2.試行錯誤
「くっ! こうくるか!」
「なんてことだ……まさかこんなッ! そうはならんだろうが、この悪役め!」
「はあ!? 何故だ、何故そうなる! アルペリオよ、今すぐ王女を追いかけて抱き締めろ!」
「ダメだ。止まらん。こうなれば最初からもう一周するぞ!」
皇帝陛下が皇宮に引き留めた侯爵令嬢の部屋に夜な夜な入り浸り、夜毎激しい物音をさせ悶絶の雄叫びを上げているかと思えば、朝になると徹夜したのが一目で分かるほどのクマを作りながら表情だけはとても晴れやかに出てくる。
皇帝が去ったあとの室内では令嬢がグッタリとベッドに横たわって昼まで起きない。
これは……と皇宮の使用人達が色めき立つのは当然のことだった。
「……いってらっしゃいませ、陛下」
「ああ、いってくる」
ベッドに横たわった状態で気怠げに呼び掛けるエリスと、同じベッドに腰掛けて身支度を整えながら同じく気怠げに返事を返す皇帝。
あれから数度の朝を共に迎えた(決していかがわしいことはしていない)二人だが、初対面の時のような緊張感はすっかりなくなっていた。
何度も夜を共にした(勿論いかがわしいことは一切していない)ことで、二人は熟年夫婦のようにすっかり打ち解けていたのだ。
というのも、執筆中のエリスは集中力が凄まじく、異性である暴君皇帝と二人きりの密室にいることも、皇帝が暴れながら雄叫びを上げていることも少しも気にならない。寧ろ、行き詰まったり集中力が切れた時に皇帝の美しい顔を見ると、泉のようにアイディアが湧き出て来るので興奮で書く手が止まらないほどだった。
こんなにも自由に執筆だけをできる環境が生まれて初めてで、エリスは家のことも父のことも忘れて執筆にのめり込んだ。
対する皇帝は、本を読みながらついつい声を上げちゃったり暴れちゃったりする系の悪癖があるため、エリスが物凄い速さで生み出す物語を書かれたそばから読んでは、暴れながら奇声を発し、いくらでも湧き出て来る小説に大満足していた。
そして各々最高の夜を過ごしながら、朝が来ると皇帝は執務に、エリスは集中力が枯渇してベッドに、それぞれ戻るのが日課となっていた。
エリスの筆がノリにノリ、次々と生み出される新作に皇帝が夢中になって読み進めた結果、毎夜二人で徹夜するというこのサイクルは、エリスが皇宮に来てから毎日続いている。
流石の皇帝も睡眠不足がたたり、ジェフリーに突かれながら公務をこなしていたが、それも限界だった。
「陛下、いい加減にして下さい。どうか今日くらいはお休みになって下さいませ」
「煩い……ジェフリーの分際で俺に命令するな。今日は王女が騎士と逃避行する場面から始まるんだ。何がなんでも続きを読む」
顔色が悪い分凄みはあるが、いつもより気迫の足りない皇帝に、ジェフリーはお得意の逃げ足を封印して言い募る。
「陛下がお倒れになってはどうするのです。そうなれば小説を読むどころではありませんよ。何卒お休み下さい」
皇帝自身も自らの限界を感じていたのか、苦言を呈するジェフリーに怒鳴ることもせず、静かに葛藤した末に口を開いた。
「じゃあ、ちょっとだけ……部屋で待っているかもしれないから、エリスに会ってから寝る」
これにはジェフリーも驚愕した。この皇帝がまさか、他人のことを気にするとは。とうとう人の心が芽生えたのかと、ジェフリーの目に涙が浮かぶ。
思えば長い年月、皇帝には心の拠り所さえなかった。それがまさか、こんなふうに夜を(健全に)共にする相手が現れるとは。
皇帝もさることながら、驚くべきはあのエリス・トランチェスタ侯爵令嬢だ。
か弱く、最初は怯えていたあの地味な令嬢が。まさかあんなに肝の据わった令嬢だったとは。ペンを持った時のエリスは豹変し、皇帝のことすら眼中になくなる。その集中力といったら。暴君と称されるこの皇帝が隣にいるのも気にせずにペンを走らせるのだ。
ジェフリーは部屋に籠る二人の様子を少しだけ覗き見たことがあるが、小説を書いている時のエリスは確実に皇帝のことを創作のための道具としか見ていなかった。
しかし、恐怖もされず、疎まれず、気も遣われないその状況が皇帝にとっては余程心地好かったらしく。もはやエリスの小説を読みたいのか、エリスと一緒にいたいだけなのか、怪しいものだとジェフリーはニヤつく頬を隠した。
「コホン。では、エリス嬢にご挨拶するだけですよ。その後は部屋に戻り就寝して下さい」
「分かった」
そんなこんなで寝支度を済ませ、挨拶だけしようとジェフリーを伴いエリスの元へ訪れた皇帝だったが、物事はそう上手くいかないものである。
待ち構えていたエリスが、皇帝の顔を見るなり満面の笑みを向けたのだ。
「うふふ、陛下。いつも読んで下さる陛下のために、今日は昼から執筆を始めましたので、たんまりと原稿が仕上がっております」
こんもりと盛られた原稿を見た皇帝は、眠気を吹き飛ばして目を輝かせた。
「お前は女神か! 今日も眠れないじゃないか!」
「陛下!」
すかさず二人の間に割って入るジェフリー。皇帝の深刻な寝不足について必死に説明する彼から話を聞いたエリスは、成程と手を叩いた。
「言われてみれば、私は昼に寝かせて頂いてますが、陛下は昼もお仕事で寝ていらっしゃらないのですものね。それはいけません。陛下、睡眠不足は判断力を鈍らせます。判断力が鈍れば小説の面白さも半減してしまいますわ」
「うっ……しかし、目の前にこんなに原稿があるのに……王女と騎士の逃避行が……」
「本日はゆっくりお休みになって、その分溜まった量を明日一気にお読みになるのはいかがですか? そうすれば頭もスッキリとして好きなだけ読み放題ですわよ」
暴君と言われる皇帝の扱い方を、エリスはこの数日で完璧に理解していた。とにかくエリスの小説を餌にすれば、皇帝は割と従順だ。
「ふん。俺に指図するな。しかし……お前がそう言うなら、特別に聞いてやらないこともない」
この数日で手懐けられた皇帝は言葉や態度こそ傲慢で横柄だが、エリスの言葉には基本的に従うようになっていた。
「それが良いですわ。そうと決まればどうぞこちらに」
「ん?」
寝るのならば自室に戻らねばならないのかと密かにガッカリしていた皇帝は、気付いたらエリスに手を引かれて彼女のベッドに寝かされていた。
「心ゆくまでお休み下さい」
そのままシーツに包まれ、眠たい頭の中に大量のハテナマークを飛ばす皇帝。
「待て。何故ここに寝かせる?」
「だって、陛下の寝顔なんて美しいに決まっていますでしょう」
エリスはエリスで、何をそんな当たり前のことを聞くのかというような顔だ。
「その寝顔を見ていたらきっといくらでもペンが進みますわ。陛下は眠れて私は執筆が捗って、一石二鳥ではありませんか」
「つまり、ここで寝ろと?」
「はい!」
「…………」
最初の印象とは裏腹に。執筆のこととなると、とことん図太いエリス。利用されているようで納得できない皇帝だったが、連日の疲れとなんだか心地好いエリスの香りに包まれて、眠気が襲ってくる。
「エリス嬢。私は邪魔者のようなので失礼いたします。陛下のことを頼みます。陛下、明朝お迎えに上がりますので、どうかごゆっくりお休み下さいね」
ジェフリーの声を遠くに聞きながら、皇帝は落ちてくる瞼と格闘しながらなんとか返事をした。
「……ぅん」
子供のように素直な返事をして寝息を立て始めた皇帝を、エリスとジェフリーはニヤニヤしながら見下ろしたのだった。