7.一心不乱
「いえ、違います。それは愛でも恋でもありません」
早速エリスの元を訪れて自分の感情について話した皇帝は、当事者であるエリスに真っ向からその考えを否定されていた。
腱鞘炎が治り正気を取り戻したエリスは、すっかり以前のような塩対応に戻ってしまっている。それはそれでキュンキュンしながら、皇帝は尚も言い募った。
「……だったらこの気持ちはなんだ? お前のことを独占したくて嫉妬までしたんだぞ!? これが愛や恋じゃないと言うのなら、いったいなんなのだ!?」
机から離れ、眼鏡を直したエリスは真っ直ぐに皇帝を見ると、堂々と断言する。
「それはただの執着です」
「執着?」
不思議そうな皇帝に、エリスは幼子にするように親切に説明し始めた。
「陛下は他の男が私に触れると、その相手を殺したくなるんですよね?」
「そうだ」
「私の隣に自分以外がいると思うだけで、虫唾が走るんですよね?」
「間違いない」
「私と一緒にいる時は心が落ち着いて、離れると心が騒つく」
「うむ」
「私が陛下以外の者に笑いかけるのは許せない、自分以外と触れ合うなど以ての外、少しの間でも離れていたくない、自分の手の届かないところにいくのが嫌で仕方ない」
「その通りだ」
コクコクと頷く皇帝を見ながら、エリスは納得したように微笑んだ。
「でしたらそれは執着です」
「???」
分からない、と首を傾げる皇帝。なかなか納得しない彼に向けて、エリスは体ごと向かい合い、穏やかな表情で諭した。
「愛しているのなら、どんな状況だってその人が笑顔なら嬉しいはずです。恋しているのなら、一緒にいて心が落ち着くどころか年中騒めきたっているはずです。よってそれは愛でも恋でもない、ただの執着なのです」
「なるほど……?」
エリスが言うのならそうなのか、と思いながらも、釈然としない心持ちの皇帝。
そんな彼を、エリスは眩しそうに見つめた。
「陛下は私を〝面白い女〟だと思って下さり、手放したくないと執着されているのだと思います。ですから陛下には、恋に落ちて愛し合えるような、もっと素敵な女性との出会いがあるはずです。皇后陛下にはそんな女性を迎えて下さい」
エリスのその言葉に、皇帝はツキンと胸の痛みを覚えた。自分がエリス以外の女を愛する日がくる。それは想像しただけで胸の奥がザワザワして気持ち悪くなる異常事態だ。
「だが、エリス。……愛だろうが恋だろうが執着だろうが、そんなことは関係ない。お前が俺の特別であることに変わりはないじゃないか」
彼女にこのモヤモヤを分ってほしい。その一心で、皇帝はエリスへと必死に想いを伝える。
「そもそも、お前以外の女なんて見分けすらつかない。どいつもこいつも派手に着飾ってピーチクパーチク煩い鳥のようだ。俺にとってはお前だけが特別なんだ。他の女なんて欲しくない」
ハッと目を見開いたエリスは、感じ入ったように頰を染めた。
「待って下さい、陛下。今のお言葉を書き留めますので。とても良い台詞を頂きました」
「ああ、好きに使ってくれ。今のは我ながら良かったと思う」
その反応がエリスらしくて笑ってしまった皇帝はドヤ顔で答える。
嬉しそうにメモを取る彼女の横顔を見ていた皇帝は、どうしても気になって問い掛けた。
「……なぁ、お前にとっても俺は特別か?」
子供が親の機嫌を窺うような、仔犬のような目でエリスを見つめる皇帝。顔を上げたエリスは当然のように大きく頷いた。
「もちろんです! 陛下といると次から次へと創作意欲が湧き立ってきますもの。その美しいお顔も、突飛で王道な言動も、何もかもが私の中のインスピレーションを刺激してやみません」
ニコニコと微笑みながら、皇帝の手を取るエリス。
「陛下は私(の創作)にとって、なくてはならない特別な人ですわ」
「……そうか。ならいい」
安心したように息を吐いた皇帝は、嬉しさにニヤける口元を隠し切れていなかった。
「……あの、ところで陛下。ずっと気になっていたのですが、どうしてそんなに私の小説をお気に召して下さったのですか?」
今更なことを聞くエリスに、皇帝は呆れた目を向けた。
「何もかもお前のせいだ。お前がこんなものを書いたせいで何も手に付かない体になってしまったのではないか」
エリスが書き上げた原稿を指差して、まるでエリスが悪いかのように口を尖らせる皇帝。
「俺には愛も恋も夢も希望もなかった。そんなものは俺の人生において不要なものだった。殺戮、暴力、謀略、欺瞞。この皇室で生き残るために必要なのものはそれくらいだったからな。それが……お前の本を読んでから、俺の世界は変わった」
人を人とも思えないような人生を歩んできた皇帝にとって、愛と希望に溢れたエリスの物語は衝撃だったと言う。
「こんなものを読まされたらそれまでの自分が作り変えられてしまうみたいだった。こんな俺でも〝情〟というものを知れる気がする。お前が書く小説は俺を〝人間〟にしてくれる。だから……もっと新しい話を書いて寄越せ」
まだ机の上に未読の原稿があるにもかかわらず、もっと寄越せと催促する皇帝のその姿は傲慢極まりない。
「今以上に書けということですか?」
「そうだ、書け。死ぬ気で書け。好きなだけ、その命が尽きるまで書き続けろ。……俺のそばで」
命令と言うよりは懇願に近い皇帝の言葉を受けたエリスは、眼鏡の奥の瞳を瞬かせた後、ゆっくりと微笑んだ。
「はい。分かりました」
「本当か? ずっとそばにいてくれるのか?」
「陛下が私の小説に飽きるまで、おそばにおりますわ。こんなにも私の小説を求めて下さる陛下ですもの。それに、ここは執筆に没頭できる最高の環境です。私にとっては居心地が良過ぎて困ってしまうくらいです」
その話を聞いた皇帝は、意気込むように声を弾ませた。
「お前が望むなら、他にもなんだって用意するぞ」
「まあ、ありがとうございます。それじゃあ早速、出版社の編集ルークを呼んでくれますか?」
「出版社? ……何故?」
動きを止めた皇帝が眉間に皺を寄せる。
「そろそろ書き上がった原稿を渡しませんと」
「……この原稿を渡すつもりか?」
エリスが皇宮に来てから今日まで、それこそ本が三冊はできそうなほどの原稿が仕上がっていた。
大量に保管してあるその原稿を見て、眉を寄せる皇帝。
「もちろんです。父のせいで続きを書くのは諦めていましたが、せっかく冷血騎士と王女の話が完結まで書けた上に新作もできたのですから、待ってくれている読者さん達に届けるのは当然です」
「……ヤダ」
「はい?」
「いやだ! お前もお前の小説も、全て俺だけのものだ」
駄々をこねる我儘な子供のようなことを言い出した皇帝に、エリスは再び諭すような目を向けた。
「陛下、想像してみて下さい。私の小説が……その続きや新作がこの世に存在しているのに、読めないとしたらどう思います?」
「…………」
拗ねたようにそっぽを向きながらも、ピクッと反応する皇帝。
「誰か一人がそれを独占して、絶対に外に漏れないようにしてるんです。そんな状況、耐えられますか?」
その状況を想像した皇帝は、正直に答えた。
「無理だ……その者の首を刎ねてなんとしても小説の続きを手に入れなければ気が済まない」
「私の本を待ってくれている読者さん達がそんな心理になって、陛下に対し反乱でも起こしたらどうするんですか?」
ピクリと反応した皇帝に、エリスは最後の追い打ちをかけた。
「それとも陛下は、私のこの原稿が本になるのを見たくないんですか? エリストラの新作を、あの自慢の本棚にコレクションしたくないんですか?」
ピクピクっと更に反応した皇帝は、自分の自慢のコレクション本棚を見た。
いつでも新刊を追加できるように、少しだけスペースを空けてあるその本棚。
そこに新作が入る日を、皇帝はずっと心待ちにしていたのだ。
「……分かった。今すぐに出版社を呼ぼう」
陥落した皇帝は負けを認めるかのように頷いた。満足げなエリス。
「まったく。お前には敵わないな……」
渋々と扉に向かい、皇帝がジェフリーを呼ぼうとしたその時。
ノックの音と共に、ジェフリーの方が二人の元にやってくる。そして、緊張した面持ちで皇帝に告げた。
「陛下……トランチェスタ侯爵が謁見を希望されております」