3.意気揚揚
「エリス……チェスタ……!」
「んぅ?」
深い眠りの中で肩を揺すられ誰かに呼ばれている気がしたエリスは、ゆっくりと意識を浮上させた。
「おい、エリス・トランチェスタ!」
「……はい?」
眠い目を擦りながら声がする方へ返事をするエリス。
「……やはり、お前はエリスで間違いないんだな?」
そんなエリスに、声を掛けてきた相手はどこか困惑しているようだった。
「陛下? おはようございます」
昨夜、眠る皇帝の顔を見ているうちに寝落ちしてしまったエリスは、ペンも眼鏡もその辺に投げ出して、彼と同じベッドに潜り込んでいたようだ。体温が伝わってくることから、体が密着しているらしい。
「はあ……まさかこんな、嘘だろ……」
「?」
腕で顔を隠しながらブツブツと何かを呟く皇帝。いったい何を言っているのかと意味が分からず首を傾げるエリス。
「お前の……素顔を見るのは初めてだが。……あー、いつも掛けてるその眼鏡、かなり分厚くて度数がキツいようだな」
なんだか周りがボヤけているなと思えば、眼鏡を外しているからだと思い至ったエリスは、声がする方に顔を向けた。
「あ、はい。小説ばかり読み書きしてるので、目が悪くなってしまって……この眼鏡じゃないと、何も見えないんです」
ぼやぼやにボヤけている皇帝の顔を見ながらエリスが説明すると、皇帝は戸惑ったように小さく息を呑む。そして重苦しい声で呟いた。
「……エリス・トランチェスタ。皇帝の名において、今後人前で眼鏡を外すことを禁じる」
「え?」
「その辺の男に奪われるなど堪ったものではない。そんな顔を見せられたら豹変する男が後を絶たないだろう。目が覚めてこの顔が目の前にあった衝撃と言ったら……」
「どういうことです? あの、陛下。私の顔はそんなに醜いのですか?」
「……気付いていないのか」
呆れたような皇帝の声に、エリスは不満げだ。
「見苦しいものをお見せしたのならお詫びします。なにせ本当に目が悪くて……眼鏡を外した自分の顔ってハッキリ見たことがないんです」
「それはまた……いや、いい。世の中には知らない方がいいこともある。とにかくこのことは極秘だ。お前の素顔は今後絶対に、誰にも見せるな」
「そんなことを言われましても……」
ここまで言われると、どれだけ自分の顔が醜いのかと気になってくる。どこかに鏡はないものかとモゾモゾすると、すぐそこにある皇帝の体に余計に密着していくエリス。
「ち、近い! いい加減起きるぞ!」
慌てて起きた皇帝に倣うように、エリスも体を起こして眼鏡を掛けた。ボヤけていた視界がクリアになると、何故か耳まで真っ赤になった皇帝が必死に顔を背けていた。
「?」
元々変な皇帝だが、今日は特に変だ。もう慣れたと思っていたが、暴君と称されるだけあってこの皇帝はやはり普通じゃないようだ。
皇帝の様子に首を傾げていたエリスは、自分が皇帝と同衾したことに全く考えが及んでいない。照れたような動作を見せる皇帝を訝しんでいるだけだ。
そうこうしているうちにノックの音が響き、エリスの代わりに皇帝が返事をした。
入ってきたジェフリーは二人の顔を見るなり面白そうな気配を感じたのだが、秘書としてそれを顔には出さずに朝の挨拶をする。
「昨晩はよくお休みになられたようで。陛下の顔色もすっかり戻っておりますね」
「ああ。早速仕事をしに行く」
「え? もうですか? 流石に早過ぎるのでは……」
そそくさと準備を始める皇帝に驚いたエリスが問い掛けると、皇帝はクマのなくなった目を細めて得意げに笑った。
「早く終わらせてお前の小説を読まなければならないからな」
ホクホクとしたその目線の先には大量の原稿が。得心したエリスに見送られて颯爽と仕事に向かう皇帝。
「……で、ジェフリーさんは行かないのですか?」
皇帝だけを送り出した秘書へとエリスが怪訝な目を向けると、朝の二人のやり取りを眩しく見ていたジェフリーは満面の笑みを浮かべた。
「まだ始業前ですからね。それよりも、エリス嬢に改めて感謝いたします。あんなに意欲的な陛下は初めてです。何もかもエリス嬢のお陰です」
「えっと……私は特に何もしていないのですが」
「そんなことはありません。そもそも、あの陛下と三十分以上一緒にいて生き残れるのは十人に一人くらいのものです。一時間以上二人きりで生き残れるのは百人に一人くらいでしょうか。それを幾晩もご一緒して生きておられるとは、それだけでエリス嬢は奇跡の女性なのでございます」
「……流石に言い過ぎなのでは?」
ここまで言われる皇帝が可哀想になってきたエリスが反論すると、ジェフリーは自信満々に首を振った。
「いいえ。長年陛下のおそばに仕えている私の経験と統計に基づいた確かな数字です」
「でも、陛下だってああ見えて可愛いところはありますよね? お茶を持ってきてくれたり肩を揉んでくれたり、放置しすぎると構って欲しそうにしてたり。時々大きな仔犬なのではないかと思うことがありますもの」
エリスの言葉にジェフリーはピシリと動きを止めた。
「…………失礼ながら、エリス嬢。それは私の知っている皇帝陛下の話で間違いないでしょうか?」
「他に皇帝陛下がいらっしゃるのですか?」
不思議そうに首を傾げるエリス。対するジェフリーは珍妙なものでも見るかのような目をしながら首を横に振る。
「いえ。ですが、私の存じ上げている陛下とは幾分か差があり……陛下は基本的に他人の世話をするどころか、首を切ることしか考えていない暴君ですから。私の逃げ足が帝国一速いのはそのためなのです」
「……へぇ、そうですか」
堂々と胸を張るジェフリーに、エリスはどうやら彼とは話が噛み合わないらしいと割り切ることにして、適当に頷いておいた。
その日の皇帝はエリスに宣言した通り、いつもの倍の速さで仕事をこなした。ジェフリーでさえついていくのがやっとなほどだ。
急ぎの案件を片付けたところで、ジェフリーは重要な書類を取り出す。
「陛下、次の案件なのですが、こちらは早めに返事をした方がよろしいかと思います。トランチェスタ侯爵から娘を返してほしいと何度も手紙が……」
「無視しろ」
見事な即答だった。
一瞬で撥ね除けられたジェフリーは、それでもなんとか喰らい付いた。
「そ、それは……無理です。侯爵からしたら夜会に連れて来た娘が突然いなくなり、皇宮に滞在していると通達されたきり音沙汰がないわけですから。もうこれ以上、侯爵の要請を無視してしまえば、陛下がエリス嬢を誘拐し監禁していると言いふらされてしまいます」
「そんなの、向こうの言いがかりだろうが」
「いえ、半分以上事実です」
皇帝がエリスを無理矢理引き留めたことも、脅迫したことも、ルビー宮に軟禁したことも事実である。しかし、不思議なことにエリスは逃げ出そうとしたことはない。だから半分以上は事実と言ったのだが、皇帝は不満げだった。
「チッ。俺はエリスを帰すつもりはない。適当に返事をしておけ」
「そんな横暴な……」
まだ言い募ろうとしたジェフリーだったが、皇帝から発せられる殺気が強くなったのを察知して慌てて話題を変えた。
「そんなことよりも、陛下は随分とエリス嬢をお気に召したようで、何よりでございます」
「……ただ小説を書くから生かしているだけだ」
「いえいえ。お二人は日に日に親睦を深められているようにお見受けします」
満更でもない皇帝は、ジェフリーの言葉に気を良くしたのか、ペラペラと話し始める。
「俺をあんなふうに雑に扱う女は他にいない。知っているか? アイツ、執筆中は俺にとても冷たいんだ。話し掛けても適当な答えしか返ってこないし、喉が渇いただの肩が痛いだの、いちいち言ってくるんだぞ、この俺に。信じられるか?」
「それで陛下はエリス嬢にお茶を持って行ったり、肩を揉んだりされているのですか?」
皇帝の話が今朝エリスから聞いた話と繋がる気がして、ジェフリーは驚きつつもそう問い掛けた。
「ふん。……俺はあくまでもアイツの小説が目当てだからな。仕方なく面倒を見てやっているだけだ」
皇帝は不機嫌を装っているようだが、その横顔からは浮かれたように跳ね上がる口元が隠しきれていない。
「陛下……楽しそうですね」
「べ、別に楽しくなんかない。ただちょっと新鮮だから好きにさせてるが、少しでも気に入らなければいつだって斬り捨ててやるつもりだ」
ジェフリーの指摘一つで取り乱した皇帝は、自分が今どんな顔をしているのか分かっているのだろうかと、ジェフリーは生温かい目で話を聞いてやる。
「まったく。俺を冷たくあしらうなんて。なんて無礼な女なんだ。本当に、アイツが書く小説も含めてあんな女は初めてだ」
ブツブツと文句を言うふりをして、皇帝はニヤける口元を隠し切ったつもりでいるのだった。
「どうか早く皇后陛下をお迎えになって下さい」
午後一番で謁見に来たのは、帝国議会の大臣だった。深々と頭を下げて嘆願する大臣に、皇帝は目を向けることすらしない。
「面倒だ。女は煩い」
「そうおっしゃらず! 世継ぎを残すこと、これは皇族の務めです、陛下!」
パラパラと書類を捲りながら、首を切るのも億劫だと思った皇帝は適当に手を振った。
「分かった、分かった。そのうち考える」
逆鱗に触れれば即首を刎ねられるのは分かっているので、大臣は顔を真っ赤にしながらも引き下がって行った。
日も暮れてだいたいの仕事が片付き、あとはこれだけだとジェフリーから渡された最後の案件――トランチェスタ侯爵からの手紙と、議会からの皇后要請書――を机に並べた皇帝は、二つを交互に見比べた。
「ふむ……」
「どうされるのですか、陛下。どちらを先に解決するのです?」
ジェフリーの問いに、皇帝は沈黙した後、何かを閃いたように顔を上げた。
「妙案がある。煩わしいこの二つを一気に解決できる、いい案がな」
ニヤリと口角を上げた皇帝アデルバートは、絶対零度の瞳を楽しげに歪めて意気揚揚とルビー宮の方角を見遣ったのだった。