第一話 白猿
指先で紙幣を滑らせ頭のなかで枚数を数える。慣れた手つきであり、いつもと変わらない作業。それでもどこか期待してしまうのは、もしかしたら今日は昨日よりも儲かってるかもしれないという期待が拭えないからだ。
「――二万……五千ξ」
手元の紙幣を再度数え直し、期待外れの結果を自身の数え間違えであると訂正しようとするが、手元のカネが増えることはない。
その残念な結果にハイルは肩を下ろす。
「飲んだくれとはいえ、もう少し持ってると思ったんだけどなぁ……」
数分前に財布を抜き取った男はこの繁華街で果実屋を経営していたらしく、それなりに儲かっていると予想していたが、財布の中身は期待外れだった。そのことを残念に思うが、あの一瞬で盗んだ自身の手腕には感心する。
スリを始めて数年が経過し、時にはそれがバレた結果何度も殴られたり追いかけられたりした。しかし人は経験から学ぶ生き物であり、何度も繰り返せば腕は磨かれ能力は上達する。罪悪感も徐々に麻痺し、次第にそのような犯罪を正当化する言い訳だけがのこる。
「……まぁ、普通の仕事についても儲からないしな」
――ハイル、年齢十七歳。家族は母親だけであり、二人でここアルケイン王国の貧民街に生まれた時から住み着いている。
貴族、平民、貧民とこの国の身分におけるヒエラルキーでも自分は底辺の貧民に位置しており、正式に定められた住居や住民票を持ち合わせていないことから、一般的な職業に就くこともできず、法にのっとり労働契約も結べないことから、現在では違法の鉄鋼重労働会社で働いている。
「まじめに働いても儲からないし……かといって財布持ち歩く奴も最近減ってきた。どうすっかな……」
違法の会社ということも相まって労働に対する給料は低く、まともな契約を結んでいない以上簡単にクビにされ、もし怪我をしても社会保障や保険も適応されない。それが貧民の生き方であり、文句など唱えたところで誰かに届くわけでもない。むしろ仕事を無くすだけである。
「最近は電子決済?ってのも進んでるし……まじで金持ってる奴が減ってる。これからどうやって稼げばいいんだ?」
通信機を使用した手段での決済が最近増えており、どうやら現金を使わずとも買い物ができる手段が存在するらしい。よくわからない仕組みだが、既に多くの人がこの国ではこの支払方法を活用しており、平民にとっての手軽さや便利さが増す一方で、自分のような金銭を得る手段が少ない貧民にとっては痛手である。
前に一度通信機を盗み、中に隠されたカネを得るため分解してみたが、そこにはなにもなく噂に騙されたことを思い出した。
「やっぱ別の街で金持ってるやつ探すしかないのか。でも帰り道わからないし――おっと!」
前を歩いていた五人組の最後尾の男に体が当たり、踊る様に避けながら集団の前に出ると足を速める。
「――、」
やはり思った通り、ポケットの僅かなくぼみも見逃さない自分の観察眼と五人の財布を一気に抜き去る手腕、自分自身に思わず脱帽したくなるほどだ。やはりこのような奸計が成功することに生きがいを感じる。
今日は十人を相手に盗みを働いたが、得られた金額は九万ξと最近では少ない方だ。それがここに来て、五人を相手にスリに成功、やはり財布の中身には期待してしまうが――、
「おい、お前――っ」
「――。」
「おい! 白髪のガキ――! お前に言ってんだよ――ッ!!」
「やっべ――!」
もうバレてしまった――と、落ち込んでいる暇はない。むしろ窃盗で生計をたてるハイルにとってはここからが本番であり、文字通り命懸けの追跡が始まる。
手にした五つの財布を懐にしまうと地面を強く蹴り走り出した。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲
人の波を手でかき分け、脱兎のごとく猛然と走る。
時には人の頭を飛び越え、時には滑りながら股下を潜り、時には壁をつたい逃走しながら更に慣れた手つきで財布を抜き取る。動きに僅かな支障を与えぬよう、手にした財布から紙幣や硬貨を瞬時に抜き取り手にした財布は宙へと放り投げる。こうすることで追手の意識を一瞬逸らせるだけでなく、財布の重さにより逃走の減速を少しばかり軽減できる。
「意外としつこいな……」
いつものように俊敏な動きで追跡を逃れようとするが、どうやら今日の追手は一筋縄ではないらしい。
壁や街灯、屋台の屋根や人混み、目にするもの全てを利用し縦横無尽の動きで逃走するのがいつものハイルであり、この時点で追手は普通見失うか、追いつけないことを悟り諦める。
しかし、今日の五人は諦めが悪く執拗に追いかけてくる。
「てめぇガキ! ただじゃおかねぇ!!」
後方から怒りを乗せた男の声が響き渡り、それに反応して目前の人波が振り返っては道を開け始める。わざわざ手で分け進む必要性がはぶかれる以上、得をした気にもなるが必ずしもそうとは限らない。
例えば――、
「ちょ、君止まりなさい!」
「――っ」
「そいつを掴んで離すな――ッ!!」
群衆の全員が烏合の衆ではなく、状況を一瞬で理解し拿捕に協力する者もいる。そのような人間が一番厄介であり、一瞬スピードを落とせば追跡者との距離を縮められるだけでなく、他の群衆も次第に状況を察し、行く手を阻むために壁をつくりはじめる。
「……邪魔だからどけよ」
強引に腕を振り解き逃走を再開するが、止められていた二秒間のうちに距離は随分と縮んだ。進行方向の退路は人壁が形成され、手でかき分けるのは難しい。
「ああぁ!?」
「ほ! よ! せい――!」
膝に力を込めて思いっきり跳躍、そして群衆の頭上へ飛ぶと同時に頭や肩を足場とし、素早く前へと進む。子供、女性、老人は極力避け、体格が大きく踏んでも怪我をしないような男の頭を蹴り進み再び追手と距離が出来た。
無論、バランスを崩せば一瞬で人波に飲まれ浮上は困難を極める――が、長年の逃走経験もあってか、ハイルは自身の身体能力に自信があり、そのようなミスを打つほどマヌケでもない。
「くっそ、それでも進み辛いって……おっと!」
「このガキぶっ殺してやる――ッ!」
ズボンの裾を掠めたのは追手のうちのひとりであり、想定よりも早く人混みを分けて追ってきていたことに驚く。同時にこの速度では追い付かれると確信した。
「だから……こっちだ」
人から人へ跳躍しつつ、外壁を観察し路地裏へと繋がる道を発見。そこを目指し地面に着地すると再び走り出す。そのすぐ後ろから男達の怒声が聞こえ、剥き出しの殺意に身震いするが足を止める訳にもいかない。この入り組んだ路地を抜けた先になにがあるのかは検討もつかないが、いまは追跡を逃れることが最優先である。
「――」
「堪忍したかお前!?」
と、そこへ正面から男の影が現れ足を止める。先程財布を奪った男たちのうちの一人であり、後ろには四人、いつの間にか先回りされていたことに気づく。
「勝手にひとさまのモノ奪いやがって。貧民風情が生意気なんだよ! お前らは酒や薬に溺れて一生を終える典型的な社会のクズだ。そんなお前らみたいなゴミがオレの金を有効につかえるわけないだろう!?」
通路の両側は塞がれておりここは一本道、逃げ道などなく詰みの状態に等しい。
「オレ達から奪ったものを全て返せ」
「返したら見逃してもらえるのか?」
「安心しろ。殺しはしない。さっきみたいに自由に動き回ることが難しい体にはなるかもしれないけどな! もちろん返さなければ――ヅっ!?」
「……話ながい」
先程捨てそびれていた財布の一つを目前の男の顔へ投げつける。当然それは一瞬の目くらましにしかならないが、その一瞬の隙はハイルにとっては十分すぎる時間であり、刹那の時間に男の視界から消えた直後、壁を蹴って男を飛び越え逃走を再開する。
「くそ、追え――ッ!!」
再び逃走が始まり緊迫の時間が最熱する。階段を一段飛ばしでかけ抜け、投棄された家具やゴミを足場とし、壁をのぼり迷路のような路地を卓越した動きでひたすら進む。
それでも追手は足を止めず執拗についてくる。ここまで追いかけられるのはハイルとしても久しぶりであり、五人に対し関心してしまう。
「――っと、あぶねぇ」
路地を抜け空を見上げた直後、目前の足元が消えた事実を遅れて認識し、自分がいま建物の屋上まで来てしまったことを理解する。
人気のない裏路地の階段からたどりついてしまったこの場所は繁華街の中でもそこそこ高い建物であり、地上までの距離は低く見つもって二十五メートルといったところか。地上にも人がいるため、ここから飛び降りれば下にいる人々と衝突し、当然自身もただではすまないだろう。
「はぁ……袋の鼠だ。さぁ、盗んだカネを返せ!! いい加減お前も疲れただろう……はぁはぁ」
荒い息を吐きながら追手の五人が屋上に到達し、苛立ちをこめた視線でこちらを見ている。その様相は獣のようでありながら随分と疲弊しており、滂沱の汗がこめかみを伝っていた。
一方でハイルはケロっとしており、まるで疲れを感じさせないどころかこの逃走劇を楽しんでいたような高揚感のある雰囲気をしている。その反応に男達は舌打ちをすることしかできない。
「わかった! はぁ……こうしよう! お前はパクったカネの内の半分をもらっていい!! そしてオレ達はもうお前を追わない! これでどうだ?」
「素直に返したとしてもその後にオレを殺す気なんだろ?」
「あれは……あれはただの言葉の綾ってやつだ。もうお前を殺す気力もねぇよ! 痛めつける余力もねぇ……疲れたわ」
肩で息をつく男達はもうすでに限界であり、これ以上は不毛であることは明らかだ。逃走者は逃げ場などなく、追手は体力的に獲物を逃がすしかない状況である。
しかし、この両者詰みとも解釈できる状況はハイルには通用しない。
「……じゃあもう追って来れないってわけだな」
「は――」
ニヤリと笑った逃走者、それは直後に建物の端から足を踏み外し頭から地上へと落下する。
「ちょ、あのバカ野郎――ッ!!」
視界に映っていた窃盗犯が突如として姿を消し、それが屋上から落ちたという事実を悟るのに時間はかからない。
いま落下死されては地上が大騒ぎになり屋上にいる自分達が殺害に加担したと疑われるのは必然だ。このままではマズいと思いつつ、恐る恐る顔を出し、見るも無残な死体がそこにあることを確認し――、
「……は?」
しかし、そこには予想とは異なる光景が広がっていた。
繁華街の窓から吊るされた洗濯紐や売店の暖簾、それを器用に扱いながら足場として活用し、それらの弾力性を利用しながら手をつかい再び別の建物へと飛び移り逃走を再開する。
その動きは常人離れしており、卓越した身体能力と様々なモノを足場や手がかりとして駆使する姿は同じ人間とは思えない。
落ちそうと一瞬思ったとしても即座に壁を蹴り、僅かなとっかかりを頼りに追跡者との距離をはなしていく。
その圧倒的な動きを前にそもそも最初から追いつくことなど不可能であったという現実をみせつけられた。
「なぁ……あいつもしかして白猿じゃね?」
「白猿……?」
「聞いたことぐらいあるだろ。この国でスリをしていて、やたらと身体能力が高い白髪の男の存在だよ」
うわさ程度であるがその話はたしかに耳にしたことがある。
歳が若いにもかかわらず髪色は雪のように真っ白で、卓越した身体能力で人の財布を奪う神出鬼没の盗人がいると。
身長は大きくもなく小さくもない平均的で、少年から青年ぐらいといった体格。長い白髪に翡翠色の瞳、手つきが器用で気がついた時には遅く、運よく気づいても逃走には追いつけない。
そしてうわさがこれ以上の情報を含まないのは、これ以上盗人の存在に近づけた者がいないからだ。
「あれがそうだってのか……」
まるで都市伝説であり、颯爽と現れては消える在り方は一周回って神秘的とも解釈できる。
盗まれたカネが返ってくることはなく、盗人には今後二度と会えないにも関わらず、どこか冷静なのは自分が追っていたのは非現実的な存在であり、影を追っていた気分に近いからか。
「……帰ろうぜ」
「そうだな……」
「これ以上は追えねぇよ」
「別に大金持っていたわけでもねぇし……」
「相手が悪かったわ……」
まるで通り雨に遭遇した気分であり、挑むことすらバカらしい。
そんなことを考えてる間に白猿は既に見えなくなっていた。