8.日進月歩
「陛下、どうか娘をお返し下さい」
仕方なく謁見を許可した皇帝は、土下座する勢いのトランチェスタ侯爵を前に複雑な顔をしていた。
「……ダメだ」
「何故ですか? 何故そこまで娘に……まさか、娘の素顔を見たのですか?」
「…………」
沈黙する皇帝に、侯爵は悲痛な声を上げる。
「やはり! だから娘を欲しがっていらっしゃるのでしょう? でなければ、普段は地味な娘に陛下が目を付けるはずがありません」
「……顔は関係ない。俺にはエリスが……必要だ。ただそれだけだ」
先程から皇帝が歯切れの悪い言い方をしているのには理由があった。
というのも、侯爵と面会するにあたって、エリスから一つ約束をさせられたことがあるのだ。
『お父様は私がロマンス小説を書いていることを知らないんです。ですから、絶対に小説の話はしないで下さい』
『何故だ? いくらでも話したらいいじゃないか』
『やめて下さい! 男女のあんなことやこんなことを書いていることが父親に知られるなんて、そんなの死んだ方がマシです! 陛下に知られてしまったことはもう諦めましたけど、私が作家エリストラだということはもう誰にも知られたくありません! 特に父にだけは絶対に!』
エリスから言われた言葉を思い出し、皇帝は気を引き締めた。エリスのことを話そうとするとうっかり小説の話を出してしまいそうで、言葉の一つ一つに慎重になってしまう。
言葉少ない皇帝に何を思ったのか、侯爵は涙ながらに訴えた。
「あの子にはあの顔しかないのです。何かに秀でた才能があるわけでもなく、引っ込み思案な性格でよく部屋に引き篭もっているような子です。それも何時間も、時には食事すら摂らず。そんな娘が、顔だけを見て寄ってくる輩に唆されたりしないよう、特注の眼鏡まで掛けさせたというのに……」
あの眼鏡はそういうことだったのかと、話を聞きながら納得する皇帝。いくらなんでもエリスの美貌を隠し過ぎなあの眼鏡は、父の愛の塊でもあったのだ。
「……よりにもよって陛下に見初められようとは。私が迂闊でした。あの夜会に娘を連れてさえ来なければ。あの子には陛下のおそばに侍るような技量はありません! どうか陛下のご迷惑になる前に、娘をお返し下さい!」
「…………」
皇帝は言いたいことが頭の中で次から次へと湧き出てきたが、エリスとの約束があるので余計なことは言えない。言葉を選んでいるうちに沈黙が続いてしまい、侯爵はますますヒートアップする。
「娘には……エリスには、あの子の顔だけではなく、あの子自身を愛してくれる男性と結ばれてほしいのです! だからこそ、花嫁修行に身を入れるよう説得した矢先でしたのに! どうか陛下、何卒……何卒! 陛下とは到底釣り合わない不出来な娘を解放して下さい」
暴君と称される皇帝にここまで言い切り頭を下げるとは、侯爵にもそれなりの覚悟があるのだろう。
それは分かるのだが、その言い種にだんだん腹が立ってきた皇帝。
いったいエリスのどこが不出来だと言うのか。皇帝が今まで出会ってきた中で、誰よりも才能に溢れ、逞しく、そして美しいのがエリスだ。
皇帝にとってエリスは何よりも完璧な存在なのだ。それを否定するのは、たとえエリスの父であっても許せない。
「エリスの才能を知らないとは、侯爵は憐れだな」
気付けば皇帝はそう口走っていた。
「エリスの才能? ……と、言いますと?」
「…………」
まずい。ついうっかり。我慢できずに口にしてしまった。ここで小説の話を出したら、エリスになんと言われるか。下手をしたら口を利いてもらえなくなるかもしれない。それだけは御免だ。なんとか誤魔化さなければ。
「オホン。ともかくエリスを帰すことはできない。俺は既にエリスなしでは生きられない体にされてしまったのだ」
これは嘘ではない。皇帝は確かに、エリスの小説がなければ生きていけない体になっている。しかし、その言葉を放たれたエリスの父は、あらぬ妄想を滾らせ顔を青くした。
「ま、まさかエリスは既に……陛下のお手つきに……?」
「?」
「ハッ! 先程のエリスの才能とは、そういう……!」
「さっきから何をブツブツ言っている?」
「なんということだ……あぁ、そんな……っ」
「おい、侯爵。随分と顔色が悪いが大丈夫か?」
流石の皇帝でも心配になるレベルで真っ青になった侯爵は、顔を上げると血走った目で皇帝に近寄った。
「陛下! 責任は、責任だけはとって下さるのですよね?」
「責任……?」
「よもや、エリスを妾にするおつもりではないでしょう!?」
「妾? そんなつもりは毛頭ないが……」
「でしたらエリスを正妻に……皇后に迎えて下さるということですね?」
何やら凄い圧で迫って来る侯爵に狼狽えながらも、皇帝は大きく頷いた。
「勿論だ。俺はエリスさえ良ければいつでも皇后になってほしいと思ってる。エリスにも何度もそう伝えているぞ? 婚姻誓約書だって用意したんだ」
当然のように頷く皇帝の姿を見た侯爵は、感激に目を潤ませた。
「そうですか。婚姻誓約書まで。そういうことであれば。私からはもう何も言うことはありません。ふつつかな娘ではございますが、末永くどうぞよろしくお願いいたします」
「うん……? では、エリスを帰さなくていいのか?」
「何をおっしゃいます! 今さら帰されても困ります! 永遠におそばに置いてやって下さい」
「……! そうか、任せておけ!」
よく分からないが侯爵のお墨付きをもらった皇帝は、声を弾ませて喜んだのだった。
「陛下は上手くやっていますかね?」
一方、のんびりと皇帝の帰りを待つエリスは、同じく謁見が終わるのを待っているジェフリーに問い掛けていた。
「あれでも帝国の頂点に立つお方ですから、なんとかなるでしょう」
普段は皇帝がいるせいで、エリスとジェフリーが二人きりで話すことはあまりない。
いい機会かと、ジェフリーはエリスの小説を手に取る。
「私も拝読したのですが、陛下が夢中になるのもよく分かります。実に巧みに男女の心の機微が表現されている。エリス嬢は男女の色恋について鋭敏でいらっしゃるのですね」
どこか引っかかるジェフリーのその言い回しに、エリスは顔を上げる。
「どういう意味でしょう?」
「……これだけの物語を書くエリス嬢が、陛下のお心を理解していないはずはないと思いまして」
「…………」
「本当にあなた様に対する陛下のお気持ちが、ただの執着であるとお思いですか?」
手元の小説からエリスへと向けられたジェフリーの視線は、見透かすような鋭さを秘めている。
皇帝のように誤魔化されてはくれないかと観念したエリスは、溜息を吐くと正直に胸の内を吐露した。
「中途半端な気持ちで、陛下を傷付けたくないんです」
ジェフリーは少しだけ目を瞠った。エリスの声が思いの外真剣だったからだ。
「……やはり、陛下の気持ちに気付いておいでだったのですね。それを敢えて、気付かぬフリをされていたのですか」
「これでもロマンス小説の作家なんですよ。暴君と称される方からあんなふうに笑い掛けられたりしたら、そこに特別なものがあると思うのは当然です」
持っていたペンを握り締めたエリスは、これまでの自分の言動を振り返り唇を噛む。
「陛下の想いに応える気はないのですか?」
「……全くその気がないのなら、とっくに逃げ出しています」
「では、陛下の想いを受け入れる気があると?」
ジェフリーの問いに、エリスは首を横に振った。
「自分でも最低だと思っています。でも、もう少しだけ時間が欲しいんです。陛下の想いを受け入れるということは、ただ楽しいだけの恋愛をするのとはわけが違います。皇后になれば多くの重荷がのし掛かるでしょう。もし私がそれに耐え切れなくなって、逃げ出してしまったら……?」
エリスの声は少しだけ震えていた。
「私の小説で〝情〟を知ったと言って下さった陛下が、私のせいで深く傷付いてしまったら。そう考えるだけで恐ろしいのです。だから私は……決心ができるまで、陛下の優しさに甘えて知らぬフリをさせてもらっているのです」
少しずつでも着実に。エリスの心は日々絆されていく。皇帝の隣に在り、笑い合う時間が、エリスを侵食していく。エリスはそれがどうしようもなく恐くて、そして愛おしかった。駄目だと分かっていても、離れ難いと思うほどに。
「あなた様はあなた様で、陛下を想って下さっているのですね」
手で目元を拭うエリスにハンカチを差し出したジェフリーの声音には、エリスを責めるような響きはなかった。