11.以心伝心
夜会の場は荒れに荒れていた。出口を封鎖され身体検査まで強要される貴族達からは不満が噴出している。
ウルフメア伯爵夫人は、この状況に不安を覚えていた。いつ終わるかも分からない捜査。そして何より、この国の皇帝が倒れたのだ。それも明らかに毒と分かる症状で血を吐いて。
そんな中、一人の青年が声を上げる。
「陛下の容体は心配だが、皇室が我々を長時間拘束するのは間違っている。ここは私が、皇位継承権を持つ者として指揮を執り皆さんを迅速に解放しようと思います」
貴族達に向けてそう宣言したのは、エバルディン伯爵だった。
不満の溜まっていた貴族達は彼に賛同し、一丸となって皇室に抗議すると言い出す始末。
だが、それは一方で皇帝に毒を盛った犯人を取り逃すことにも繋がるのではないか。冷静なウルフメア伯爵夫人には、それが得策とは思えなかった。しかし、この状態で伯爵夫人が何を言ったところで耳を傾ける者はいないだろう。
慎重な家門の当主は無闇に賛同することこそしていないが、ことの成り行きを傍観するばかり。
「こんな時に陛下の伴侶……皇后陛下がいて下されば場を収めて頂けるのに」
夫人の独り言は周囲の怒号に掻き消されていった。
「何をなさるつもりですか?」
ペンと紙をエリスに渡しながら、ジェフリーは慎重に問い掛けた。
「陛下を死なせはしません。伯爵に捜査の指揮権を渡したりもしません」
「そんなことが可能でしょうか? 邪気を含むものといえば魔物ですが、死んだ魔物からは邪気が消えてしまいます。生きた魔物を生捕りにするにしても、魔物の生息地まで三日は掛かります。とても短時間で用意できるものではありません」
「陛下の治療法については、私に心当たりがあります」
「本当ですか!?」
「はい。それよりも、問題は貴族達を扇動しているエバルディン伯爵です。動機のある彼は第一容疑者ですが、たとえ伯爵でないとしても犯人はまだ皇宮内にいるはず。今貴族達を解放してしまえば、犯人が証拠隠滅を図る恐れが高いですよね」
「その通りです。ですが、陛下がお倒れになったこの状況で、我々だけでは貴族達を抑えられません。伯爵が指揮権を握るのも時間の問題でしょう」
「でしたら尚更、伯爵が指揮権を握る前に、なんとしても時間を稼がなければいけません」
口と同時に手を動かすエリスは、あっという間に三通の手紙を書き上げジェフリーに手渡す。
「これを出版社のルークに届けて下さい。時間がないので大至急!」
「は、はい!」
エリスの勢いに押され、ジェフリーは慌ててその手紙を信頼できる騎士に託した。
「それから、例のものは持って来てくれましたか?」
「こちらに。……ですがこれをどうされるおつもりで?」
ジェフリーが取り出したのは、エリスの指示通りに皇帝の執務室で見つけた一枚の書類だった。
そこには皇帝の署名の横に、書きかけのエリスのサインが途中まで記されている。
「皇位継承権のある伯爵より高位で、陛下の代わりに貴族達を黙らせられる者が必要ならば――――」
皇帝の筆跡を指先でなぞったエリスは、その横にある自らのサインの続きを書き上げて顔を上げた。
「――――私が皇后になります」
「困ります、捜査が終了するまで、もう暫しお待ち下さい!」
「我々を疑っているのか? ここにいるのは名家の貴族ばかりだぞ!? それを長時間拘束しようなどと、無礼にも程がある。陛下がお倒れになった今、現場の指揮を執れる者がいないのでは? であれば皇位継承権を有する私に権限を委任すべきだろうが!」
制止する騎士に向かって怒鳴るエバルディン伯爵は、賛同する貴族達を率いて無理矢理会場を出ようとしていた。
「お待ち下さい」
そこに登場した一人の令嬢。
先程まで皇帝の隣にいた、謎の美女。皇帝が初めて公の場に連れて来たパートナー。眼鏡を外し素顔を晒した状態で現れたエリスは、その美しい顔を凛と上げて貴族達を見渡した。
「これはれっきとした皇帝陛下暗殺未遂事件です。この場を保存し徹底的に調査すること。それが騎士団の役目であり、それに協力するのが帝国貴族としての義務なのでは?」
突然の令嬢の言葉に、困惑と怒りの騒めきが走る。
「失礼ですが、ご令嬢。我々はあなたのお名前すら存じ上げません。陛下のパートナーだからと、ここにいる高位貴族に向けてその態度はいかがなものかと思いますよ」
相手は出自も分からぬ小娘。そう思い込み、上から目線でエリスを嘲笑う伯爵。対するエリスは冷静に、よく通る声で言い放った。
「私が誰で、どういう立場で口出しをしているか。これを見ればお分かり頂けるかと。ジェフリー、皆さんにお見せして頂戴」
皇帝のみに忠誠を誓う秘書官として有名なジェフリーが、謎の令嬢の言葉に従い一枚の書類を掲げる。
頭の切れる当主の中には、ジェフリーのその態度だけで令嬢がどんな立場か理解した者もいた。
「これは……婚姻誓約書?」
ジェフリーの掲げた書類を読み上げたエバルディン伯爵は、まさかと息を呑んだ。
エリスが〝ロマンチックで恐ろしいもの〟と称し、皇帝がエリスのために用意したと聞いてトランチェスタ侯爵が大層感激したこの婚姻誓約書。
これはただの紙切れではない。
婚姻は式を挙げ神殿に認められて初めて成立するが、この婚姻誓約書は全ての過程を省略して夫婦であることを宣言する、強力な呪いが込められた書類なのだ。
書いたそばから署名した二人は誓約のもとに縛られる。不貞は禁じられ、離縁は許されない。破れば死が待っている。
数十年前に愛し合う夫婦の象徴として流行ったが、すぐに死者が出て廃れたこの書類。それを用意した皇帝はやはり正気ではない。
そう思いながらも、エリスは自らこの書類にサインした。これはエリスの覚悟の表れでもある。
「ちょっと待て……この名前、エリス・トランチェスタだと?」
ただでさえあり得ない書類を突きつけられているというのに、そこに記された皇帝の隣のサインを見て、伯爵は信じられない表情でエリスを見た。
「あの、地味で平凡な侯爵令嬢……?」
やっとエリスの正体に気付いたらしい伯爵に、エリスはいつもの眼鏡を掛けて堂々と言い放つ。
「私は既に陛下の后です。礼儀を弁えなさい、エバルディン伯爵」
普段は地味で目立たない平凡な令嬢が、まさか。あのダサい眼鏡の下が絶世の美女で、皇帝とそういう間柄だったとは。貴族達に衝撃が走る。
「そんなもの……!」
自分を見下す地味令嬢に、伯爵は反論しようとした。しかし、この婚姻誓約書が本物であれば、エリスは皇帝の妻……つまり皇后である。下手な口出しができない。
そのことに思い至り、計画が狂ったと焦る伯爵は必死に考えを巡らせた。
なんでもいい。目の前の女の正当性を下げなければ。
「いくら陛下が婚姻誓約書にサインしたと言えど、皇后となる者をこんなに簡単に決めるはずがない! そうだ、君は色仕掛けで陛下を惑わせた挙げ句、その地位を得た途端邪魔になった陛下を殺害しようとしたのではないか!?」
伯爵が捻り出した言葉は暴論ではあるが、貴族達に疑惑をもたらすには充分だった。その視線を感じながらも、エリスは動じず答える。
「つまり伯爵は、私の陛下への愛が嘘偽りだと。だから私が犯人であるとお考えなのですか? それでしたら、私達の愛が本物であることを証明してみせますわ」
「そ、そんなこと、できるはずが……!」
動揺する伯爵の前を横切り、エリスは不安げなウルフメア伯爵夫人の前に立った。
「ウルフメア伯爵夫人。あなたは作家エリストラの熱心なファンですわよね。新作が出るたびにファンレターを送ってくれますもの」
突然名指しされた夫人は、エリスの言葉に目を見開いた。
「何故それをご存じなのです……!?」
ふ、と笑ったエリスは、次にその横にいる二人の淑女にも目を向けた。
「ランブリック侯爵夫人、ルフランチェ伯爵令嬢。お二人もエリストラのサイン本を出版社に頼み込む程のファンですわよね?」
「は、はい!」
「いったいどうして……」
言い当てられた二人がまさか、とエリスを見る。
「何故知っているのかと? それは私が作家エリストラ本人だからです。そして私が書いている新作の『暴君と淑女』は、陛下と私の恋模様をモデルにした物語ですの」
エリスの暴露に、貴婦人達は固まった。そして次の瞬間――
「「「……な、な、な、なんてことなの……!」」」
――あまりの興奮に絶叫を上げた。
「エリス嬢がエリストラ!?」
「あの物語が、あの俺様暴君皇帝が、実在しているですって!?」
「ああ! 神様、こんなに素敵な事実をありがとうございます!」
「お、おい! 君が作家であることが、なんの証明になると言うんだ!」
口を挟んできたエバルディン伯爵に鋭い目を向けたウルフメア伯爵夫人は、大きな声で堂々と言い放った。
「お二人の愛が本物であること、私達が証言いたします」
隣の二人も、そしてエリストラ作品のファンである他の多くの淑女達までもが、伯爵夫人に続いて次々に声を上げる。
「一途に愛し合うお二人の愛を疑うなど、信じられませんわ!」
「あの物語を読めば、ロマンチックなお二人の愛に疑いの余地などありません!」
「私達が請け負います。エリス嬢は心から陛下を愛しておられるわ!」
「な、なんだこれは……そんな理論が罷り通るわけ……」
貴婦人達のあまりの圧に、圧倒される伯爵。
(小説の力と読者の……物語のファンの熱量を舐めないでほしいものね)
ファンの前に理論など意味を為さない。今のエリスの目的は時間を稼ぐこと。つまり、この場は押し切った者勝ちである。
「そもそも伯爵は、エリス様ばかりをお疑いになるけれど、ご自身はどうなのです?」
「そうですわ。陛下が倒れて得をするのは、伯爵ではありませんか!」
一部の夫人達から上がった声に、図星を突かれた伯爵は怒り声を上げた。
「わ、私をその女と一緒にするな! 私はこの帝国を思って……」
しかし、伯爵が言い切る前にその場の温度が急降下する。
馴染みのある殺気。息を止めてしまうほどの威圧的な空気。広間の階段を降りてくる靴音に、エリスは泣きたくなって振り向く。
「――――俺の妻がなんだって?」
何よりも聞きたかった声が、エリスの元に降って来た。