟のような絆で結ばれている。だから表立って兄弟を救ってくれた帝国に刃を向けることはできない。特に、戦の火種が醜聞の類であれば尚のこと。
「嘘だ……うそよ、そんな簡単に、ただの学生に、できるはずない」
「できるのよ、これが。そこにいるリリー姐さんのお父様はやり手の外務卿だし、諸外国の事情はジャスミンがその気になれば全部筒抜け。ローズは戦争と名の付くものは必ず勝つわ。あとはわたしが国際法に抵触しないよう整えるだけ。ね?」
「……じゃあ、わたしは……なに……? なんのために? なんでわたしだけ」
「混乱してる、かわい♡ あ、そうだ、最期の言葉を聞いてあげる。あなた、捕まったらすぐに歯を抜かれて舌を切り取られるでしょう? 王族の蛮行が間違っても世に出ないように……」
「う、うあ゙ぁぁぁぁあぁぁぁあ!!!!」
ペレシャは声が枯れるまで獣のように叫び続けた。
花の乙女は姫の絶叫をBGMにして優雅なティータイムを再開している。お気に入りのスイーツとか、コスメの新作の話とかしながら。
「……はぁ、はぁ……うぅ……」
「気は済んだ? じゃあどうぞ」
「……」
「…………」
長い沈黙だった。
この時間だけは花の乙女も黙って彼女の最後の言葉を待っている。
「……好きだったの」
「……」
「クリフ様のこと、本当に、好きだった」
「知ってるわ」
「……嘘じゃなかったのに……」
「そうね……あなたは生まれて初めてひとりの女の子として、いえ、ひとりの人間として尊重されて嬉しかったのでしょう? 実家じゃ人権なんてないものね。だからクリフ様だけがあなたの救いだったし、どんな手を使ってでも結婚したかったのよね?」
ペレシャは子供が欲しかった。
クリフの子さえ宿せば、ずっとクリフの側に居られると思って必死だった。
それをベルは分かっていた。
分かっていながら、ペレシャが戦争の材料とするために近づいたのだとクリフに思い込ませた。
「ごめんなさい……好きになって、ごめんなさい……」
「うん。……わたしもね、あの人のことが好きだったの。だから分かるわ、素敵な人だったもの」
「うっ、ひっく……本当に、ごめんなさい。謝って、すむことでは、ないけど。でも、わたし」
「もういいの、気は済んだから。だって私を苦しめた人たちはもう“人”ですらないんだし」
「あ゙あぁぁあぁぁぁーーーー!!」
「アハハ、大泣き(笑)」
「たしかに、ふふッ……廃人と、性奴隷だものね」
「もう! ベルもローズもひどいわよ! ンフフフ」
「嘘嘘。冗談よ、そんなふうに泣かないで」
「うわぁぁーーん」
「ごめんなさい、言い過ぎたわ。あああ、可愛い顔が台無しよ、ほら涙を拭いて? お茶をどうぞ?」
「うっ、うぐ……えぐっ……」
「なんだか可哀想になってきたわ」
「そうよね。実はわたし、もう彼女にそれほど思い入れもないのよね」
「婚約者を奪われたのに?」
「だって何ヶ月も前の話よ? すっかり思い出になったわ」
「え、じゃあ彼女、わたしがもらっていい?」
唐突に手を挙げたのはリリー姐さんだった。
リリー姐さんはとろんとした目元をさらに蕩けさせて、ぽってりした唇を尖らせるようにおねだりの顔をしている。
口元の艶ぼくろがやけにセクシーで、彼女にこの顔で見つめられると花の乙女たちですら少しモジモジしてしまう。
あまりにも色っぽくてひとつ年上のローズでさえリリー姐さんと呼ぶほどなので。
「それ名案ね」
「リリーなら完璧に調教できるものね」
「良かったわね、飼い主が替わったわよ?」
「え、え……?」
乙女たちはペレシャの鼻をかんでやり、乱れた髪を直したりお茶を飲ませたりしながら「かわいい♡」「怖かったわね」「かわいそうに」「これまで大変だったわね」と盛大に可愛がりはじめた。
ペレシャは極限の緊張と絶望の中にいたはずが、急に世界で一番幸福な家畜みたいに扱われて脳が焼き切れている。
死神が一瞬にして女神に変わったような心地で、目をフラフラさせるばかりだった。
「助けてあげたいわ」
「そうね、だってこの子は利用されただけだもの」
「わたしのペットになれば死ぬまで可愛がってあげるのに……」
「あ……ゔぅ……」
「ねぇ、ペレシャ」
ベルがペレシャの両手を包み込むように握った。
それから親友に打ち明けるみたいに言う。
「わたしね、婚約者に浮気されたの」
「ヒッ……」
その微笑みには悲しみと諦め、それと少しの切なさが滲んでいる。
ペレシャは右頬にゾッと鳥肌を立てた。
「でも、そうなるように仕向けた人は遠く離れた安息の地で今もぬくぬくと幸せに暮らしているみたい。許せないわ。許せないわよね?」
「は、はい……はい」
「わたしたち、政治のために恋したわけじゃないものね?」
「はい……はい゙……!」
歯を食いしばるように涙を流すペレシャをリリーがギュッと抱きしめる。抱きしめたまま、優しく頭を撫でながら「教えてくれる? 誰がわたしのペレシャにこんなことをさせたの?」と耳元で囁いた。
ペレシャはぐしゃぐしゃになりながら「言えない……妹が……まだ幼い妹がバルムで」と声を絞り出す。
「あなたの同腹の妹ね? 他国に売られると脅されているんでしょう? でももうその話はなしよ、安心して?」
「な、なんで……どうやって」
「さっき言わなかった? あなたの妹が売られる予定だった国、上層部を入れ替えたからそのペド貴族も消えたわ。まぁ、帝国が実権を握ったも同然だからたとえ生きていても約束は無効ね」
「わ、わ……よかっ、よかった……」
例の飢餓に苦しんでいた国——ザウル王国である。
そも、ザウルの民が飢えるほどの税金を何に使っていたかというと、貴族たちが私欲のために他国に金をばら撒いていたからだ。
便宜をはかってもらうだとか、議席を確保するだとか。国内の権力争いは後ろ盾となった国同士の争いとなり、複数の国が政治に干渉していたので国がまともに機能していなかった。
ジャスミンとリリーの調査によりザウルからバルムにお金が流れていることが分かったが、その時はザウルへの見返りがハッキリしなかった。
国を跨いだ貴族同士の個人的な協定なので調査に時間がかかり、“バルムの幼い姫をザウルの貴族に差し出す約束がある”と判明したのは今朝のこと。
よってこれはまったくの副産物だったのだが、おかげで彼女の口をこじ開けることができる。
「おにい、さま……二番目の、おにいさまが……」
「二番目のお兄さまは誰と結託してペレシャの妹を他国に売ろうとしたの?」
「わたしたちが殺してあげる。だってこのままだとあなたの大事な人が危険なままだもの」
「ペレシャを道具みたいに使い捨てた人はだれ?」
「復讐しなきゃ」
「跡形もなく」
「二度と生まれてこれないように」
花の乙女がピチピチと甘い毒を囁いた。
「……ガジャム家…………」
「いい子……いい子ね、ペレシャ。うちの子になる?」
「な、なりたい……なりたいです、リリー様のペットに……バルムは嫌。バルムには送らないで……」
「あぁ〜ん、かわいい♡」
リリーの胸元に縋り付いてイヤイヤと首を振るペレシャはすっかり乙女のペットだった。
なにせあの扉を開けば死より苦しい地獄が待っているのだから。
ペレシャにはもうまともな判断能力もなかったし、まともな選択肢も残されていなかった。
彼女に残されたのはバルムの内部情報だけだった。
◆
「というわけで。花の乙女の皆様、お疲れさまでした」
「うふふ、色気のない労いですこと」
「いや、本当に助かった。君たちが上手く収めてくれたおかげで帝国もかなりの利益を得られたよ。皇族として礼を言わせてほしい」
「いいえ、友人の憂さ晴らしに付き合っただけですわ」
「久しぶりに楽しめました」
「それで、バルムの実権は握れたの?」
「はは……さすがに今すぐにとはいかないよ。でも数年以内には必ず」
「そ」
ローズは政治にはあまり関心がない。
勝ち負けがハッキリしている戦の類が好きなだけなので、そのあたりはアダムの領域だった。
それもペレシャからの詳細な情報提供があってのこと。
ペレシャが十三番目の姫であることから分かるようにバルム王国は一夫多妻制である。当然夫人の実家による権力争いは苛烈で、ペレシャも同腹の二番目の兄に帝国の皇子と関係を持ってこいと命令されていた。
その二番目の兄が別の派閥と手を組んで同腹の一番上の兄を蹴落とそうとしただとか、その結託した相手は資金繰りに困っておりペレシャの妹を他国に売ろうとしていただとか、様々複雑な事情はあるけれど。
結果的にアダムはペレシャの一番上の兄に接触し、弟の策略を密告すると同時に、妹ペレシャの不貞を持ち出し莫大な慰謝料をチラつかせて彼を取り込むことに成功した。
現在、ペレシャの妹は一番上の兄が保護している。ペレシャには妹以外に大事な人がいなかった。
「アダム様はあの方をバルムの王にするおつもりなのですか?」
「そうだね。彼はとても扱いやすかったし、王に向いてそうだったから。それもこれも君たちが協力してくれたおかげだよ」
「殿下の手腕があってこそですわ」
「殿下と言えばクリフ様はお元気?」
「ああ、元気に戦場で人を殺してる」
「まあ!」
「ローズの戦略にも従順で助かるよ、本当に」
「女性恐怖症は相変わらずかしら?」
「そうだね。あの様子じゃ一生独身じゃないかな? はは、本当に助かる」
「なんだかアダム様ばかり得をしていませんこと? ねぇ、ベル」
「わたくしの傷心をアダム様に利用されたようで……くすん…」
「わ、わわ! 俺は死にかけた! 俺だって最愛の人を失いかけたんだよ⁉︎ ギリギリだった!」
「あら? わたし、まだ考え中よ?」
「あ、え?」
「ローズが皇室に入れば今みたいに遊べなくなるわよね? 嫌だわ」
「あ……なんでもする。なんでもするから! そろそろ勘弁しておくれよ、花の乙女……」
「ふふふ、あと三年はお覚悟を」
ベルはアダム皇子を揶揄いながら親友たちとバカみたいに笑い合い、スッキリした気分でひとり馬車に乗り込んだ。
すると、閉じかけた扉に大きな手がかかってひとりの美丈夫が乗り込んでくる。
「送っても?」
「ええ、お願いします。ジェイド様」
ガタンと馬車が走り始めると、車内はいっとき静かになった。案外、ふたりきりだと会話は少ない。
「今夜は実家に泊まるんだったか」
「はい。両親にも改めて報告したいので」
もちろん、彼女の父親は今回の件についてすべて把握しているし、諸々の手続きや重要な意思決定は親に相談していたが、今日はただの娘として顔を見せに行くのである。
基本的に「人生のすべてが教材である」という考えの父は良い意味で放任主義だが、クリフの浮気に関しては今まで見たこともないくらい怒っていた。
「ペレシャ姫に皇子を誘惑するよう指示した男は粛清された。結託していた派閥諸共。俺がこの目で確認してきたよ」
「ありがとうございます」
「……」
「父が……」
「うん?」
「夜中にこっそり泣いていたと、母から聞いて……そのとき、すべて片付いたら終わったよ、元気だよって報告しに行くと決めていたんです。なので、ありがとうございます」
「かわいいな」
「もう、真面目な話をしていたのに」
「ベルはいつだって可愛いからな。それで、ちゃんと元気か?」
ジェイドは窓枠に肘をついて手のひらで隠すように骨ばった顎を乗せている。
いつだって表情管理が完璧なジェイドが、思春期みたいな顔を隠そうとしている。
「ええ、もうすっかり」
「次の予定は?」
「ご予約されますか?」
「できればこのままご両親に挨拶がしたい」
「ふふ」
「……」
「…………?」
「ベル、実は俺……ローズの兄なんだ」
「まあ!」
「俺と結婚したらローズと姉妹になれる。どうだ?」
「一番魅力的な口説き文句です」
「チッ、ダメか」
「……本当に、お優しいのね」
「ああ、君にだけ」
「さすが帝国一の良い男ね」
「俺は君の好い人になりたいよ」
「ふふふ、もう」
ジェイドがフッと色男の笑みを溢した。
ベルの心臓が跳ね上がるのと同時に、ガタン、と馬車が目的地に到着する。
彼は馬車から降りると宝物を取り出すみたいにベルを馬車から下ろし、彼女の耳元で「冗談じゃないんだけどな」と、吐息のような小さな声で囁いてから、「また」と片手をあげて来た道を戻って行った。
だからベルはドキドキしている心臓を押さえて飲み込むように小さな声で言うのだ。
「悪い人」
ブルーベルが新しい恋をするのはまだ先のお話。
なにせ彼女は花の乙女。
男の心を乱すよりも楽しいことを知っているので。
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