4.千載一遇
「エリス、これにサインしろ」
宣言通り仕事を早く終わらせた皇帝は、真っ直ぐにエリスの部屋を訪れ、黙々と執筆するエリスに何かを差し出した。
「またいつものサインですか? 今右手が塞がっているので、左手でよければお貸ししますよ」
執筆に夢中のエリスは、顔も向けずに左手だけを差し出す。暴君と称される皇帝に向けてこの態度。
顔を上げないどころか利き手じゃない手を適当に差し出しプラプラさせるなんて。
執筆中のエリスが素っ気ない態度になるのを知っている皇帝は、このクセになるエリスの塩対応にドギマギゾクゾクしながらその左手を取った。
そして千載一遇のチャンスとばかりに細い手にペンを握らせ、所定の箇所にエリスのペン先を充てさせる。なんの疑いもしないエリスのペンがサインのために動き出す。
ニヤッと口元を歪める皇帝。
しかしエリスは、ペンを滑らせてすぐ異変に気付いた。
ペン先から伝わってくるこの紙の感触、書き心地。いつもサインしている本の感触と違う気がする。
「……陛下、これってなんの書類ですか?」
手を止めたエリスが振り向かずに問えば、皇帝は舌打ちしながら答えた。
「なんのって、見れば分かるだろう」
嫌な予感がしたエリスは恐る恐る左手の先を見る。そして悲鳴を上げそうになった。
「〜〜ッ!?」
そこにあったのは、いつもサインを求められるロマンス小説などではない。もっとロマンチックで恐ろしいもの。
【婚姻誓約書】
やけに煌びやかで上質な紙に、デカデカとそう書かれた文字。その下の署名欄には皇帝のサインがあり、エリスのペン先が止まっているのはその隣の欄だった。
「へ、陛下……これって? ど、どういうことですか?」
慌てて手を引っ込めたエリスが、獣を見るような目を皇帝に向ける。
対する皇帝は暴君らしく傲慢な態度でエリスを見下ろした。
「お前の父親が娘を返せと煩くてな。更に大臣達は毎日のように皇后を迎えろと進言してくる。鬱陶しいことこの上ない。そこで、いい案を思いついた」
「い、いい案とは?」
頭の中に警鐘が鳴り響くのを感じながら、嫌な予感しかしないエリスは怯えた眼差しで目の前の男を見上げた。
フッと笑った皇帝は、その赤い瞳いっぱいにエリスだけを映していた。
「誰にも文句を言わせず、合法的にお前を手に入れる方法だ」
「……えっと?」
くるりとエリスごと回された椅子。その背もたれの上に皇帝の手が置かれ、間にいたエリスはその腕の中に囚われるような形になる。
「俺のものになれ、エリス」
「はい?」
(これは……プロポーズなの?)
皇帝のこれでもかというほど整った美しい顔を目の前に見せつけられながら、エリスは汗が止まらなかった。
「お前が皇后になれば全て解決だ。俺はお前を帰さなくて済むし、皇后を迎えろと小煩い連中も黙らせられる。これで一石二鳥だろ?」
「いや、あの……言いたいことはたくさんあるんですが、そもそも私に皇后なんて」
顔を背けようとしたエリスだが、そのまま顎をクイっと持ち上げられ、逃げ場もなく皇帝の美しすぎる顔面が至近距離に押し付けられる。
「お前のような面白い女はこの世に二人といない。絶対に離すものか。お前が生み出す小説も含めて、お前を永遠に俺の元に縛り付け、俺だけのものにしてやる」
「陛下……」
皇帝はニヤリと笑いながら、驚愕の表情で自分を見上げるエリスへと、更に身を寄せ迫った。
「だからこの誓約書にサインして、今すぐ俺と結婚しろ」
視界の端で揺れる、婚姻誓約書。
「陛下、私……ッ」
この状況にエリスは震えた。こんな感情は、未だかつて経験したことがない。ドキドキが抑え切れず、脳内から身体中に痺れが走り、瞳孔は開きっぱなしだ。
堪え切れないほどの激情を身の内に迸らせたエリスは、勢いのままに皇帝の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「私……ッ! 今とんでもないインスピレーションが湧いてきました! こうしちゃいられません。本を、本を書かせて下さい!」
氷のような美貌の暴君皇帝が、地味でなんの取り柄もない令嬢に俺様プロポーズをする。椅子ドン顎クイで強引に結婚を迫り、抵抗など無視して身を寄せ、そして……なんて。こんなにいい題材を、逃す手はない。
「新作がっ、新作の構想が止まりません、今すぐ! 今すぐ書いてもいいですか!?」
「あ、ああ。そうか、それはいいことだ。いくらでも書け」
エリスに揺さぶられ、その圧に押されながらも、執筆への意欲を燃やすエリスを全肯定した皇帝。
「ありがとうございます! 陛下は好きなだけ、積んである原稿を読んで下さいね!」
そして皇帝から手を離し、くるりと回って椅子に腰掛けたエリスは猛烈な勢いでペンを動かし始めた。
完全に背を向けられた皇帝が虚しくその背中に呼び掛ける。
「エリス、それで……婚姻誓約書のサインは?」
「今忙しいんで後にして下さい」
「…………」
サインの途中までしか書いてもらえなかった婚姻誓約書を見下ろす皇帝の横顔は、可哀想なくらい物悲しげだった。