1.創作意欲
どこもかしこもキラキラとした最上級の調度品に囲まれた部屋で、エリスはただただ唖然としていた。
「これからどうしたらいいの……」
無理矢理父に夜会に連れて来られ、ただでさえ疲れていたというのに。気配を消して壁際で佇んでいたところを皇宮の騎士に連行され、拘束されて皇帝の前に引き摺り出されたかと思えば、あり得ない命令を下されて脅迫の末に軟禁された。
自分の身に起きたことが未だに信じられないエリスは、身の置き場もなくその場に立ち尽くす。
本来なら皇后が使うはずのルビー宮はどこを見ても絢爛豪華。そしてエリスからしたら荷が重いことこの上なく完璧に整備されていた。
コンコン
ノックの音にエリスが返事をすると、先ほど皇帝の前から逃げて行った秘書官のジェフリーが汗を拭きながら入って来た。
三十代後半くらいだろうか、皇帝より歳上である彼は、簡単な自己紹介をするとエリスに頭を下げた。
「エリス嬢、何かご不便はありますか?」
疑問と困惑はたくさんあるものの、ここまでの部屋を用意してもらって不便などあるはずがない。
「いえ……」
「左様ですか、それは良かったです。こちら、陛下からの贈り物にございます」
エリスの答えなど聞く気があるのかないのか、手を叩いたジェフリーの合図で机の上にドンッと大量の紙が置かれる。
「執筆にお使い下さい。陛下が使用されるのと同じ羽ペンもご用意しております。もし普段使われているものでなければ支障があるようでしたら、今すぐ侯爵家に使いを送り届けさせます」
「いえ、そんな、そこまでして頂く必要はありません」
「それは良かったです。他に何かお手伝いできることはありますでしょうか」
深々と頭を下げるジェフリーに、エリスは困惑を隠さず問い掛けた。
「あの……不便はないのですが、もしよろしければ、いったい何が起きているのか説明して頂けませんか?」
不安そうなエリスの顔を見たジェフリーは、申し訳なさそうに頷くと、エリスをソファに座らせてお茶を差し出した。
「全ては私のせいなのです」
エリスの向かいに腰掛け、ジェフリーは悔やむようにそう告白する。
「どういうことですか?」
身を乗り出したエリス。
「陛下は幼い頃から皇位継承争いに巻き込まれ、家族の愛情というものとは無縁の生活を送ってこられました。当然他者を思い遣る心など育まれるはずもなく、立派な暴君へと成長されてしまったのです。ああ、おいたわしい……」
涙ながらに話すジェフリーは、今でこそ皇帝の秘書官として働いているが、皇帝の成人までは世話係を務めていたという。
「幼い頃から我儘で冷徹な方でしたが、特に即位してからの横暴ぶりは目に余るものがあり……そこで私は、少しでも陛下の情緒を育てたく、巷で話題になっていたロマンス小説を献上したのです」
ジェフリーが手にしたのは、先ほどエリスがペンネームである〝エリストラ〟の名前でサインしたばかりの本だった。
「これに……陛下がどハマりしまして」
「…………」
「続きを今すぐ持ってこいと剣を振り回し、最新話まで読み切ると過去作を全て揃えるよう命じられ……」
「…………」
「既刊本を全て読み果たすと、とうとう謎に包まれた著者エリストラの正体を突き止めよとお命じになり、皇室の諜報部隊は威信をかけて作家の正体を調査しました」
「…………」
「そして唯一エリストラの正体を知る出版社の人間を徹底的に追い詰め……彼はなかなか口を割ろうとしませんでしたが、尋問と脅迫の末に極秘情報であるエリストラの正体が侯爵令嬢エリス・トランチェスタ様であると突き止めたのです」
「…………」
エリスは頭を抱えた。頭痛しかしない。
脳裏に浮かぶのは出版社の編集担当ルーク。彼には妻も子もいる。どうか無事であってほしいと願うばかりだ。
「そうして今宵、皇室主催の夜会にてエリス・トランチェスタ侯爵令嬢がお越しになると聞き、陛下はとてもとても楽しみにされておりました」
「楽しみに?」
「はい。ぜひ話を聞いてサインを貰いたいと。しかし、人付き合いなどしたことのない陛下です。エリス嬢にどう声を掛けていいか分からなかったようでして……もだもだしている間に夜会の終了が近付き、焦って令嬢を連れ出すよう騎士に申し付けたところ、勘違いした騎士が令嬢を拘束したようで」
そして今に至るわけです、と締め括ったジェフリーに、エリスはどうしてくれようかと思わずにはいられなかった。他人事のように語る目の前のこの男が、心底恨めしい。
「まあ、あれです。つまり陛下はエリストラことエリス嬢の大ファンなのです! 毎晩エリストラの本を抱いて眠るほどに!」
エリスから向けられる不信感などものともせず、ジェフリーは咳払いをしてそう言い切る。
「……はい?」
思わず出たエリスの低い声。
平穏な暮らしを返してほしいと憎しみを込めたエリスの視線に、ジェフリーは汗を拭きながら知らぬふりを貫き通した。
「陛下はエリス嬢とエリストラ作品について語り合いたいと思われているのです。しかしながら、友人どころか会話する知人さえおらずに育った陛下ですので令嬢への接し方が分からず、ああ見えて緊張されているようでして」
あの高圧的な態度のどこが緊張なのか。他にも言いたいことだらけのエリスが口を開こうとした時。
「おい、まだ話は終わらないのか?」
エリスがジェフリーにそれ以上何かを言う前に、ノックもなく開かれた扉。そこから顔を出したのは他でもない、この国の皇帝アデルバート陛下その人だった。
「陛下! 説明は滞りなく終わりました。どうぞどうぞ、ごゆっくりお話し下さい」
「あ、ちょっと、ジェフリーさん!」
ここぞとばかりに席を立ったジェフリーは、逃げ足早く皇帝とエリスだけを残してその場を去っていった。
「それで。続きはいつ書けるんだ?」
すかさず聞いてくる皇帝。前置きもなく自分の用件だけを話すところは流石暴君だなと思いつつ、エリスは畏れ多いと尻込みしながら下を向く。
自分がロマンス小説の作者だと知られているのは死ぬほど気恥ずかしいが、バレてしまっているものはもうどうしようもない。
ここは開き直って、自分のファンだという皇帝と向き合うべきか。などと思ったエリスは、顔を上げてハッとする。
キラリと揺れる金糸のような髪に、血のように真っ赤な瞳。目に毒なほど整った皇帝のその顔は、見る者の息を止めさせるような美貌が余計に人並外れた恐ろしさを助長している。
その恐ろしくも綺麗な顔を見ていると、それまで押さえ込んでいたエリスの中の何かがムズムズと刺激されてきた。――――創作欲である。
思えばエリスはここ最近、この夜会のためにずっと執筆活動を制限されていた。そして今後は花嫁修行のために執筆を諦めなければならないと思っていたのだ。
エリスの創作意欲は基本的に、美しいものを見た時に刺激される。
それが、こんなに美しくて刺激的な顔を前に……それも最上級の美しいものに囲まれた最高の執筆環境を前に、我慢などできるはずもない。
「……コホン。お許し頂けるのなら、今すぐにでも書き始めてよろしいでしょうか? 陛下のご尊顔を拝見して新しい着想が生まれました。今ならいくらでも書けそうです」
それを聞いた皇帝は、感心したように息を吐いた。
「ほう。それは良いことだ。俺の顔で小説が書けるなら、今夜は一晩中俺の顔を見ているか?」
普通の令嬢なら。これを殺し文句と受け取り胸をときめかせ恥じ入ることだろう。しかし、エリス・トランチェスタは地味で目立たないよう生きてきただけで、普通の令嬢ではない。
「いいのですか? ぜひ!」
暴君皇帝が地味令嬢と一夜を共にしたとの噂が使用人達の間に流れたのは、至極当然のことだった。