6.猪突猛進
「そういえば、陛下がずっと追いかけていた冷血騎士と王女の物語は完結したのですか?」
「あと少しだ。エリスの話だと、今日中に仕上がるそうだ」
「だからこんなに早く仕事を終わらせてエリス嬢の元へ向かっているのですね……」
ジェフリーの呆れ声を無視した皇帝は、足取りも軽やかにエリスの部屋に向かう。昨夜も猛烈な勢いで執筆を続け、明け方二人で寝落ちするまでその勢いが止まることはなかったエリス。
きっと今頃は書き上げられた原稿が山のように積まれていることだろう。
待ち切れない皇帝はノックもせずに部屋に入った。しかし、そこにあったのは原稿の山ではなかった。
「エリス?」
皇帝が見つけたのは、グッタリとベッドに横たわり空虚な目を宙に向けるエリスだった。
「どうした?」
尋常ではないその様子を見て、恐る恐るエリスに近寄りながら問い掛ける皇帝。
「……私はもう終わりです……」
あまりにも穏やかではないその返答に、皇帝は跳び上がってエリスの元に駆け寄る。
「なんだ? いったい何があったというのだ?」
「作家にとっての大敵に、突然襲われました」
「なに? 奇襲にあったのか!? お前を傷つけるとは絶対に許さん! その大敵とはどこのどいつだ! 俺が八つ裂きにしてやる!」
激昂した皇帝がエリスを助け起こそうとすると、エリスは苦しげに右手を突き出した。
「これです」
「ん?」
「相手はこの……腱鞘炎です」
「けんしょうえん?」
震えるエリスの右手を、わけも分からずジッと睨む皇帝。
「手が……痛くて痛くて痛くて、何も書けないんです!」
悔しげに歪むエリスの顔を見てやっと状況を理解した皇帝は、急いでジェフリーを振り返った。
「ジェフリー、今すぐ侍医を……いや、大神官を呼べ!」
「は、はい……!」
慌てて走り去っていくジェフリー。皇帝と二人になったことで安堵したのか、エリスは眼鏡を押し上げるように目元を拭いながらしゃくり上げ始めた。ぼたぼたとこぼれ落ちる涙が痛ましい。
「うぅ……書きたいのに書けないぃ……」
ギョッとした皇帝は、慌てて自らの袖でエリスの目を拭うと、本当に苦しそうに囁いた。
「な、泣くな。お前が泣いたら……どうしていいか分からなくなる」
それを聞いたエリスがすかさず涙を引っ込めて顔を上げる。
「陛下、それってまさか……」
「……そうだ」
今や目と目で通じ合う関係の二人は、手を取り合って興奮を分かち合った。
「血も涙もない冷血なヒーローが、ヒロインに絆されて優しさを知る……あの王道展開!」
「ああ、今まさにその気持ちがよく分かった。なんだこの胸が捩られるような感情は! お前が泣くと自分のことのように苦しい! お前を泣かせる者は誰であろうと許さないと思ってしまう。あぁ、どうにかなりそうだ!」
「優しさの中にも狂気があるその情熱……どうしましょう、キュンキュンしてしまいます」
一瞬で元気になったエリスを支え、残った涙の跡も拭いてやりながら、皇帝は優しい目を彼女に向けていた。
「どうだ、また新しい話が書けそうか?」
「はい。今すぐにでも書きたくて堪りません! でも。だから、余計に……つらいです」
再び涙が込み上げてきたらしいエリスを見て、慌てふためく皇帝。
「わっ、エリス、しっかりしろ!」
「うぅ……陛下ぁ」
「…………!!」
エリスは勢いのまま皇帝に抱き着いた。えぐえぐと泣くエリスにぎゅうぅっと縋り付かれた皇帝は、心臓が飛び出るほどにドキドキしていた。
「ごめんなさい、せっかく陛下が楽しみにして下さっていたのに……っ、書き上げられなくて……」
「いいから、そんなことは気にするな」
いつも図太いエリスが。こんなに弱っている。
そして他の誰でもなく自分を頼り、こんなふうにしがみついてくるなんて。
ドクン、ドクン、と痛いほど鳴る心臓が抑えられない。
「でも、でも……、陛下が私をおそばに置いて下さるのは、小説を書くからでしょう? 何も書けない今の私には、なんの価値もないじゃないですか」
ぐすぐすと子供のように泣きじゃくるエリスの後頭部をそっと掴み、皇帝は自分の胸に押し付けた。
「違う。そうじゃない。俺は小説がなくてもお前を……」
ただただ泣き止んでほしいと願い、どうにかしてやりたいと思わずにはいられない。しかし、皇帝がその先を口にする前に、ジェフリーが大神官を連れて戻って来てしまった。
仕方なくエリスを放した皇帝は、その華奢な体温が妙に名残惜しく思えたのだった。
結果として、大神官の聖力でエリスの腱鞘炎はあっさり完治した。
健康で少しも痛まない手と共に、元気と図太さを取り戻したエリスは、遅れを取り戻すため執筆に専念するからと、皇帝をあっさり部屋から追い出した。
「ジェフリー」
「は、はい」
追い出された皇帝が暴れやしないだろうか、と警戒していたジェフリーは、仰ぎ見た皇帝の顔が困惑しているのを見て目を見開く。
「陛下? いかがされました?」
「それが……妙なのだ。先ほど大神官が治療のためエリスの手を握った途端、こう……モヤモヤというか、言い知れぬ不快感が全身を襲った。まるで自分の大切なものをベタベタと汚い手で汚されているかのような」
「それは……」
心当たりのあるジェフリーがハッとすると、皇帝は自ら導き出した答えを口にする。
「まさか、これが嫉妬か?」
「!」
「これが嫉妬ということは、俺はエリスを……独占したいと思っているということではないか?」
「!!」
「もしかして……これが愛なのでは?」
皇帝の話を聞いていたジェフリーは、感動に声を詰まらせていた。
「陛下……! とうとう人間らしい思考をお持ちになって!」
「いや、ちょっと待て。違う。それだけじゃない。エリスのことを考える度に強くなるこの胸の高鳴り。よもや、これが恋なのでは?」
「ああ、陛下……!」
感激したジェフリーは、思わず皇帝の手を取っていた。
「あんなに……あんなに感情の欠落していたお方が、愛や恋を語られる日がくるとは……! 陛下にお仕えして十数年、こんなに喜ばしい日は初めてです!」
「大袈裟な……」
「いえ、違います。それは愛でも恋でもありません」
早速エリスの元を訪れ自分の感情について話した皇帝は、当事者であるエリスに真っ向からその考えを否定された。